堕ちた勇者は彼の地にて   作:胸焼け

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第23話 MEGALOMANIA

「船長ー! 陸が見えて来やしたぜ!」

「よぉし、浅瀬の手前で船を止めろ。おいお前、客人を呼んでこい!」

「へいっ!」

 

 穏やかな波風と燦々と照りつける太陽に見守られて、灰色の船が青い大地を闊歩する。ディジェネール地方とセアール地方を南北に分かつ大海原。その名も、ブレニア内海。現地民と近隣諸国に莫大な富を齎してくれるその海は、嘗ては広大な陸地であったという。

 遥か昔、相反する二つの世界の融合を引き金として起きた神々の戦い――三神戦争は、現神側の勝利という結末で幕を下ろした。敗者に待ち受けていたのは惨めな末路。領地を失い、神力を剥奪され、見目麗しい女神は否応なしに妾とされ、自由を奪われた。大勢が決した後も、一部の古神らが抵抗を続けてはいたが、もはや信仰を失った旧世界の神々に盤面を覆す力など残されておらず。無情な時の流れと共に、その殆どが現神の軍門に降り、或いは封印される事で歴史の表舞台から姿を消していった。

 

 ……しかし。新たな世の覇権を握った現神の横暴な振る舞いは、敗者の子孫たちにとって余りに許し難いものであった。行き過ぎた弾圧は彼等に深い遺恨を残し、現神への恨みを募らせ、争乱の火種となって世界に振り撒かれる。天上に立つ支配者は断じて“悪”を赦さず、地上に堕とされた奴隷は決して“正義”を認めない。絶対に相容れず、故に際限なく燃え広がる憎しみの業火。後の世で語られる、古神の末裔と現神による天地を揺るがす第二の戦乱、“七魔神戦争”はそうして起きた。

 神々の殺し合い。その壮絶さは前の大戦からやっと復興したばかりの世界に、甚大な被害を及ぼした。今でも決戦の舞台となった大地には、両陣営が激突した時の衝撃を物語る大きな爪痕が残されている。それこそが、現代においてブレニア内海と呼ばれている、この途方もない大穴の正体だった。

 

「さぁ、目的地に着いたぜ。宣言通り、神殿連中を追い越しての一番乗りだ」

 

 外部からの侵入を拒むかのように浅瀬を覆う岩礁地帯。その入口で鋼鉄船の動きが止まり、船体の横腹に括り付けられていた小舟が放たれる。漕ぎ手役を買って出た船長の力強い櫂捌きによって、程なくして手頃な砂浜に辿り着くと、ばしゃりと水飛沫を上げて小舟から黒衣の男が降り立った。

 

「ま、ちゃちゃっと用事を済ませてこいや。俺は此処で昼寝でもして待ってるぜ」

「……ああ。世話になった、船長」

 

 日に焼けた顔を綻ばせて陽気に笑う船長に見送られ、オルステッドは遠目に見える塔のような建造物の下へと急ぐ。人間が立ち入ることのない未開の地。進めば進む程に強くなる魔の匂い。常人であれば、周囲から漂ってくる濃密な殺気に怯え、訳も分からず逃げ出した先で魔物の餌食となるだろう。だが、彼は顔色一つ変えずに彼等の縄張りに入り込んだ。久し振りの獲物に、飢えた獣たちが歓喜の雄叫びを上げながら次々と飛び掛かり、そして血煙に変わっていく。行く手を阻む障害を無造作に切り伏せるオルステッドの表情は依然として冷たく、抜き身の刃のような鋭い眼光は、一足違いでこの地に辿り着いたであろうサティア・セイルーンの影を捉えていた。

 

(ただの旅人が、魔物の犇めくこの地を無事に渡れるとは思えん。……あの女は、何を隠している?)

 

 蛮神の街道では、サティアを狙うバリハルト神殿の刺客と対峙したが、あれは彼女の無実の訴えを鵜呑みにしたからではない。もし、恋人の窮地にセリカが駆け付けなかったら、ダルノスの蛮行を見逃していた未来もあり得ただろう。そうならなかったのは、あの場でセリカの曇りなき信念に触れたが故。たとえ、全てを投げ出してでも誰かを救いたい。そう願い、決死の行動に出た彼の勇気が、歩みを止めてしまった男の背中を押したのだ。だからこそ、オルステッドは此処に立っている。嘗ての己を彷彿とさせる若者を止める為に、二度と同じ悲劇を繰り返させない為に。

 

「……」

 

 無言で立ち止まり、オルステッドが顔を上げる。奥へと進んで行くにつれて晴れやかな青空は遠ざかり、既に頭上は暗雲の渦巻く重苦しい空に覆われていた。不穏な風が吹き荒ぶ曇天、その先に聳えるのは灰色の雲を貫く白い柱。天に迫らんとする雄姿は見る者を圧倒させ、悠久の年月を経ても一向に風化せず、それは古き時代の当時の姿そのままに、遥々遠い地よりやって来た旅人を出迎える。

 

 “勅封の斜宮”――古き神が地上に遺した、禁忌の地。険しい山地の奥深くに眠る力を求めて、これまで度重なる魔族の襲撃があったが、誰も神の封印を破る事はできなかった。だが、それも今や過去。主の帰還によって封印の扉は既に役目を終えていたのか、オルステッドが軽く手で押しただけであっさりと開いてしまった。扉の奥は神聖な空気で満ちていたようで、その時まで彼の背後で息を潜めていた魔物達も、それ以上追ってこようとはしなかった。

 

(全ての答えは……この上にある)

 

 魔も人も寄せ付けぬ神秘の力をその身で受け止め、一歩を踏み入れる。

 扉を潜った先の光景もまた、圧巻の一言だった。そこには歴史ある大聖堂の如き荘厳な空間が広がり、天井は霞んで見えない程に高く、無機質な石の壁を這って回る螺旋階段はまるで朽ちた廃屋を呑み込む植物の蔓だ。更には、只管に空へと伸びる古塔を支えるように巨大な円柱がずらりと並び、それら一つ一つが美しい装飾で彩られている。

 しかし、息を呑む絶景に見惚れていたのも束の間。再び足を動かそうとしたその瞬間、血が凍りつくような恐ろしい威圧感がオルステッドを襲った。  

 

「――まさか、本当にこの地まで辿り着くなんて。流石は我が主が一目置く人間、という事でしょうか」

  

