――燃える。燃えていく。
群青色の空が、真っ白な炎に染められていく。
死にゆくさだめにあった男が目を開けた時、世界は灼熱に包まれていた。
――消える。すべてが燃えて、消えていく。
肌が焼け、罅割れた隙間に滲み出た血が蒸発する。炭化した皮膚が剥がれ落ち、焦げて千切れていく筋線維の断面から溶けた脂が滴り落ちる。
厳しい神殿の修練にも耐え、魔物との幾多の戦いを経て鍛え抜かれた肉体が枯れ木のように痩せ細っていく。街の住民や神殿の仲間達を護る為の腕が、愛する者と束の間のひと時を共に歩んだ脚が、砕けて色のない灰となっていく。
白の世界がもたらす苦痛に耐えかねて、男の意識が闇に沈む。焦熱と白煙が遠ざかり、神経を抉られるような痛みが薄れていく。そして、懐かしい声が頭に響いた。
『私は貴方と……どこまでも……生きていくわ』
生温い液体の中を漂っているかのような心地良さが、全身にじわりと滲む。穏やかに溺れていく身体から、何かが零れ落ちる。
『貴方に、私の――を、――ます……』
暗闇に閉ざされた水底から、淡い光の欠片がぽつぽつと浮かび上がる。今にも潰えてしまいそうなその星屑は、水面に群がる無数の気泡のように集まり、輝きを一層強くさせる。一つとなった光は形を変えて人の輪郭を模ると、両手を男の首の後ろに回して優しく抱きしめた。
『またいつか会える……だから生きて、待っていて』
僅かな哀憫と、胸一杯の愛しさを込めて囁かれた言霊が男の中に溶ける。それを皮切りに、男に緩やかな変化が生じた。冷たくなった身体に生命の火が灯り、失われた四肢から男は確かな熱を感じた。人の形をした光が抱きしめていた腕を解く。その身を覆い隠す白い衣は薄れ、消えゆく光の中から微笑を浮かべた女性の姿が透けて見える。
『さようなら、セリカ……』
半透明の手を男の頬に添え、そっと触れるだけの優しい口づけを交わす。
重なる二つの心。混ざり合う黒と白。
崩れゆく光の残滓と儚い笑みを残して、愛する者が炎に包まれる。
「待ってくれ……どうして君がそんなことを……!」
焼け爛れた喉を震わせて男が叫ぶ。
女は何も言わず、耳を塞ぐように背を向ける。
限りなく近い筈なのに、あと一歩がどうしても届かない。見えない壁の向こうで最愛の人が白炎に呑まれていく。もう男に考える余裕は無かった。拒絶されるのも厭わずに、罅割れた声を吐き出しながら立ち上がる。何処かへと去っていく彼女を止めようと、無我夢中で己の腕を伸ばす。
「行くな! 行かないでくれサティア! サティアァァァッ!!」
男に考える余裕は無かった。地面を蹴るその足も、見えない壁を叩きつけるその拳も、既に自分のモノであって自分のモノではない事に。深い悲しみの中で、男は彼女の名を叫び――――現実の世界に引き戻された。
「……。……此処は……そうか、俺は……」
額に滲んだ汗を拭おうとして、その手を止める。視線を下ろした先に見える己の右腕は、神官戦士として鍛えられた小麦色の筋肉が失われ、ほっそりとした白い柔肌に覆われていた。そのまま、ベッドの縁に置かれていた手鏡に手を伸ばす。縦長の丸い鏡面を覗くと、燃えるような赤い髪と蒼穹の瞳が印象的な美しい
「……叶うなら、夢であってほしかった」
寝汗で濡れたベッドの上で半身を起こしたまま、力無く拳を叩き付けて項垂れる。
剣を振るうには頼りない細腕。何も身に付けていない上半身は薄い筋肉が張っているが、小綺麗な女顔のせいで初見の者には大概、性別を勘違いされる。どうしてだか記憶は曖昧で、この身体になってしまった直接の原因を思い出そうとすると酷い頭痛に襲われる。元バリハルト神殿の剣士である男――セリカ・シルフィルは片手で頭を押さえながら、残る手で枕元に転がる二つの宝石を手に取った。
「教えてくれ……あの時、勅封の斜宮で何が起きたんだ」
握り締めた宝石から魔力の輝きが溢れ出す。一瞬の白光が室内を照らし、虚空に描かれた魔法陣より大小二つの影が浮かび上がる。
「――すまぬ。妾も御主とさほど変わりはせぬ。御主と同じく、全てを覚えているわけではない」
先に姿を現したのは、白金の髪に金色の髪飾りを嵌めた高貴な女性だった。思慮深く、上品な物腰でセリカに語りかける彼女は人間族ではない。艶かしい裸体を惜しげもなく晒し、下腹部より下を頭のない大蛇の胴体が呑み込んでいる。それは異形の存在。
