堕ちた勇者は彼の地にて   作:胸焼け

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第4章 戦嵐を呼ぶ者
第24話 女神


「……ぃ……だ起き……?」 

「は……っぽど……傷が深……」

 

 暗雲が漂うブレニア内海。ディジェネール地方のとある海岸から見える沖に浮かぶ、一隻の船。不穏な風に揺られる船内の、点々と血の跡が続く通路を進んだ先にある一室。真新しい木製の扉に“救護室”の三文字を掲げたその部屋に今、この船の船長と他数名の船員達が詰めかけていた。

 

「――ぅ……ぐ……っ」

「っ!? お頭、目が覚めたようですぜ!」

「言われんでも見りゃ分かる。もういいからお前らは出てけ! こんな大所帯じゃあ、落ち着いて話もできねぇだろ!」

 

 狭い室内のあちこちから安堵の声が上がる。どうやら、簡易ベッドの上に寝かされた男が意識を取り戻したことで、張り詰めていた緊張の糸が解けたようだ。重傷を負って帰ってきた恩人の安否を誰よりも気にかけていた船長も、周囲と同じく安心したように息を吐く。そのついでとばかりに周りの部下達の尻を蹴り上げ、持ち場に戻れと怒鳴りながら外に追い出した。

 

「……此処は……どこだ……?」

 

 邪魔者を全員追い返し、さっさと扉を閉める船長の耳に消え入りそうな男の掠れ声が届く。ぎしぎしとベッドの軋む音にハッと顔を上げて後ろを振り返ると、血の滲んで黒ずんだ金髪の男――オルステッドが、身を起こして室内を見渡していた。

 

「何故……私はこんなところに……セリカは……」

「ばッ、なにしてやがんだ!? まだ動くんじゃねえ! 怪我人は大人しく寝てろ!」

 

 意識が戻ってから早々に、部屋を飛び出そうとする怪我人を慌てて引き留める船長。叱責を浴びながら上体を押し戻されたオルステッドは、船長から言われるままに自身の身体へと視線を下ろす。

 全身に巻かれた包帯。元々は白かったであろうそれは大量の血で赤く染まり、既に何度も巻き直したのか、血に汚れた古い包帯の塊が床に散乱している。ベッドの向かい側、壁に掛けられた鏡が映し出す男の顔には痛々しい火傷の跡があった。うっかり女子供が覗こうものなら目にした瞬間に卒倒してしまうような、正視に耐えない惨状。己がその只中に立っているのだと理解した瞬間、忘れていた痛みが一気に燃え上がった。

 

(ッ、ぐ……!? これは……傷の治りが、遅くなっている……?) 

 

 体中を駆け巡る激痛が、朦朧としていた意識を覚醒させる。痛みに身を強張らせつつ、オルステッドは船窓から外の様子を確かめた。硝子の壁を隔てた向こう側に広がるのは真っ暗な闇ではなく、分厚い雲に覆われた薄明るい空。恐らく、半日近く意識を失っていたのだろう。

 だが、それだけの時間が経過したのにも関わらず、傷は()()塞がっていない。この世界で目覚めてから得た、人間離れした驚異的な治癒力をもってすれば、完治とまではいかずとも戦闘に支障のない程度までは回復する筈。そう見込んでいたのだが……

 

(現実はこの有様だ。治癒が追いつかない程の重傷だったのか……いや、それでは説明がつかない)

 

 確かに、勅封の斜宮で女神アイドスの妄執に囚われたセリカを止める為に相当な対価を払った。受けた傷の深さは、ハイシェラとの遭遇戦に匹敵するかもしれない。

 

 ……しかし、ならばどうして。

 どうして、()()()だけは完全に癒えているのか。

 

(この身に金色の刃が突き立てられた、あの瞬間は鮮明に覚えている。が……それより後の記憶が思い出せん……)

 

 一瞬の隙を突かれ、身体を貫かれたあの時。オルステッドは死を覚悟した。常人であれば間違いなく致命傷。たとえそれが常識を超えた存在であっても、神という超常の力を帯びた一撃を浴びて無事に済むとは到底思えない。全身に刻まれた死闘の痕跡がその証拠だ。……なのに、神剣に穿たれた胸の風穴だけが綺麗に塞がっている。僅かな傷跡すらも残っておらず、刺された箇所とその周りの肌との見分けもつかない。化物染みた治癒力が何故かまともに機能していない現状で、自然に癒えたと言うにはあまりに不自然だった。

 

「船長、誰が私を……この船に運んだ?」

 

 自問自答を繰り返し、疑問を深めていく中で、オルステッドはそう船長に尋ねていた。

 考えてみれば、そもそも一体誰がこの船まで己を運んできたのか。勅封の斜宮の頂上に現れたのはセリカだけだったが、だからといってまさか彼一人しか派遣されていない訳もあるまい。恐らく、他の神殿兵は地上で待機していたのだろう。只の船乗りに、訓練を積んだ兵士達の包囲を擦り抜けられるとも考え難い。

 

 ――もしかすると、正気を取り戻したセリカに助けられたのではないか?

 

 意識が途切れる直前の記憶が曖昧なため、彼らがどのような結末を迎えたのかは分からない。だが、あの場には神力を取り戻したサティアが居たのだ。後から神殿兵が押し寄せようとも、人間の兵隊如き簡単に蹴散らせる。セリカも深手を負ってはいたが、命にかかわる程のものではない。

 

 ならば、もしかしたら、二人は無事に脱出できたのでは。

 

 そんな一縷の望みを抱いて問いかけたオルステッドに、無情な現実を突きつけたのは冷淡な女の声だった。

 

「ごきげんよう。随分と遅い御目覚めですね」

「……お前は」

 

 声が聞こえた方へと視線を投げれば、部屋の入口には見覚えのない若い女が一人。

 襟の深い白のブラウス、落ち着いた緑色のドレスとエプロンに、細い腰回りの上に巻かれたコルセット。着ている衣服自体は慎ましい村娘のそれであるが、開いた襟元の隙間からはコルセットに押し上げられた豊かな双丘が強く自己主張しており、女の整った顔立ちと相まってどこか艶かしい雰囲気を醸し出している。それでいて、背中に流れる美しい金糸の髪を指で梳かす所作には貴族のような気品があった。

 

「……。……お前は誰だ」 

「は? もしや、わたくしの顔をお忘れになられたと……?」

 

 怪訝そうに女が尋ねるが、オルステッドは茫洋とした表情を浮かべたきり動かない。

 間の抜けたその姿に、ただでさえ冷たい女の目から更に熱が失われていく。ちなみに、二人の会話を少し離れた位置で聞いていた船長は、彼女の発する剣呑な雰囲気に圧されてその場から逃亡していた。

 

「……はぁ。成程、こんな小物如き眼中にないと。わたくしに対する貴方の評価がよくわかりました」

 