 緊張の糸が張り詰めた空間を、透き通った声が吹き抜ける。澄んだ美しい音色は天から地へと流れ落ち、隅々に染み渡っていく。それに少し遅れて、窓らしきものが一切見当たらない大広間にはらはらと白い雪が――――雪の様に儚い、純白の羽根が舞った。

 

「……驚いたな。あの女が只者でない事は知っていたが、よもや“天使”を飼っているとは」

 

 無数に並ぶ円柱の一つ、側面から大きく突き出した装飾の上に腰掛ける人物を見上げて、無表情のまま感想を呟くオルステッド。視界に映るのは、頭上に光の輪を浮かばせ、その背に一対の翼を生やした金色の美女。豊満で魅力的な肢体を新緑の衣で包み、背中を覆う部分は翼を広げる為に剥き出しとなっている。衣の生地も薄く、肩から胸元、そして腰に至るまでの柔らかな曲線がはっきりと浮かんでいた。

 女の柔肌を隠すには心許ない薄着一枚だけという恰好は、男の劣情をこれ以上なくかき立てるだろう。しかし不思議な事に、あられもない姿をした彼女自身からは淫靡な匂いを全く感じない。むしろ、欲に溺れた者達に天罰を下すような清廉な気配を漂わせていた。

 

「驚愕を口にする割には、表情に余り変化が見られませんが? いえ、その様な些事は捨て置きましょう」

 

 礼節に欠けるオルステッドの発言に一瞬だけ天使は不快の色を示したが、特に言及する事はなかった。態々怒りを露にする必要も無い、相手は狭い地上を這うだけの矮小な生物に過ぎない。台座に腰を下ろしたまま、オルステッドを見下ろす天使の氷の眼差しが、そう告げていた。 

 

「わたくしの名はテシルヌ。我が主の呼び掛けに馳せ参じた、四守護が一人。短い付き合いとなるでしょうが、どうかお見知りおきを」

「自己紹介なら後で聞いてやる。お前が出迎え役なら、さっさと上まで案内しろ」

「いいえ、それには及びません」

 

 テシルヌと名乗った天使が冷たく微笑むのと同時に、オルステッドの足元で聖なる光の奔流が渦巻いた。咄嗟にその場から飛び退いた直後、目の前で渦巻く魔力の塊が弾け飛ぶ。眩い光が視界を覆い、白く煌めく魔力の残滓が肌を撫でる。

 

「今の不意打ちに反応しますか。その傲岸不遜な物言い、虚勢という訳ではないようですね」

 

 白光の幕が晴れれば、既に装飾の上から飛び上がっていたテシルヌが新雪の翼を羽ばたかせ、天上よりオルステッドを見据えていた。か細い彼女の身体は高密度の魔力が循環する事で青く輝き、周囲に白い冷気が流れる。急激に熱を奪いながら拡散していく魔力の影響で、彼方此方で空気が軋むような音が鳴った。

 

「わたくしの役目は、侵入者の排除。我が主との謁見を求めるのなら相応の力を示しなさい」

 

 四守護テシルヌは守護者唯一の天使であり、他の三名には扱えない神聖魔術の行使を得意としている。だが、彼女の本領は別にあった。特段珍しいものではない。答えは、他種族でも扱える者が多い冷却魔術。少しの素質と信仰心さえあれば容易に習得できる、世間一般に広く知られた術法だ。とは言っても、神の御使いに相応しい膨大な魔力量を誇る彼女ならば、たとえ初歩の魔術あろうと人間族の大魔術に比肩する破壊を生み出す事も不可能ではない。事実、テシルヌが明確に敵意を示してから一分と待たずに、古めかしい大広間は凍てつく銀世界へと様相を一変させた。

 

「……つまらん余興で時間を無駄にする気は無い」

 

 挑発的な天使の態度に、オルステッドは心底くだらなそうに吐き捨てながら視線を下げる。白翼を広げて空に浮かんでいるテシルヌの、丁度真下辺りか。女性一人分の小さな影が差すその場所に、魔法陣が刻まれた台座が見える。半球状に展開した結界で守られている為に近寄って調べるといった事はできないが、遠目からでも分かるその特徴的な形状には見覚えがあった。細かな部分は異なるものの、それはフノーロの地下迷宮で何度か利用した転送装置に酷似しているのだ。

  

「一つ聞きたい。アレは何処と繋がっている?」

「残念ですが、その質問にはお答え出来ません。答えを知りたいのなら、わたくしを倒し――」

「その必要はない」

 

 問答ですらない僅かな言葉の応酬。しかしそれだけで十分なのか、早々に会話を切り上げたオルステッドが台座に向かって歩き出す。

 目指すは遥か先の頂上。この魔法陣は、目的の場所と直結している。恐らく、勅封の斜宮の主は手下を嗾けて力量を確かめようとしたのだろう。そもそも、オルステッドを疎ましく思っているのであれば、態々門を開いて誘うような真似などする筈が無い。舞台を用意し、手下と戦わせ、手下に後れを取る程度の実力ならその場でお帰り願う。必要としているのは、天使を打倒し得る程の強者。

 果たして、オルステッドの予想は核心に近く、天上から彼の動向を観察していたテシルヌの冷たい瞳が僅かに揺れる。

 

「お待ちなさい。わたくしを無視して何をなさるおつもりですか?」

「黙っていろ。もうお前に用は無い」

「な……ッ!? 貴さっ……さ、先に忠告しておきますが、結界を破壊しようとしても無駄ですよ」

 

 思わず言葉を荒げそうになるも、辛うじて冷静な仮面を取り繕うテシルヌ。震える腕を抑えて地上を睨む彼女の忠告は嘘ではない。数歩歩いてから駆け出し、勢いに任せて振り下ろした双剣が結界に弾かれる事でそれを理解したオルステッドが立ち止まる。本気で放った一閃が全く通用しなかったところを見るに、バリハルト神殿の地下で大司祭らが使用した結界と同等以上の強度があるのは間違いない。 

 

「確かに、一筋縄ではいかないようだな」

「当然です。その結界はわたくしと我が主とを精神的に結ぶラインを分岐、接続する事で潤沢な魔力を常時供給しているのです。力技で破れるものですか!」

 

