――スティンルーラ族の集落 クライナ
「クルージェ、傷の具合はどうだ?」
「フッ、我を誰だと思うておる。ほれ、この通りなんとも――むぐぉッ?! う、腕がぁ……!」
「……気力だけは十分なようだな」
ベッドの上でばたばたと悶える仲間の元気そうな姿を見て、重く沈んでいたオルステッドの表情が少しだけ晴れた。
……魔神の襲撃を受けたあの日から、今日で五日を数える。
瀕死の重傷を負っていたクルージェは、この集落に運び込まれて迅速な治療を施された事でなんとか一命を取り留め、全身を包帯でぐるぐる巻きにされてはいるがいつもの調子を取り戻すまでには快復していた。絶対安静はまだ解けないものの、魔族の高い自然治癒力があればもう何日かベッドで大人しくしているだけで表を自由に歩けるようになるだろう。
「無理はするな。せめて折れた右腕が繋がるまでは大人しくしていろ」
「むぐぅ……」
今にも部屋から飛び出してしまいそうな仲間を宥め、ベッドに寝かしつけるオルステッド。それに素直に従って枕の上に頭を預けたクルージェだが、その紅い瞳は頭上のオルステッドを恨めしそうに睨み上げていた。
「オルステッドよ。聞けば、そなたもこの集落を訪れた時は大層な深手を負っていたらしいではないか」
「ああ、そうだな。私の方は三日前に完治したが」
「おかしいじゃろ!? 何故、魔族である我よりも早くに傷が癒えるのだ!?」
常識外れの事象をさらっと口にした男に、我慢できなくなったクルージェが半身を起こして叫ぶが、それもその筈。集落に運ばれた数日後に意識を取り戻した彼女が聞いた話によると、スティンルーラの戦士達に助けを求めた時のオルステッドは全身血塗れの酷い有様だったという。彼の傷を診たこの集落の薬師はすぐに治療を申し出たが、何を思ったのかオルステッドはその申し出を断り、彼女らの知らない内に自力で傷を治してしまったというのだ。
「むぐぅ、理不尽じゃあ……一体そなたの身体はどうなっておるのだ?」
「さぁな。そもそも、それを知る為に旅をしているのだろう」
「む、そうじゃったのか? 初耳じゃ」
突っ伏していた顔を持ち上げたクルージェが、目をぱちくりと開いて隣に立つオルステッドを見上げる。
そういえば、彼はどうして旅をしているのだろうか。ケレース地方の“冥き途”を目指しているのは知っていたが、その地を目指す目的は本人から聞かされていなかった。そんな事を考え、小首を傾げているクルージェにオルステッドの冷めた視線が刺さる。
「アビルースとの話の場にお前も居ただろう。……ああ、そうか」
「な、なんじゃその生暖かい目は? 言いたい事があるならハッキリ言わぬか!?」
遠い目をして顔を背けたオルステッドに、慌てたクルージェがベッドから跳ね起きて抗議の声を上げる。表情は全く動いていなかったが、どうやら彼女の目には別のものが見えたらしい。しかし傷もまだ癒えていない身体で激しく動いたのはやはり不味かったのか、立ち上がって直ぐに硬直し、痛みに堪えるように顔を顰めながらベッドに転がった。
「うぐぐ……! おのれぇ……あ、あの暴力女めぇ……! この屈辱は忘れぬぞ!」
「止めておけ。今回は奴の気紛れに救われたが次もそうとは限らん」
「言われずとも分かっておるわ! それでも、我はどうしても許せぬのじゃ!」
八つ当たり気味に叫んだ後で、悔しそうに唇を噛みながら俯くクルージェ。彼女も分かってはいるのだ。魔神と正面からぶつかり、そして敗れた。戦いとも呼べない一方的な蹂躙だった。もしあの時オルステッドの助けがなかったら、きっと肉片すら残さずに蒸発していただろう。
「そうじゃ。そなたが駆け付けてくれたからこそ、我は今こうして無事に……ん?」
忌まわしい記憶に歯噛みしていたクルージェは、ふと頭に引っ掛かりを覚えた。
何か重要な事を忘れている気がする。あの時、オルステッドに関係するとても重要な何かを口走ったような――
「……あっ」
呆けた声を漏らしてクルージェが固まる。記憶を遡っていくうちに、思い出してしまった。
ハイシェラに敗れた直後の、意識が朦朧としていた状況で何処からともなく現れた“幻”に対して打ち明けた感情を。もうこれで最期だからと、赤裸々に語ってしまった本音を。
「ま、まさか……あぁあ……!」
「どうした。何をそんなに慌て――」
「のわあぁぁあッ!?」
クルージェの内心を知らないオルステッドは急に顔色の変わった仲間に声を掛けようとしたが、それよりも早くに動いたクルージェが鬼気迫る顔でオルステッドに掴みかかる。
「ち、違うぞ! アレはその場の勢いで口走っただけじゃ! 誤解するでない、睡魔にとって男など単なる食料に過ぎぬ! 我がほ、本気になるなど有り得ぬ話であって……!」
