堕ちた勇者は彼の地にて   作:胸焼け

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第22話 魔王

 ――クライナの集落

 

「止まれ! 此処は何人も……お、オルステッド殿!? 如何なされた?」

「急で申し訳ないが、捕虜と面会をさせてもらえないだろうか」

 

 肌を焦がす太陽の輝きさえも届かぬ、外界と隔離された密室。外の喧騒と繋がっている出入り口には、スティンルーラ族の優秀な女戦士が配置され、常に監視の目を光らせている。元々は食糧庫として使われていたこともあって、何処を覗いても人が通れる抜け穴どころか、小さな獣が忍び込める隙間すら見当たらない。ある意味、集落で最も安全な場所であると言えよう。簡単な改修を施すだけで堅牢な牢屋となった石造りの倉の前で、オルステッドは見張りの戦士に引き留められていた。

 

「尋問であれば我らにお任せを。貴殿の手を煩わせることもない」 

「そうじゃない。ただ、あの男と話をしたいだけだ。……ダルノス・アッセの様子はどうだ」

「彼奴なら鎖に繋がれて大人しくしている。これが驚くほど静かでな」

 

 収監されている男は純粋なセアール人ではない。武器を取り上げ、身動きも封じている故に危険性は無いが、少しでも事情を知っている人間は決して牢屋に近寄ろうとはしなかった。数多の同胞を殺めた罪人に好き好んで会いに行く者など、道理を知らぬ子供か、余程の変人ぐらいのものだ。尤も、誰が訪ねてこようとも入口で門前払いされていたことだろう。族長達の裁決が下されるまで一切の立ち入りを禁じよと、戦士長から厳命されているからだ。それは一族の恩人であるオルステッドとて例外ではない。

 

「仲間を売って保身に走るとばかり思っていたが、一向に口を割らぬのだ。誇り高いその姿には敵ながら感心して……いや、今の言葉は忘れられよ」

「気にするな。元より、私は単なる部外者だ」

「御心遣い、痛み入る。しかし、貴殿の頼みであってもこの先へ通す訳にはいかぬのだ。どうか、お引き取り願いたい」

「……そうか、わかった」

 

 丁寧な口調ながらもはっきりと拒絶の意思を示されたオルステッドは、事を荒げるのは得策ではないと考え、ダルノスとの面会を諦めて倉を離れることにした。予定が空いてしまったがこれからどうするか。周辺の魔物は粗方狩り尽くした。他に何か協力できることはないだろうかと思案しつつ来た道を戻っていると、後ろから先程の女戦士が小走りで駆け寄ってくる。

 

「待たれよ、オルステッド殿!」

「……? まだ何かあるのか?」

 

 足を止めて振り返ったオルステッドに、彼女は周囲に視線を巡らしてから落ち着かない様子で口を開く。

 

「交代の者が来るまでまだ時間がある。一度中に入ってしまえば、外からではまず気付かれない筈だ。話をしたいなら急ぐがいい」

「それは……つまり、見逃すというのか?」

 

 何の理由も無く、相手が自らの意思を曲げたことに疑問を抱くオルステッド。訝しげに見られた女戦士は、誤解を解くためにオルステッドがいない間に起きていたとある出来事を教えた。

 

「私には年の離れた妹がいるのだ。あの砦の一件で妹は心に深い傷を負ってしまったのだが、クルージェ殿のお陰で昔の明るい笑顔を最近はよく見せてくれるようになった」

「クルージェ……だと?」

 

 目を丸めて仲間の名を呟いたオルステッドに、更に説明が加えられる。どうやら、あの高飛車な睡魔は知らぬ間に随分とこの集落に溶け込んでいたようだ。詳しく聞いてみれば、目の前の女戦士の先祖は高名な呪術師であったらしく、由緒ある家系の末裔なのだと誇らしげに力説された。残念ながら代を重ねるにつれて段々と血が薄まり、今ではすっかりと廃れてしまったものの、呪術の名門プラーナの名声は、嘗ては広く内外に轟いていたという。だが、彼女の妹は一種の先祖返りを起こしたのか、火炎魔術に限定して非常に優れた素質があったが為に、密かに病室を脱走して集落を散策していたクルージェの興味を引いたらしい。

 

「貴殿とその仲間に妹は二度も救われた。だから私は、私なりの義を通す。さぁ、早く行け」

「……すまない」

 

 仲間の行動を褒めるべきか咎めるべきか判断に迷いながら、一先ず女戦士に詫びの言葉を告げてオルステッドは倉へと急いだ。程なくして入口に辿り着くと、無人の鉄扉に手を掛け、力を篭めて一息に押し開く。真っ暗な空間に一筋の光が差し込み、大きく広がって牢屋の内部を照らし出す。石の床に足を踏み入れると同時に、奥から鎖の擦れる小さな金属音が聞こえた。

 

「なんだよ、俺は何も知らない……って、ああ? あんたは……」

「傷は癒えたか、ダルノス・アッセ。気分はどうだ?」

「へっ、あんな掠り傷なんてとうの昔に治ったさ。数日振りにあんたの顔が見れて嬉しいぜ」

 

 ニヤリと不敵な笑みを浮かべてダルノス・アッセは突然の訪問者を出迎えた。鉄格子を挟んで軽口を叩いていくるダルノスを無視して、背後の扉を閉めるオルステッド。一瞬、牢屋が暗闇に包まれた後に、蝋燭の灯火が辺りを照らす。床には薄く埃の積もっているが、目立つ程の汚れはない。手枷を嵌められたダルノスの足元には、木製の食器が置かれていた。牢屋の隅には蓋の付いた壺と、真新しい寝藁が敷かれている。辺りを一通り見渡して、オルステッドの視線がダルノスに戻る。