 背中の鞘に双剣を戻すオルステッドの姿を見下ろしながら、テシルヌが嘲笑を浮かべる。転移装置を覆う結界は、勅封の斜宮の主の魔力によって維持されている。正面から破壊するなど不可能だ。悪名高きあの魔神ハイシェラでさえ封印を破れなかったのに、地上に蔓延る有象無象が浅知恵を絞った程度でどうにかなるものか。形の良い薄桃色の唇を固く結びつつ、内心でオルステッドの愚行をほくそ笑むテシルヌだったが、直後に予想外の展開が彼女の目の前で起きる。

 

「そうか。ならば本当に無駄かどうか試してやる」

「愚かな事を、何度やっても同じ結果に終わるだけ……えっ?」

 

 一度で学習しない輩に哀れみの視線を送っていたテシルヌの目が、大きく見開かれる。

 あり得ない、そんな筈はないと現実を否定する言葉を漏らす彼女の眼下では、台座の上に乗った黒衣の男が装置を起動させている。

 そう、オルステッドは結界を破ってしまったのだ。結界の前に右手を翳し、眩い光を放つ。彼女が目撃したのはその二つの動作。たったそれだけで、魔神の暴威すら跳ね除けた絶対の守りが消えて無くなってしまうなど、己が仕える主の正体を知っている彼女からすれば悪夢でしかなかった。

 

「そんな……馬鹿な……!?」

 

 魔力の渦に包まれ、徐々に薄らいでいくオルステッドの後姿。呆然とした表情でそれを見送るテシルヌは実力を見定めるという自身の役目も忘れ、思考が止まって動けない状態でその場に取り残される。古の戦乱に身を投じた過去を持つ彼女ですら立ち竦む、それほどの偉業を事もなく引き起こした男が転送装置によって運ばれた先には、満天の星空が広がっていた。

 

「……」

 

 口を閉ざし、黙したまま一点を見詰めるオルステッドの外套が風に揺らめく。周りには壁も、天井も見当たらない。其処は勅封の斜宮の終着点。守護者たちの主の力が眠る古代の空中庭園。背後にはこの場と階下を繋ぐ白い階段が、足元を同じく白い床が、そして前方に無数の白い柱が左右に分かれて奥へ奥へと伸びている。空を埋め尽くしていた暗雲は消え失せ、どこまでも蒼く美しい夜空から零れ落ちた月明かりが、頂上にて対面した二人の男女の顔を照らす。女の浮かべる表情は悲しげで、それを真顔で男が見詰めていた。

 

「あの天使の主は、やはりお前だったか」

「……ええ、その通りよ」

 

 燃えるような紅い髪を靡かせ、鋭い視線から眼を逸らさずにオルステッドを見詰め返す女性――――サティア・セイルーン。セリカの決死の想いを託された彼女は、すべての決着を付ける為に、神の力が封じられたこの地に戻って来た。一見すると人間族の女となにも変わらない小柄な彼女の身体は、しかし先程の天使を優に上回る圧倒的な魔力が渦巻いており、向かい合うオルステッドにも不可視の重圧が襲う。

 ……だというのに、サティアを見詰める眼は全身に圧し掛かる苦痛に歪むこともなく、静まり返った湖面の様に落ち着いていた。

 

「サティア・セイルーン。その名も、偽りのものなのだろう」

「……そう、私の本当の名は……アストライア。古き世界において、地上の民から神と崇められた存在……それが私」

 

 悲しみに満ちた目で、彼女はゆっくりと口を開いた。

 

 女神アストライア。

 嘗て、繁栄を極めし人間族の世界“イアス=ステリナ”に君臨した数多の神々。現世では古神という忌み名を押し付けられた歴史の敗者達。彼等の、現神の策謀によって失われた信仰と伝承文化の中に、かの女神は何度も登場する。アストライアの意味は星の如く輝く者、又は星乙女。古代の文献には有翼の女性の姿で表されることもあった。語られる神話によってユースティティア、ディケーと名を変え、正義を司る神格として人々の営みを見守ってきた大女神。それが、サティアの真の姿だった。

 

「そうか」

「……。……それだけ、なの?」

 

 彼女の告白に対しオルステッドは一言だけの簡素な相槌を打つ。世の安寧を乱しかねない重大な秘密を聞かされたにしては、余りに希薄な反応。そんな事実など、どうでもいいとでも思っているのか。眉一つ動かさない男の薄情な態度に、驚いた表情を浮かべてサティアが詰め寄る。

 

「私は……私はっ、私を信じてくれた人達に真実を隠していた! そのせいでセリカは仲間からも、家族からも追われて……っ! 私が躊躇わずに、もっと早くに真実を打ち明けていれば、彼はこれまで通りの平和な日常を過ごせた筈なのに……私のせいで……!」

 

 胸から込み上げる自責の念。涙と共に流れ出る後悔の言葉はすべて本心だった。自分さえ居なければ、自分がセリカに秘密を告白していれば。人にまた裏切られるのが怖くて、最後の一歩を躊躇してしまった弱い心が、結果的に最悪の事態を招いてしまった。

 自らの過ちを今一度思い知り、サティアの紅い瞳から涙が零れ落ちる。が、己を責める悲痛な彼女の姿を目にしても、オルステッドの眼は変わらず冷え切っていた。サティアを見詰める彼の口から、慰めの言葉が出てくる事は無い。

 

「私が糾弾すれば、お前は満足するのか? 随分と情けない理由で招かれたものだな」

「っ……そんな、つもりは……」

「ならば口を閉じていろ。断罪を求めるのは勝手だが、相手を違えるな」

 

 背を向け、冷たく言い捨てるオルステッド。背後で嗚咽を漏らすサティアの声にならない声が聞こえたが、暫くすると弱々しい女の泣き声は収まり、覚悟を決めた者の凛とした気配が背中を叩く。場の空気が変わったその時、頃合いを見計らったようにオルステッドを運んだ転送装置が独りでに動き出し、光の中から天使が飛び出した。 

 

「アストライア様ッ! ご無事ですか!?」

「……テシルヌ? ああ、よかった……無事だったのね」

 

 駆け付けた部下の手を取り、抱擁を交わして無事を喜ぶサティア。実は、大広間でのオルステッドの行動はテシルヌの眼を介してサティアも見知っていた。しかし、途中で謎の光が視界を白く塗り潰したのを最後に契約が切れてしまった為、部下の安否までは分からなかったのだ。抱き締められたテシルヌの方といえば、困惑した顔で主を受け止めているその様子からして、まだ己の状態に気付いていないらしい。動揺しつつも、嬉しそうなサティアに何事か尋ねようとして――――突如、その場を激しい地響きが襲う。

