多種多様な山々が軒を連ねる一帯で、特に雄大な一つの山。
その山の丁度中腹辺り、緑が生い茂る獣道を抜けた先に小さな水辺があった。本流から外れてきた穏やかな小川のせせらぎの音が、木漏れ日に照らされた世界に唯一の音色を響かせる。
しかしよく耳を澄ましてみると、開けた空間の何処かから砂利を踏みしめる軽い足音が聞こえてくる。音の方へと目を向ければ、二人の人影が小川のほとりを目指すように歩いていた。――正確にいうならば二人のうち一方の人物を、もう一人が両手に抱えて歩いている……というのが最もな表現だろう。更にいうと、抱える側が女で抱えられる側が男という、ちぐはぐな印象を持ってしまう光景でもあったのだが……本人を前にして素直に感想を言えるものはそうはいないだろう。
何故ならその女は今でこそ人に近い姿をとっているが、その正体は竜であるのだから。
ほとりに着いた時点で、抱えていた人間を落とさないようにゆっくりと下ろす。
此処まで運んでくる間も、油断無く腕の中の人間を観察していた女だったが、あれから顔色は戻ったものの、相変わらず意識は戻ることがなく。
(一体何者なのか……竜としては若輩者だが、それでも数百年の時を生きてきた儂の眼を持ってしても判断が付かぬ……)
竜は長命種であり、その寿命は永遠ともいえるほど永い。それ故、基本的にいくら聖域の中で過ごしているとしても、意図せず人間と遭遇してしまう可能性も少なからず存在する。そしてこの地に足を踏み入れる者というのは、大抵が竜に対して敵対的な、やましい感情を持った人間ばかりであるという事実。だからこそ、竜は極力人間に接触することを避けているのだが……
(盗賊どものような濁った気配が感じられぬ……このような人間なぞ、今までに見たことがない……分からぬ。……とにかく話を聞くためにも、意識が戻るまでおとなしく待つべきか……)
理解の出来ない存在にどういった感情を向ければいいのか悩みながらも、人間の身に付けている武具を見て寝心地が悪そうに見えたのか、慎重に取り外してから傍にあった岩の陰にまとめる女。
それからやることが無くなったのか、ジッと男の顔を見詰める。
「……男にしては整った顔をしておる。だが、随分と鍛え込まれているな……むっ?」
戦士としての視点から、目の前の男の身体のつくりを見て密かに感心した最中。突然、それまで何の反応も無かった男が突然苦しみだした。全身からは汗が噴き出し、美麗な顔は苦痛に歪んでいる。
「先程のは気のせいでは無かったか。ひどい汗だな……暫し待て」
そう言うと女は男を挟んで向こう側にある小川の水を汲もうと立ち上がる。何か丁度良いものはないかと辺りを伺いながら移動したその時、苦しんでいた男が跳び上がるように身体を起こした。
やっと目覚めたかと男に対して声を掛けるのと同時に、自分が今やろうとしていた行為に急に気恥ずかしさでも覚えたのか、女は思わず視線をあさっての方に逸らした。
……が、すぐに本題を思い出したのか何もなかったかのように振り返り、一言二言話した後に男へと問いかける。
「単刀直入に聞く。……お主、何者だ?」
返答次第では容赦はしないとばかりに、威嚇の意味を込めて竜が持つ力の一端を表に出す。大抵の魔物はこれだけでも彼我の戦力差を理解し、怯えて逃げ出すだろう。極一部は興奮して考え無しに攻撃してくることもあるが。
質問をしている側なのに、何故こうも相手に対し高圧的に接しているのかというと、幾つかの理由が挙げられるのだが……最大の要因としては、人間という種族そのものに不信感を抱いているからであろう。だからこそ意識せずとも警戒してしまい、必要以上に相手を威圧してしまっていた。
「…………私か? ……私は…………わたしは一体、何なのだろうか……」
だが威圧を至近距離から受けている筈の男は、怯える素振りも見せず独り言のようにそう呟いた。
「何だと? ……お主、ふざけて――」
そこまで言いかけて女は気付く。目の前に立つ男の普通ではない様子に。
(これは……この男、人間としては並外れた力を持っているように感じられるが……生きる気力とでもいうのか、まるで致命傷を負った人間の最期のように諦観している……?)