 

「快適な生活を送れているようで何よりだ」

「羨ましいだろ? 此処はもう我が家同然だよ。あんたも一緒に暮らしてみるか?」

「遠慮しておこう。牢屋は好きじゃない」

「ははは! そりゃそうだ、自分から牢屋に入るヤツなんざいねぇってな!」

 

 冗談の欠片も無い真面目な返事に腹を抱えてダルノスが笑う。狭い空間なので笑い声がよく響くが、だからと言って遠慮するつもりもないらしく、自分が満足するまで大声で笑い続けていた。

 

「ははは……で、用件はなんだ? 俺に聞きたいことがあるんだろ? 別に話してやってもいいが、それより先に一つ聞かせてくれ」

 

 急に素面に戻ったダルノスが、無言で佇んでいたオルステッドに尋ねる。外部の情報が一切入ってこないこの状況で、どうしても気懸りだったのはセリカ達の安否だ。蛮神の街道での戦いを最後に行方の知れないあの二人は、果たして今も無事なのか。

 

「心配するな。お前が意識を失った後、二人はスティンルーラの者に保護された」

「そ、そうか! そいつぁよかった! こんなの俺が言える義理じゃねえが、無事でいてくれて本当によかった……!」

 

 オルステッドの口から二人の無事を聞かされて、ダルノスは安堵した様子で深く息を吐く。最大の懸念が取り除かれた事で気が楽になったのか、先程よりも自然な笑顔を浮かべていた。しかし突然、何か重要な事を思い出したように勢いよく鉄格子にしがみつくと、切羽詰まった声でオルステッドに訴えかけた。

 

「も、もう一つだけいいか! 俺はセリカに伝えなきゃならねぇことがある。だが、見ての通り俺は此処から動けねぇ。だからあんたに伝言を頼みたいんだよ!」

「それは無理だ。彼らは既にこの地を離れている」

「なッ! あんたと一緒じゃねえのか!?」

 

 てっきりセリカ達がまだクライナに滞在しているものとばかり思っていたダルノスは、思わぬ回答に酷く驚いているようだった。目に見えて焦燥しているダルノスのただならぬ雰囲気にオルステッドも嫌な予感を感じ、不動を維持していた視線が鋭くなる。

 

「まさか、ミニエに向かったなんて言うんじゃねえよな!?」

「……何か不都合でもあるのか?」

「あそこにはカヤが待ち伏せてるんだよッ!」

 

 先行したダルノス隊が討ち漏らした場合に備え、予めミニエにも部隊を展開していたのだと喚くようにダルノスが語る。指揮官にはセリカの姉であるカヤが据えられ、更にスティンルーラ人の家族を人質に作戦への協力を強要する等、神殿はあらゆる手を尽くして二人を捕らえるべく行動していたのだ。

 

「俺が負けた以上、もう神殿は止まらねぇ! なんてこった……くそッ!!」

 

 叫び、手枷を嵌められた両手で床を殴り付けるダルノス。オルステッドが単独でダルノスを打ち倒してしまった事で、神殿側は通常の戦力では太刀打ちできないと判断した。だが、神敵討つべしと狂気的な正義に燃える彼等に諦めるという選択肢は存在しない。仮に、自分達が犠牲になることで大義を成せるのならば、喜んでその命を神に捧げるだろう。神殿の執念を教えられたオルステッドは、床に手を下ろしたまま項垂れているダルノスに問いを投げる。

 

「セリカ達が神殿側に捕縛された場合、その場ですぐに殺されるのか?」 

「……それはない、筈だ。二人を捕まえ次第、マクルに連行するよう上からお達しが出ていたからな……」

 

 答えながら顔を開けたダルノスの視界に映ったのは、牢屋の出口へと向かう男の後ろ姿。単調な足音を立てて遠ざかっていく背中を見て、オルステッドのやろうとしている事を理解したダルノスが目を見開く。

 

「あんた、まさかっ! セリカ達を助けに行く気か!?」

「生きているのなら手遅れではない。これは私が招いた事態だ、私がけじめをつける」

 

 ただ一言、背を向けたままそう答え、扉に手を掛けた男にダルノスは掛ける言葉が見当たらなかった。あるのは強者であるオルステッドへの羨望と、無力な己に対する不甲斐無さ。

 

「俺にもあんた程の強さがあれば……俺が弱いばかりに、こんな――」

 

 固く握り締めた自分の拳をダルノスが憎々しげに睨んだ瞬間、彼の横顔を掠めて銀色に光る何かが通過する。直後、背後の石壁から甲高い音が響き、壁から跳ね返ってきた短剣が目の前に転がった。

 

「うおぉ!? い、いきなり何しやがんだてめぇッ!」

「見えなかったか? ならばもう一本くれてやる」

「や、やめろやめろ!! てめぇ俺を殺す気か!?」

 

 何故かこちらに振り向き、早くも二本目の投擲体制に移ったオルステッドを大声で制止するダルノス。一切の感情を伺えない冷たい瞳に冷や汗を流しながら、拘束された両手を振って相手を宥めようとすると、オルステッドは短剣の構えを解いて再び背中を向けた。 

 

「絶体絶命の窮地に突然、見ず知らずの人間が爽快と現れ、圧倒的な力で敵を撲滅する。成程、まさしく英雄そのものだ。助けられた者はその英雄に恩を感じるだろう。若しくは、未知なる強さへの憧れを抱くだろうか」

「何を訳のわかんねぇことを――うぉッ!?」

 

 困惑した顔で口を開こうとしたダルノスに、二本目の短剣が容赦なく襲い掛かる。またしても頬を掠めた短剣は、今度は石壁の罅が入っていた箇所に深々と突き刺さった。明らかに威力が上がっている。 