 

「主よ、この揺れは恐らく……っ」

「ええ。……どうやら、邪悪な気配を纏った何者かが一階に侵入したようね」

 

 振動はすぐに収まったが、テシルヌは緊張を緩めずに隣に立った主に振り返る。無言で指示を仰がれたサティアも小さく頷く事でそれに応え、迅速に命令を下す。

 

「大広間の転送装置を停止。並びに、各所に配置済みのゴーレムを全機起動。守護者の皆にも迎撃に当たってもらいます。但しテシルヌ、貴女は私の傍を離れないで」

「はっ! ですが、その前にお聞かせください。この男の処遇は如何なされるおつもりでしょうか?」

 

 静かに黒衣を揺らめかせる男を、射殺すような鋭い目で睨み付けるテシルヌ。殺気を孕んだ視線に曝されたオルステッドは何処吹く風とばかりにテシルヌの追及を軽く受け流し、怒りに震える部下を宥めながらサティアが前に出る。

 

「先程は見苦しいところを見せてごめんなさい。恥を忍んでお願いがあります。私と一緒に、“彼”を止めてくれませんか」

「言われるまでもない。もとより、そのつもりだ」

「……ありがとう」

 

 部下の手前、侵入者が何者であるか直接触れはしなかったが、彼女はその正体に気付いている。

 これから為さんとする事は、非情極まりない選択。恨まれるのを承知の上で、それでも絶対に果たさねばならない。

 

「オルステッドさん、貴方は“ウツロノウツワ”についてどこまでご存知ですか?」

「バリハルト神殿が管理する呪われた神器とだけ聞いている」

「神器……そうね、神の力が宿っているという意味では間違いじゃない。アレは私たち神々の心臓であり、魂である神核が変質して生まれたものなの」

 

 変わり果てた神核の持主は、人間を愛する心優しい女神だった。

 三神戦争終結後、絶えず争い続ける人間達を憂いた女神は、世界から争いを無くそうとあらゆる手段を尽くした。時には怨敵である現神とも手を組み、平和な世界を創ろうと懸命に努力を重ねてきた。しかし、夢のような理想は実現することなく、残酷な現実の前に潰えてしまう。

 信頼を裏切られ、理不尽な暴力に傷付き、下劣な輩が彼女の身と心を何度も辱めた。地上の悪意を浴び続けた結果、女神の魂は澱んで黒く濁り、正気を失いながらそれでも平和を求めた女神は、世界に争いの種を蒔く“憎しみ”という感情を人間達から奪う強硬手段に打って出る。だが、憎悪を我が身に取り込むその行為は慈愛を司る神であった己の自己否定に繋がり、矛盾が生じて崩壊していく肉体から魂が切り離され、そうして世界に災いを齎す呪いの器が誕生してしまった。

 

「ウツワは憎しみを吸収する過程で、人間が無意識に抱える負の感情を表面化させている。バリハルト神殿の兵士が異民や亜人間族に過剰なまでに攻撃的だったのも、ウツワの邪念にあてられてしまったから……っ!」

 

 説明の途中で二度目の地響きが起こる。揺れで転びそうになったサティアを傍に控えていたテシルヌが咄嗟に受け止め、心配げな目で己が主の顔を見上げた。身体を支えられ、辛うじて転倒を免れたサティアは額に大粒の汗を浮かべながら部下に礼を言うと、背を向けたまま黙って話の続きを催促してくる男に結論を告げる。

 

「だから私は此処に戻って来たの。ウツワの呪いを焼き尽くす“聖なる裁きの炎”を私の内に宿す為に」

「だが、神の力が完全に馴染む前に追手が来てしまった」

 

 平坦な声で向こうの言葉を遮り、首を横に回して相手を見やる。苦痛から耐えるように表情を歪めているサティアを見詰め、自身に課せられた役割を理解した男は、視線を前に戻しながら続けて口を開く。

 

「私が時間を稼ぐ。お前達は隠れていろ。戦闘の邪魔だ」

「貴様ッ! 我が主に対してなんと無礼な口を!」

「やめなさいテシルヌ」

「ですがっ……いえ、申し訳ありません……」

 

 主を侮辱されて憤る部下を戒め、大人しく後ろに控えさせたサティアがオルステッドに頭を下げる。部外者である彼に、要らぬ危険を押し付けている自分が情けなかった。神殿の追撃が想定よりもずっと早かった、などと言い訳をする権利なんて無い。この事態を招いてしまったのは、すべて浅はかな己の行動が原因だ。

 

(責任は取らないといけない。決着が付いたら私も一緒にいくわ……ごめんなさい、セリカ……)

 

 呪いを浄化する為には、ウツロノウツワと融合させられた侵入者を滅ぼさねばならない。つまり、これからやって来るだろう彼を聖なる裁きの炎で焼き殺すのだ。己が愛した男を己の手で殺す。そうしなければ、世界は未曾有の惨禍に襲われる。

 これしか方法は無い、心の中で想い人への謝罪の言葉を繰り返すサティアは部下であるテシルヌに手を引かれ、祭壇の奥へと連れられる。だがその時、何かを思い出したような軽い調子で、離れていく二人の背中にオルステッドが声をかけた。

 

「随分と、その邪神の事情に詳しいのだな」

「ッ!」

 

 背後から投げられた問いにサティアがビクッと身体を震わせる。その場に立ち止まった彼女は、躊躇するような素振りを見せた後、振り向かずに小さく声を絞り出した。

 

「あの子は……女神アイドスは、私の……妹なの」

「……そうか」

 

 サティアの言葉にオルステッドは僅かに間を空け、ただ一言返事をした。それきり会話をする事もなく、部下と共にサティアは祭壇の裏に身を潜め、一人残された男も彼女達とは真逆の方向に歩を進めていく。

  

「愚かな連中だ。もっと賢く生きる道もあっただろうに」

 

 誰にも聞こえない微かな声が、夜闇に溶ける。階下へと繋がっている長い石階段の手前で足を止め、改めてオルステッドは周りの景色を見渡した。

 

(思えば、これで二度目になるのか。山頂にて勇者を待ち構えるこの構図……懐かしいものだ)

 

 蒼い夜空を彩る無数の星々。冷たい夜風に流され、絶えずその形を変化させる雲海。人の手で絶対に創りさせない、自然が生み出した極上の美が目の前に広がっている。諸人の心に感動と潤いを与える奇跡の一枚絵を独占した男は、その幻想的な光景に別の何かを見ていた。