顔には出さないまでも内心で困惑している女をよそに、尚も男は独白する。
「……私には……何も残されていない……違う、裏切ってしまったんだッ…………友をッ! 信じる人をッ! …………愛していた……彼女を……」
他人の存在も目に入らないのか、掠れるようだった声は段々と加熱していく。
「みんな死んでしまったのに……罪無き大勢の民をこの手にかけたのにッ! 私だけが生き恥を晒しているッ!!」
「何が勇者だッ!! 私に何が出来た!? ……何も、何一つ成し遂げることが出来なかったじゃあないかッ!!」
男は慟哭する。堰を切ったように流れ出る懺悔の言葉の数々が、男の内に溜まっていた感情を曝け出す。女は最初こそ驚いた様子を見せたものの、何かを察したのか男が落ち着くまで一言も喋らずに、黙ったまま目を逸らさず静かにそれを聞いていた。
「何故私は生きている……なぜオレだけが……」
次第に声量が小さくなっていく男は立ち続ける余力も無いのか、崩れるように地面へと膝を着き頭を垂れて押し黙る。
ここでようやく女は動き出した。膝を着く男に歩み寄ると、見下ろしながら口を開く。
「お主の過去に何があったのかは存じぬ。だが、今を生きるものなら過去を振り返るよりも、先を見ることが――」
「貴様に何が分かるッ!!」
諭すような言葉をかけた女に対し、男は琴線に触れたのか勢いよく頭を上げて相手を睨み反論する。しかし女は少しも動じずに言葉を続ける。
「当事者であろうお主が分かっていないのだ。ならば他の誰にも分かるまい」
「ッ……私は理解している! だから――」
「だからどうするというのだ? 理解してると言う割には、儂の眼には小さな童が見苦しく癇癪を起こしているようにしか見えぬが」
冷静な意見を重ねられて、男は思わず言葉に詰まった。
「勝手に聞かせて貰ったが、お主は過去に何らかの罪を犯したのか。……当事者でない儂が口を挟める義理ではない故、下手な同情はせぬ。だが――」
そう言った瞬間、女は右手で手刀をつくり男の首へ狙いを定める。
「――これも情けよ。罪の意識に耐えられぬのなら、儂が今ここでお主に引導を渡してやろうぞ?」
きっぱりと言い放った女の眼を見て、男は彼女が本気であることを理解した。そして、それでも構わないといった自暴自棄な考えが頭を過ぎる。
(……もう、私には失うものも、私を待ってくれている人もいない。ならばいっそ……)
抵抗する気配のない男に女はどこか落胆した思いを抱くも、最早語ることもなしと容赦せず手刀を振り下ろす。
(人ならざる方よ。一度は助けてもらいながら、こんな汚れ役を背負わせてすまない……)
刹那、迫りくる手刀が男にはまるで断頭台で光るギロチンのように見えた。この刃を受ければもうこれ以上苦しむことも、悲しみを胸に抱くこともなくなると、どこか安堵している己がいるのを自覚しながら男は静かに目蓋を閉じる。今度こそ、二度と開くことはないと……
(……だが、これでやっと……)
――いいかげんに……あまえんじゃないよ! ――
(ッ!!)
