陽が沈みかけた頃になって、クライナの集落には魔物の討伐に赴いていた勇士達が続々と門の外より戻って来ていた。無事を祈っていた家族と暖かい抱擁を交わす若い戦士。怪我人の手当てに奔走する薬師。仕留めた獣を肩に吊り下げ、愛する我が子に向けて穏やかに手を振る狩人。自然と共存し、異人と魔物の脅威から今日という日を勝ち取った彼女達の笑い声が、夕暮れの森を賑わせる。
そんな、安穏とした空気が緩やかに流れゆく眼下の情景を、小高い丘の上に聳える石造りの建物の中から一人の老婆が優しく見下ろしていた。老婆の名はアメデ。スティンルーラ族を束ねる長として様々な外敵に対し長らく一族を守り続けてきた彼女は、指導者としての厳しさを持つ反面、温情に溢れる人格者でもあった。
「ようこそおいでくださった。生きているうちにまた貴女様のお顔を見られるとは思いませんでしたぞ」
しわがれた声の中に芯のある力強さを感じさせながら、恭しく頭を下げるアメデと対面していたのは過去に一族の危機を救ってくれた恩人、サティア・セイルーン。セリカらに助け出された彼女は数日の後に旧知の間柄であるアメデの下を訪ねていた。傍らにはセリカが付き添い、アメデから一歩後ろに下がった位置で戦士長エカティカが控える。
サティアは先ず、自分たちがバリハルト神殿から追われている事と、神殿に追われるまでに至った経緯を語り始めた。バリハルト神殿が秘匿する呪われた神器“ウツロノウツワ”。この神器の浄化こそが神殿の最大の使命であり、数十年かけてその手段を模索していた神殿は、遂に浄化の手掛かりがセアール地方からブレニア内海を挟んで南にある亜人間領に隠されている事を掴む。手掛かりを手にするため、神殿から送り込まれた遠征隊の一員としてセリカとサティアはナーガ族の領域に足を踏み込み、少なくない犠牲を払いながらも、その地を治める長リ・クティナから神器を浄化する唯一の方法を教えられた。
「“ウツロノウツワ”は古神由来のもの。浄化には同質の力が、すなわち古神の力が必要だとナーガ族の長から伝え聞いた俺たちはマクルへと帰還した。今になって思えば、あの時から既に皆おかしくなっていたのかもしれない……」
サティアの説明に補足して、遠征当時の兵士達を取り巻いていた不穏な空気について重々しく語るセリカ。いくら魔物が犇めく未開の地とはいえ、原住民であるナーガ族に対話ではなく暴力で情報を吐き出させようとしたダルノスの暴挙を、何度もセリカは戒めていた。あの時は魔神の乱入という不測の事態に見舞われ、味方に多大な被害が及んでしまったせいかとも考えたが、どうしても違和感が拭えなかった。いきり立ち、血走った眼で魔物もナーガ族も関係なく殺戮していったダルノス。規律も忘れ、内に秘めた憎悪のままに盲目的に彼に追従せんとする兵士達。獣染みた彼らの姿は、まるで見えないナニカに突き動かされているかのように感じられたのだ。
「俺たちが帰還してから数日後、マクルに大量の魔物が押し寄せた。街は怒号と悲鳴で覆われ、神殿の内部にも魔物の群れの一部が侵入した。そして混乱の極みの中で、神殿が厳重に管理していた神器が何者かに奪われてしまったんだ」
神殿側は幾重もの魔術防壁を突破した手腕と、魔物の襲撃した同日に街から姿を消した疑念から、サティアを神器強奪の主犯と断定する。直ちに討伐隊が編成されるも、サティアの無実を信じていたセリカはこれに反発し、単身でサティアの行方を追った。その過程で同じ神殿兵からの妨害を躱しつつ、逸早くサティアの足取りを掴んだダルノスの下に駆け付けるまでの一連の流れをセリカが語る間、サティアは心苦しそうに恋人を見詰めていた。
「私、神器については何も知らなかった。これ以上セリカたちに迷惑を掛ける訳にはいかないと思ってマクルを去ったのが、まさかそんな事態を招いていたなんて……」