顔を真っ赤にしたクルージェが必死になって弁明を繰り返す。突如沸き起こった羞恥心は相当なもので、傷の事も忘れて大声で騒ぎ立てる彼女を落ち着かせようとしたオルステッドの襟首を掴み、ガクガクと肩を揺さ振りながら自分でも分かってない言葉の羅列を無茶苦茶に吐き出していた。普段のオルステッドであれば、強引にでも彼女を落ち着かせようと既に動いているだろう。だが、今のところその様な気配は無く、混乱して暴れるクルージェのされるがままになっている。いつもと何処となく様子の異なるオルステッドの雰囲気にやがてクルージェの方も気付いたようで、あれ程興奮してまくし立てていた声と勢いも次第に尻すぼみになって消えていった。
「な、なんじゃ? どうしたのじゃオルステッド……?」
「……クルージェ。私はお前をこの世界で唯一の仲間だと思っている。だからこそ、伝えねばならない」
戸惑いを見せるクルージェの肩に手をやり、そっとベッドに押し戻しつつ淡々と告げるオルステッド。相手を労
わるように優しく寝かしつける気遣いを受けたクルージェは、しかし不安げに紅い瞳を振るわせ、オルステッドの
服の袖を掴んだまま視線を外そうとしない。その瞳の中に映し出されている男の目は朝凪の海の様に穏やかであったが、クルージェにはそれが酷く不自然な静寂に感じられた。静かな語り口の裏に潜む、意図して感情を排したような無機質な冷たさが彼女の心に一抹の不安を植え付けていたのだ。
そしてそれは、決して彼女の勘違いではなかった事がオルステッドの次の一言で証明される。
「――私は、お前の想いに応える事は出来ない」
「……え……?」
一瞬、何の事を言われているのか分からなかった。だが、オルステッドの放ったその言葉の意味を次第に頭が理解すると、身体から力が抜けていく奇妙な感覚を覚え、伸ばしていた手が行き場を見失って膝の上にポトリと落ちる。
「そ……そう、か……」
力無く笑いながら俯いてしまった仲間に、オルステッドが声を掛けてやる事はなかった。その場にはただ重い空気だけが流れ、窓辺から差し込む晴れ渡った明るい外の陽射しが、彼らを結んでいた影の間に一本の白い線を引く。線引きの外側に立つオルステッドの顔は影に隠れ、クルージェの側からその表情を伺う事は出来ないが、辛うじて見えた口元は何かを耐える様に苦々しく曲げられていた。
「伝える事は他にもある、よく聞いてほしい。私は、過去に……」
「やめろ。それ以上口を開くでない」
顔を俯けたまま、オルステッドの独白を遮るクルージェ。そこに込められた拒絶の意思をはっきりと感じ取ったオルステッドは、開きかけていた口を閉ざし、彼女の気持ちが落ち着くのを黙って待ち続ける。数秒が何時間にも思える重苦しい空間の中、いつまでそうしていただろうか。不意に、静かに佇んでいたオルステッドに向かって、クルージェがポツリと言葉を漏らす。
「気付いておったかの。そなた、毎夜の如く夢にうなされておるのじゃよ? ……その様子だと、自覚はなかったようじゃな。まぁ、だから……よいのじゃ。無理に打ち明けずともよい。知られたくない過去を暴くような下賤な真似はせぬ」
そう言って俯いていた顔を緩やかに持ち上げたクルージェに、明るい外の陽射しが舞い込む。影に隠れたオルステッドとは対照的に、柔らかな日光を一身に浴びるクルージェの表情は眩いばかりの笑顔で満ち溢れていた。
「過去など関係ない。我が好きになったのは、
「クルージェ……」
堂々と胸を張り、クルージェは自信に満ちた顔で果敢に言い切った。その言葉には迷いも躊躇いもなく、つい先程までの弱々しさは一体何処にいってしまったのか、と思ってしまう程の清々しい開き直り振りであった。
「ああ、そうじゃ! 先ほど此処に立ち寄った女子が話していたのだがな、最近この集落の周辺で魔物共が暴れ回っておるらしい。どうじゃ、受けた恩に報いる又とない機会ではないか?」
「……そうだな、違いない。私も、いい加減冷や飯食いには飽き飽きしていたところだ」
話の流れを叩き斬って唐突な提案を打ち上げたクルージェに、オルステッドは口元に小さな笑みを浮かべて答える。元の明るさを取り戻した仲間の姿を見て安心したのか、それとも彼女の笑顔に別の何かを察したのか、話を切り上げてクルージェから背を向け、「すぐに戻る」とだけ言い残して部屋から出て行った。
「やっと行ったか。まったく、本当に手の焼ける男よ」
部屋に一人になったクルージェはやれやれと溜息を吐き、後ろに身を放り投げて枕に深く頭を沈ませる。自然と見上げる形となった白木の天井は、どうしてか木目がぐにゃりと歪んで見えた。
「……っ、いかんのう。あ奴がいなくなったからって、気が緩んでしもうたか」
片手で顔を覆いながら、首を横に倒してオルステッドが出て行った方向を何気なく見詰める。すると、直前までオルステッドが立っていた場所に、拳大の小さな革袋が落ちているのを見付けた。忘れ物でもしたのかと珍しく思いながらそれを拾い上げたクルージェは、まじまじと手の中の革袋を眺め、悪い笑みをつくる。
「フフフ……落とした奴がマヌケなのじゃ。金には無頓着そうじゃし、少しばかり拝借してやろうかのー……」
