――マクルの街 バリハルト神殿
地下へと続く薄汚れた石階段を、数名の神官達が下りていた。豪奢な法衣で着飾ったその出で立ちから、彼らが神殿の中でも高位の役職に就く重鎮だろうことは自ずと理解できる。全員が真剣な面持ちで身を引き締め、聖職者には似つかわしくない暗く湿った穴倉の奥底へと潜っていく。
「邪教徒の足取りは掴めましたかな?」
背筋を真直ぐに伸ばして淀みなく足を動かす老人、大司祭オレノ・ユムパナキの声が薄暗い空間に響き渡る。すると、後ろを歩いていた一人の男が手元の羊皮紙を広げながら老人の問いに答えた。
「遠見の鏡による捜索の結果、ディジェネール地方のニアクール遺跡にて、サティア・セイルーンと名乗る女の姿を確認しました」
「そうですか。やはり、亜人間族と繋がっていたようですね」
部下の答えにオレノは満足げに頷く。想定していたよりも俄然早く、神に仇なす怨敵の行方を捉える事ができた。“儀式”の進捗が滞ってしまっている一点さえ除けば、全てが順調であると言えるだろう。
「戦士セリカが運び込まれてから三日。未だ勇者の魂は闇に囚われており、解放される兆しも見えない。嘆かわしい事です」
「申し訳ありません! 昼夜を問わずに精神干渉を試みているのですが、邪教徒の洗脳が思いのほか強固でして……」
目に見えた結果を出せず、冷や汗を流して言い淀む部下の前でオレノが足を止める。階段を下りた先には、分厚い鋼鉄の扉で締め切られた地下室の入口があった。
「頭を上げなさい。我らは嵐の神バリハルトの使徒。人類の守護者である我々が俯いて、誰が民を導くのです?」
「し、しかし! “儀式”の責任者という大役を仰せつかったのに、私はまだ何も成果を――」
「君達はよくやってくれています。罪を問うのなら、それは人の心を弄ぶ邪神の他にあり得ません」
ギシギシと錆びた音を立てて、重厚な地下室の扉が開かれる。途端に生温い湿った空気が通路に流れ、鼻を塞ぎたくなるような強烈な異臭がオレノや神官を襲う。
其処は、四方を灰色の石壁で囲まれた密室。神に身を捧げた信徒らが織り成す狂宴の舞台だった。巨大な魔法陣が描かれた床には、恍惚とした表情を浮かべた裸の女達が転がり、口元を黒い覆いで隠した集団が陣を取り囲んで詠唱を続けている。生臭い精の匂いと異様な熱気の立ち込める空間にオレノは眉一つ動かさず、毅然とした姿で開放された入口の仕切りを跨ぐ。
「まさか、父君に続いて貴方まで道を誤ってしまうとは。血は争えないものだ」
宴の主賓として招かれた男は魔法陣の中心で磔にされていた。拘束台に手足を固定され、身に着けていた衣服もすべて脱がされている。性魔術の重ね掛けと休みなしで繰り返される行為によって意識は混濁し、自分が話し掛けられたのだと理解する余力すら残っていない。そして衰弱した男に覆い被さるように、虚ろな目をした裸の女が抱き着いていた。それは男の実の姉であり、弟を愛するあまりに凶行に及んでしまったカヤの変わり果てた姿だった。
「おぉ、これは素晴らしい!」
「なんと美しいのだ……弟を救わんが為に献身する姉、これぞ真の家族愛ですな」
明らかに正気を失っているだろうカヤの痴態を神官らが口々に褒め称える。畏敬の念を思い思いに紡ぐ彼らの目には、一様に昏い光が漂っていた。確固たる意志を持ち、理性的に振舞いながら、平然と狂気を実行する。すべては神の僕であるが故に。神から与えられた免罪符を握る彼らに、恐れるものは無い。
「戦士セリカよ、戻ってきなさい。愛する姉をこれ以上苦しませるおつもりですか?」
「……ってない……」
「どうしました? 何か伝えたいことがあるのなら私が聞きましょう」
手を伸ばせば届くぐらいの距離まで歩み寄り、意識の無いセリカを見下ろすオレノ。未だ邪教徒の洗脳下に置かれている青年に不用意に近付いていく大司祭の行動に、周囲の者達が驚き戸惑う。
「……サティアは……裏切って……ない……」
「なんと、まだそのような妄言を……! 事態は思ったより深刻なようですね」
弱り切った身体で、うわ言のように自身を貶めた邪教徒を擁護する言葉を繰り返す。なんと、哀れな姿だろうか。傷付いた青年の心中を察して顔を曇らせてしまったオレノに、背後で控えていた部下が隠れて耳打ちする。
「オレノ様、市井に手を回して性魔術の人員を増やしましょう。娼館から提供させれば充分な数を確保できます」
「ふむ……悪くない。その件は貴方に一任します。ですが、それでは足りません。我々に残された猶予は余りに少ないのです」
司祭の提案に笑顔で答えながらも、すぐに表情を厳しく引き締める。洗脳からの解放にここまで手こずること自体が予想外だったが、最大の懸念はもう一人の不確定要素の存在だ。
先日、蛮神の街道に派遣した部隊の生き残りから驚くべき情報が齎された。神殿でも随一の剣の使い手であったダルノス・アッセが、たった一人の男にまるで歯が立たずに敗北を喫したという。
“オルステッド”……名前以外の一切の情報が不明の、得体の知れないその人物がこの地に攻め入ってきたとしたら。現状の戦力で神殿を護りきれる保障は無い。ミニエから戦士が運び込まれて既に数日が経ち、邪悪な魔の手は刻一刻と迫っている。もはや、悠長にしていられる場合ではないのだ。
「神官長。今晩中に戦士セリカを蝕む邪教徒の呪縛を解きなさい。そして速やかに神格授与の儀を執り行うのです。明日の朝日が昇る頃には全ての用意を済ませ、万全の体制で勇者を送り出します」
「なっ!? いくらなんでもそれは無茶です! 短期間での過度な干渉はセリカ殿の精神に大きな負担となります!」
先ほど羊皮紙を抱えていた男が酷く狼狽えながらオレノに言い縋る。前任者から職務を引き継いだばかりであった彼が、まさか大司祭に意見するという恐れ知らずな愚行をしでかした事で周りからどよめきが起きるも、穏やかに微笑むオレノの無言の圧力が余計な雑音を封殺する。
「ならば、考え方を変えましょう。呪いに侵された彼の人格は封印し、空いた肉体を活用すればいい」
「……そ、それならば或いは……ですが、態々危険を冒してまで性急に事を進めずともよろしいのでは?」
提示されたもう一つの術法に神官長は難色を示す。彼は年若くも、優れた才覚で多くの実績を積み重ね、老練な神官達を差し置いて今の椅子を任せられる程の能力を持った男だ。大司祭が仄めかした言葉の意味を履き違えるような愚は犯さない。正しく理解したからこそ、人道から外れたオレノの代案を受け取ることを躊躇した。
(上層部は、使い勝手の効く操り人形を欲しているのか……っ!)