 

「そして、同時に心の奥でこうも考える。“恐い。もし、この力の矛先が自分に向けられたら”……今のお前みたいにな」

 

 大きく口を開けたままへたり込んだダルノスを一瞥して、オルステッドが鉄扉に手を伸ばす。

 

「私ではセリカを救えん。救えるとしたら、それは昔からの彼を知る人物だけだ。諦めるなよダルノス・アッセ。お前の役目はまだ終わっていない」

「なんだと……? 俺の役目ってどう意味だ、おい!?」

 

 牢屋の中から響いて来るダルノスの叫びにも耳を貸さず、後ろ手でさっさと扉を締め切ったオルステッドに、外で待っていた女戦士が歩み寄る。その表情は不安と焦りで満ちていた。

 

「オルステッド殿、中でのやり取りは外から聞かせてもらった」

「気にするな。承知の上だ」

「申し訳ない……それからたった今、ミニエの同胞から連絡があった。サティア殿は無事に港を脱出したが、セリカ殿は連中に捕まってしまったらしい」

「そうか」

 

 会話を盗み聞きした罪悪感と、セリカが神殿に捕まってしまった事実に顔を暗くする女戦士を置いて、集落の中心を目指すオルステッド。だが、そんな彼の背中に待ってくれと言わんばかりに、牢屋の前に立っていた女戦士が声を張り上げた。

 

「オルステッド殿! 訓練場の倉庫に、あの男から押収した双剣が保管されている! 良ければ持って行ってくれ、アレは下手な武器よりは頑丈だ!」

「……そうか。ならばその厚意、有難く受け取らせてもらう」

 

 一瞬だけ立ち止まり、小さく礼を述べてから再び歩み始める。自室として割り当てられた部屋に戻ると、床下に隠していた木箱を取り出し、厳重に封印を施された蓋をこじ開けた。蓋が開いた瞬間、箱の中から毒々しい深紫の瘴気が溢れ出る。

 

「ハイシェラとの一戦で駄目になったと諦めていたが……まさか、ひとりでに修復するとは」

 

 封が解かれたせいか、溢れ出る瘴気に侵されて木箱がぼろぼろと腐り落ちていく。そんな恐ろしい光景を目の当たりにしながらもオルステッドは気にせずに片手を突っ込み、中に仕舞っていたモノを掴む。瘴気の渦から引き揚げられたのは、黒を基調とした艶やかな生地。黒衣に染み込んだ大量の血痕を原料にして描かれた、真っ赤な波紋。ほんの数日前までは襤褸切れ同然の有様だったのだが、いざ取り出してみれば、そこには美しく生まれ変わった瘴気の衣があった。

 

(戦闘を重ねる度に強化されていく武具……まるで、御伽噺だな) 

 

 外観の大きな変化。以前にも増して禍々しく噴き出す瘴気。修復というよりも成長と呼ぶのが適切だろうか……と、思考が余計な方向に傾いているのに気付いたオルステッドは、下らない考察に時間を費やす己を自制し、瘴気の衣を羽織る。部屋を出たら次に戦士達の訓練場へと足を運び、すぐ隣に併設された倉庫に忍び込んでダルノスの得物と思わしき双剣を拝借した。刀身にこびり付いた血錆から切れ味は悪そうだが、騎士剣よりも太く、重厚な刃を振るえば鈍器代わりにはなるだろう。

 

「……」

 

 背中で交差させる形で無骨な双剣を装備する。血の匂いが染み込んだ武具を回収し、残る用件はあと一つ。誰も居ない病室から表に出て、なにやら騒がしい広場の方へと視線を投げる。

 

「見てくださいクルージェ様! 今度は一回で成功しました!」

「ほう、見事な火球じゃのう。偉いぞ、流石は我が見込んだ娘よ!」

 

 ひと気のない空き地の隅で嬉しそうに飛び跳ねる人影が二人分。両名共に燃えるような紅蓮の髪を風の中で泳がせ、彼女らの頭上で巨大な火の玉が炸裂している。傍目で、赤毛の姉妹のようなその二人をオルステッドは知っていた。一人は旅の仲間であり、街角を歩けば十人が十人とも振り返る絶世の美女。もう一人はオルステッドがカバキ砦の外で賊から保護し、彼が瀕死の仲間を助けてほしいと戦士長に訴えた時に、真っ先に同調してくれた少女だった。

 

「よし、ではそろそろ次の段階に移ろうぞ! まずは我が大熱風で――」

「お前はクライナを灰にする気か」

「ぬおぉっ!?」

 

 背後から突然話し掛けられたクルージェが素っ頓狂な悲鳴を上げる。その際、クルージェの拳で発動寸前だった紅い魔力が暴発してしまい、虚空から打ち上げられた火柱がクライナ上空に夕焼けをつくった。

 

「き、急に背後から話し掛けるでないわ! 手元が狂うではないか!」

「それはすまなかった。なにせ病室がもぬけの殻だったからな。仲間が消えて私も焦っていたのかもしれん」

「うっ……!」

 

 痛いところを突かれて言葉に詰まるクルージェ。なんとか平静を取り繕って上手い言い訳を考えていると、横で二人の会話を聞いていた少女がオルステッドとクルージェとの間に割って入る。

 

「違うのです! 私が無理を言ってお連れしてしまっただけで、クルージェ様に非はありません! 責めるなら私を責めてください!」

「こら! 勝手な事を申すでない! 弟子に罪を擦り付けるほど我は落ちぶれておらぬわ!」

「だ、だめです! 私が悪いのですっ!」

 