気晴らしにでもなればいいと軽い気持ちで革袋の封を解き、少しだけ口を広げて中を覗き込んだクルージェの目に銀色の輝きが映る。それを見たクルージェは銀貨でも貯め込んでいたのかと、鼻歌交じりに更に革袋を広げてみたが……突然、楽しそうだった笑みが驚いた顔に変わり、その拍子に革袋を膝の上に落としてしまう。
「ッ!? まさか……これは……!」
落ちた革袋から転がり出た物を恐る恐る手に取り、顔の近くにまで持ち上げる。
それは失ってしまったとばかり思っていた、あの髪留めだった。金の台座は艶のある純銀の台座へと挿げ替えられていたが、中にはめ込まれた宝石はあの日となんら変わりない。僅かに皹が入ってしまってはいるが、それも些細なもの。晴れやかな日光を浴びて美しい翡翠色の光を灯すその宝石は、レウィニアの王都でオルステッドから贈られて以来、肌身離さずにずっと身に着けていた彼女の宝物に他ならなかった。
「……っ……馬鹿じゃ、大馬鹿者じゃ……! こんな……こんな安っぽい宝石で、我が心動かされるとでも思うたか……!」
失った筈の思い出の品がこの手に戻ってきた。それも、命の危機に瀕していただろうオルステッドが態々回収し、恐らくはクルージェの為にこの集落の職人に修復を依頼したのだ。そう思い至ってしまうと、もはや胸の奥底に抑え込んでいた自らの感情を止められはしなかった。心配をかけまいと気丈に振舞っていた仮面は罅割れ、秘めていた想いが涙となってポタポタと流れ落ち、手元の髪留めを濡らす。
「フ、フフ……はっきり言われてしまったのう……優しい男よ、そなたは……」
クルージェは一つだけ、オルステッドに嘘を吐いた。
過去など気にしないから、苦しい思いをしてまで告白するな。確かに、彼女はオルステッドにそう言った。これ自体は彼女の本心であり、その言葉に嘘偽りは無い。仮に、自分は故郷で大罪を犯して今も国から追われていると打ち明けられたとしても、それなら一緒に逃げてやると豪語していただろう。それぐらい本気だった。本気で好きになってしまったから……建前に逃げてしまった。
クルージェは知っていた。
以前、夢の中で見たオルステッドの過去。その夢を華やかに彩っていた、清らかで美しい姫君。睡魔として、一人の女として、旅を続けていくうちに気付いてしまった。あの日見た夢がいつの頃の出来事なのかは分からない。分からないが、確信した。オルステッドの心には今でも、その姫君が優しく微笑んでいる。
「……何故じゃろうな。コレを眺めていると……とても、胸が痛くなる……ハイシェラめにやられた傷より……よっぽど辛く、て……う……うぅ……っ」
だからこそ――――己が恋い焦がれている男の口から、男が愛している女の名を聞きたくなかった。
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――蛮神の街道
クライナの集落を南下し、鬱蒼とした森を抜けた先に広がる平原地帯。
旅人や商人らが頻繁に行き交うその一帯は“蛮神の街道”と呼ばれ、物資の流通を支える要衝の一つとしてバリハルト神殿の管理下に置かれている。西はマクルの街、南には港町ミニエ、そして東はレウィニア神権国へと続く、正に陸の大動脈であった。
「……これで、ある程度は片付いたか」
「かたじけない。恩人の手を煩わせてしまうとは……」
「気にするな、私が勝手にやっている事だ」
日も暮れ始め、空が黄昏に染まる頃。
蛮神の街道の北端、スティンルーラ族の勢力圏である森林地帯の外れにオルステッドの姿があった。
焼け焦げて使い物にならなくなった黒衣の代わりに、身に着けているのは木々に溶け込む迷彩色の皮鎧。腰の両側には刃先が弧を描いた独特の形状の片刃剣を一本ずつ差している。これらの武具は全て、出発前にクライナの集落で調達したものだ。随伴の女戦士らと会話するオルステッドの周囲では、無数の魔物の死体が血の花を咲かせていた。
「本来なら我らが主導する筈だったのだが……気付けばその殆どをオルステッド殿が狩り尽くしてしまわれた」
「病み上がりとはとても思えん。流石はエカティカ様が認めた御仁だ」
行動を共にした二人の戦士は、森を抜けるまでにオルステッドがみせた獅子奮迅の活躍を口々に賞賛する。だが、それに対するオルステッドの反応は薄い。軽く受け流しながら腰の剣の片方を握り締めると、刃毀れの目立つ刃を夕日に翳し、険しい眼差しでそれを睨み付けていた。
(これで四本目か。丁寧に扱っているつもりだが、直ぐに駄目になってしまう)
破損した剣を投げ捨て、最後の剣が収まった鞘の革紐を締め直しつつ思案する。
ゆっくりとだが着実に、己の身体に変化が起きている。これまでの旅路でも感じていたが、ハイシェラとの死闘を経てからまた何かが変わった。人間の域を逸脱した身体能力が更に洗練されたかの様な、不思議な感覚が全身を駆け巡っている。敵を殺す度にそれは強くなり、敵から殺意を向けられる度に激しさを増していく。己が傷を負えば負うほどその感覚は明確に、鮮明に、目に見える力として外界に発露される。自らの意思とは、無関係に。