 

「……きたか」

 

 足元が揺れる。これまでのものよりも大きく感じられる、三度目の地響き。確実に近付いてきている事実を嫌でも思い知らされながら、しかし舞台の主役は揺るがない。焦りもせず、勇む事もなく、常日頃と変わらない落ち着いた様子で階段を見下ろし……やがて、人影が現れる。

  

「……」

 

 静寂が支配していた空間に階段を上る足音が響く。侵入者の男は沈黙を貫き、光を失った昏い眼で頂上の人物を見上げ、機械的に足を動かす。微かにしか聞こえなった足音が段々と大きくなっていく。そうして、お互いの声がはっきり届く距離まで侵入者が近付いた頃になって、漸くオルステッドが行動を起こす。

 

「久しぶりだな」

「……」

「どうした。私が此処に居ることがそんなに不思議か、セリカ?」

「……」

 

 反応は無い。意志を奪われた人形は、課せられた使命を果たす為だけに動く。変わり果てた青年の姿を目の当たりにしながら、それでも普段と変わらぬ調子で語り掛けるオルステッドに返ってきたのは、黄金に輝く神剣から繰り出された殺意の刃。

 

「そう慌てるな、私は逃げも隠れもしない」

「……っ」

 

 火花が飛び、剣を弾かれたセリカの身体が宙を舞う。すかさず空中で態勢を直し、地に足が着くと同時に再び斬り掛かるも、暴風の如き刃は敵が身に着ける黒衣を掠めるのみで、一向に傷を与えられない。休みなく繰り出される猛攻を躱し続けるオルステッドは、腹部を狙った刺突を横に受け流すと、逆にがら空きとなったセリカの腹を蹴り抜き、ずらりと並ぶ柱の一本に叩き付けた。

 

「お前達の相手はちゃんとしてやる。だから今は其処で見ていろ、殉教者共」

 

 双剣の左手側を後ろに放り投げ、この場に居ない何者かへと言い捨てる。直後、地面に倒れ込んだセリカの身体が跳ね上がり、全身を風の魔力が覆ったと思いきや、次の瞬間にはオルステッドの背後で追撃の構えを取っていた。

 

「速いな。目で追うのがやっとだ」

 

 振り向きざまに死角からの一撃を片刃で受け止め、空いている左腕がセリカの首を掴む。そのまま床に押さえ付けようとしたが、強引に手を振り解かれ、牽制の電撃魔術で動きを止められる。

 

「っ、視野が狭くなったなセリカ」

「……ッ」

 

 電撃を浴びて身動きが鈍ったオルステッドに、セリカが躍り掛かる。しかし、いざその首を刈り取ろうかと剣を振り上げたその間際、力んでいた右足がいつの間にか足元にあった双剣の片振りを踏み付けて滑り、態勢が崩れた状態で放たれた一閃が空を斬る。敵に絶好の機会を与えてしまったセリカはそのまま後ろ首を掴まれ、有無を言わさず床へ押さえ付けられた。

 

「確かに、膂力も魔力も以前と段違いだ。獣同士を争わせるつもりなら及第点だろう」

 

 すぐ傍で転がっていた双剣の片刃を回収しながら、身体の下で暴れるセリカを拘束する。完全に逃げられなくしたところで、急にオルステッドは顔を上げ、祭壇の奥に向かって怒鳴り声を上げた。

 

「サティア、まだ待てッ!!」 

「えっ!?」

 

 祭壇の影から顔を出していたサティアが驚いた声を上げるのを耳にしつつ、セリカを拘束していた右手で彼の得物を掴む。見る者の心を奪う妖しい輝きと邪気を放つ神剣を見下ろし、オルステッドは確信する。これこそが、諸悪の根源と云われるウツロノウツワの本体に違いないと。

 

「神殿側も時間的な余裕は無かったらしい。これだけ拙い施術であれば、試す価値はある」

 

 本人にかけられた洗脳を解き、その上で彼とウツワの繋がりを断つ。口で言うだけなら簡単だが、実際に事を成すとしたら容易ではないだろう。サティアの説明から察するに、セリカの魂にはウツワの一部が寄生しているとみて間違いない。無傷で切り離す事が不可能なのは、“浄化”という手段を取らざるを得なかったサティアの苦渋の決断を見れば分かる。分かっていながら、実行する。

 命を奪わず、呪いからセリカを解放する……神でも諦めるような、まさしく人々の思い描く奇跡というものを、血に塗れた腕だけが掴み取れる。忌むべきその力で悲劇を止められるなら、オルステッドに躊躇う理由は無い。

 

「……ぁ……っ」

 

 剣を掴む腕に力を込めるオルステッドの下で、掠れた声が漏れる。土壇場で見出した活路に目を奪われていたのか、彼はこの時、セリカの異変に気付かなかった。暴れるの止めて大人しくなったセリカは、一点を見据えていた。自身を押さえ込む男の背を通り越し、祭壇の奥へと視線が流れていき、濁った瞳が美しい紅髪を映し出す。天使に守られた紅髪の女が、悲しげにこちらを見詰めているようだった。

 

「ぁ……す……いぁ……?」

 

 とても懐かしく、とても愛おしい。あの頃と変わらぬ不変の意志。高潔な正義感に燃える紅蓮の乙女が、誰かを哀れんでいる。何故そんな目をしている。その目は誰に向けている。いや、聞かなくとも答えは決まっている。今も変わらずに美しい彼女は、醜く変わり果てた()()()を、哀れみの眼で見下ろしているのだ……ッ!