確かに、使い物にならない兵士に戦力としての価値を付加するという意味では、有効であるだろう。疲れを感じず、痛みに怯まず、敵を恐れない。こちらが意図した通りに動いてくれる従順な駒。術者は安全な神殿内で
(セリカ殿……)
磔にされているセリカの姿を躊躇いがちに覗き見て、若き神官長は逃げるように目を伏せた。
これが、父子二代にわたって神殿に多大な貢献をしてきた敬虔な信徒に対する仕打ちなのか。虐げられた力無き者達の盾となり、人間族の未来を守る。その信念を支えに、時として非情な決断を下す神殿のやり方も肯定してきた。魔物の脅威から民を救う、それ自体は間違っていない。だが、目的の為に必要な犠牲と割り切って仲間の命を道具のように使い潰すのが、本当に神の示した救いだというのか。このままでは、いずれ護るべき民すら神の生贄にされてしまうのではないか。言い知れない不安が、脳裏を埋め尽くしていく。考えたくもない末路を嫌でも想像させる神殿の狂気に新官長が蒼褪める。
「恐れてはなりません。邪神に与する大罪人を裁く、それこそが我らの使命。天が我々に与えた試練なのです。それに、これは戦士セリカの為でもあるのですよ?」
震える部下の内心を知ってか知らずか、オレノは他者を安心させる温和な笑みを向け、神官長の肩を二度三度と軽く叩く。
「彼の父君と私は無二の親友でした。私は志半ばで散った友の無念を晴らしたい。偉大な父の遺志を継げることは、彼にとって本望でしょう。もし意識があれば、きっと自分から志願していたに違いありません」
否定的な部下に言葉を荒げず、真摯に諭そうとするその表情からは揺るぎない決意が垣間見える。上辺だけを取り繕った空虚な文字列ではない。セリカを犠牲にすることが亡き友への手向けに、そしてセリカ本人の救済になると、本気でそう信じているのだ。有り余るその熱意は、ひとえに絶対なる神への信仰心の表れだろう。純粋な善意が、正義を自負する使命感が、オレノと神官達の狂気の原動力となっている。いつの間にか肩に乗せられていた手が離れ、身体が自由になったと同時に、神官長は背中に冷たいものが流れるのを自覚した。
(わからない……そこまで信を置いていた戦友の御子息を犠牲にして、どうしてオレノ様は
額から汗が流れる。大司祭の案をなんの疑いもなく受け入れる仲間達が、何故だか恐ろしく見えた。まさか、否応なしに神の教えに殉ずるセリカを本気で羨んでいるとでもいうのか。部屋を取り囲む兵士らは熱に浮かされた様子で口々にバリハルトを称え、正義の名の下に邪教徒を滅ぼせと槍を振り上げる。絶え間なく繰り返される狂信者達の絶叫で、地下室全体が揺れているような気さえした。
「さぁ、勇気を出しなさい。君の決断を皆が待っていますよ」
「ッ……わ、私は反対です! オレノ様、どうかご再考を! 必勝を期するのならセリカ殿の意思は残すべき――」
「神官長」
今すぐ逃げ出したい衝動に駆られながらも、必死の思いでその場に踏み止まった神官長だったが、彼の訴えがオレノに届く事はなかった。
「バリハルトの祝福を授かった勇者に、万に一つも敗北は無いのです。君の為すべき事はただ一つ、直ちに儀式を進めなさい」
「そ、そんな……!?」
無情にも、一人の若者の未来を奪う命令が下される。それでもしつこく食い下がっているうちに、次第に周囲から懐疑的な視線が集まり出す。懸命に説得を試みていた神官長も、大人しく引き下がるしかなかった。
(……無理だ……私には、どうすることもできない……)
地下室から立ち去っていくオレノを沈痛な思いで見送った後、残された男は命令に従って配下達に儀式の準備を急がせた。自ら進んで精力的に動き回るその姿は、見ようによっては思考を放棄し、余計な事を考えないよう努めている風にも見えたかもしれない。