(“私を倒しても、私は生き続ける”……やはり、私はもはや……)
装備の点検を一通り済ませ、何も異常が無かった事を確認したオルステッドは傍に控えていた戦士らの方を振り向き、まだ他に魔物が暴れている場所はないかと尋ねる。彼と逸早く目が合った戦士がそれに答えようとするも、突然何かを警戒するように横手に広がる森に向かって剣を構えた。直後に森の奥が騒めき、枝木のしなる音に一歩遅れてオルステッド達の前に飛び込んで来たのは、付近の哨戒に当たっていた女戦士の一人だった。
「よかった、此方におられたか!」
「どうしたのだ? その慌てようはまさか、侵略者共がまた現れたのか!?」
「ああ、だが此度はいつもと様子が違う。彼奴らは今、血眼になってサティア殿を追っている!」
「……なに?」
サティアという名前が飛び出した事で、隣で話を聞いていたオルステッドの顔色が変わる。怪訝そうに声を潜めて思わず聞き返すと、名も無き女戦士は乱れた息を抑えながら自分が見知った事をオルステッドに話し始めた。
「理由は分からぬが、彼奴らの首魁は我が一族の恩人であるサティア殿を捕える為に大量の兵を動員しているのだ。同胞達の中で動ける者はサティア殿を守ろうとしたが……いつぞやの双剣使いの男に、皆……っ」
無念だと歯を噛み締める女戦士も、手足の真新しい切創痕から血を流しており、とても無事とは言い難い。恐らくは敵対するバリハルト側の剣士と交戦したが敵わず、這う這うの体で逃げ延びたのだろう。説明を聞いたオルステッドは傷だらけの女戦士の顔を覗き、その眼に怨敵への憎悪が渦巻いている事を悟った。
「……
「オルステッド殿、如何なされた?」
「独り言だ、気にするな。その女が向かった先を教えてくれ」
「おお、それでは……! かたじけない!」
女戦士からサティアの居所を教えられるやいなや、オルステッドは彼女らをその場に残して駆け出した。平原から森林へ、森林から渓谷へ。風を肩で裂き、木々の間を縫って突き進む。次第に兵士達の怒号が聞こえるようになり、荒々しい足音が近付いてくる。
「……あれか」
左斜め前方、複雑に入り組んだ木々の壁の向こう側。森の拓けた平坦な窪地に、大小複数の天幕が並んだ野営地のようなものが見える。更に近付いて注視すれば、バリハルトの紋章を背負った無数の人間達と、彼らに拘束されて最も大きな天幕に連れ込まれそうになっている赤毛の女の姿も確認できた。
(人違いではなかったか。バリハルトの者達とは良好な関係を築いていたように見えたのだが……一体、何があった……?)
予想通りの人物が捕まっていたのを目撃して疑問を覚えるオルステッドだったが、考えている間も身体は最適化された行動を実行する。遠回りをしている余裕は無いと判断した瞬間に抜刀、続けざまに真空の刃を連続で放ち、邪魔な木々を薙ぎ倒して一気に跳び越える。結果的にサティアに危害が及ぶ前に広場に到着したが、大木を吹き飛ばす派手な登場はその場にいた全ての人間を驚愕させ、全員の注目を一身に浴びる事となった。
「サティア・セイルーン。お前の身柄を引き取りに来た」
「あ、貴方は……オルステッドさん!? どうして貴方が此処に……?」
驚き戸惑うサティアを他所に、オルステッドの剣はバリハルトの兵士を次々に斬り裂いていく。突然の乱入者を警戒して周りを囲んでいた兵士らは変幻自在の刃に成す術なく打ち倒され、それが恐怖の呼び水となって部隊全体に動揺が広がる。
「話はこの場を脱してからだ。怪我をしたくなければ大人しくしていろ」
「待ちな。部外者が勝手な真似してんじゃねえ」
兵士の動きが鈍くなっている隙にサティアを救出しようとしたオルステッドを、血が凍り付く様な恐ろしい声が呼び止める。足を止めたオルステッドの前で天幕の壁が十文字に裂かれると、中から無骨な双剣を背負った大男が顔を出した。
「久しぶりだな、オルステッドさんよ? ちょっと見ねぇ間に色男っぷりに磨きが掛かったみてぇじゃねえか」
「……ダルノス・アッセか。お前も少し見ない間に随分と印象が様変わりしたな」
血走った眼をして不気味な笑みを浮かべるダルノスの異様な佇まいに、警戒よりも先に困惑が生まれる。マクルの街を去ってからまだそこまで時間は経っていない。なのに、目の前の剣士の変わり果てた姿はなんだ。背中の双剣には黒く変色した血がべったりと貼り付き、豪快で親しみやすかった笑顔はもはや見る影もない。
一体、彼の身に何が起きたのか。嘗てのダルノスの人柄を知っていたが故に、オルステッドは刃を向けるのを躊躇った。
「嬉しいねぇ、アンタ程の男に名前を覚えてもらってるなんてよ。剣士冥利に尽きるってモンだ」
「その女を捕らえる訳を教えてくれ。我々がマクルを去った後、お前達に何が起こった?」
「何が、起きた……か。そうだな、色んな事が起きたぜ。この際だ、アンタにも教えてやる。この女狐の化けの皮を
よぉ!」