 

「あぁあ……ぁあアアッ……!」

「なんだ? 様子が――――っ!?」

 

 爆発的に膨れ上がる魔力。無尽蔵に湧き出す負の感情。漸く異変を察したオルステッドの身体を吹き飛ばし、ゆっくりとセリカが立ち上がる。自由を手に入れた身体は、新たに主導権を握った宿主の愛憎入り混じった歓喜に打ち震え、そうしてセリカを基点に世界を呪う狂気の坩堝が開かれた。

 

「――ぁあああぁアァあぁ嗚呼あぁぁァァアアアッッ!!」

 

 大気を震わせる咆哮を上げ、全身から溢れ出したどす黒い魔力が勅封の斜宮を覆っていく。蒼い星空は生命を貪る猛毒の瘴気に塗り潰され、頂上から一望できた雲海は紫電の迸る死の海となった。もはや煩わしい神々の天の眼は届かない。誰にも邪魔されない。狂ったように笑いながら、地の底に堕ちた復讐者が絶叫する。

 

「殺ス……コロしてヤるぞッ! アぁぁあストライアァッ!!」

 

 

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 堕ちた勇者は彼の地にて

   

 ――――第23話『MEGALOMANIA』

 

 

 

 

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「主よ、お下がりくださいっ!」

 

 満足に動く事の出来ないサティアを背中に隠して、片手に氷剣を創造したテシルヌが立ち向かう。対し、セリカの身体を奪った邪神アイドスはその場で身を屈め、獣の様に手足を床に着けた姿勢で大きく息を吐く。

 

「あぁ、この日をどんなに待ち望んだか……! 楽に死ねるとォ思うなァア!!」

 

 床が爆ぜ、飛礫が舞う。迎撃用の氷柱群を展開する暇も与えず、一瞬で距離を詰めたアイドスが黄金の刃を天使に振り下ろす。邪神の怨念が込められた一撃にテシルヌの構えた氷剣は砕け、身を守る術を失った彼女は咄嗟に自らの羽根に氷を纏わせる。

 

「わたくしが盾となります! その隙にどうかお逃げを!」

「羽虫がッ邪魔をするなァ!!」

「ぐっ……! 主よ……ど、どうかお逃げを……く、ああぁっ!?」

 

 氷塊と化した白翼の鉄壁も、黄金色に輝く邪神の狂気を防ぐには至らない。初撃の振り下ろしで大きく罅割れ、返しの刃で簡単に打ち砕かれると、呆気に取られるテシルヌを雪煙の向こう側から黒い雷撃が襲う。避けることも出来ずに直撃を受け、翼を失った状態で頂上から投げ出された天使は、そのままあっけなく地上へと落ちていった。

 

「テシルヌっ!」

「さぁ、これで二人きりだ。もう逃げ場はないぞ?」

 

 悲痛な叫びを漏らすサティアを下卑た笑みで眺め、じわりじわりとアイドスが追い詰めていく。愛しい怨敵を目の前にして、彼女は心底楽しそうに口を歪めた。やっと逢えたのだ、簡単に殺してなるものか。心の奥底から湧いてくる耐え難い憎悪の濁流を呑み込み、自身の一部である神剣スティルヴァーレを構えながらにじり寄る間、獲物は俯いたまま動かずにいた。

 

(……ごめんなさい、セリカ。ごめんなさい……アイドス。私は、いつも逃げてばかりだった)

 

 後悔など、数えきれない。残酷な現実から目を背け、己の責務から逃げ、妹を止めることもできなかった。もう、終わりにしなければならない。此処でまた逃げてしまったら、世界に更なる悲劇を招いてしまうだろう。それだけは、絶対に駄目だ。共に生きていこうと誓い合った想い人の世界を守る為、己が愛する人々の未来を守る為に……アイドスを、セリカを止める。

 

「ふん、どうした? 無様に逃げてみろよ。私を置いて天に逃げ帰った、あの時のようにな!」

「いいえ、逃げません。もう逃げないと、決めたのです」

「なんだと……?」

 

 怪訝な表情で聞き返したアイドスの前で、決意と共にサティアの身体から圧倒的な神気が放出される。神々しい光の帯が足元に這い寄っていた邪気を祓い、虚空に伸ばした彼女の手の先に白く輝く十字が浮かぶ。聖なる裁きの炎を操る女神アストライアの唯一にして絶対なる神器、天秤の十字架(リブラクルース)。これまで一度として己の為に振るった事のない力の象徴を握り締め、正義の大女神が邪神に立ち向かった。

 

「我が名は、古の女神アストライア! 闇に堕ちた神と、支配された人の子よ。これより重ねた罪を、我が天秤により裁きましょう」

「はっ、ハハハハ! いつも自分の手を汚さずにいた偽善者に、私を斬れるものかッ!」

 

 セリカの顔で嘲笑を浮かべ、邪気と神気の入り混じったアイドスの一撃が神殿の床を砕く。神剣から放たれた紫電の大蛇は周囲の柱を破砕しながら標的へと迫り、十字架を模したサティアの神器に喰らい付いた。 

 

(腕が、重いっ! これ程の威力を引き出すのに、アナタは一体どれだけの怨念を……!)

 

 尋常でない殺意を浴びたサティアの表情が苦痛に歪む。苛烈な一太刀を辛うじて防いだのも束の間、消えゆく大蛇の影から神剣を構えたアイドスが飛び出し、怨敵の命を奪わんとその凶刃を振るう。あらゆる角度で、人体の急所を的確に狙った連撃を必死に受け止めるしかないサティアは、誰の目から見ても明らかに消耗していた。

 もし、彼女にもう少しだけ神の力を馴染ませる時間があれば、ここまで一方的な展開にはならなかっただろう。膨大な神力を未だ御しきれていない今の彼女に、外法の神格者と戦える余力は無い。だが、この場で公平を訴える者は居らず、守勢に徹しつつもじわじわと頂上の隅に追い詰められていく。

 

「このままでは……きゃあ!?」

 

 絶望的な状況下にあってサティアは最後まで諦めずに抗っていたが、極度の疲労から生まれた隙をアイドスに突かれ、剣を弾かれてしまう。唯一の武器を失ってしまったサティアにそれ以上抵抗をする術は無く、完全に勝敗が決したかに見えたその時、彼女らの間を真空の刃が駆け抜ける。目の前を過った暴風に思わず腕で顔を庇ったサティアが薄く目を開けば、アイドスと対峙するオルステッドの背中が見えた。

 

「っ、駄目! 逃げてください! いくら貴方でもあの状態の彼を止めるなんて!」

「ならばどうする。お前一人で奴を止められるのか?」

「それは……」

「貴様、大人しくしていれば見逃してやったものをッ! そんなに死に急ぐか!!」

 

 復讐に水を差されたことに激昂したアイドスが叫び、邪魔者を排除しようと床を蹴る。身を焦がす激情に突き動かされるまま、憤怒の炎で熱せられた神剣が真紅の弧を描く。掠めただけで魂を奪われそうな狂乱の刃が眼前に迫る中、オルステッドは少しも狼狽する素振りを見せず、足元に落ちていたあるモノを爪先で蹴り上げた。