 必死になって頭を下げる少女を羽交い絞めにして後ろに置き、素直に謝ろうとしたクルージェの背に今度は少女が飛び掛かる。お互い一歩も譲らず、一進一退の攻防が急速に広がり激化していくそのさなか。ひとり蚊帳の外に放り出されてしまったオルステッドは、押され気味のクルージェに普段と変わらぬ調子で話し掛けた。

 

「怪我は治ったのだろう。ならばお前の行動を制限する理由はない。それより重要な話がある、付いて来てくれ」

「……ほぇ? なんじゃ改まって」

 

 広場から離れていくオルステッドの背中を、不思議そうに追いかけるクルージェ。集落の中心部から遠ざかるに連れて段々と人通りもまばらになり、すっかりとひと気が無くなった頃合いで、唐突にオルステッドの足が止まる。

 

「思えば、お前とは結構な付き合いになるな。フノーロでお前と使い魔契約してからの数ヶ月、退屈を感じる暇はなかった」

 

 そう言って振り向いたオルステッドの顔は、いつもと同じ無表情。当たり前となった日常で毎日クルージェが目にする、面白味が無くて、だけど見ていて飽きない、慣れ親しんだ大好きな顔だ。 

 

「そうじゃな。色んな事があったのう。地下迷宮で睡魔の娘らを侍らしていたあの頃が懐かしいものよ」

「クルージェ、お前は私を恨んでいるか?」

「は? そなたを恨む? 何故、我がそなたを恨まねばならぬのじゃ?」

「……」

 

 頭の上に疑問符を浮かべる仲間を黙って見詰め、一つ息を吸ってからオルステッドが理由を述べる。

 

「あの契約はお前の意思を無視した、半ば強制的なものだった。私と出会わなければ、お前は今もフノーロで悠々自適に暮らしていただろう」

「あぁー……そうであった。言われるまで忘れてたが、冷静に思い返せばアレはないじゃろうなぁ……」

 

 恭順か死かの理不尽極まりない二択を迫られた過去を思い出して、他人事のように笑うクルージェ。当事者としての立場からすれば笑えない話なのだが、本人は至って能天気だった。

 

「正直、出会って最初の頃はそなたを恨んでたぞ」

「……今は違うのか?」

「うむッ! 今は毎日が楽しくて仕方がないのじゃ!」

 

 力強く頷き、満開の笑顔でにんまりと笑い掛ける。そこには恨みや憎しみといった負の感情は微塵も無く、両手一杯に抱えた善意の光が眩しく輝いていた。

 

「目に見えるもの全てが新鮮で、毎日新しい発見があって。初めて訪れた地で出会った友と共に美味を堪能する喜びなど、地下に潜っていたままだったら生涯知ることはなかったと断言できるぞ! そもそも、そなたから教えられるまで友という概念が我にはなかったからのう」

 

 恥ずかしげに頬を赤らめ、はにかみながらそう語るクルージェをオルステッドは静かに眺めていた。無邪気な笑い声を零し、これまでの思い出を語る微笑ましい彼女の姿に改めて思う。嘗ては人間族を見下していたこの仲間も、随分と変わったものだ。旅の道中で出会った善良な人々との交流、そして何よりクルージェ本人が魔族らしくない柔軟な思想の持主だった事が、人間と魔族の歪な歯車を奇跡的に噛み合わせる要因となったのだろう。

 

 ……だからこそ、これ以上我儘に付き合わせる訳にはいかない。

 

「まぁ、なんというか、そう! 我は過去を振り向かない()()()女なのじゃ!」

「……そうか、お前は……そうか……」

 

 すべての人間が、旅の道中で出会った者達のような善性を持ち得ていれば良かった。だが、それは絶対に有り得ないのだとこの世界で目覚めて確信した。世界が終焉を迎えても、彼等は争い続けている。きっとそれが人間の本質なのだろう。だから、此処が潮時だ。茨の道に彼女を付き合わせる必要は無い。

 

「実はお前に見せたいものがある。今からこの剣の動きをよく見ていろ」

「む、なんじゃ? 演武でも披露してくれるのか?」

 

 黒衣を捲り、懐からなんの変哲もない一振りの細剣を手に取ったオルステッドが、クルージェの目の前で楽団の指揮者さながらに優雅に白刃を振るう。奇妙に揺れ動く細剣の切っ先をクルージェは興味深そうに眺め、そして膝を着いた。

 

「お前と交わした使い魔契約は性魔術を用いない簡易的な術だが、それでも素人の手で簡単に解除できるような安い代物ではない。だから私は、反則技を使わせてもらう」

「お……オルステッド……? なんの……つもり……」

 

 身体が鉛のように重くなり、白く霞んでいく視界でオルステッドを見上げるクルージェ。遥か昔に存在したとある王国の騎士ならば、それが“ムーンダウン”と呼ばれる剣技であると容易に看破していただろう。残念ながら彼の王国は既に滅び、その技術を唯一継承する男は、自らが仕えていた国を破滅へと導いた張本人だった。

 

「クルージェ、お前には私の正体を教えていなかったな。私は一度、過去の世界で死んでいる。故郷の人間達を皆殺しにした人類の敵――――私は“魔王”だ」

 

 ――――『キャンセラレイ』

 

 辺り一面が眩い光で白く覆われる。だがそれも一瞬の事。瞬きした次の瞬間に閃光は消え去り、何事も無かったかのように平和な集落の光景が戻っていた。

 

 ただ一つ、オルステッドとクルージェの間を結んでいた契約の糸だけを断ち切って。

 

「これでお前を縛り付けるものは無くなった。お前は己の思うがまま、望むがままに生きろ」

「……どう、して……こん……な……」

 

 訳が解らずとも、自分の中から大切な何かが欠けてしまった事をクルージェは直感していた。何処かへと去って行く男を引き留めようと、震える手を懸命に伸ばす。彼を行かせてはいけない。根拠は無いが、ここでオルステッドを止めなければ取り返しのつかない事になる、そんな気がした。