笑みを消してそう叫んだダルノスは、後ろ手に縛られて逃げ出す事の出来ないサティアに近付くと、乱暴に彼女
の髪を掴んでオルステッドに言い放つ。
「コイツはなぁ! 表では俺たちに協力しているフリをして、裏では善良な人間を食い物にする邪教徒だったんだよッ!!」
「邪教徒……だと?」
「あぁそうさ! アンタがいなくなって直ぐに、亜人間共をぶち殺す為の遠征があったんだがよぉ。この魔女は亜人間共と結託して俺たちの仲間を散々殺しやがった! それだけじゃねぇッ! 遠征が終わりゃ今度はマクルにスティンルーラ族と魔物を放ち、混乱に乗じて神殿が厳重に管理していた神器を盗んだのよ!」
ダルノスの語った内容はにわかには信じ難いものだった。あのサティアがセリカを騙してバリハルト神殿の兵士を殺し、あまつさえセリカや姉のカヤが暮らすマクルの街に魔物を引き入れ、無辜の民まで殺めたなど。だが当事者ではないオルステッドには、それがダルノスの狂言でないと断じるだけの情報が足りない。疑惑の混じった視線が、サティアに向けられる。
「……今の話は本当か?」
「違うっ! 違うわ! 私はそんな事していない! 聞いてオルステッドさん、私は――きゃっ!?」
オルステッドに訴えかけようと口を開いたサティアの背中を、いきなりダルノスが蹴飛ばす。頭から地面に投げ出されて悲鳴を上げるサティアを無視し、ダルノスはそのまま彼女の細い首を後ろから片手で握り、強引に立ち上がらせた。
「耳を貸すんじゃねえ。コイツは男を騙す為なら平気で股を開く女だぜ? セリカはこの女に誑かされた挙句、性魔術で精気を奪われてまともな思考も出来なくなっちまった。コイツは惚れた男を道具にしか見ない最低の女さ」
「……違う……私は、そんなつもりは……っ」
「そうやってテメェは用済みになったセリカを捨てたんだろ? もうテメェを信じるお人好しはいねぇんだよ!」
苦しそうに顔を歪ませながら、それでも無実を訴えるサティアを憎々しげに睨み、あらん限りの怒りを込めて罵倒を浴びせる。真実はどちらにあるのか。オルステッドは黙って彼らの様子を眺めていたが、流石に今のダルノスの異常に殺気立った姿を正気と捉えるのは難しかった。兎に角、まずは彼を止めなくては満足に話も聞けない。密かに周囲を伺うと、兵士達はダルノスの命令を待っているのか武器を構えたまま待機している。肝心のダルノスはサティアを痛め付けるのに夢中で、こちらの動向に気付く気配は無い。
(これ以上は不味い。事情を聴く前にサティアを殺されかねん……やるか)
ダルノスの手が血錆のこびり付いた双剣に伸びていくのを目撃して、オルステッドが動く。
その時、偶然にもオルステッドとサティアの目が合った。
「違う……私は邪教徒なんかじゃない……。お願い、オルステッドさん……信じて……」
『貴方には……この人の……負ける者の悲しみなど分からないのよッ!!』
「――ッ!?」
数歩駆けたところで、足が止まる。だがそれは、伏兵などの危険を察したからではない。サティアとの距離も大して離れておらず、その強靭な脚力と卓越した剣技をもってすれば容易に彼女を救い出せた筈。なのにオルステッドはその場で立ち止まり、助けを求めて手を伸ばすサティアを呆然と見詰めていた。
「どうやらアンタは分かってくれたようだな。正直ホッとしたぜ」
「オルステッドさん……そんな、どうして……」
剣を下ろし、膝をついて項垂れた男の姿に、ダルノスとサティアはそれぞれ安堵と悲嘆という真逆の反応を示す。上機嫌になったダルノスは背後に控えていた兵士にサティアを放り投げ、急に大人しくなったオルステッドに笑い掛ける。
「どうだ? 俺はこれからこの邪教徒を尋問するんだが、アンタも一緒に楽しまないか? 兵士共の相手をさせて汚くなる前にアンタもこの女を……」
「――やめろ、ダルノスッ!!」
夕焼けの空が白く輝き、勇ましい叫びと共に眩い雷光が広場を照らす。地を這う稲妻が兵士の波を掻き分け、咄嗟に双剣を抜いたダルノスの手前で弾け飛ぶ。網膜を焼く激しい閃光の後、視界が晴れると其処には紫髪の青年が立っていた。
「セリカ……!」
眼に涙を浮かべたサティアが恋人の名を呼ぶ。迷惑を掛けてしまうからと、一度はその手を振り解いたのに彼は来てくれた。それが嬉しくて、悲しくて、どうしたらいいのか自分でも分からなかった。
「……ちっ、めんどくせぇ」
ぽろぽろと涙を零すサティアを部下に遠ざけさせながら、新たな乱入者を苦虫を噛み潰した様な顔で睨むダルノス。これが魔物やスティンルーラ族であれば即座に背中の得物に手を翳したのだろうが、よりにもよって現れたのは、彼が常日頃よく面倒を見ている自慢の弟分。故に、敵の排除に乗り出そうとした兵士達を手で制し、厄介な女に騙されている哀れな男の目を醒ましてやろうと前に出る。
「彼女を解放しろ! サティアはウツロノウツワを盗んでなんかいない!」
「いい加減にしろ、お前は騙されているんだよ! それを邪教徒と姦通しやがって、俺達を売ってまでそんなにこの女のカラダが惜しいか!?」