 

「少しばかり()()()を借りる。お前は下がっていろ」

「あっ……!?」

 

 くるりと円を描いてオルステッドの手元に収まった光刃、天秤の十字架(リブラクルース)が目前に迫った神剣を受け止める。互いの神器が触れた瞬間、網膜を焼き焦がす鋭い閃光がその場に広がり、両者を囲むようにして床に円形の亀裂が走った。

 

「得物の差は埋まった。ここからは本気でいくぞ」

「黙れェ!!」

 

 己の守りを度外視したアイドスの猛進を的確にいなしていくオルステッド。古の神の力を宿した二振りの神器がぶつかる度に大気は震え、溢れかえった魔力は紫電と白炎に変わり、剣戟を交わす二人の身体を蝕んでいく。しかし、対峙する片方だけは自らが負った傷を癒やす手段を持っていた。オルステッドの身の内から絶えず噴き出す“赤い靄”。肌身を舐めるように蠢くこの不気味な霧が瞬時に傷跡を塞ぐ異様な光景を目の当たりにして、いよいよアイドスから余裕の色が無くなった。

 

「治癒能力だとっ!? 貴様ァ……さては、どこぞの現神が寄越した刺客かッ!」

 

 人の身で神の強大な力を行使するが故に、否が応でも宿主の肉体に多大な負担をかけてしまう彼女にとっては、決着が長引けばそれだけ己が不利になる。同じく、本来の担い手でないにも関わらず天秤の十字架(リブラクルース)を操るオルステッドも、力の代償として神器の炎に身を焼かれていたが、まるで苦痛を感じていないかのように涼しい顔でそれを受け止めている。

 

「女神アイドス。お前では、私は殺せん」

「黙れッ!! アストライアの狗がワタシを見下すなァ!!」

 

 ――――奥義『沙耶身妖舞』、『沙耶紅燐剣』

 

 暴風の如きアイドスの剣技が更に加速する。緩急自在に切り換わる変則的な足さばき。無数の残像を生み出す剣の舞。力任せと思わせておきながら、時には敢えて隙を見せることで敵の油断を誘う。その姿はまさしく、卓越した技量を有する歴戦の戦士そのものだった。

 

「これは……セリカの飛燕剣かッ」

「ハハハ! 先程までとは勝手が違うぞ! 今度はお前が追い詰められる番だッ!」

 

 傾きかけていた天秤が今一度揺れ動く。圧倒的な暴力に洗練された技術が加わることで、それまで劣勢だったアイドスが逆に圧し始めた。常のセリカなら兎も角、邪神に操られた今の彼は純粋な膂力でオルステッドを上回り、技量という点でも決して手加減できる相手ではない。

 カバキ砦の時のように問答無用で殺しにかかるのではなく、あくまで生け捕りを最優先としていたが為に、本来の実力を十全に出せないオルステッドは苦戦を強いられた。

 

(不味いな……このままではセリカの身体がもたん)

 

 壮絶な斬り合いの渦中で、全身の至るところから血を噴き出しながらも、まるで意に介さずに殺意を振り撒くアイドスの姿に焦りが募っていく。一刻も早くこの復讐鬼を止めなければ、寄り代にさせられたセリカの命が危うい。

 そんな焦燥感が、オルステッドの剣を鈍らせた。冴え渡っていた剣技は精彩を欠き、激しい憎悪の荒波を尽く受け流していた清流の構えに乱れが生じる。そして、遂に決定的な隙を晒してしまう。

 

「貰ったぞ!!」

「しま……――――っ!」

 

 禍々しい神剣を弾き飛ばすべく放った刺突が、いざその金色の刃に触れた途端、あらぬ方向に折れ曲がる。一直線に突き進む光線を鏡で反射させるかのような、一切の文句も言えない完璧な受け流し。跳ね返ってきた衝撃で背後へと大きく身を仰け反らしたまま、迫りくる死神の鎌を双眸に映しながらも、敗北を悟った男の心は不思議と穏やかだった。

 

「そうか……人の成長とは……思っている以上に、早いものだな……」

 

 古に栄えた、とある王国に伝わる剣技が一つ。大切な人を護ろうと奮起していたセリカに、明け方のマクルの街で一度だけ見せたその技を……完成していた『ミラードライブ』を目にしたオルステッドは、僅かに口元を緩めた。からんと音を立てて床に転がった神器の上に、ぽたぽたと赤い雫が落ちる。血に染まった胸元には、アイドスの神剣が深々と突き刺さっていた。

 

「ふん、愚か者め。くだらぬ正義感で身を滅ぼすとは、哀れな奴だ」

 

 だらりと首を下げて動かなくなった敵に、侮蔑の言葉を吐き捨てるアイドス。如何に驚異的な治癒能力を持ていようと、流石に心臓を抉られれば無事では済まなかったか。むしろ、これで平気な顔をされたらいよいよ化物の仲間入りだろう。

 そう考えながら冷めた笑いを零し、物言わぬ肉塊から神剣を引き抜こうと柄を握り締める。

 ……が、どうしてなのかいくら力を込めても一向に刃先が動かない。

 

「ちっ、死んでも邪魔をするか。目障りな――ッ!?」

 

 更に力もうと両手で柄を掴んだアイドスの身体がびくりと震える。嘲笑を浮かべていた顔は驚愕で固まり、剣を掴んでいる両腕はがくがくと痙攣している。それはとても普通には思えない、異様な光景だった。

  

(なんだ……何かが私を取り込もうと……っ、馬鹿な!? この、感覚は……ッ!)

 

 精神を引き摺りこまれるような錯覚を感じた矢先に視界が暗転し、急激に景色が切り替わっていく。目まぐるしく変化する情景。膨大な情報量が一気に頭に流し込まれる不快感。極度の混乱に陥り、まともに思考も出来ない中で、アイドスはこの異常を引き起こしている原因を直感した。

 正体不明の引力の、その根源。即ち、神剣を通じてオルステッドから“失われた己の肉体”の気配を感じたのだ。

 

 

『信じてくれる者が一人でもいる限り……その人間を……信じるのだ……!』

 

『ハッシュやワシらが命をかけて守ったものを……守り続けるのじゃ……』

 

『俺があの夜どんなに苦しんだか……てめえにッ! てめえなんかにッ!! わかられてたまるかよッ!!』

 

『あなたには……この人の……負ける者の悲しみなどわからないのよッ!!』

 

 

(こ、れは……この男の記憶……なのか……?)