 若干の苛立ちを含んだ棘のある口調で吐き捨てた直後、女の身体が淡い光に包まれる。目を覆う程の強い光ではないが、肌を刺す様な威圧感を感じる青白い輝き。途端に部屋全体の温度が下がり、白い息を漏らすオルステッドの見上げる先に“天使”が舞い降りた。

 

「……女神の使徒、天使テシルヌ。お前も生きていたのか」

「ほう? 意外ですね、わたくしの名を覚えておられたとは」

 

 頭上に浮かぶ光の輪。背中から広がる白い翼。深緑の衣の上に冷気の帯を纏った氷の天使。目の前に佇む美女こそ、正義の大女神アストライアに仕えし最後の使徒、守護者テシルヌ。

 勅封の斜宮で暴走したセリカに翼を折られ、頂上から突き落とされるという憂き目に遭ったが、それでも彼女は生き延びた。落下中に体内に残る魔力をかき集め、地面に衝突する寸前で翼を再構築し、辛うじて死を免れていたのだ。

 

「ですが、おかげで魔力の殆どを失いました。なのでしばらくは魔力の消費を最低限に抑えたこの姿で活動しなければなりません」

 

 説明を終える頃にはテシルヌを覆っていた冷気と光は消えてなくなり、天使から村娘の姿へと戻っていた。彼女の種族は魔力を置換した霊的物質により肉体を構成しているため、不老である反面、極度の魔力欠乏状態に陥ると肉体が維持できなくなる欠点を持つ。だからこそオルステッドは彼女の行動に納得し、そして疑問を口にする。

 

「主とその使徒は魂の盟約により結ばれ、意思の疎通や魔力の譲渡を可能とする。仮に主が死亡した場合、使徒の精神にも多大な影響を及ぼすらしいが、お前に異常は見られない。ならば、そうして姿を変えている理由は――」

「そこから先は説明せずとも結構です。流石に()()なだけあって、理解が早いですね?」

 

 オルステッドの推測を肯定しつつも、まるで他人事のようなその語り口に皮肉を漏らすテシルヌ。

 彼女が困窮している理由――“使徒契約が解除された”ことによる魔力の枯渇。主からの魔力供給を望めず、故に彼女は自然に魔力が回復するのを歯痒い思いで待つしかなかった。

 おまけに契約が切れた影響で主との連絡も取れなくなり、守護者としての使命を果たせない焦りからか、オルステッドへの不満が言葉の端々に見え隠れしていた。

 

「貴方が披露した件の術法。あれはなんですか? 少なくとも、わたくしが知り得るどの魔法体系にも当てはまらないことは確かですが」 

「知る必要はない」

「……そうですか、口外できない事情があると。命の恩人にも話せないとは、知られると余程都合が悪いのですね」

 

 そう言って軽く頷き、艶やかな唇に指を添えて何かを考え込むテシルヌ。口を閉ざすオルステッドに一方的に問いを投げていた彼女が黙り込んだことで、必然的に両者の会話はそこで途切れる。

 暫しの沈黙が流れ、そして束の間の空白を最初に破ったのは、意外にもオルステッドだった。

 

「待て。お前が、私を助けたのか?」

「えっ? ……ああ、そういえばわたくしからの説明がまだでしたね」

 

 無言を貫くとばかり思っていた相手からの、まさかの不意打ちをテシルヌは面食らった表情で受け止める。完全に予想外だったのか、返事をするまでに微妙な間があった。

 

「ええ、そうです。成り行きでしたが結果的にはわたくしが貴方を救った形に……いえ、わたくし()がと言うべきですね」

 

 言葉の最後をそう言い換え、後ろを振り返る。

 それに釣られてオルステッドの視線がテシルヌの見つめる先へと移動したその時。閉め切られていた入口の扉がゆっくりと押し開かれ、その陰から新たにもう一人の人物が現れた。

  

「嵐の紋章……バリハルト神殿の兵士か? ……いや、お前は確か……」

 

 テシルヌに誘われ、彼女の隣でなんとも居心地が悪そうにしているのは、緑を基調とした法衣に身を包む金髪の女。華奢な体つきに見合わぬ白銀の戦斧を背負ったその神官戦士を、オルステッドは知っている。マクルの街に滞在していた頃に、仲間から毎日のように聞かされた観光の土産話で何度もその名を耳にしていたからだ。

 

「……久しぶりね。クルージェのお仲間さん」

 

 セリカの姉、カヤの同僚でもある彼女の名はカミーヌ・セッテ。

 邪教徒の討伐隊の一員として選出された者が、なぜ此処に居るのか。困惑を深めるオルステッドに、カミーヌは自身が意図せずに辿ってしまった運命の分かれ道について語り始めた―――― 

 

 

 

 

 ――オルステッドが目覚める半日前、勅封の斜宮にて

 

「スフィーダ様、やはり我々もお供するべきだったのでは」

「無駄だ。我らが随行したところで、セリカ殿の足枷になるだけだ」

 

 斜宮の門前で隊列を組み、油断なく周囲を警戒するバリハルト神殿の兵士達。彼らは皆、ニアクールの遠征を生き残った強者であり、神の為ならば命を投げ出すのも厭わない崇高な覚悟を持ってこの任務に志願した。

 邪教徒の討伐――サティアと名乗る女を始末する為だけに集められた精強な部隊の総指揮を執る男、スフィーダ・ハムスは厳しい面持ちで眼前の建物を睨む。

 

「我らに許されたのは道中の露払いと、セリカ殿と邪教徒との決戦の結末を此処で見届ける事のみ。今はただ、耐え忍ぶのだ」

 

 再三にわたる部下の進言を退け、視線を雲海の上の決戦場へと戻す。部下達の熱意は分かっている。何も出来ずに立ち尽くすしかない、無様なこの状況をもどかしく思っているのは彼等だけではない。

 セリカの力になれない己の無力を嘆き、せめて先行した勇者の武運を祈ろうとスフィーダが瞑目する。しかしその直後、事態は急転を迎えた。 

 

「なっ……何なの、あの光は!?」

 

 副官としてスフィーダの傍に控えていたカミーヌが驚きの声を上げる。彼女をはじめとして周りの兵士らも一様に、目の前で起きた光景に驚愕する。それまで不気味な瘴気に覆われていた頂上を白く染め上げる激しい閃光。天空より降り注いだ一条の雷が、勅封の斜宮を貫いたのだ。

 

「まさかあれは!? オレノ大司祭は、本当にセリカを……!」

「っ、知っているのスフィーダ? あの魔術は――」

「おい、何か落ちてくるぞ!!」

 

 雷鳴を轟かせる光の柱を多くの者達が呆然と仰ぎ見る中で、一人だけ異なる反応を示すスフィーダにカミーヌが尋ねようとするも、周囲で湧き上がった叫び声がそれを打ち消してしまう。

 兵士の指差す方に目を向けると、頂上から人らしきものが落ちてくるのが見えた。今の衝撃で吹き飛ばされたのだろうか。そのまま地面に叩き付けられるものだと誰もが思い、身構えたが、落下中に黒い人影は突風に煽られ、建物の裏に隠れた為に衝突の瞬間を目撃することはなかった。