鮮やかな真紅の髪が俯いたサティアの顔を覆い隠す。自らの行いが、意図せずセリカを傷付けてしまったことへの罪悪感が胸を締め付ける。実はナーガ族の長から神器の浄化に古神の力が必要だと聞いた時、サティアは“ウツロノウツワ”の正体に薄らと気が付いていた。もし、神殿の秘匿する神器が古神由来のものどころか、古神そのものが変質した姿だとしたら。それが遠い昔に生き別れた
だが、神殿が崇める嵐の神バリハルトは現神だ。神器を浄化するために忌まわしい古神の力を借りるなど、絶対に許しはしないだろう。それを理解しているが故に、セリカの静止を振り切ってまでサティアはマクルを離れたのだ。呪われた神器を浄化する唯一の方法。古神の力、“聖なる裁きの炎”が封印された地を目指して。
しかし、自身が追われていることを知らなかった為に、結局は蛮神の街道で兵士達に捕らえられてしまった。サティアの前に現れたダルノスの手にはあろうことか何者かに奪われた筈の神器が握られており、昏い笑みを浮かべたダルノスから神器強奪の濡れ衣を被せられても、何も知らないサティアには無力な訴えを叫ぶことしか叶わず。危うく殺されそうになったところを寸前でオルステッドとセリカの両名に救出され、そして今に至る。
「……成程、大変な目に遭われましたな。ですがご安心くだされ、我々はサティア様への御助力を一切惜しみませぬ」
話を聞き終え、事情を理解したアメデが優しくサティアに語り掛ける。一族を救ってくれた恩人の危機を指をくわえて黙って見ているなど、スティンルーラの誇りが許さない。寧ろ、よくぞ我々を頼ってくれたと勇ましく答えてみせた族長に心を揺り動かされたサティアは、言葉に詰まりながら感謝を述べる。
「ごめんなさい、アメデ。唐突に押しかけて手を貸してほしいなんて、貴女たちにとっては無関係な問題なのに」
「何を仰られる。我らを頼ってくださった事に喜びは抱けど、迷惑などと宣う輩は此処には一人とて居りますまい」
不安を払拭させるような温かみのある声でサティアの謝罪を受け止めたアメデは、「それに……」と言葉を繋いで部屋の奥に目を向ける。その視線を辿っていくと、同じく彼女らの対話を聞いていたオルステッドが壁を背に無言で佇んでいた。
「そちらの御仁のお陰で随分と魔物も大人しくなり、戦士らにも幾らかの余裕ができましてな。ご希望なされた船の手配に加え、道中の護衛も付けましょうぞ」
アメデの提案した内容。それは古神の力が封印された地、
ただ、神殿側も当然のようにこちらの動きを警戒してミニエにも多くの兵を動員してくる筈。そこでアメデはミニエの町が一定の周期で深い霧に覆われる特性を利用して、霧の濃い深夜、沖に船を停泊させて小舟から港に隠れているサティアらを回収する計画を立てた。
これにサティアとセリカは同意し、明日の早朝には出立しようと決めたところで話は打ち切りとなる。立ち上がったセリカがサティアを連れて部屋から退出しようと入口に近付く。すると、今まで沈黙を貫いていたオルステッドが、すれ違いざまにセリカに話し掛けた。
「セリカ、これから時間はあるか?」
「え? ……はいっ、俺なら大丈夫です」
「そうか。なら少しだけ付き合ってもらおう」
そう言うと、オルステッドは返事も待たずに歩き出す。それを見たセリカは隣にいたサティアに先に部屋へ戻っていてくれとだけ告げ、慌ててオルステッドの背を追いかけた。
「……此処なら話をするのに都合が良いだろう」
表に出たオルステッドが立ち止まったのは、クライナを一望できる見晴らし台の最上部だった。空を見上げてみると、既に夕日は沈み、満天の夜空に蒼い月が浮かんでいる。と言っても、別に月を眺めに態々此処まで来た訳ではない。情緒の欠片もなく見事な月夜からあっさりと視線を外して背後を振り返れば、丁度、階段口からセリカが顔を覗かせていた。