 

「最後だから言っておくが、お前との旅は私も楽しかった。危うく過去を忘れてしまいそうになるくらい、楽しい旅だった」

「おる……す……待っ……!」

 

 しかし、クルージェの意思とは反して、彼女の身体はその場から一歩も動けず。想い人の名を叫ぶ声が虚しく響き渡る。その日以降、クライナの集落でオルステッドの姿を目撃する者はいなかった。

 

 

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 ――マクルの街 バリハルト神殿

 

「君、見ない顔だがもしかして新人かい?」

「はっ! 栄光あるバリハルト神殿兵となって今日で一月を数えます!」

 

 神殿の地下、冷たい空気が漂う儀式場の跡地に勇ましい声が響く。支給されたばかりの鎧に身を包んだ若い兵士の敬礼を受け、何気なく問いを投げた男はその初々しさに思わず笑みを零す。

 

「そうなのか。ハハハ、通りでえらく若いと思ったよ」

 

 軽い調子で笑う男だったが、頬は痩せこけ、目の下には深いクマが浮かび、足取りもどこか覚束無い。疲れ切ったようにフラフラと地下室を歩き、床に倒れていた椅子を起こしてその上にどかりと座ると、兵士の目も気にせずに深く溜息を吐く。

 無事に勇者の誕生を見届けた今、昏い欲望の跡で汚れたこの牢獄に居座る意味は無い。しかし、男は自らが主導した儀式が終わっても地上に戻ろうとはしなかった。神官長として己の責務を果たした結果、得られたのは虚しさだけ。両手で顔を覆い、簡素な背もたれに身を預けて天を仰ぐ。罪悪感が、重く圧し掛かる。

 

「……どうだい、実際に兵士となってみての感想は? 覚えることも多いし、想像と違って落胆しただろう」

「そ、そのようなことはありませんっ!」

 

 恐縮して答える兵士の堅苦しい反応に、神官長は苦笑いを浮かべて顔を覆っていた手を離す。そして椅子に座ったまま横に顔をずらし、戸惑う若者に気さくに話し掛けた。

 

「役職は違うが年はそう変わらないんだ、もっと気楽にしてくれていいんだよ」

「は、はぁ……」

 

 椅子から身を起こした神官長が悪戯っぽく笑う。それは厳格な聖職者というより、近所にいる気の良い青年と表現するのが妥当だ。最初こそ緊張して肩を強張らせていた兵士も、親し気で接しやすい彼の雰囲気に絆され、気付けば槍を置いて神官長との他愛もない会話に参加していた。

 

「そうだ、君に恋人はいるのかい? 私は色恋沙汰とは無縁でね、他人の恋愛観に興味があるんだ」

「いえ、自分にそのような相手など……」

「それは本当かね?」

「……恋人ではありませんが、幼馴染の女性ならいます。家が近所だったので、自然と顔を合わせることが多くて。小さい頃は二人して村中を駆け回ったものです」

「ははは! 活発なお嬢さんだ。機会があれば会ってみたいな」

 

 微笑ましい昔話を聞いた神官長が冗談交じりに呟くと、兵士は呆れた顔で上司の見当違いな発言を訂正した。

 

「何言ってるんですか。神官長は昨夜、メリエルと会ったでしょう」

「えっ? そうだったかな。昨日は一日中、この地下室に籠っていたんだが……」

 

 首を傾げて昨日の出来事を順に辿っていくものの、それらしき人物は一向に出てこない。思い浮かぶといえば儀式の贄になった女達の嬌声か、司祭らの狂った笑い声か。あれは本当に、陰惨極まりない悪夢のような一夜だった。

 

「あ、そうか! すみません、神官長は面識がないので()()彼女か分からないですよね」

「……なんだって?」

 

 忌わしい記憶に顔を顰める上司を見て兵士は何を思ったのか、しまったと慌てて頭を下げる。その物言いに何か引っ掛かるものを感じて振り返った矢先、続けて兵士の口から語られた内容が、神官長の思考を止めた。

 

「――メリエルは、勇者殿に魔力を提供するという最高の栄誉を賜ったのですよ!」

 

 その時の兵士が浮かべていた笑みは、一片の曇りなき信仰心に満ち溢れていた。心から彼女を尊敬し、自分の発言が紛れもない本心であると、清々しいまでの笑顔がそう告げている。呆然と立ち尽くしていた神官長は椅子の倒れる音で我に返り、一歩後ろに身を退きつつ掠れた声を漏らす。

 

「き、君は何とも思わないのかい? 親しい女性が、生贄にされたのに……」

「何を仰いますか神官長!? 彼女は人間族を守護する勇者殿の礎となったのですよ? 素晴らしいことじゃありませんか! 幼馴染である自分も、勇者殿に身を捧げたメリエルをとても誇らしく思います!!」

 

 声を張り上げ、バリハルトの勇者にその身を捧げられることが如何に幸運であるのかを熱心に説明する兵士。直前まで長閑な故郷での思い出を語っていた若者の面影は何処にもなかった。鬼気迫る表情で神の尊さを語る姿は、まさしく昨夜の悪夢に登場した狂信者そのもの。若者が既に忠実な神の下僕となっていた事実を悟り、説得を試みようとする気持ちは一瞬で砕け散った。

 

「……もういい、君の言いたい事は十分に理解した。ただ、どうも昨日の疲れが残っているようでね。悪いが、暫く一人にしてくれ」

「はっ! 失礼いたします!」

 

 兵士を下がらせ、その場に一人残った神官長は倒れていた椅子の足を乱暴に掴むと、叫び声を上げながら椅子を持ち上げ、思い切り床に叩き付けた。

 