人間の上半身と、蛇の下半身を併せ持つその種の名は
鮮やかな模様を散りばめた白蛇の胴を生やす女性もナーガ族の一人。とぐろを巻いて優雅に腰を下ろすその貴婦人こそ、バリハルト神殿の遠征時に遺跡の最深部にてセリカを待ち構え、刃を交えた末に彼の信念を認めたナーガ族の長。ニアクールの知恵者、リ・クティナだ。
「妾自身のことはともかく、女神と御主のこと、詳細は思い出せぬのだ……」
「……そうか。いや、ならいいんだ。謝るなら俺の方だ。貴女を巻き込んでしまったのだから」
女神の身体と、リ・クティナは契約によって繋がっている。一部の記憶の欠落も、この異常事態の影響なのかもしれない。ナーガ族の長に詫びて視線を落とそうとすると、ベッドの端から端を緑色の小さな生き物が横切った。
「……。……!」
「ああ、分かっている。いつまでも項垂れているわけにはいかない。お前の言うとおりだ」
光る羽根を持った風の妖精パズモ・メネシスからの無言の叱責を受けて、固かったセリカの表情がやわらぐ。今こうしてセリカが生きていられるのも、小さな妖精の尽力のおかげだ。
――勅封の斜宮で目が覚めたセリカは駆け付けた神殿兵らに身柄を拘束され、軍船に乗せられてマクルへと連行された。しかしその道中、討伐隊の指揮を執っていたスフィーダは古神の肉体を得たセリカの存在に危機感を覚え、折り返したばかりの海路の途中で生贄魔術を強行する。術者のスフィーダ自身が海に身を投げることで穏やかな海原は荒れ狂い、逃げ惑う船員達を嘲笑うように猛烈な雷雨と波風が船体を引き裂いた。
このままでは船が沈む――その時、セリカは恋人の傍に常にいた、彼女の唯一の使い魔のことを思い出す。少ない魔力を振り絞ってパズモを召喚し、風を友とする妖精の力を借りてなんとか窮地を脱した船が漂着したのは寂れた漁村。ただ一人生き残ったセリカはパズモとリ・クティナに支えられつつ、精気を求めて近場の迷宮に潜り込んだのだ。
(……枯渇していた魔力が幾らかではあるが戻っている。あの男が、何かしたのか……?)
サティアと酷似した身体となってからというものの、セリカは正気を失いかねないほどの強烈な“飢え”に襲われていた。精神力で抑えようとしても、漁村に居た人々の体内に流れる僅かな魔力を視る度に何度も意識が飛びかけてしまう。誘惑に抗い必死になってその場から逃げ、迷宮内に蔓延る魔物を次々と殺し回り魔力を奪っていったがそれでもまだ足りなかった。
そんな折に、あの人間と出会ったのだ。凡人とは一線を画す潤沢な魔力を宿した、それにしては威厳も風格もまるで感じられない平凡な性格をしている、奇妙極まりないあの青年と。
「……たしか、アビルース……と名乗っていたか」
「呼びましたか、セリカさん?」
パズモとリ・クティナの召喚を解いたセリカがその名を呟くと同時に、扉が二度叩かれる。断りを入れてから扉を開けたのは、安っぽい灰色の上着によれよれのズボンを履いた長身痩躯の優男。迷宮内では如何にも魔術師らしい恰好をしていただけに、気の抜けた普段着との落差がなんともいえない。裏の思惑を読もうとしていたセリカも人畜無害な青年の雰囲気に流され、危うく警戒を解いてしまうところだった。
「よかった、顔色も戻ったみたいですね。それにしても、急に貴女に倒れられた時は驚きましたよ」
湯気の立ち上る食器をベッド横の背の低い円卓に置き、朗らかにアビルースが笑う。素性の知れない行き倒れ相手に随分なもてなしに思えるが、甲斐甲斐しく世話を焼こうとするその様子からは打算や下心は全く感じられない。
「どうして、貴女を助けたのか。そう聞きたそうですね」
「……ああ。気を悪くしたらすまないが、俺はまだお前を疑っている」
神殿に囚われてから勅封の斜宮で目覚めるまでの間の記憶が無く、気付けばサティアと瓜二つの姿形となり、スフィーダをはじめとする嘗ての仲間達から命を狙われる。襲い掛かってくる者は人間族だけに止まらない。その秘められた力に惹かれて道行く先々で多くの魔物共が唸りを上げ、女神の肉体を喰らおうと牙を剥くのだ。
そして、理解の及ばぬ危機的状況を這い回っていたところで、アビルースという魔術師と出くわした。親しかった同僚からはお人好しと揶揄されていたセリカではあるが、出会って早々に無条件でこちらを介抱し、甘言を囁くほぼ他人の青年を迂闊に信用する事は流石に憚られた。