「すまないな、こんな場所まで連れ回して」
「いえ、そんなことは……それより、話とは一体なんですか?」
横に並んだセリカが疑問を顔に浮かばせてオルステッドに尋ねる。此処なら傍で聞き耳を立てる者もいないだろうが、もしやそれ程重要な内容なのだろうか。内心でそう考え、若干の緊張感を滲ませながら答えを待つ。暫しの間を置いて、返事は帰ってきた。
「彼女からはどこまで聞いた?」
「……彼女……サティアのことですか……?」
思わず聞き返すも、返答は無い。恐らくはサティアから隠していた真実をどこまで打ち明けられたのかを知りたいのだろう。
――何故、古神の力が封印されている地をサティアは知っているのか。ナーガ族から教えられたのは、神器の浄化に古神の力が必要だという事実のみ。いくら知識の神ナーサティアの信徒といえど、触れてはならない禁忌とされている古神の力の在り処を、ただの人間が知り得る筈も無い。その件についてはセリカ自身も気懸りではあった。だが、あの野営地からクライナに到着するまでに、真実の全てを打ち明けられることは終ぞなかった。何度訊ねても「話すことはできない」の一点張りで、答えられない理由すら聞かせては貰えなかった。
「そうか」
黙って話を聞いていたオルステッドは短く相槌を打つと、押し黙ったセリカの眼を真直ぐに見据えたまま静かに問い掛ける。
「もはや神殿はお前を敵と認識しているだろう。次の刺客にお前の姉が差し向けられるかもしれん。戦士として致命的な弱点を抱えた今のお前に、向こうは容赦しないぞ」
「……っ」
「この状況でも、まだお前は信じるというのか? 命を救ったのにも関わらず、すべてを語らない彼女を本当に信じられるのか?」
淡々とサティアへの疑惑を口にしながら、オルステッドの視線はセリカの顔と、そして手元を向いていた。軽く握られた右手。五指の中で、小指だけを外に伸ばしたその握り拳に、一瞬だけオルステッドが反応する。
「……約束、したんです」
――二人で、共に生きていこう。
それが、セリカとサティアが交わした一つの約束。廃都ノヒアで出逢ってから今日まで、短いながらも沢山の出来事があった。カバキの砦で囚われのスティンルーラ人たちを助け出し、オルステッドと邂逅した。ドラブナの森ではカヤやクルージェと一緒に、魔槍に憑かれた少女の未来を守る為に戦った。日常においても、正気だった頃のダルノスの手料理を皆で囲んだこともあれば、生まれ育ったキート村のささやかな祭りを目一杯に楽しんだ思い出もある。二人で過ごした時間は間違いなく本物だ。嘘偽りなんかではないと、それだけは確信を持って言える。
「俺は彼女と共に在りたい。この想いは今も変わりません」
「……そうか」
心を暖かく照らす記憶の束を握り、セリカは今一度はっきりと答えた。例え実の姉と刃を交える事になろうとも、サティアは絶対に守る。秘密を打ち明けられず泣きそうな顔で自分に謝った彼女を、どうして信じられないか。そんな、迷いのない澄んだ眼で見詰め返された男は、少しもたじろぐ素振りも見せず。セリカの抱く想いに肯定も否定も示さずに、それならそれで構わないと区切りを付けた。
「明日の出立についてだが、私はお前達に同行する事が出来ない。次はお前が彼女を守れ」
「任せてください。もう二度とサティアの手を離したりはしません。必ず、神器を浄化する手段を手に入れて此処に戻ってきます」
「そうだな。……その時には、私もお前達に協力しよう」
本当ならミニエまでの護衛の任を買って出たかったが、療養中の仲間を置き去りにする訳にもいかない。クライナ周辺の魔物達は大分動きが鈍くなった。しかし、代わりに神殿の息のかかった者と思われる不穏な影が、森の境界線で不気味に蠢いている。自らが出払っている間に万が一の事があったらと考えると、セリカたちに付いて行く選択は取れなかった。