 

「……林の向こうに落ちたか。あそこはたしか崖になっていたな。あの勢いではまず即死だろうが……」

「私が確認に行くわ」

 

 スフィーダの懸念に同調して、落下物の調査に向かうべくカミーヌが名乗り出る。女の身でありながら、長大な斧を自在に扱う優秀な戦士である彼女の申し出にスフィーダは逡巡する。

 カミーヌの実力は本物だ。魔神の襲撃等で多数の死傷者が出たニアクールの遠征でも、負傷した兵達を庇いながら多数の魔物相手に奮戦し、殿の任を全うしてマクルへの帰還を果たした。神格者となったセリカ、行方不明のダルノスの両名を除けば、戦士としての技量で彼女に勝る者はスフィーダしかいない。

 単独での任務も数多くこなし、ある程度の機転も利く。これだけ聞けば適任であるように思えるが、予想に反してスフィーダの表情は険しかった。

 

「……いいだろう。カミーヌ、お前に任せる。念のため護衛の兵もつけよう」

「私一人で十分よ。貴重な戦力を割くわけにはいかないわ」

「貴重な戦力、という意味ならお前も同じだ。なに、これも()()()()()に備えての事だ」

「もう、心配性なんだから……。分かったわ、すぐに戻るからそれまで剣の手入れでもして待っててちょうだい」    

 

 こうなったスフィーダはもう、なにを言っても絶対に折れないだろう。信心深い頑固者な戦友の性格を熟知しているカミーヌは苦笑交じりに命令を受け入れると、集団の中から前に出た数人の兵士らを引連れ、人影が落下した現場へ急行する。

 

(それにしても、あの黒い人……どこかで見たような……)

 

 記憶の隅に引っ掛かったナニカに頭を悩ませながら林道を駆けて行くカミーヌ。その背中を、スフィーダの手配した部下達が追従する。休憩を挟まずに走り続け、途中で勇壮の水――体力を回復させる魔法薬を飲み捨てて数分。やっと林を抜けて崖下に降り立ったカミーヌを、思わぬ人物が出迎えた。

 

「――ッ!? なんてこと……!」

 

 視界に飛び込んで来たのは、焦げた外套に傷だらけの四肢を広げ、身動き一つせずに空を仰ぐ男。死んだように眠る男の血塗れの顔を見た瞬間、脳裏に紅髪の美女の笑顔が浮かんだ。

 

「ち、ちょっと! あなた、クルージェの仲間の人でしょ! どうして此処に……」

 

 カミーヌには信じられなかった。邪教徒の立てこもる建物から落ちて来た人物は、彼女の想い人の仲間であるオルステッドという男だったのだ。瞳に困惑の色を滲ませたカミーヌは急いで男に駆け寄り、彼女の中で最も重要な情報を聞き出そうとした。

 

「クルージェは一緒じゃないの? 彼女は無事なの!? ねぇ、起きなさいよ!」

「お下がりください、カミーヌ殿」

 

 意識の無いオルステッドの肩を必死に揺さ振るカミーヌを、背後から現れた兵士の一人が強引に引き剥がす。その間に残りの兵士達はそれぞれ槍を構え、倒れ伏すオルステッドの周りを取り囲んだ。

 

「その男は邪教徒に与する大罪人。先日の神殿襲撃の首謀者でもあります」

「っ! そんな……ま、待って! きっと何かの間違いだわ!」

「……カミーヌ殿、まさかその咎人を庇うおつもりですか?」

「あの事件に関わっているなんてデタラメよ! あなた達の主張はスフィーダの話と矛盾しているわ!」

 

 年若い女の肌に無遠慮に触れる手を弾き、兵士らの輪を突っ切ってクルージェの仲間を背中に隠す。

 神殿に賊が侵入した一件は知っている。討伐隊の一員としてミニエ港を出港する直前に、伝令より報せを受けたスフィーダから直接聞かされていたからだ。

 だが、その話に出てきた神官殺しの下手人は、神殿に恨みを持つスティンルーラ人の若者だった筈。間違っても、足元で寝ている男ではない。 

 

(それに、この男が殺されたらクルージェが悲しむ……っ、そんなの絶対ダメよ!)

 

 愛しい彼女の悲嘆に暮れる姿など、想像したくもない。   

 なんとしても誤解を解き、穏便にこの場をおさめなければ。そう決意を固めるカミーヌの首筋に冷たい汗が伝う。殺気立った無数の視線。地面から持ち上がる槍の穂先。敵意に満ちた兵士達の眼光は死にかけの男を通り抜け、その全てがカミーヌを射貫いていた。

 

「……何をしてるの、あなた達? 武器を下ろしなさい。こんなこと、冗談では済まされないわよ」

「いいえ、残念ながら冗談ではありません」

「そうだ。我らが神を裏切った背信者にはここで消えてもらう」

「裏切っ……!? な、なんですって!?」

 

 説得を試みようとした矢先に、突如として身に覚えのない罪を着せられたカミーヌは訳も分からずに叫んでいた。己と彼等との認識の違いを指摘したことで裏切り者扱いを受けるなんて、誰が想像するだろうか。理解できずに困惑し、狼狽えながらも説明を求めれば、疑問の答えはすぐに返ってきた。 

 

「北の外れの山村で、あなたが女魔族と密会している現場を目撃した者がおりましてね」

「前々からテシルヌ殿には、邪教徒との内通の嫌疑をかけられていたのです」

「ッ……ち、違うわ! 私はなにも――――きゃあっ!?」

 

 問答無用とばかりに繰り出された槍の一突きが虚空を抉る。咄嗟に飛び退き、同時に背中の得物を振り抜く。慣れ親しんだ愛用の戦斧を掴む腕は小刻みに震え、動揺を押し殺そうと唾を飲んだ拍子に、汗に混じって赤い雫が首から滴り落ちた。

 

「スフィーダ殿の信頼を嘲笑い、邪教徒に与した貴様を我らは赦さん!」

「やめなさいっ! あなた達は勘違いをしているのよ!」

「黙れ! これ以上我らを愚弄するつもりかッ!」

 

 もはや聞く耳を持たない仲間達の槍剣を懸命に捌き、必死に声をかけ続けるカミーヌ。しかし、味方を傷付けたくない一心でひたすら守りに徹したところで、彼等の攻撃の手が緩まることはない。

 疑心に囚われ、暴徒化した集団の怒りの矛先はこの場にいる全ての敵に向けられた。当然、その対象の中にはオルステッドも含まれている。つまり、四方より迫る刃の壁から己の身を守るだけでなく、更に身動きのできない負傷者を彼女一人で庇わなければならないのだ。 

 如何に優れた戦士とて、ただの人間である以上限界はある。味方だった者達から浴びせられる殺意。防戦一方で疲弊していく身体。じわじわと、着実に、カミーヌは追い詰められていった。