「彼女を邪教徒呼ばわりするな! ダルノス、一体どうしてしまったんだ……! 皆から信頼される好漢だったお前が何故こんな事を!」
セリカの必死の訴えをダルノスは少しも聞き入れない。サティアの無実を主張するセリカに唾を吐き捨て、お前の方こそ間違っているんだと吠えたてる。師弟であり、戦友であった以前の彼らの関係は、暴力と憎しみによって歪みきってしまった。
「……ったく、こりゃ救いようがねぇ。もういい、お前ら……邪教徒と通じる裏切者を殺せ」
「ダルノスっ!」
ダルノスの命令を受け、二人の動向を伺っていた周りの兵士達が一斉にセリカを囲む。無数の槍を突き付けられ、セリカは彼らを説得しようと試みるも、誰一人として聞く耳を持たず。ある者は無言で侮蔑の眼差しを送り、ある者は憎悪を言葉に乗せ、裏切者を弾劾する。味方を傷付けたくない一心で説得を続けるセリカと、裏切者憎しで刃を向けるダルノス達の間には、悲しい程に深い溝があった。
「やめろ! 仲間同士が、どうして殺し合わなければならない! お願いだ、話を聞いてくれ!」
「ふん、裏切り者が。どの口がほざく!」
「失望しましたぞ。まさか次代の神格者として期待されていた貴方が……」
「あの遠征の犠牲になった友が浮かばれん。背信者め、死んで償え!」
降り注ぐ槍衾を払い、斬り掛かってきた兵士を受け流し、可能な限り味方を傷付けないように懸命に立ち回るセリカ。味方だった者達に敵意の刃で斬り付けられるその光景を、オルステッドは膝を着いたまま食い入るように見詰める。その手は無意識に土を握り締めていた。
(……同じだ……これでは、まるで……!)
『貴様……陛下をッ!!』
『もしや……勇者ハッシュも、ストレイボウも……みなオルステッドが!』
『ま……魔王! オルステッドは魔王だッ!』
自らの潔白をいくら訴えても、まるで話を聞いてもらえない。セリカの悲痛なその姿は、嘗ての己が辿った末路を焼き直しているかのようだった。
『悪魔め! このルクレチアから出て行けえ!!』
『ち、近寄らないで!』
『こいつは勇者じゃない! ま、魔王なんだぞ!』
『大人しくしろ! 町の者達の前で処刑してやる!』
国を追われ、貴族の放った刺客に命を狙われる日々を過ごし。信じてくれる者を探して村々を訪ねれば、村人達から罵声を浴びせられ。何処にも居場所はなく、誰も信じてくれず。希望を託し、死地へと送り出した彼等はあっさりと掌を返して、同じだけの絶望を叩き付けた。
「おい、お前。目障りだからこの邪教徒を天幕の中に押し込んどけ。へっ、味見までなら許してやるぜ」
「い、いや! 離してっ!」
「待てダルノス! ぐッ!? やめろ、やめてくれ!」
信じてくれと訴える仲間の言葉を撥ね退け、苛烈に責め立てる人間達。
変わらない。何一つ変わっていない。世界が変革を迎えても彼等はその醜い姿を捨てず、こうして世界に争いの火種を撒き散らしている。これが現実なのか。所詮、人間は他者を憎み、殺し合う事しか出来ない生き物だったのか。
「……違うっ……断じてそれは違う!!」
地面を殴り付け、オルステッドが叫ぶ。諦観の滲んでいた背からは迷いが消え、振り上げられた剣に白炎の渦が巻きつく。影の差していた双眸に決意の光を宿し、男は立ち上がる。
「人の心は弱い。人間が人間である限り、この世から争いは無くならないだろう。それでも私は、憎しみだけが人間の全てではないと知っている!」
止まっていた足が、動き出す。
その場に居合わせた者達の中で唯一ダルノスだけがそれに気付き、飛燕剣の構えを取って彼を迎え撃とうしたが、その行動は致命的に遅かった。
「何千年、何万年という時を経ても……いつの時代にも、あらゆる場所に彼等は存在した。同じ目線で語り合い、心から相手を信じ、己の信念を貫く覚悟を決めた時、人間は本当の意味で強くなれる。私はその事実をッ! 真の勇者達から教えられたッ!!」
『――じゃがな、オルステッド。ワシはこうも思う。ここで人を憎んでは負けじゃと。しかし、自分の心に嘘を吐いてもいかん。じゃからワシは、魔王ではないと訴え続けるしかないのじゃ……』
一歩、また一歩と。
背後から囁かれた幻影の声を耳にして、それでも一度歩み始めた足が止まることはない。
「ウラヌス、私は貴方の様にはなれなかった。結局は私も暴力で主張を押し付け、欲望を満たす弱い人間でしかなかった。だが、忌むべきこの力で誰かを……もう一度信じてみたいと思った者を救えるならッ! 私は……悪魔にでも、魔王にでもなろう」
純白の炎を纏った剣を地面に叩き付ける様にして振り下ろす。
ローグライアより伝授されし一撃の奥義『神極剣』。具現化した闘気の輝きが大地を走り、猛々しく燃え盛るそれはダルノス直近の兵を吹き飛ばした。突然の事態に彼らが動揺する間も与えず、続けざまにもう一つの奥義『玄武の鎌撃』を繰り出してセリカを囲んでいた兵士達の眼前に炎の壁を創り出すと、壁を跳び越えてセリカの傍らに着地する。そこで初めてオルステッドの存在に気付いたのか、隣に並び立った男にセリカは唖然として言葉も出ないようだったが、説明を求められるより先にオルステッドの手がセリカの肩を掴み、有無を言わさず天幕へ向けて放り投げた。