「神よ、お答えくださいッ! 嵐の神バリハルトよ、我が問いに応えよ!! 正義とは、一体なんなのですかッ!?」

 

 椅子の破片を握り締めた拳で壁を殴り、痛々しく腫れ上がった手で頭を掻き毟りながら絶叫する。天に向かって何度も何度も叫び続け、喉元から込み上げた血で純白の法衣が汚れても尚、神官長は神に教えを乞うた。だが、彼の魂の叫びに天は何も答えない。無為に時だけが流れ、絶望に膝を屈した神官長の嗚咽が闇に溶けていく。無駄だと知りながら、誰も答えてくれる者はいないのだと解っていながら、それでも哀れな男は現実を認められなかった。

 

「お教えください……! 貴方の仰る正義とは、我らを破滅に追いやる事なのですか……っ!」

「――この世に正義なんてものは端から存在しない」

 

 ふと、自分以外に誰もいなかった筈の地下室に、聞き覚えの無い男の声が響いたような気がした。疑問に顔を上げた神官長の背後で何かが落ちる。今度は確実に聞こえた。まるで水の入った革袋を床に落としたような、奇妙な物音だった。力無く背後を振り返り、そして目を見開く。其処には、兵士だった肉塊を床に落としてこちらを見据える赤い悪魔が立っていた。

 

「お前は高位の神官らしいな。セリカは何処だ? お前なら知っているだろう」

「ッ、何処から侵入した? ……いや、気にしたところで無意味でしようね」

 

 知ったところで、どうせ自分は殺される。全身を返り血で赤く染めている目の前の男と対峙して、一目でその力量を悟った。悪魔の正体を自分は知っている。あのダルノス・アッセを一蹴した男。邪神に与する大罪人。神殿に陥れられたセリカを助けに来た――――お人好しだ。

 

「……はっ、はははは! そうか、老人達はあなたを恐れていたのか。初めましてオルステッド殿。酷い匂いですが、此処に辿り着くまでにどれだけの人間を殺めたのです?」

「質問に答えろ」

 

 軽口を叩く神官長の首に、まだ血の乾いていない刃が添えられる。鍔に嵐神官の紋章が刻まれている事から、恐らくは道中で兵士達から奪ったのだろう。背中に差した双剣は鞘に納められたままで、疲れの色も全く見えない。恐るべき侵入者の実力に神官長は密かに驚嘆していた。

 

「敵にセリカ殿の居場所を漏らす訳には参りません。他を当たってみては――ぐぅあっ!?」

 

 鮮血が飛び散る。左耳があった箇所を手で抑える神官長の足元に、切断された肉片がポトリと落ちた。激痛に顔を歪める相手を冷たく見詰め、感情を圧し殺したオルステッドが再び問い掛ける。

 

「セリカは何処だ」

「ぐっ……野蛮な人だ。いいでしょう、好きにすればいい。私は抵抗しません」

「そうか」

 

 相槌を打つよりも早く、空いていたもう片方の手が神官長の額を捕らえ、頭から床へと叩き落とす。間髪入れずに振り下ろした刃が神官長の横顔を掠めて床に突き刺さると、オルステッドは柄から手を離し、血を流して床に倒れ伏す男を見下ろした。

 

「はぁ、はぁ……どうしました? 手を休めてたら、すぐに増援が、駆け付けますよ?」

「……」

 

 息も絶え絶えに余裕の表情を浮かべる男を無言で見下ろす。何か策があるのか、それとも自暴自棄になっているだけか。地上で斬った者達は一様に異教徒への憎しみを叫んでいたが、この男は理不尽な死を自ら望んで受け入れようとしている。どこか達観したその装いに、違和感を感じた。

 

「お前は他の神官共とは纏っている空気が違う。そうまでしてお前が神殿に尽くす理由はなんだ?」

「……あなたは、とてもお強いのですね。個人でそれだけの強さをお持ちであれば、誰からの施しを受ける事なくこの世界を生きていける。私は、あなたが羨ましいですよ」

 

 皮肉な笑みを返し、神官長は傷を負った身体を起こして恨みがましく吐き捨てる。しかし、それでも沈黙を貫き、一向に手を出してこないオルステッドに何か思うところがあったのか。乾いた笑い声を零してから疲れたように壁に凭れ掛かるなり、ポツリポツリと語り出した。

 

「私は名も無き開拓村の生まれでね。娯楽の類は無く、貧しくてちっぽけな村でしたが、今よりもずっと幸せでした……あの日までは」

 

 脳裏に暗い影が忍び寄る。燃え盛る故郷。逃げ惑う大人達。幼子の悲鳴を喰らう怪物の唸り声。闇夜を切り裂き、灼熱を振り撒いて現れたのは三つ首の竜。黒鉄の鱗に覆われた巨躯が地響きを立てて降り立ち、三頭の顎が炎の尾を伸ばして地上の人間達に襲い掛かる。逃げ遅れた老人が竜に呑み込まれ、枯れた四肢が千切れ飛ぶ。身重の女の背後に巨大な牙が迫り、咄嗟にお腹の我が子を庇おうとした女の首をもぎ取った。竜の暴虐に村の若者らが立ち向かうも、剣を振るえば刃は砕け、灼熱に続いて吐き出された猛毒の息が死体の山を積み重ねる。誰も、怪物を止める事ができなかった。空から舞い降りた悪夢、その正体は力に溺れ、力に支配された邪竜。セアール地方で過去に目撃例があるはぐれ魔神の一柱だった。

 

「一夜にして村は滅び、村人も全員奴に喰われました。井戸の中に隠れて難を逃れた、一人の少年を残してね」

 