自然に囲まれた空間の中で、硬い金属同士を勢いよくぶつけたかのような、甲高い音が響き渡る。
「……どうした? 何故、儂の手を止める?」
女が放った手刀は本来の目標に届かず、寸前に男が鞘ごと抜いた剣の腹で防がれていた。余程の衝撃だったのか手刀が直撃した鞘は砕け、収まっていた刀身にも亀裂が走っている。
(今のは……)
衝撃を受けた左手に酷い痺れが走るも握った剣は決して離さず、男は今しがた脳裏を掠めた人物に思い当たりを付ける。
(私があの世界で戦った者達の一人……確か……心山拳、の……)
――かつて旧き世界のとある大陸に、一人の年老いた拳法家がいた。
彼は己の死期を悟ると自らが開いた流派を次世代へと継承すべく、山篭りを解いて町へと下り、紆余曲折ながらも三人の未来ある若者を招き入れる。
一人は……気弱ながらも芯のある、誰にでも優しい少年だった。
一人は……少々食い意地が張っているが、相手の痛みを理解する純粋な少年だった。
一人は……人を寄せ付けない素振りを見せるも、本当は寂しがりやの少女だった。
三人ともクセのある少年少女ではあったが、厳しい修行にも逃げ出さず、毎日同じ釜の飯を食べ同じ屋根の下で過ごしていく内に、次第に本当の家族のように心が通じ合うようになっていった。だが――
(だが、敵対する流派が老師の留守にしていた道場に大勢で襲撃を掛けた……老師が戻った頃には全てが手遅れで、弟子の一人である少女はかろうじて一命を取り留めたが、残りの二人のの少年は……)
――荒れ果てた道場を目にし何が起きたかを悟った老師はすぐに少女の看病を行い、亡くなった二人の少年の墓を建てた。そして少女の傷が大方癒えた頃合いに、墓前にて少女に本当の強さの意味を教え、自身が生涯を掛けて編み出した奥義を見せた。
……それから程なく老師は一人だけで愛弟子達に手をかけた宿敵へ敵討ちに出る。しかし道中には内緒にしていた筈の少女が待ち伏せており、少女に懇願されやむなく二人で敵地に赴くことになる。
戦いは熾烈を極め敵の大将を前に老師は限界を迎えるも、少女の可能性を信じ残された力で立ちはだかる邪魔者を退け、少女と大将の一騎打ちの場をつくる。
嵐のような拳撃の応酬が繰り広げられる中、遂には一瞬の隙を突いた少女の奥義が大将を捉え、これが決め手となる。ここに敵討ちは成された。
事の顛末を見守っていた老師は己の流派が、正しき心がしっかりと継承されたのを確信すると糸が切れたかのように床へと倒れこむ。そして少女の悲哀の声を聞きつつ眠るように黄泉路へと旅立った。
この子はもう一人でも大丈夫。向こうで待たせている二人の少年に会いにいこうと――
(そうだ……彼女は兄弟弟子が殺されても、無力だった己を責めるだけではなく、憎悪に支配されることもなく。……家族の誇りのため、父親のように慕っていた老師のために立ち上がった)
(……私にもそんな存在がいれば……いや、いたではないか!)