 

「お願いだから話を聞いて! 私は――っ!?」

 

 背後から感じる悪寒。反射的に振り返り、そして左右の手から両腕全体へと衝撃が広がる。目の前で弾け飛ぶ火花。白銀の一閃を受け止め、愛用の戦斧が大きく撥ね上がる。

 

「っ! しまった……!」

「もらったぞッ!」

 

 続けざまに兵士の一人が叫ぶ。刃の欠けた槍を躊躇なく投げ捨て、空いた両手が掴むのは電撃魔術の白い稲光。自らの魂を神に奉げることで得た、全身全霊の一撃。文字通り命の輝きを注ぎ込んだ激しい魔力の奔流に、カミーヌはただ圧倒されるしかなかった。 

 

「この距離っ、防ぎようがあるまいッ! その男共々消えてもらうぞ!!」

 

 顔中の穴という穴から血を垂れ流しながら兵士が笑う。偉大な神の一助を担える事実に狂喜し、死への恐怖すら霞んでしまうほどの多幸感に包まれた彼は、曇りなき信仰心の導きに従って生贄魔術を発動させる。両手を天高く掲げ、魔力の込められた言霊を紡ぎ――――術者の頭上に、“氷塊”が出現した。

 

「嵐の神バリハルトよ、我らを導き給え! 正義の名の下にこの邪悪なごぷぁっ」

 

 熟れた果実を握り潰したかのような音を立てて、尊き殉教者の姿が冷たい氷の下に消える。地面を揺さぶる激しい衝撃に多くの者が倒れ込む中で、いち早く状況の変化に気付いた壮年の兵士が空を見上げて叫ぶ。

 

「散開しろッ! 狙われているぞォ!!」

 

 ――――冷却魔術『氷柱爆撃』

 

 天より降り注ぐ氷塊の雨。風を切り、冷気の尾で白銀の軌跡を描きながら、鋭利な槍を模った氷細工の五月雨が大地を抉る。砕けた傍から空中で次々に生成される無数の氷槍は、逃げ出そうとした地上の人間達にも容赦なく襲い掛かった。

 

「ぐぁあ!?」

「ごふっ!」

「ぎゃあああ!!」

 

 悲鳴は地響きに呑み込まれ、赤く染まった氷の破片が宙を舞う。周囲に響く断末魔の叫びからカミーヌは逃げるように耳を塞ぎ、震える身体を縮こまらせて惨劇が終わる時を待った。 

 

「……お……終わったの……かしら?」 

 

 どれだけの時間が経ったのか。ふと耳から手を離してみると、周りはとても静かだった。

 もう何も聞こえない。恐怖に満ちた叫び声も、逃げ惑う足音も、それらを粉微塵に打ち砕く氷槍の飛沫も、何もかもがピタリと止んでいた。とても静かな、いっそ不気味なまでの静けさに耐えきれず、俯せていた顔を恐る恐る持ち上げる。

 

 直後、彼女は自身のその行動を後悔した。

 

(……ッ……どうして、こんなことに……。……私達が生き残ったのは偶然? それとも……っ!?)

 

 惨劇を免れ、己以外に今この場で息をしている者は、クルージェの仲間である傷だらけの男のみ。

 そう思っていた。そうとしか思えなかった。

 

 ……そう、()()()()()()。 

 

「――礼を言いましょう、勇敢なる人の子よ。貴女の働きによって、バリハルトの尖兵は撲滅されました」

 

 風に揺られ、どこからか降ってくる一枚の羽根。薄く透き通った、雪の結晶の如きそれが血の気の引いた横顔を掠め、地面に落ちると本物の雪のように溶けて消えていく。頬に手を当てればひんやりとした冷たさが残っていて、まるでこれから己が辿るであろう、最悪の未来を暗示させられているようだった。

 冷気を放つ白い羽根。膨大な数の氷槍が幾つも折り重なった血染めの氷原。震える瞳の中に浮かぶ、白い翼を携えた美しい女性。吹雪と共に舞い降りた天使が、お淑やかに微笑んだ。

 

「本当に助かりました。そこに転がっている男を間一髪で回収したまではよかったのですが、現神の信徒が追撃に現れる可能性を想定していなかったもので」

「ひっ!? ま、待って! いや、殺さないでッ!」

「落ち着きなさい。わたくしに交戦の意思はありませんよ」

 

 天使はテシルヌと名乗り、怯えるカミーヌに優しく声を掛けつつ、手傷を負っていた彼女に治癒の魔法を施した。仲違いをしていたとはいえ、目の前で同族を皆殺しにした相手をいきなり信用しろという方が無理がある。だからせめて、敵意が無いことだけでも伝わればと、なけなしの魔力を使って治療を進めていく。その気持ちが届いたのか、錯乱しかけていたカミーヌは落ち着きを取り戻し、一時的に停戦を結ぶことで一先ず無駄な血が流れる事態は避けられた。

 

 そうして両者が武器を下ろそうとした、その瞬間。

 轟音を響かせ、勅封の斜宮の頂上部から巨大な火柱が噴き上がった。 

 

「きゃあ! じ、地面が揺れて……雷の次は火炎魔術!? あれもスフィーダが隠していた神殿の秘策なの!?」

「……断じて違います。後学のためによく覚えておきなさい。邪気を焼き払う浄化の剣、正義を司りし古の大女神の権能、“聖なる裁きの炎”の輝きを」

 

 心優しき主の勝利を確信し、喜びに打ち震えるテシルヌ。契約が切れてしまっている現状、戦いの推移も決着の瞬間も知り得ぬ筈だが、それも彼女にとっては些細な事。神の力の一部を与えられたに過ぎない神格者と、古き神話に語られる女神。本気でぶつかり合えばどちらに軍配が上がるかなど、最初から分かりきっている。

 

(リア、マクアエナ、ロット……見ていますか? 貴女達の犠牲は、決して無駄ではなかったのですよ……)

 

 邪なる者の侵入を阻み、散っていった三人の仲間達。主が真の力を取り戻すための貴重な時間を稼いだ彼女らに、静かに黙祷を捧げる。祈りを終えてすっと目を開けたテシルヌは未だ地面に倒れたままの男を一瞥した後、その横で思い詰めた表情を浮かべているカミーヌに話しかけた。

 

「さて。わたくしはこの男を連れて一旦この場を離れますが、貴女はどうなさいますか?」

「……どうするって、今更私が部隊に戻れる訳ないじゃない……」

 

 随伴した兵士は邪神の使徒の奇襲により全員死亡。運よく生き残ったのは邪教徒の一味の男と魔族との繋がりを疑われている自分の二人だけです、なんて言える訳がない。知らないうちに退路を失っていたのだ。もう、どうしようもない。

 

「失礼ながら……もし行く宛がないのでしたら、わたくしと共に参りますか?」

「……え?」

 