 壁から身を離し、一呼吸置いて神官長の足がオルステッドの方を向く。耳が痛いほどの静寂が流れ、冷え切った両者の視線が音も無くぶつかり合う。

 

「お分かりですか? 人間族は神の慈悲に縋る事で、辛うじて種の存続が許されているのですよ。ご立派に()()なされている方々には、惨めにもがく我々の姿がさぞかし滑稽に映るでしょう」

「だから神に尽くすのか。護るべき人々を神に捧げてまで」

「……ッ、仕方がないんですッ!」

 

 誤魔化しようのない事実を無情に言い放ったオルステッドに、神官長が声を荒げる。

 

「気紛れで国を滅ぼす魔神、人間を食料程度にしか思わない亜人族、大陸に癒えぬ爪痕を残した古神! こんなにも強大な敵に囲まれてどうしろと言うんだッ!? 神から見放されたら、人間族は滅ぶしかないんだよ!!」

 

 取り繕った仮面を脱ぎ捨て、血反吐を吐きながら残酷な世界に対する怨みを叫ぶ。どうして、人はここまで苦しまねばならないのか。どうして、人はここまで悲しまねばならないのか。一体、誰がこんな地獄を創ったのだと、涙ながらに訴える神官長にオルステッドが口を開こうとしたその刹那。

 

「左様、我々は忠実なる神の僕。我らが主の為に、君もその命を捧げなさい」

 

 開け放たれた扉の奥で青白い稲光が走る。直後、幾本もの雷光を編み込んだ光の槍が、神官長とオルステッドを直線状に貫いた。

 

「……お、オレノ……様……っ!?」

 

 後ろを振り向いた神官長の眼が驚愕で染まる。入口の向こうで、数人の護衛に守られた老人がこちらに微笑みかけていた。何故、と疑問を口にしようとして、どす黒い血が溢れ出る。急速に全身から力が抜けていき、腹から大量の血と臓物の一部を零して神官長は倒れ伏した。

 

(この男、味方ごと撃ったのか……!)

 

 片手で横腹を押さえながら老人達を見据えるオルステッド。死角からの不意を突いた一撃に、僅かに反応が遅れてしまった。槍に抉られた箇所からは血煙が立ち上り、徐々に傷口は小さくなってはいるが、完治するまでに多少の時間を要するだろう。思考を巡らせつつ背中の得物に手を掛けると、老人――大司祭オレノ・ユムパナキが厳格な面持ちで血塗れの男を見下ろした。

 

「神官長、足止めご苦労様でした。君は与えられた使命を見事に果たしたのです。君の尊い犠牲を無駄にはしません」

「ふざけたことを言う。背後から味方に撃たれるのが聖職者の務めなのか?」

「すべては神のお導きです」

 

 平然と自らが起こした凶行を肯定するオレノに、問答は不要だと判断したオルステッドの双剣が飛来する。しかし、振り下ろした二振りの刃は老人に達する直前で不可視の壁に弾かれた。

 

「なにっ……!」

「無駄です。神官長が時間を稼いでくれている間に結界で出入り口を封鎖しました」

 

 術者の命を引き換えにして発動する防御結界を隔ててオレノが合図を送る。すると地下室の壁に無数の小穴が開き、穴の中から滝の様な勢いで油が噴き出した。 

 

「祈りなさい。さすれば願いは天に届き、邪神を崇めた貴方の罪を清き炎が浄化してくれることでしょう」

 

 灯りを灯していた燭台に油が引火し、あっという間に地下室が火の海となる。止めどなく流れ続ける油に火の勢いは爆発的に増していき、地上へと通じる唯一の階段から、オレノとその取り巻き達が悠然と去って行く。炎と黒煙の立ち込める密室に閉じ込められたオルステッドは、赤錆びた刃を激しく叩き付けて結界の破壊を試みたが、その度に恐ろしいほど強固な結界に弾かれてしまい、罅の一つすら入れられなかった。

 

「物理的干渉を全く受け付けないか。用心深い奴等だ」

「……お待ち……ください……」

 

 オルステッドの耳に、消え入りそうな掠れ声が届く。声に反応して振り返ると、死んだと思っていた血塗れの男が気付かぬうちに地下室の隅まで這いずり、白い円柱の前で蹲っていた。

 

「信じていたものに、裏切られる……セリカ殿は今の私と……同じ痛みを味わっていたのでしょうね……」

「後悔するのが遅かったな。懺悔を聞いてくれる神はお前を見限ったらしい」

「ふ、ふふ……それじゃあ、あなたが……私の願いを聞き届けてください」

 

 そう言いながら神官長の震える手が円柱に触れた途端、表面に小さな魔法陣が浮かび、地下室が大きく揺れ動く。振動と共に、重い物を引き摺るような鈍い音が神官長の背後で響き、息を呑んでその場に立ち尽くすオルステッドの目の前に隠し通路への道が出現した。

 

「この部屋は元々……魔物が攻め入った際の、住民らの地下壕として造られまして……このように、非常時の脱出経路を備えている訳です……」

 

 弱々しく笑い、円柱に身を預けるようにして神官長が横たわる。血の気の失せた白い顔は、どこか晴れやかだった。

 

「セリカ殿は……勅封の斜宮へと、向かわれました。……お急ぎください、今の彼を……サティア・セイルーンと接触させてはなりません」

「なんだと……?」

 

 疑問の声を漏らすオルステッドに神官長は何も言わず、懐から丸めた羊皮紙を取り出してオルステッドの足元に転がした。封が解かれて床に広がったそれは所々が欠けて赤く染まっていたが、勅封の斜宮への道筋を示した航海図だというのがすぐにわかった。

 