「話は終わりだ。長々と付き合わせてすまなかった」
セリカの覚悟を垣間見たオルステッドは、もう話す事はないと身を翻して階段へと歩き出す。遠ざかっていくその背中を、複雑な表情でセリカが見詰める。
「オルステッドさん……どうして俺たちを助けてくれたんですか?」
「……」
無意識に飛び出たその疑問に、階段を降りようとしたオルステッドの動きが僅かに鈍る。が、問い掛けに対して何か答えようとする訳でもなく、セリカを残してその場から去って行った。
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――ミニエの街
セアール地方に進出したバリハルト神殿の第二の物流拠点であり、マクルに次ぐ規模を誇る港町、それがミニエだ。ブレニア内海を通じて連日多数の船舶が行き交うこの街は開拓地特有の活気に満ちており、この地に住まう人間は豪快な気質を持つ者が多い。
クライナを出立したセリカ達は検問が敷かれているだろう蛮神の街道を避け、スティンルーラ族の案内を頼りに名も無き森の獣道を通り、数日かけてミニエの街へと辿り着く。あまり人数が多いと身動きが取り辛くなるため、護衛役の戦士達とは街の外で別れた。そして、セリカとサティアは用意されていた廃倉庫に身を潜め、その時を待つ。ミニエに潜入してから二日後、水夫に変装したスティンルーラ族の男が二人に接触した。計画は今晩、実行される……
「兵士が多いな……やはり、警戒されているか……」
物陰から通りを覗き込み、すぐに身体を引っ込めてから溜息を吐くセリカ。予想していたよりも兵士の数が多い。昼間は混雑する住民達の波に紛れて分かり辛かったが、深夜帯ともなると、如何にこの街が厳重に監視されているかが浮き彫りになる。だからといって、今更止める訳にはいかない。これ以上此処に留まっていたら益々敵の数は増えていくばかりだ。
「この霧に紛れて、なんとか東の埠頭まで行くしかない。サティア、準備はいいかい?」
「待って。……今のうちに、貴方に伝えておきたいことがあるの」
伸ばされた手を掴みながら、サティアは今にも飛び出しそうな恋人を小声で引き留める。
「ありがとう、セリカ。私のせいで辛い思いをしているのに、まだ話してないことも沢山あるのに、それでも貴方は私を信じてくれた」
「サティア……」
儚い笑みで小さく微笑んだサティアを見て、セリカがそっと彼女の肩に触れる。線の細いその身体は、命を狙われている不安からか小刻みに震えていた。
「私、本当は
「サティア、顔を上げてくれ」
「え……? セリ――っ!」
セリカの声につられて顔を上げた瞬間。二つの影は一つになった。
「いいんだ。いいんだよ、サティア。俺は後悔していない。今じゃ駄目なら、時間をかけて一緒に歩いて行こう。いつか君が自分から話してくれるまで……その日まで、俺は待つよ」
「……っ、セリカ……! ありがとう……貴方と出逢えて、本当に良かった……」
「さぁ、行こう。これくらいの困難なんて、二人なら簡単に乗り越えられるさ」
涙を拭ってからサティアはセリカの手を取り、二人は兵士達の足音が十分に離れたのを見越して勢いよく駆け出した。夜中である事と、深い霧が立ち込めているせいで視界は悪く、途中で何度かサティアが躓きそうになるも、その度にセリカが彼女を支えて裏路地を駆けて行く。視界が悪いのは兵士達にとっても同じであり、足音にさえ注意していれば、向こうはこちらの存在に勘付く事はない。
「よし、この区画を抜ければ目的の埠頭に……あれか!」
さざ波の音に目を向ければ、丁度一隻の小舟が港に接岸しているところだった。近くに兵士の気配も感じない。まるで図ったかのような、絶好のタイミングで二人は集合場所に辿り着いた。