 頭を抱えるカミーヌに天使が差し伸べた救いの手。それは実に魅力的な提案だった。クルージェの仲間が乗ってきた船は簡単に見つからない場所に隠されており、秘匿された船の停泊地を知っているテシルヌはこれから其処に向かうらしい。その際に、一緒に船に乗せてもらえるよう取り計らうと言うのだ。

 多少の罪悪感は残るが、こちらの言い分も聞かずに殺しにかかってきた仲間達に説得が通用する自信もない。もしかすればスフィーダは信じてくれるかもしれないが、下手をするとその場合、彼にまで疑いの目が向けられてしまう。そうなるくらいなら、いっそテシルヌの誘いに乗ってこの地を脱出するのが賢明だ。

 

(それに、近頃の神殿は何かがおかしいのよね……)

 

 ニアクールの遠征後、神殿は兵士の増員を推し進めた。明らかに人格に問題がある人間でも腕に覚えさえあれば即決で入隊を認められ、ならず者が増えたマクルの街は治安も悪化して強盗や傷害事件の報告が後を絶たない。

 ダルノス・アッセが任務中に消息を絶った頃になると、敵対する原住民らに対する徹底的な武力弾圧が始まった。神殿に捕らえられる者は若い女戦士のみならず、時には非戦闘員である各集落の娘達までもが地下にあるらしい牢屋へと連れて行かれた。

 これらの過激すぎる方針転換に、ニアクール遠征隊を率いる将軍として本国から派遣されていたストエルル・ガウルフ軍司祭が猛抗議したという噂だが、続報が無いことから恐らく武人気質な彼の老将の具申は黙殺されてしまったのだろう。

   

「強制はしません。覚悟の上で同族の下に戻りたいと願うなら、それも一つの選択です」

「……一つ教えて。アナタは古神の使徒……なんでしょ。なのに、なんで現神の信徒である私を助けようとするの?」

 

 熟考を重ねた末に、カミーヌは純粋な疑問を搾り出した。

 単純ではあるが、とても重要な疑問。現神と古神。それは絶対に相容れぬ双極の存在。にも関わらず、どうして古神の使徒が、憎き現神の下僕を救おうとするのか。三神戦争が伝説として語られる現代に生を受けたカミーヌには分からなかった、だから尋ねた。己が信じてきたものに一片の疑問を抱いた今だからこそ、人間の好奇心を満たそうとする欲求に素直に身を委ねた。これまで当然であると教え込まれてきた歴史。しかし、古の天使から世界の真実が語られ――――

 

「何を仰るのですか。迷える子羊を導く事は天使の役目、それ以外になんの理由があると言うのです?」

「えっ」

 

 ――語られるような事は特になく、手を差し伸べた理由は殊の外単純であった。

 

「……そ、それだけ? もっとこう、なんていうか、歴史の闇に葬られた真実みたいなものがあったりとか……」

「勿論、現神に消された過去は無数に存在します。が、次の追手がやってくるかも知れないこの危機的状況で呑気に昔語りをする必要がありますか? 人間族とは場の空気を読む才に秀でた種族の筈ですが、もし冗談を仰られているのでしたら置いてきますよ」 

「……ごめんなさい」

 

 何も言えずにカミーヌは謝った。

 引き攣った笑みを浮かべて忠告してくる天使に、彼女は人生最大の恐怖を感じたという。

 

 

          ・

          ・

          ・

          ・

          ・

 

 

「――そうして、この船に辿り着いたのです」

 

 それなりの時間を要したが、これで大体の流れは説明できた。己が意識を失っている間に実は何度も命の危機に瀕していたのは流石に予想外だったのだろう。苦し紛れに目を逸らして沈黙を貫くオルステッドのみっともない姿はなんとも愉快で、溜まりに溜まった鬱憤が晴れていくような清々しい思いを抱かせてくれた。

 

「言い忘れましたが、この船でのわたくしの立場は“バリハルト神殿に攫われた哀れな村娘”で通しておりますので、あしからず」

「よく言うわよ……下心で近付いた男を一睨みで平伏させる村娘がどこの世界にいるのやら」

「まぁ、“己の良心に従って単身、わたくしを救い出してくれた神官様”は冗談も仰られるのですね」

「……その設定、やっぱり無理があると思うんだけど……」

 

 両手で胸の中心を押さえてしおらしい仕草を見せる天使に、疲れた顔をしたカミーヌが口を挟む。事情を知らない第三者からすればこの上なく奇妙な光景だ。延々と茶番を続ける娘達に残された男はというと、話が始まる前と変わらずの沈黙を保ったまま船室の窓を睨んでいた。騒がしい外野の声は完全に無視されている。

 

「なによ、そんなに外が気になるの?」

「……」

「カミーヌ様、この男とまともな対話を試みるのは時間の無駄かと」

「そ、そうみたいね。あと、“様”は止めて」

 

 返事どころか、こちらを見向きすらしない恥知らずな男をテシルヌは呆れた目で見下ろし、溜息を吐きながら意識を別方向へと切り替える。不毛なやり取りをしている暇があるなら、今はその時間を使って己が仕えし女神の動向を急ぎ確認するべきである。気に食わない男の相手に貴重な時間を浪費している場合ではない。そう自分に言い聞かせ、精神の集中を深めていく。

 

(主の御言葉を拝聴する事は叶いませんが、気配を感知すれば大凡の位置と状況が掴めます。今頃は遠征隊とやらの残党を処理なされているでしょうか……)

 

 船に辿り着くまでの道中で温存しておいた残り少ない魔力を体外に放出させ、大気に溶け込ませる。慎重に広げ、薄く、更に薄く延ばす。探査網は海岸から森へ、森を抜けて平原へ、平原を越えたその先にある勅封の斜宮へと拡大していき――そして遂に、目的の人物の反応を捉えた、が……

 

「……妙ですね。心なしか、随分と気配が弱まっておられるような……っ、な!?」

 

 感じ取った反応に違和感を覚え、顔を顰めていたテシルヌの口から驚愕が溢れ出す。端正な顔は病人のように青褪め、大きく見開かれた目は勅封の斜宮の方角を向いたまま激しく揺れ動いていた。 

 

「どうしたの? 急に顔色を変えたりして」

「あり得ないッ!! アストライア様が……あぁ……そんな、どうして……!」

「え? ちょっと、どこ行くのテシルヌ!」

 

 制止の声も聞かず、錯乱した天使は部屋の外に飛び出してしまう。まさかの事態に動揺しつつも、恩人を放っておく事ができないカミーヌは天使の名を呼びながらその後を追いかけていった。

 

「……騒々しい連中だ」

 

 テシルヌらが出て行った途端に静かになった室内で、一人残されたオルステッドがぼそりと呟く。なんの感慨もない薄情な独り言を述べたきり、重く閉ざされた口からそれ以上の言葉が出てくることはなかった。

 他に誰もいないために文句を言われる心配もないが、仮に誰かが聞いていたら不和の種になっていたかもしれない。それを承知していながら相変わらず不遜な態度を取り続ける男の横で、開けっ放しになっていた入口の扉がひとりでに閉まる。