「討伐隊は今朝、ミニエの軍港に……まだ、間に合……。し、神殿はセリカ殿に、あまりに惨い呪いを……神剣を破か……では足りな……サティ……ルーンから遠ざけ……」

「待て、まだ死ぬなッ」

「……セリ……殿……許し……。……わた……弱か――」

 

 オルステッドに肩を揺さ振られる中、最後の最後で自身の良心に従った男は、一筋の涙を流して息を引き取った。 

 

「……」

 

 神官長の亡骸を床に置いて、オルステッドが立ち上がる。足元に転がっていた羊皮紙を拾い、無言で抜け道の奥へと歩を進める。炎に包まれた地下室には振り返らず、真っ暗な通路を淡々と歩き続け、そして地上へと這い上がった彼の目に映ったのは、晴れ渡った青空の下で漁船の群れが美しい海を悠々と泳いでいる光景。マクルの街の漁港だった。

 

(今からミニエに向かっても入れ違いになるやもしれん。いっそ、此処で適当な船を奪うか?)

 

「おぉーいッ! そこの兄ちゃん、もしかしてオルステッドってぇ名前じゃねえかあ!?」

 

 ぐるりと漁港を見渡して、オルステッドが移動手段を入手するための算段を立てていると、遠くから野太い大声を上げて巨漢の影が近付いてくる。視線を横にずらして人影を見てみれば、日に焼けた小麦色の肌を曝した髭面の大男がやけに嬉しそうに腕を振っていた。

 

「やっぱりそうだ! いやぁ、久しぶりだなぁ兄ちゃんよ!」

「……誰だ?」

「おいおい、なんだよ俺を忘れちまったのか? ほら、一緒に触手野郎を退治しただろう!」

 

 “触手”という単語を聞いて真っ先に思い浮かんだのは、レウィニア行きの船の上で襲い掛かってきたあの得体の知れないナニカ。そしてほぼ同時に、その時の船の船長だった大男の顔も思い出した。

 

「ああ、あの時の船長か」

「なんでぇ、冷めた反応してんなぁ。なぁ、美人の姉ちゃんは一緒じゃねぇのか? さては喧嘩したか!?」

「……」

 

 氷のような無表情を維持したまま、オルステッドの動きが止まる。不穏な空気を感じた船長が「あっ」と呟いた瞬間にオルステッドが背を向けて歩き出す。

 

「待て待て待て! 悪かった、俺が悪かったって! 機嫌直してくれよぉ、俺の新しい船にタダで乗せてやるから!」

 

 足早に立ち去ろうする男を慌てて引き留める船長だったが、歴然とした力の差に、掴んだ腕ごとずるずると引き摺られていく。しかし、船長が最後に漏らした言葉が結果的にオルステッドの足を止める事になった。

 

「……そういえば、王都で会った時に船を改修していたな。この街にいるという事は、完成したのか?」

「おうよ! 前よりもすげぇのが出来上がったんだぜ! こっちだ、アンタに見せてやるよ!」

 

 船長に案内された先で、オルステッドは周りに並ぶ船と明らかに異なる風貌を持った一隻の船を見せられた。

 

「これは……っ」

 

 木造の帆船ばかりの中で、その一隻だけは各所を分厚い鋼板で覆い、船体の両側に車輪の様なものが取り付けられていた。船体の上部には帆を広げる為の柱に混ざって鋼鉄製の黒い煙突が聳え立ち、火が入れられるその時を静かに待っていた。

 

「実は、俺の知り合いに物好きなドワーフの娘っ子がいてだな。あの嬢ちゃんの創意工夫ってやつをたっぷりと盛り込んでやったのよ。レウィニアで処女航海は済ませたがコイツは速いぜ? 前の船がただの雑魚プテテットだとしたら、コイツは財宝プテテットだな!」

 

 鋼鉄の船が齎した衝撃に言葉が出ないオルステッドの様子を見て、得意げに鼻を鳴らす船長。そうして暫く時間が経った後に、徐にオルステッドが頭を下げ、船長にある一つの頼み事を持ち掛ける。

 

「……なにぃッ、バリハルト神殿に喧嘩を売っただとぉ!?」

 

 船長のとんでもない大声に驚いた船員達が、作業の手を止めて一斉に振り向く。無数の視線を浴びたオルステッドは当然の反応だろうなと内心で自嘲し、前言を撤回しようと再び頭を下げるが、しかし事情を知った船長はオルステッドの予想と真逆の回答を既に打ち立てていた。

 

「すまなかった、この話は忘れ――」

「面白れぇッ!!」

 

 豪快に笑いながらオルステッドの背中を叩き、愉快でたまらないと言うように黒々とした髭がクシャリと曲がる。

 

「ダチを助ける為に神殿勢力と敵対するたぁ、アンタも漢だぜ! 気に入ったッ! 俺が責任を持ってアンタを運んでやる!」

「……失礼を承知で尋ねるが、まさか酔っていないか?」

「んなこたぁねえよ! まだ一本しか空けてねぇんだぜ!?」

 

 腰に提げていた酒瓶を指差して陽気に答え、戸惑うオルステッドが無理やり船内に通された直後、外で船長の怒鳴り声が響く。

 

「お前らいつまでサボってやがんだ! 今すぐ出航するぞ!!」

「せ、船長!? 積荷も無しに何処へ行こうってんですかい!」

「目指すはチョクフーノシャキュウだ! おら、さっさと乗り込めッ!」

「いい加減人の話を聞いてくださいよぉ!?」

 

 怒号を飛ばす船長に追い回された船員達の悲鳴を耳にして、途中で船が座礁しないかと新たな危機感を抱えながらも、やがてオルステッドを乗せた鋼鉄の船が動き出す。

 暗雲の立ち込める心とは裏腹に、晴天に恵まれた海原はとても穏やかだった。

 

 

 

 

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