「こっちだ! さぁ、早く!」
小舟を操っていた水夫が声を潜めつつ二人に呼びかける。サティアはそれまで張り詰めていた緊張感が解けたのか、ホッと胸を撫で下ろしていた。セリカも安堵したような表情を浮かべていたが、水夫が乗っていた小舟を見て顔色が変わる。目の前で浮かんでいる小舟は、水夫を除いてあと一人しか乗れそうになかったからだ。
「すまねぇ、急ぎだったもんでこんなモンしか用意出来なかった。だから一人ずつ乗せて、沖に停泊している船まで届けなきゃならねぇんだ」
「そんな……!」
小舟の不備を指摘したら、申し訳なさそうに水夫が頭を下げた。そんな悠長などしていられないとサティアが声を上げようとするも、それをセリカが制止する。
「沖にある船まで往復するのに、どれくらい時間がかかる?」
「そうだな……もうすぐ鐘が鳴る。その後、もう一度鐘が鳴る頃には戻ってこれるだろう」
「分かった。サティア、君が先に行ってくれ」
「セリカっ! 駄目よ、危険だわ! 波も穏やかだし、多少無理をすれば二人でだって――」
離れたくないと抗議するサティアを優しくセリカが抱きとめる。それでも一緒に居たいと訴えかける恋人をぎゅっと抱き締めたまま、彼女だけに聞こえるように耳元で囁く。
「神器の浄化は必ず成し遂げないといけない。でなければ、ダルノスのような犠牲者をまた生み出してしまうことになる。……俺に何かあったら魔法で知らせを送る。その時は後ろを振り向かないで行ってくれ」
「……セリカ……っ……私、待っているからね。……愛しているわ、セリカ」
少しだけ身を離してから、もう一度口づけを交わす。ほんの一時の別れと分かっていても、胸が張り裂けそうになる。やがて、セリカの方から抱き締めていた身体を離すと、手を貸しながら桟橋を歩いて小舟の上にサティアを乗せた。
「……必ず、私のところへ来て。待っているわ」
水夫の手にした櫂が海面を掻き分け、緩やかに舟が動き出す。暗い霧の中に溶け込み、サティアの姿が段々と霞んでいく。岸辺に届いていた水の波紋が消え、舟の影は闇に覆われて完全に見えなくなった。同時に、頭上で鐘が鳴り響く。
「この次に鳴った鐘が、合図だったな……」
一人なら自由に動き回れる。ここで海辺から離れるように兵士を引き付けておけば、沖を目指すサティアの舟が見付かる可能性も減るだろう。
「よし……やるぞ!」
グッと足に力を篭め、一気に駆け出す。街の中に戻って来たセリカは両手から電撃魔法を放ち、辺り一面が青白い稲光に包まれる。
「なんだッ!?」
「ヤツだ、裏切り者のセリカが現れたぞー!!」
閃光と爆音によって、周囲を巡回していた兵士達が集まり出す。相手の思惑も知らずに、まんまとおびき寄せられた彼等はセリカが逃げて行った路地裏に雪崩れ込んだ。
「追えー! 逃がすなぁ!」
「反対側に回り込め!」
夜の静寂が兵士達の怒号に引き裂かれる。一体何事なんだと彼方此方で家屋の窓が開かれ、中から住人が迷惑そうに顔を出す。眠っていた街は一瞬で騒然となった。
「くそッ、何処へ行った!?」
「西方面に逃亡したと連絡があった! 我々も急行するぞ!」
兵士の一団が忙しなく広場を横切っていく中、再び鐘の音が街に鳴り響く。その頃、追われている当人は誘い込んだ兵士達を上手く撒いて埠頭に戻ってきていた。
「時間だな……」
街から眼を離して後ろを振り返ると、漆黒の海原に小さな影が浮かんでいた。影は徐々に大きくなり、それがサティアを送り届けた小舟だと認識したセリカが歩み寄る。だが、岸に着いて舟から降りてきた水夫から告げられた言葉を聞いて、セリカは驚きで固まった。
「悪いが、あんたを船まで運ぶ事は出来ない。あの赤髪の女から……そう、頼まれたんだ」
「なんだって……?」