 

「――ほら、またそんな事言う。だから誤解されちゃうのよ?」

 

 来客のいない病室に、可愛らしい少女の声が響く。周りには誰もいないし、隠れるような場所もない。しかし、虚空を見据えるオルステッドの眼には、確かにその姿が映し出されていた。

 紅蓮に燃える美しい髪。蒼い夜空を溶かし込んだ、輝く大きな二つの瞳。いたずらっぽく笑う少女の笑顔は、その小柄な身体を包む真っ白なワンピースのように純粋無垢で、見る者の心を暖かくしてくれる不思議な魅力に溢れていた。

 

「それとも……もしかして、わざと冷たい態度を取ってたり? そーゆうの今どき流行らないわよ」

 

 くすくすと笑いながら、少女はベッドの隣に並べてあった椅子に腰掛け、険を帯びたオルステッドの顔を楽しそうに眺める。観賞に飽きると今度はぐいっと身を乗り出し、耳元でそっと囁いた。

 

「あの天使が部屋に入ってきた時もそう。わたしにばかり注意を向けて肝心の話も聞き流してたし……そんなに気になるなら、触って確かめてみる?」

「……」

「もう、怒らないでよ。わたしの姿が見えるのはあなただけなんだから、たった一人の話し相手に無視されるなんて悲しいわ」

「……もう一度だけ聞く。……お前は、誰だ」

 

 掴みどころのない不思議な少女の瞳を、オルステッドの鋭い眼光が貫く。誰が相手であろうと、道を阻む者に情けをかける理由はない。静かではあるが、少女を見据える目は本気だった。

  

「言わないと本気で分からない? ホントは気付いてるでしょ。だって、わたしは誰よりもあなたの近くに――――あなたの()()()にいるんだから」

 

 右手の人差し指をオルステッドの胸に当てて、にっこりと笑う。

 そこは斜宮での決戦で神剣に貫かれた箇所であり、目が覚めた時には傷だらけの身体で唯一無傷だった箇所だ。それを少女は迷わずに、当然のように指し示した。

 

「と言っても、今のわたしはヌケガラみたいなもの。神力だってもう殆ど残ってないし、あなたを利用して何かしようとも考えていないから安心してちょうだい」

「……力と器を失いながら、自我だけは保つか。都合の良い話だ」

「あら、気が合うわね? 正直、わたしも不思議だったのよ。神様らしく最後に奇跡でも起こしちゃったのかしら」

 

 正面から向けられる猜疑の眼を慣れたように受け流し、無邪気に冗談を零す少女。それでも一向にオルステッドが視線を逸らさずに黙っていると、やがて小さな苦笑を漏らして椅子から立ち上がる。

 

「そんなに怖い顔しないで。奇跡っていうのはある意味本当なのよ? だってまさか、こんなにもわたしたちの相性が良かったなんて。きっと神々にも予期できなかったと思うわ」

「なに……それはどういう意味――ぐッ……ぉ……っ……!」

 

 聞き返している途中で言葉が詰まり、視界がぐらりと傾く。一瞬の浮遊感。頭を通り抜ける鈍い痛み。頬と両手に押し付けられた固い木の感触。一挙に雪崩れ込んできた情報に思考が圧し潰され、身体の力が抜けていく。意識はぼんやりと霞み、この身に降りかかった不可解な現象に何もできずにいると、そんな惨めな姿を嘲笑うように小さな足音が近づいてくる。

 

「ほらぁ、無理するから少し傷口が開いちゃったじゃない。困った人ね……自慢の再生能力が()()()()()()()んだから、少しは大人しくなさいな」

 

 ベッドから起き上がろうとして、そのまま床へと崩れ落ちた男の傍で少女が立ち止まる。鮮やかな蒼の双眸に見下ろされながら、遠ざかっていく意識を辛うじて掴み取ったその男は火傷跡の目立つ両腕で強引に半身を支え、焦点の合っていない目で頭上を睨んだ。

 

「この異常の原因は……お前の仕業か……。……憎しみを呼び、憎しみを吸収するお前の特性が……変質した神の権能が(憎しみ)に干渉しているのか……ッ」

「さぁ、何の事かしら? 異常だなんて、変な言いがかりはよしてちょうだい」

「とぼけるな……なにを……企んで……い……アイ……す……」

 

 声が途切れ、腕の支えを失った身体が再び床に打ち付けられる。もはや手足の感覚も残っていないのか、俯せに倒れた状態で首を僅かに持ち上げてから、オルステッドは力尽きたように顔を伏せた。すると、終始楽しそうに振舞っていた少女から笑顔が消え、明るく輝いていた瞳に暗い影が差した。

  

「許してとは言わないわ。でも、これはあなたの為なの。あなたはもう、これ以上戦ってはいけないのよ」

 

 既に相手の耳には届いていないことを知りながら、悲しげに少女が呟く。

 彼は一人の被害者に過ぎない。過去においては、古き世の傲慢な人間達に散々振り回され、挙句の果てに今度は新たな世界の覇権を巡る、身勝手な神々の思惑に巻き込まれてしまったのだ。

 

「神の手で世界中にばら撒かれた争いの火種は、血塗られた歴史の果てに、平和を求める愚かな女神の暴走を招いた。正気を失い、憎しみという感情を盲目的に求める女神の呼び声は永い眠りについていた魂を現世に降ろした……つまり、わたしがあなたをこの世界に引きずり込んでしまったのよ」

 

 死してなお運命に翻弄される、過酷な生を強制してしまった男に彼女は誓う。この先に如何なる困難が待ち受けていようと、自分だけは彼の味方であり続けると。それが、罪深き我が身に出来るせめてもの償い。何があっても彼の命だけは絶対に護りきる。その為に利用できるものはすべて利用させてもらう。たとえそれが、自分の実の姉が愛した人間(セリカ)であろうともだ。

 

「……アストライア姉様。貴女が派手に散ってくれたお陰で、天上の方々の関心は貴女の恋人さんが一身に集める運びとなりました。ありがとうお姉様。そして、さようなら」

 

 

          ・

          ・

          ・

          ・

          ・

 

 

 ――リブリィール山脈 

 

 アヴァタール地方、レウィニア神権国より南東。険しい山岳に囲まれた大地、ニース地方。荒涼たる山谷は果てなく続き、幾度となく立ち塞がる断崖絶壁の底からは、乾いた風の吹き荒ぶ音に紛れて怪鳥の鳴き声が響く。外界の争乱から隔絶されたこの静寂の地を支配する種族は、これまであらゆる勢力の干渉を悉く跳ね除け、数千年の永きにわたり、世界の傍観者としての立場を固持してきた。

 私欲のために自らの強大な力を振りかざすことを是とせず、光と闇のどちらの陣営にも属さない。神々の策謀が渦巻くディル=リフィーナという箱庭でそれが許される存在など、片手で数えるほどにもいないだろう。