そこで男は思い出す。ある者の謀略によって王国の兵士達に囲まれた時、身を挺して自分を逃がしてくれた存在を。
直後に兵士達から拷問を受けるも一切抵抗することなく、逃げようと思えば逃げれた筈なのに、最期の瞬間まで無実を訴え、気高き信念を守り抜いた老人の名を。
――お前はまだわかい……ハッシュやワシらが命をかけて守ったものを……守り続けるのじゃ……――
まだ痺れの残る左手に力を込める。その手に握られた剣を勢いよく振り上げ、女の手刀を打ち払う。
項垂れていた身体に渇を入れ、ゆっくりとその場を立ち上がる。
(ウラヌス、今の私を見てどう思う……? 怒りに震えているだろうか……それとも失望しているだろうか……)
男の眼に宿っているのは、先程までは無かった意志の光。先へ進もうとする信念の炎。
相対する女はそれを見て、思わず笑みを浮かべた。
「ほう……なんだ、訳は知らぬが急に良い眼をするようになったではないか」
女は腕を組み満足そうに男の顔を伺っている。……気のせいか先程よりも闘志が増しているようだ。
「これならば、介錯の必要は無いだろうな」
「いや……待って欲しい」
そう言うと男は握っていた剣を両手で持ち直し、剣先を相手に向け構える。
「すまない、見苦しい姿を見せてしまった。だが……誤解を受けたままでは、私は兎も角、私に道を説いてくれた方々に申し訳が立たない。……失礼を承知だが、手合わせを願いたい」
女から溢れ出す闘志に対抗するように、男の雰囲気が静かに熱くなっていく。
「……お主ならそう言うと思ったわ。良かろう、
女は何処に持っていたのか、鞘に収められた一振りの剣を取り出した。
「これは以前にこの聖域を無断で荒らした不届き者が持っていたものだが……もう持ち主はこの世におらぬ。その剣では恐らく数合も耐えられまい、これを使うといい」
「……すまない」
そう言って手渡してきた剣を素直に受け取る男。許可を取りその場で鞘から抜き放つと、日光に反射して白く輝く刀身が露わになる。眼を凝らしてみれば、うっすらと何かの文字のような文様が浮かんでいた。
「それは呪付鍛錬の施された魔法武器だ。一部を除いたあらゆる属性の敵に効果が有る。……まぁ、かといってそれほど価値の高いものではないだろうが。」
「いや、十分だ。……片手剣か、これなら……」
男はそう言いながら、貰った剣の感覚を馴染ませるため、試しに何度か振ってみる。
一閃、二閃、三閃……剣を振るたび、男を中心に鋭い風切り音が鳴り響き、刀身が青白い曲線を虚空に描く。
「――問題無い」
そうして剣を腰に差した男は女へと振り返る。
「ならば良し。……だが聖域内で血を流すのは好ましくない、場所を移そう」
女はそう言うとその場を移動し始める。男もそれに倣い、足場の悪い獣道を力強く歩み出した――
「ああ、道中で身体を清めるといい。ひどい汗をかいていたようだからな」
「…………ああ。……そうしよう」
「此処なら良かろう」
「…………そうか」
女が指定したのは先程までいた山を下り、更に幾つもの川や崖を渡り、辺り一面を茶色の大地が囲む乾いた岩場であった。
「どうした、その顔は……時間の節約のために途中で空を飛んだのがそんなに嫌だったか?」
「いや……そうではないが……その、方法がな……」
思わず、先程の光景を目に浮かべる男。竜は誇りが高いため、人を背に乗せて空を飛ぶのは好まないと言っていた女だったが……
「……まさか女性に抱えられて空の旅をすることになるとは思わなくてな」
「どうせ既に一度同じことをやったのだ。今更であろう」
「……貴方が良いと言うのであれば、問題無い……のか?」
男は微妙な面持ちをしながらも、気を引き締め直す。これから相手をする人物は全力であたらねば勝機は無いと、手に持つ剣よりも更に鋭く神経を研ぎ澄ませる。
「では、用意はいいな? ……仕合う前にお主の名を聞こう」
「私の名は……オルステッド。ただのオルステッドだ」
「そうか、ではオルステッド……往くぞッ!!」