「聞きたい事があるのだろうが、話は後だ。お前は彼女を連れて逃げろ」
「お、オルステッドさん……!? 何を言っているんですか! なんの関係もない貴方を危険に晒す訳には――」
「二度も言わせるな。行け、セリカ」
「……っ、すみません!」
一瞬の逡巡の後、申し訳なさそうに頭を下げてからセリカが天幕に駆け込む。するとすぐに中から兵士の断末魔が響き、少し遅れて、バリハルト神官の法衣を羽織ったサティアの手を引くセリカが外に出てくる。
「気を付けてください! 俺の飛燕剣はダルノスから教わった、接近戦なら彼は神殿一の強者です!」
「大丈夫だ。ある程度時間を稼いだら撤退する。私の事は心配するな、お前はサティアを守れ」
「っ! 分かり……ました。このご恩は忘れません!」
サティアを連れてセリカが森の奥へと走り去って行くのを背中で見届けながら、剣を構え直す。
オルステッドの周りは先程の奥義の残火が未だ激しく燃えており、彼を攻撃するどころか近付く事すらままならない惨状だった。だが、灼熱の炎を引き裂いて、双剣を握った大男がオルステッドの前に立ち塞がる。余裕に満ちた表情のダルノスがオルステッドを嘲笑う。
「テメェもとんだお人好しだった訳だ。何も知らねぇで英雄気取りか?」
「そんな大層なものじゃない。これは単なる私の自己満足だ」
「あぁ?」
怪訝そうに眉を吊り上げたダルノスに構わず、オルステッドは決意を胸に宣言する。
「私はセリカを信じる。あの男はこんなところで死ぬべき人間ではない。私がそう決めた」
「……上等よ。本当は俺も殺りたかったんだ。テメェを殺せりゃ、もう俺に怖いものなんてねぇッ!」
狂笑を浮かべ、双剣を構えて躍り掛かるダルノス。両手から絶え間なく繰り出される斬撃の嵐は凡百の兵など比較にもならない。理性を失った獣の様に獰猛で且つ、虚実入り混じった連撃で敵を翻弄させる。圧倒的な手数で攻める飛燕剣は習得するのに並々ならぬ修練と才を必要とするが、それを修めた数少ない達人の身のこなしは芸術に値する。初見で飛燕剣を見切るのはまず不可能であり、非常に高い練度を持つダルノスなら手加減されても敵う者は少ないだろう。
だが、相手が悪かった。
「初めてテメェの面を拝んだ時から、そこらの雑魚とは違うってのは分かっていた! 本気を出した俺の沙綾身妖舞を食らいやがれ!」
「……」
壮絶な斬撃の嵐を見舞われた男は右手に持った剣でそれを迎え撃つのでも、ましてダルノスから逃げ出す訳でもなく。
もっと単純に、もっと簡単に事を済ませる。
――――無造作に握り締めた左拳で、ダルノスの頬を打ち貫いた。
「ごッ――!?」
地面から足が離れ、野営地の端まで真っ直ぐに吹き飛んで行ったダルノスを、ゆったりとした足取りでオルステッドが追う。進路上にいた兵士達はこちらに近付いてくる化物に恐怖の叫びを上げ、散り散りに逃げ去った。それに構わず歩みを進めていたオルステッドの視線の先で、小型の天幕を突き破って呻いていたダルノスが剣を支えにして身を起こす。
「余計な心配をかけさせまいとセリカにはああ言ったが、私に逃げるつもりなど毛頭ない。……お前も心配しなくていい。殺しはしない、聞きたい事があるからな」
「……ふざっ……ふざけるなァア!!」
完全に見下されている。
どこまでも冷め切ったオルステッドの態度に、敵としてすら見られていない事に剣士としての矜持を傷付けられたダルノスが絶叫する。烈火の如く猛り狂い、我武者羅に突っ込んでいく。コイツを殺す。絶対に殺す。耐え難い屈辱にどす黒い殺意を燃やし、双剣の乱舞は更に荒々しく、更に研ぎ澄まされる。しかし、あらゆる方向から殺到する剣閃の猛攻をオルステッドは尽く躱す。時には視覚外からの急襲を振り向く事すらせずに避け切り、冷静さを欠いたダルノスに向かって「この程度か」と小さく口にした。
「空の勇士殿の剛拳は大地を穿った。ハイシェラの魔力は天を歪めた。お前はどうだ、ダルノス・アッセ。自慢の飛燕剣で何ができる? 少なくとも、セリカはお前よりも遥かに強かった」
「ふざけるなぁ……ふざけるなよ邪教徒がぁ!! 殺す、殺してやるッ! くたばりやがれェエエエッ!!」
圧倒的な力の差をまざまざと見せ付けられても、微塵もその闘志を揺らがせず、血反吐を吐きながら怨敵を殺してやろうとダルノスの双剣が唸る。狂気に染まった相貌にオルステッドへの恐れは無い。有るのは煮え滾る殺意と、勝利への渇望。力が欲しい。敵を殺す為の力が欲しい。力が無ければ、奪われる。そうだ、力が無ければあの時の様に、また奪われてしまう。
「……あ?」
ふと、ダルノスの思考を素朴な疑問が埋める。
何故、己は力を求めたのか。
最強になりたかったから。
――――何のために?