水夫は赤髪の女――サティアから、これ以上秘密を知られる訳にはいかないからセリカを連れてこないように頼まれたと語った。そんな事、到底信じられない。彼女が自分を置いて行く訳がない。硬直が解けたセリカが水夫に詰め寄ったその時――
「――いいえ。残念だけどこれが真実なの」
「この声は、まさか……!?」
背後から聞こえたのは、この世でただ一人の肉親の声。しかし、記憶の中にある温もりや快活さは微塵も感じられない。感情を無くしてしまったかのような空虚な響きが耳朶を叩き、底冷えする悪意が首筋を舐める。どうか己の思い違いであってくれと心で願うも、頭では既に理解していた。ゆっくりと後ろを振り返る。其処には記憶の中と同じ人物が、記憶とはまるで正反対の冷たい笑みを浮かべて立っていた。
「……そんな、姉さんまで……!」
「うふふ、どうしたのセリカ? 久しぶりに会えたのに、そんなに怖い顔しないでよ」
後退りつつ身構えた弟を愛おしそうに見詰め、にこりと笑うカヤ。その眼に意志の光は無い。ダルノスと同様に、呪われた神器によって精神を蝕まれていた。
「可哀想なセリカ。あの女にまた捨てられちゃったのね」
「違うッ! サティアは無実だと、姉さんも分かっていた筈だろう!」
「そうね。危うく騙されるところだったわ。でもねセリカ、これが現実よ。サティアはわざと貴方を置いて行ったのよ」
艶やかな笑みをセリカに向けていたカヤが、ちらりと水夫の方を見る。視線が合った水夫は顔を蒼褪めさせ、持っていた櫂を手から落とした。
「異教徒を利用して監視の目を潜り抜け、安全な退路を確保した時点で貴方はもう用済み。きっと、二人で逃げましょうと言ってセリカを騙していたのね」
「違う、そんなこと……っ! そうか、“遠見の鏡”で俺たちの行動を読んでいたんだな!」
「ふふ……すべては終わった事よ。さぁ、マクルに帰りましょう」
そう言って微笑みながら手を伸ばしたカヤに、セリカは剣を抜いて凛然と言い放つ。
「それは出来ない。俺たちには神器浄化の使命があるんだ。サティアが、俺を待っているんだ!」
「安心して。サティアの元には行ってもらうわ。でもその前に、貴方を正気に戻してあげる」
直後、背後に控えていた兵士達が一斉にセリカを取り囲む。じりじりと狭まる包囲網に身動きが取れない弟を妖艶に見下ろし、聖杖を取り出したカヤの身体が光り輝く聖なる魔力に包まれる。
「大人しく従いなさい。抵抗するようなら、力づくで捕縛する事に――ッ!?」
言い切る前に、セリカを包囲していた兵士達が目の前で吹き飛んだ。遅れて、突風が周囲に巻き上がり、驚愕していたカヤがハッと頬を押さえる。鋭い痛みを発している頬から手を離すと、一筋の血が流れ落ちた。
「すまない、姉さん。俺はこんなところで立ち止まる訳にはいかないんだ」
「くっ……! 貴方は、自分が何をしているか分かっているの!?」
「……俺はサティアを守ると、あの人に誓ったんだ。立ち塞がるのなら実の姉でも容赦はしない!」
剣を構え、突進する。動揺したカヤが急いで魔術を展開するが、オルステッドという遥か高みを知ったセリカの剣筋は以前よりも格段に研ぎ澄まされていた。構築されかけた魔術防壁を跳び越え、疾風の刃が無防備な横腹を撫でる。立ち止まったセリカの背後で、血飛沫が舞った。
「終わりだ、姉さん。すぐに治療すれば傷は残らないだろう」
「う、ぐぅぅ……!」
剣を鞘に戻し、踵を返して海辺に歩いて行くセリカ。地面に倒れたカヤは傷口を手で庇いながら、凄まじい形相で自分を斬った弟を睨み上げていた。
「こんなの、私の知ってるセリカじゃない……。あの男ね……あの余所者が優しかった弟を変えたのね……!?」
愛する男が、誰ともわからぬ赤の他人に奪われる。それは耐え難い屈辱だった。血の繋がりという残酷な運命に自分は諦めるしかないのに、あの女は素知らぬ顔でセリカに取り入った。優しいセリカは邪教徒の醜い本性を信じられないのだろう。哀れな弟の目を覚ましてやらないといけない。そう決意して差し伸べた救いの手は、自らの血で濡れている。セリカはそれに見向きもせずに去って行く。