 故に、弱き者は羨望と畏敬の眼差しで空を仰いだ。自分達には手の届かない遥か高みに生きる彼等を、無限に広がる青空を自由に翔る、偉大な“竜”の威光をその目に焼きつけるために。

 

「皆、揃ったようだな」

 

 晴天を突き刺す秀峰の頂に並ぶ、大小複数の影。ある者は人としての仮初の姿で腰を下ろし、ある者は竜としての本来の姿で地に足を着けている。竜族の長の召集を受け、その場に集ったのはリブリィール山脈に君臨する彼等の中でも、一族を導く指導者に当たる面々。いずれも単独で小国を滅ぼすことさえ可能な、古の時代より生き続ける老練な実力者達だ。

 

「お待ちくだされ。長よ、彼の若き翼が未だに……」

「構わぬ。あ奴ならば、間もなく馳せ参じるであろう」

 

 山頂の議場に並ぶ無数の石柱に座した同胞らを見下ろし、陽光を背にした巨大な老竜が不意に首を持ち上げると同時。頭上にて白く輝く日輪を裂くように、高空を猛烈な勢いで飛翔しながらこちらに接近する小さな人影が視界の端を掠めた。 

 

「――遅くなりました」 

 

 点にしか見えない程に離れていた距離をものの数秒で飛び越え、人影は空席だった石柱の上に舞い降りた。長の呼び声を聞いた最後の一人にして、この場の誰よりも年若く、そして誰よりも勇ましき者。血気盛んにして、何にも畏れない気高き信念と、空の覇者としての誇りを背負う者。彼女に名前は無い。若き竜は己の名を持つことを許されていないからだ。だが、平和を脅かす魔神に果敢に立ち向かい、身を挺して弱き者達の安寧を護らんとするその勇姿から、同じ竜族や周辺諸国の人々は彼女を“空の勇士”と呼んでいた。 

 

「如何に心騒がす事が起ころうと、竜族たるもの平静を保ち、竜の集いに遅れることなかれ。……して、御主の憂いの元は件の魔神か」

 

 若輩でありながら、空の勇士の力は古参の猛者にも届きうる。生まれ持った天賦の才を開花させつつある凛々しき女戦士が万が一にも道を違えぬよう戒めた後に、話の焦点は彼女が心中に抱えている焦燥の元凶へと向かう。

 

「地の魔神は更なる災いに手を出そうとしている。あの邪悪な魔神を生かしておくのは、我ら竜族の志にかけて許されませぬ!」

 

 種族の頂点である老竜から浴びせられる威圧感をものともせず、空の勇士は声を大にして訴える。

 転々と各地を渡り歩き、この地上に混乱と争いを撒き散らす地の魔神――すなわち、魔神ハイシェラの暴虐は、平和を重んじる一族にとって目に余るもの。一時期は行方をくらましていたが、ここ最近になって再びニース地方に姿を現すようになったハイシェラと幾度も交戦し、その恐ろしさ、邪悪さを直に感じ取った生き証人の訴えに、列席者の間でどよめきが走る。

 特に、比較的若い層からは魔神討つべしと叫ぶ空の勇士に賛同する意見もあがったが、「静まれ」という厳格な長の一声を皮切りに、議場を覆う喧騒は波が引くように消えていった。

 

「如何にも。世の秩序を著しく乱す輩が現れた時、我等はたとえ命脈尽きようともこれを排除せねばならぬ。だが、それは今ではない」

「……長老方。まさか地の魔神をこのまま野放しにせよと? 彼奴の蛮行を黙って見過ごさねばならない程の理由があるのですか?」

 

 落ち着いた口調でそう説明を求める傍ら、鋼鉄を穿つ戦士の拳は固く握り締められていた。誇り高き意志の輝きを宿した黄金色の瞳がすっと細まり、鋭い眼光が腰の重い長老達を射抜く。

 魔神ハイシェラの出現と、その討伐が此度の召集の目的ではない。ならば他に考えられるとすれば、北のレウィニアか、それとも西のマクルだろうか。どちらもここ最近は、現地の民の間で不穏な噂が立ちこめているようだが、果たして……

 

「――否、どちらでもない。……いよいよあの“災厄の種”が、我が竜族の地に踏み込んだのですね?」

「うむ……。然りだ」

  

 重々しく頷き、長が肯定の意を示したことで推測は確信となる。優れた戦士の才だけでなく、“雲居”と呼ばれる竜族の預言者としての素質をも兼ね備えた巫女である彼女は、世界に何らかの異変が生じていることを直感していたのだ。

 そもそも“災厄の種”とは、近年になって雲居よりもたらされた重大な御告げである。すなわち、『忘炎より生まれいずる災厄の種が今後数百年に渡り、世界に破壊と混沌を巻き起こす』……というものだ。

 彼女がこの会議に遅れてしまったのも、地の魔神の動向を探りつつ、雲居より予言された存在を調べるために広大な領土の隅々までを飛び回っていたのが原因だった。  

 

「では直ちに、その“災厄の種”を確認して刈り取りに参りましょうぞ!」

「待て、空の勇士よ」

「それは否である」

 

 世に災いが降り掛かる前に、その根本を討ち滅ぼそうと勢いづく空の勇士を長老達が止める。何故、という当然の疑問に答えたのは、依然として険しい表情を浮かべる竜族の長。

 

「雲居の御告げが何を指しているかまでは分からぬ。或いは歴史に語られる古の魔神、或いは数多の命を奪う疫病、或いは自然の営みを破壊する天災か。我等が動くことで、眠っている種を目覚めさせる結果だけは避けねばならんのだ」

「っ! よもや、災いが現実に起こるまで静観せよと仰られるおつもりか!?」

 

 未曽有の危機に直面しているというのに、それはあまりに悠長な考えではないか。空の勇士は信じられぬとばかりに声を荒げ、驚愕を露にした。これに対して竜の長は、目に見えぬ脅威相手に下手に動けば却って混乱を招き、同胞達を危険に曝す事にもなる、と反発する彼女を諭す。

 老竜の考えは堅実であり、彼等一族の周辺諸国に対する影響力を考慮すれば、その判断は正しいのかもしれない。しかし、若き竜にとってそれは単なる時間稼ぎの、無責任な日和見主義にしか思えなかった。

 

「種が芽生えてからでは遅いのです! まだ眠っているなら、寧ろ好都合でございましょう!」

「否だ。空の勇士よ、己の力を過信するな。それに我等の懸念は他にもある」

「他の、懸念……? それは一体――」

()がこの地に舞い戻った」

 

 続けて、竜族の長はとある魔神の名を空の勇士に告げる。その名を耳にした途端、あれほど非難の声をあげていた彼女の口が止まり、老竜を見上げる目が驚きに満ちたものとなる。

 

「……長よ、それは真でしょうか」

「然り。欲に呑まれ、知性を伴わぬ獣に堕ちた、かつての我が同胞……“魔神トリグラフ”が、姿を現した」

 