 

 それは、歴史の闇に埋もれた史実に残らぬ物語。嘗て、確かに存在した古き世界での軌跡。

 一人の男が辿った、栄光の頂点から悲劇の底へと転がり落ちるまでを忠実に描いた御伽噺だった。

 

『覚えておくがいい……誰しもが魔王になりえる事を……“憎しみ”がある限り……いつの世も……』

 

「……なんだこれは……なんなのだこれはっ……! こんな事が許されるのか……こんな、あまりに惨いことが……ッ!?」

 

 結末を見届けた時、己が操っている宿主の目に何故か涙が溢れていた。

 その事実に気が付いたアイドスは初めは訳が分からないといった様子だったが、少しだけ考えた後に、その理由を過去の自分自身から思い出す。

 

「ああ、そうか……この感情……ずっと忘れていた。ワタシは今、この男の事を……」

「――やっと、隙を見せたな」

 

 そう言って、突如として動き出したのは串刺しにされて既に死んだ筈の男。尤も、彼からすれば最初から向こうが油断する一瞬の隙を伺っていただけであり、アイドスの両手ごと神剣を押さえ込んだオルステッドの背中には、真紅の翼の様な形状に変化した赤い靄が音も無く蠢いていた。 

 

「フ、フフ……。……もう、いい」

「……なに?」

 

 不意打ちを受けたのにも関わらず、アイドスは自嘲しながら目を伏せるのみ。それまでの荒れ狂っていた憎悪は鳴りを潜め、すっかりと狂気の色が抜け落ちてしまった復讐鬼の唐突すぎる変貌ぶりに、オルステッドは怪訝な声を漏らして相手を見詰める。

 

「オマエは、私と()()だ。惨めで、哀れで、滑稽な……救いようのない愚者だ」

「……」

「ハハハ……オマエの言う通りだったよ。憎しみ(ワタシ)では、憎しみ(オマエ)を殺せない。どうして、世界とはこうも残酷なのだろうな……もう、ワタシは疲れた」

「……女神アイドス、お前は……」

 

 小さく笑い、諦めたように床に膝を落とすアイドスの弱り切った姿を見下ろして、オルステッドの脳裏に過去の情景が過ぎる。

 

『お前たちの勝ちだ……。さ……とどめをさせよ……』

 

「……気が変わった。アイドス、お前にはまだ生きてもらう」

 

 ――――『キャンセラレイ』

 

 眩い光が世界を白く塗り潰していく。痛みは感じず、むしろ苦痛とは真逆の柔らかな温もりがアイドスを包み込み、すべてに絶望していた彼女の表情が僅かに綻ぶ。光が消えると、よろよろと後退ってからセリカの身体が床に崩れ落ちた。

  

「これで……終わったか……」

 

 意識は無いものの、静かに呼吸しているセリカの様子を眺めて、安堵の息を漏らすオルステッド。背中に浮かんでいた翼の様なものは、既に霧散していた。

 

「オルステッドさん!」

 

 ゆっくりと倒れかけた身体が、後ろから何者かに受け止められる。背後を振り返れば、両手が血で真っ赤に濡れるのも気にせずにこちらの肩を支えるサティアが居た。

 

「しっかりしてください! すぐに治療を!」

「不要だ。私に構う暇があるなら、ヤツを診てやれ」

 

 そう言って彼女の手を振り払い、向こう側で倒れているセリカの下へと強引に追いやる。その際、先程の自身が見せた“力”については何も聞くなと告げ、狼狽えていたサティアはオルステッドの言葉に神妙な面持ちで頷き、邪神の呪縛から解放された恋人の傍に急いで駆け寄った。

 

(世界は残酷、か……神も、人も……大して変わらんな)

 

 平和を求めていた筈が、いつしか目的を見失い、平和を乱す邪悪そのものとなってしまった古き世界の女神。激しい怒りと深い嘆きの果てに、彼女は何を思ったのだろうか。決着の刹那にアイドスが浮かべた自嘲の笑み。それはバリハルト神殿の地下で死に別れた、あの若き神官長の最期を思い起こさせるものだった。

 

 ――それじゃあ、あなたが……私の願いを聞き届けてください。

 

(この結果なら、お前も満足だろう。安らかに眠れ……)

 

 これで、全てが終わった。

 セリカの洗脳は解かれ、サティアも無事だ。なにも心配する事はない、最善の結果を得られたのだ。

 

「……」

 

 だと言うのに……依然として胸中には、寒気にも似た酷い焦燥感が渦巻いていた。

 

 本当に、これで終わったのか。何か重大な見落としをしているのではないか。説明の出来ない疑念が、心の隅に芽生えた不安を助長させる。オレノ大司祭の奸計に陥り、火の海の中に閉じ込められたあの時。己に脱出の手引きをした神官長が、死に際に呟いた遺言は――――

 

 ――神殿はセリカ殿に、あまりに惨い呪いを……

 

 ――神剣を破壊するだけでは足りない……

 

 ――彼を、サティア・セイルーンと接触させてはならない……

 

 

(神剣……それがアイドスを指しているなら……まさかッ!)

 

 “バリハルト神殿は、神剣(アイドス)との繋がり以外に、別の罠を隠している”

 

 根拠に乏しいが、絶対に無いとも言い切れない。最悪の可能性を思い至ったオルステッドがハッとした様に床に下ろしていた視線を持ち上げると、セリカの傍に駆け寄ったサティアが彼に手を伸ばそうとしていた。

 

「待、て……! 手を……触れるな……セリカから、離――」

 

 喉元から込み上げる血を吐きながら叫ぶオルステッドの目の前で、サティアの細い指がセリカの頬に触れる。その瞬間、瘴気に侵された暗闇の夜空が歪み、勅封の斜宮の上空に膨大な魔力が生じた。

 

 闇を切り裂き、雷光の柱が罪人たちの根城を刺し穿つ。それは大いなる神の怒り。正義の名の下に、敬虔な信徒らが差し出した尊き命を束ね、悪を断罪する刃として昇華させた禁忌の大儀式。

 一度の行使に多大な犠牲を強いる生贄魔術の極光から逃れる術は無く、防ぐ手立ては無い。重傷を負っていたオルステッドは空を見上げ、雷撃の着弾と同時に意識を失った……

 




次回から新章です。
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