「許せない……サティアも、オルステッドも……セリカを奪う奴は、みんな殺してやる……」
羨望は嫉妬に形を変え、不安が恐怖を呼ぶ。
予想を上回る抵抗によって追い詰められ、カヤは手段を選ぶのを止めた。
「いいのかしらぁ、セリカァ!! 貴方がその舟に足を乗せたら、彼女たちの命はないわよぉッ!!」
「なにを言って――っ!?」
振り向いた先で、衝撃の光景が舞い込んでくる。カヤの両脇に居並ぶ数名の騎士。彼らは小さな人影――何処からか連れてこられた幼いスティンルーラ族の娘達の首に、銀色に輝く刃を突き付けていたのだ。絶句するセリカの背後では、戦闘が始まってからずっと震えていた水夫が掠れた声で「話が違う……」と呟き、崩れるように膝を着いた。
「馬鹿な真似はよしてくれ姉さん! どうしてそこまでするんだ!」
「誤解しないで、別に本気でこの子たちに危害を加えるつもりはないの。だって優しい貴方は、例え相手が異教徒の子供だろうと、関係なく助けてしまうのでしょう? でも、うっかり手が滑っちゃうかも」
「……ッ、やめろぉおおお!!」
騎士に合図を送る姉を止めようとセリカが駆ける。生き残っていた兵士が繰り出した槍を身を低くして躱し、すれ違いざまに鎧ごと胴を両断すると、剣に魔力を込め更に加速。相対するカヤは一息の間に眼前まで迫ってきた弟を腕を広げて迎え入れ、持っていた聖杖から手を離した。
「ッ!?」
反撃せずに武器を捨てる信じられない行動にセリカが動揺する。その一瞬の隙を突き、カヤは足の止まったセリカに抱き着いて強引に唇を押し付けた。驚愕に目を見開く弟に薄く微笑み、少しだけ名残惜しそうに唇を離したカヤの胸に、力なくセリカが倒れ込む。
「うふふ、やっぱり貴方は優しいわ」
「これは……性魔術か……!」
性魔術による精神支配。身体の自由を奪われた後になって、漸くセリカは姉が取った異様な行動の真意に気付く。実の姉を相手に手加減してしまった事で、甘さを捨てきれていないと看破されていた。だからこそ武器を捨てて無抵抗を装ったのだろう。
「さぁ、一緒に帰りましょう……あの女を捕まえて、ね」
無力化したセリカを地面に寝かせ、カヤの意識が沖に浮かんでいる一隻の船に向く。弟に優しく語り掛ける傍ら、船を見据える彼女の瞳は黒い殺意で埋め尽くされていた。
「……くっ、サティア!」
薄れゆく意識の中、恋人に危機が迫っている事を感じたセリカが、最後の力を振り絞って電撃魔術を発動させる。辛うじて動いた右腕から空へと放たれた雷光が街全体を覆う魔物除けの魔法壁にぶつかり、拡散した魔力の余波で霧が四散し、海が白く照らされる。
「沖の仲間に合図を送ったのね。直ちに追撃の船を出しなさい!」
「はっ!」
カヤはサティアを捕縛するよう配下に命令を下すと、足元で倒れているセリカを見下ろした。
「サティアは貴方を見捨てた。でも安心して。お姉ちゃんが傍に居てあげるから」
その場にしゃがみ込み、愛しい弟の頭を撫でる。久しぶりに見た寝顔。逞しくなった身体。もう邪魔者はいない。もう、誰にも渡さない。
「……セリカ、貴方は邪教徒を倒す勇者に生まれ変わるの。貴方には、我らが主バリハルトの寵愛を受けるに相応しい素質があるのだから……」
勇者。
それは、神に愛されし者。人間族最高の称号にして、最強であることの証左。古の邪神や悪魔から世界を救った偉大なる現神に仕える使徒であり、邪悪な魔族を滅ぼし弱き人間達を守護する平和の調停者でもある。
時は遡り、世の歴史を調べていたある男が、地下都市の友人宅の書庫で独り呟いた。
――――“世界の在り方は、今も昔も変わらない”