 事の発端は、ニース地方の領空を警邏していた一匹の眷属から齎された情報だった。場所はリブリィール山脈を南下していった先に広がる腐海の地。地上は毒と瘴気に汚染され、地下に蜘蛛の巣のように張り巡らせられた複雑怪奇な迷宮が存在するその土地で、三つ首の黒竜を見たという。

 刃も魔法も通さぬ黒金の鱗。軽く尾を振るうだけで人間の村をあっさりと磨り潰してしまう巨躯。背中の翼で大空を我が物顔に飛び回り、蛇のような長い胴体から伸びる三頭の顎門から火炎、冷却、暗黒の三属性の息吹を吐き出す凶悪な竜。力に溺れ、貪欲に戦いを求める狂った化け物に成り果てた、忌むべき存在。

 一族を追放されてからは闇から闇へと隠れ続けてきたあの魔神トリグラフが、“災厄の種”の予言と時を同じくして表の世界に戻って来たのだ。これで、無関係と言えるものか。  

 

「敢えてもう一度言おう。己の力を過信するな。名も無き未熟者に、奴は止められん」

「ッ、おそれながら長よ! その発言は戦士に対する侮辱! 今すぐに撤回していただきたい!」

「否。御主は未熟だ。数ヶ月ほど前の御主の独断専行、よもや忘れたとは言わせぬぞ」

「――っ!?」

 

 厳しく突き付けられた長の言葉に一瞬、空の勇士の身体が震えたかと思うと、怒りを滲ませていた彼女の態度は一転して、急に顔を曇らせながら地面に膝をつけてしまう。

 それは今から数ヶ月前。人間の感覚で言えばそれなりの時間だが、永遠に近い寿命を持つ竜族にしてみれば、つい昨日の出来事のように思えるだろう。その日、彼女は偶然にも、このリブリィール山脈で行き倒れの男を拾った。顔も、名前も、出身地も、何一つ知らない全くの赤の他人。一見するとただの人間にしか見えないが、しかし一皮剥けばその中身は危険極まりない、形容し難きナニカ。自身に課せられた使命を考えるならば、生かしておく理由は無い……筈だった。

 

「答えよ。何故、あの人間を逃がした?」

「……っ」

「口を閉ざすか。その沈黙こそが未熟の証明よ」

 

 ――だが、彼女は男を見逃した。剣と拳を交える中で男の正体を知りながら、危険極まりないその本質の一端を垣間見たにも拘わらずにだ。一部の同胞は傷を負った男から漏れ出た異様な気配に気付き、自身も長老達から男を捕らえておくようにと命令されていたが、それを無視してまで男を竜族の勢力外へと逃がしてしまった。

 これは紛れもない事実であり、空の勇士が今日までの生涯で犯した、ただ一つの大きな失態である。

 

「……弁解の余地もございません。斯くなる上はッ! この手で自らの翼を奪うことにより我が罪を償いましょうッ!」

「やめよ。今更、御主の愚行を咎めるつもりはない」

 

 両の拳を自身に向け、拳から溢れる闘気の刃で己の翼を根本から断ち切ろうとした空の勇士を、老竜が静かに一喝する。見苦しい真似はよせと無下に切り捨てられ、振り上げた拳の下ろし場所を失った彼女は、直情的な己の行為を恥じるように顔を俯かせて唇を噛んだ。

 

「今一度、肝に銘じよ。我等は中庸の調停者。同胞以外のあらゆる存在に対する過度の干渉は許されぬ。それは情を抱いた者とて同じことだ」

「ッ!! 馬鹿な、儂はあの男に情など……ッ、孤高である竜がそのような感情(モノ)に惑わされるものか!」

 

 竜は孤高。故に、他の種族と交わることはない。

 悠久の時と共に世界を見守り、世の安寧を維持する事こそが、強者としてのあるべき姿であり、正しき道である。幼き頃より一族の使命と責任を背負ってきた空の勇士にとっては百も承知の話だ。

 己に課せられた役割を誇りに思うことはあれど、そこに不満が介在する隙は無い。疑念を抱くなど断じてあり得ないのだ。

 

「聞け、空の勇士よ。情が湧けば欲が生まれ、欲は理性を狂わせる猛毒となる。己を律し、感情を制するのだ。さもなくば毒が回り、獣に堕ちたトリグラフめと同じ運命を辿る事になるだろう」

「ち、違うっ! 儂は一人の戦士として彼奴を認めただけで……我欲など、なにも……」

 

 厳しい咎めの言葉が、動揺する空の勇士の心に重く圧し掛かる。咄嗟に、それは違うと否定を口にしかけたが、どうしてか最後まで言い切ることが出来なかった。

 孤高を常としてきた彼女には分からない。思考を乱す焦燥感の正体が何なのか、他者との繋がりを断てという忠告を受けて、どうしてこうも心がざわつくのか。その理由を、胸を焦がす異物の正体を説明してくれる者は此処にはいない。

 

「長よ、もうよろしいのでは。空の勇士殿に今必要なのは、気の迷いを拭う為の時間であろう」

「うむ……」

 

 冷静さを欠いた空の勇士の様子に、竜族の長はそれ以上何かを言うでもなく、同胞らに視線を移してから本来の議題に戻った。そうして、彼女だけが置き去りにされた状態で会議は滞りなく進んでいく。

 

 ……結局、一族の方針はこれから起こりうる事態を見極める、という結論に至った。

 その後、山頂に集った面々はそれぞれの帰るべき場所へと飛び去っていき、青空が黄昏に染まろうとする頃。誰も居ない議場にただ一人、地に膝をつけたまま俯く弱々しい人影が残っていた。

 

「……儂が、情を抱いているだと……? 違う……竜である者がそんな……、くっ! なんなのだ、この苛立ちはッ!!」

 

 訳の分からぬ息苦しさは一向に薄まらず、これまで味わった覚えのない苦痛が胸を締め付ける。昂った感情の捌け口を求めるあまり、空の勇士は血の滲んだ握り拳を大きく振り上げた。揺らめく闘気の炎が地面を焦がす。姿形は人と変わらずとも、その肉体に宿る力は人間の限界を超越した怪物のそれだ。

 山を崩し、大地を砕く破壊の鉄槌を構えて、数秒の時が流れる。更に十秒、二十秒と静寂が続いていき……そして、激情の臨界点を過ぎた剛拳がふらりと腰元に落ちた。

 

「この……景色は……。ふっ、我ながら愚かなことを考える。……だが、願わくば……」

 

 夕焼けの残り香が色濃く残る茜色の空を眺めていたら、自然と呟いていた。もし、この場に誰か居たとしても、絶対に聞き取れないだろう微かな声で。心に秘めた泡沫の想いを風に乗せ、己の翼を横目で眺める。

 それは大空を翔る竜の誇り。どこまでも飛んで行ける自由の象徴を暫し見つめ、空の勇士は儚げに笑った。

 

 

 

 

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