そして戦いの火蓋が切られる。
先手は女から、自慢の翼を使い正面から滑空するように男へと急接近する。瞬きする間も無い速さで風を切りながら、直線的に突っ込んでくる女の姿を、男――オルステッドは確かに捉えた。両手で握られた剣の先端を目前に迫る女に向け冷静に、前の世界で培ってきた剣技を披露する。
「迎え撃つ――……そこだッ!」
女の右腕が鎌首をもたげ唸りを上げながら振るわれる。しかし、砲弾のような一撃がオルステッドに届こうとした瞬間。
「――なにッ!?」
寸前まで迫った拳を、相手が剣の腹に添えるように防いだ……と女が認識した時点で、気付いた時にはまるで鏡合わせのように身体が逆方向へと弾かれていた。
「今のは……風? ――ッ!」
「……悪いが全力でいく……」
女の姿勢が崩れた隙を付き、オルステッドはすかさず次の手札を切る。肺に空気を送り込み、両足を地面に縫い付けるように固定し、全身を限界まで捻る。……程なく臨界点に達した力を、両手に握り締めた剣に連動させ、標的に向けて叩き割るように解放した。
――男はかつてルクレチア王国という国に仕えていた時代があった。
この国では幅広い層の間で共通の剣術が伝えられており、城内を警備する兵士達は勿論のこと、代々王国が輩出してきた勇者までもがこの剣術を扱い、そして魔王を討ち果たしてきた。
多対一、一対多。あらゆる戦局を想定したこの剣術は知名度の割りに上位の剣技ほど習得難度が高く、多くの者は二つ三つを使いこなすのが関の山であったが、一部の才有る人間が才に溺れず常人以上の鍛錬を積むことで、同じ剣術とは思えない恐るべき魔剣へと変貌する。
例を挙げると――神速の抜刀で無数の刃を繰り出す、刀身に魔力で形成された炎を纏わせた上で、竜の顎を模した斬撃を飛ばす……果ては一刀のもとに、対象を確実に死へと送ると謳われた伝説の技、というのも存在する。
そしてこの男は一部の人間の中でも、殊更に優れた才と弛まぬ努力を兼ね備えた、戦士の理想と言える存在であった――
「レイザーソニックッ……!」
久方ぶりに繰り出した筈の剣技はいつになく冴え、剃刀のように鋭い風の奔流が目標に殺到する。確実に捉えたかと思われた斬撃は……
「甘いッ!!」
崩れた姿勢を空中で無理矢理に転換、目標を男から己の足元へ変更。
勢いに任せて放たれたエネルギーは容易く地面を、
――瞬間、硬い岩盤を無数の刃が切り刻む。しかし、激しい粉砕音を響かせながらも貫通には至らず、着弾点を砂煙が覆い隠す。
「…………影ッ――上か!」
前方は砂煙によって目視が出来ない中、注意を向けていたオルステッドの頭上に黒い影が飛来した。
「これなら……いやッ違う!?」
再度迎撃の構えを取りつつ視界を上方に移動させた先で、瞬時に彼は気付いた。……飛来してきたのは岩の塊であった。
「くッ……」
これには敵わぬと、その場から転がるように横へと避けたオルステッド。そこへ入れ違うように落下してきた質量の振動を直に受けながらも、自身に迫り来る旋回音を聞き逃さなかった。
「そこだッ!!」
「まだ……だぁ!!」
二度目の砲撃、それもオルステッドは反応する。すぐに立ち上がると背後から迫る凶弾の腕に対し、あらかじめ察していたかのようなタイミングで反撃を行う。
「ッ……! これしき……効かぬわッ!!」
「な――ぐぅッ!?」
完璧なタイミングであった。……だがオルステッドの放った風の乱撃に、あろうことか対象の女は避けることもせずに飛び込んだ。当然その身を風の刃が襲うが、女は全く意に介さず、技を放った直後の無防備な男の懐へお返しと言わんばかりに、強烈な一撃を見舞う。
「ぐぅッ…………ぁああッ!!」
「……人間の男が、儂の力に耐える、だとッ……!」
不意を受けた攻撃は、もはや避けることも叶わず。ならば受け流すとばかりに、正面からの一撃を僅かにずらして構えた剣で防ぐオルステッド。同時に魔力で生み出した風を刀身に纏わせることで、少しでも外部の圧力を逃がそうとする。
「なめるなッ!!」