強くならなければいけなかったから。
――――何のために?
強くなければ、また大切なモノを失ってしまうから――
「……そうだった……俺は……アイツが殺された時から……誰かを護れるだけの力が欲しかったんだ……」
ありったけの闘気を籠めた真紅の鎌鼬が乱れ飛ぶ。飛燕の奥義が炸裂し、そして純白の業火に焼かれ、呆気なく掻き消されていくのを他人事の様に眺めながらダルノスは静かに呟いていた。彼には知り得ぬ事だろうが、その炎は一撃の極致とも云われる絶技『聖炎剣』と同等の破壊力を秘めていた。魔神すらも斬り伏せる至高の一閃を目にしたダルノスは漠然と“これを浴びたら死ぬだろう”と考えながら、迫り来る死の運命に抗わず満足気に笑う。
「すまねぇな、セリカ。もうお前に旨い飯を作ってやれそうにねぇや」
「勝手に死ぬな」
「セミネ、俺の事は忘れて良い男を……ん?」
最後の時に備えて目蓋を閉じたダルノスだったが、不意に聞こえた男の声に呼び覚まされる。
眼を開いてみれば、あの現実離れした白い炎は綺麗さっぱり消えていた。それどころか、倒れかけていた己の身体を金髪の男が仏頂面で支えているではないか。
「お前には聞きたい事があると言っただろう。それまでは嫌でも生きてもらう」
「……かなわねぇなぁ。オルステッドさんよ、アンタ鬼だぜ」
火傷と頬の強烈な痛みで無理やり意識を繋いでいる頭で、自分がまだ生きている事、オルステッドに生かされた事を理解したダルノスがぎこちなく笑う。生き恥を晒したくない、一思いに殺してくれ、という我儘はどうやら聞いてくれなさそうだ。
「その様子だと、正気に戻ったようだな」
「へっ、誰かさんの荒療治のお蔭でな。……なぁアンタ。実際のとこ、何モンなんだ?」
「ただの通りすがりだ」
「……そうかよ、そいつぁすげぇ……ことで……」
話をしているうちにダルノスは意識を失い、肩を貸して歩いていたオルステッドがその大柄な体躯を持ち上げて背中に担ぎ、再び歩き始める。バリハルトの兵士らはこの時にはもう、誰もその場に残っていなかった。
「オルステッドさん!」
「……セリカ?」
ダルノスを担いでクライナの集落へと急ぐ道中、自らを呼び止める声にオルステッドが振り向くと、其処には先に逃げた筈のセリカが立っていた。野営地に残してきた足跡を辿り、駆け付けてきたのだろう。地面に刻まれた道標から視線を上げたオルステッドは、静かな怒りを滲ませてセリカを見据える。
「何故戻って来た? サティアを連れて逃げろと言っただろう」
「すみません! ですがっ、オルステッドさんを身代わりにして逃げるなんて俺には出来ません!あのまま逃げていたら、きっと一生後悔していた! だから俺は……!」
折角逃げ果せた戦場へ単身舞い戻る。セリカのその選択は、下手をすればオルステッドの献身が全て水の泡となってしまう、誰が見ても愚かな行為だった。セリカ自身も、この選択が恩人の意にそぐわないものだと十分に理解している。しかしそれでも、自分の心を偽れなかった。誰かに危険を擦り付ける事で得た安寧など、そんなものは絶対に間違っている。途中でスティンルーラ族の者達と運良く遭遇できたのも、セリカの決断を後押しする大きな要因になった。彼女らにサティアを集落まで送り届けてもらう事で後顧の憂いを断ち、オルステッドを助けるべく来た道を逆走し、そして此処に辿り着いたのだ。
「……そうか」
セリカと向かい合ったオルステッドは一言だけ呟いたきり、それ以上の言及を止めて押し黙る。……かと思えば、唐突にセリカの下まで歩み寄ると、背負っていた荷物を強引に押し付けた。
「この大男は任せる、集落まで運んでやれ。捕虜という名目でなんとか彼女らを説得できればいいが」
「え? ……あっ! わ、分かりました!」
気を失ったダルノスをいきなり担がされて動揺するセリカだが、さっさと前を歩き出したオルステッドに置いていかれないように慌ててその背中を追う。内心ではダルノスが生きていた事に安堵したり、勝手な行動に対して特に何も言われなかった事に拍子抜けしたりしていたが、残念ながらクライナに到着するまでにそれらについて話をする暇は終ぞ見付けられなかったという。
……オルステッドらが去ってから翌日。バリハルト神殿より、ダルノス隊への増援が遣される。
しかし、合流予定だった野営地は火事と嵐に同時に襲われたかの様に徹底的に破壊し尽くされた姿で、兵士達を出迎えた。荒れ果てた野営地跡を見て絶句する彼らだったが、焼け焦げた地面に落ちていたあるモノを、偶然にも一人の兵士が発見する。
この日、バリハルト神殿は――――邪教徒によって奪われた“神器”を奪還した。