女は拳をオルステッドから離すと、相手が動く暇を与えずに左足で剣ごと蹴り上げた。
「――――がッ! ……ッ!!」
その場で踏ん張ることも出来ず、オルステッドは弾丸のように吹き飛び、背後にあった小山程の大きさの岩石に突き刺さるように衝突する。――一瞬後、耳をつんざく轟音と共に、男を受け止めた岩石は亀裂を走らせ、あっと言う間に崩落していく。
辺りは再び砂煙に覆われ、元凶である女はハッとした顔でたった今崩落した瓦礫の山を見る。
「……しまった!? 相手はただの人間だと言うのにッ!」
オルステッドが戦闘中に垣間見せた、明らかに人外じみた動きのせいで途中から相手が、
(何てことだ……あれでは、どうにもならないだろう。…………すまない、オルステッド)
己の傲慢さを後悔した様子で、しかし諦めきれないのか、女が瓦礫の山に一歩足を踏み入れようとしたその時――
(―――ッ?! ……この感覚は……初めて気付いた時と同じ――)
女が何かに気付いた時、微動だにしなかった筈の目の前の瓦礫が突如、一斉に吹き飛んだ。火山の噴火もかくやと思わせる激しい岩石の礫が周囲一体に無差別に降り注ぐと、休む間も無く今度は雷鳴のような地鳴りが一面を包む。
女は険しい眼で前方を睨む。空から降り注ぐ岩石も、地面に衝突した際の轟音も意識から外し、前方に佇む気配を探る。
その内ゆっくりと砂煙が晴れ、不透明だった視界が露わになる。そこにいたのは――
「……オルステッド……なのか?」
自分で発言しながらも思わず疑ってしまう程、目の前にいる存在は異質だった。
先程まで感じていた清涼な空気は鳴りを潜め、今はおぞましい気配が男を支配している。
全身は血塗れで……いや、血ではなく、赤黒い瘴気が男の周りで溢れ出している。背中にはうっすらと、一対の翼のようなものが浮かび上がり、それも同じく真っ赤に染まっている。正気のない眼に宿るのは、紅い二つの眼光。
「それが……お主の正体なのか……いいや、違うッ!」
男を中心に世界が灰色に変わっていく。止まることを知らぬ憎しみの火が、忌避感として女を襲う。……しかしこの状況で女は、あろうことか戦闘の構えを解いた。
(お主は……決してそのような男ではない。お主と
「オルステッド……あの山でお主が語った懺悔の言葉……それはこのことか?」
男に語りかける間も、憎しみの火は着実に女を蝕んでいく。
「ならば……! あの時見せた意志をッ! 曇りなき信念を思い出せッ! ……オルステッドォ!!」
構わずに女は叫ぶ。必ず、己の言葉は相手に届くと、男の魂に訴えかける。すると――
「…………言われずとも、分かっている」
偶然か、それとも女の言葉が届いたのか、半ば暴走していたオルステッドは、その意識を取り戻した。
「私は……魔王ではないッ!……そうだ、もう二度と……逃げたりは……しないッ!!」
次の瞬間、オルステッドは右手に握っていた剣を躊躇なく、己の腹へと突き刺した。
すると徐々にだが、今まで噴出していた赤黒い瘴気が薄まっていき、世界を侵食していた憎しみの重圧も雲散した。完全に残滓が消え失せ、気配が元の状態に戻ったところで、男は腹に刺した刀身を抜き取り、その場に倒れ――
「……良かった。……今はとにかく休め」
――倒れ込む前に女が抱き抱える。
ホッと息を吐いたのもつかの間、急いで腹の傷を見てみると、異常な早さで傷口が塞がりはじめていた。
(こうしているとやはりただの人間にしか見えぬのに、今の光景といい、この治癒の早さといい、聞きたいことが増えるばかりだな)
今日一日だけで、幾つもの問題が表れたというのにも関わらず、当の女の表情は優しいものになっていた。その場で腰を下ろし、膝の上に男の頭を乗せ、痛みの無い柔らかな金髪を片手で撫でるように梳いた。
「雲居の御告げの正体がもしお主であったなら……いや、今は考えるのをよそう」
「――すまなかったな……ゆっくりと眠るがいい。……オルステッド」
――夕日が沈む大地。淡い橙色の光が二人の影を作り出す……眠る男の顔は穏やかであった。