「確かに、普通の人なら警戒して然るべきです。ましてそれが、“興味深い身体”をお持ちの貴女であれば尚更でしょう」
「ッ!? 俺の事をどこまで知っているんだッ……!」
「あっ、ち、違います! 最後まで話を聞いてください!」
不穏な気配を感じたセリカが血相を変えてベッドから起き上がろうとすると、慌ててアビルースが言葉を継ぎ足す。職業柄、人間族とは明らかに異なる未知の魔力を感じ取ったが、セリカの抱える秘密やその背景については何も知らない。不思議な気配を発する身体に魔術師としての興味はあるが、所詮は興味止まり。危害を加えるつもりも、信用させてからその力を利用しようと邪推しているわけでもない。そう言って釈明するが、疑いの眼差しは未だ向けられている。段々と距離を離していく相手に負けじと、アビルースも懸命に説得を続けた。
「考えてみても下さい。仮に僕が良からぬ事を企てているとしたら、あの場で貴女をどうにもできたのですよ?」
「それは……たしかに、その通りだが……」
「……うーん、仕方ありませんね。少しお恥ずかしいですが、本当の理由を言いましょう」
尚も懐疑的な視線が己に向けられていることを察してか、更にアビルースが言葉を重ねる。彼が口にしたセリカを助けるに至った最大の理由とは、以外にも単純で思いがけないものだった。
「似ているのです。貴女の雰囲気が、僕の友人とそっくりなんですよ」
「……友人?」
「はい。寡黙な方で誤解されがちなのですが、こんな僕には勿体無いくらいの素晴らしい友なのです」
今度、彼が此処を訪れる事があれば紹介しましょう。
そう笑って“友人”のことを楽しそうに語る純朴な青年の姿に、セリカはすっかりと毒気を抜かれてしまった。怪しい雲行きが無事晴れた丁度その時、セリカの足元にあった毛布がもぞもぞと揺れ動く。
「旅人さん、おっはよー!」
「なん……うあっ!?」
訝しげに腕を伸ばして中身を確かめるより早く、ばさっと宙に舞い上がった毛布の下から元気よく一人の女の子が飛びついてくる。面食らいながらも咄嗟に抱きとめて、すぐにセリカは眼前の女の子が人間でないことに気付いた。
「君は……魔物、なのか?」
「あっ、ひどーい! ヒトをあんなのと一緒にしないでよ! ボクはノラ魔物と違って人間族のみんなに悪いことしないもん!」
セリカの物言いにカチンときた様子で、アビルースの一番弟子を自称する鳥人の女の子――ペルルがふわふわの白い翼をばさばさと動かして抗議する。見かねた師匠は客人から弟子を引き剥がし、申し訳なさそうに頭を下げた。
「すみません、弟子が失礼をしました。……ですが、これだけは分かっていただけませんか。僕らのような“闇夜の眷属”にとって、知恵なき魔物と同列に語られるのはとても耐え難い屈辱なのです」
闇夜の眷属とは、秩序を重んじる魔族や、人間族の社会を追われてきた者達が集い、独自の社会を形成した集団の総称である。人間族以外の亜人間なども多く、その殆どは光側の現神勢力に虐げられた闇の現神の信仰者達で構成されている。そのため、欲望の赴くままに人々を襲う魔物と同一視されることを彼らは酷く嫌った。
「……すまない、俺が浅はかだった。君にも謝ろう。その……」
「ボクはペルルだよ! 気にしてないから大丈夫! それより旅人さんのお話が聞きたいなー」
先ほどの自分の発言を後悔して顔を曇らせたセリカに、しかし鳥人の女の子はにんまりと笑って受け応えると、久しぶりの旅人の冒険譚に目を輝かせる。
「これ、よしなさいペルル。彼女は疲れてるのですからあっちに行ってなさい」
「やだ! というかお師範様さっきから思ってたんだけど、セリカは女の人じゃなくて
「うッ!? ゴホッゴホッ……少し、気分が優れないので外の風を浴びてきます」
汗を流しながらそそくさとアビルースが部屋から出ていく。なんだかもの悲しい師の背中を見送ったペルルは、セリカに振り返るなり不思議そうに口を開いた。
「変なお師範様だよね。此処って地下だから風なんか吹かないのに」
「地下……? まさか、この家は迷宮の中に建っているのか?」
「え? あ、そっか! セリカは起きてからまだ外に出たことがなかったもんね」
白い翼で器用にポンと手を叩き、一人で納得するペルル。すると勢いよくベッドから飛び上がり、「ついて来て!」と言いながら部屋の扉を開けてセリカを手招きする。師の言いつけを早々に破り、まだ本調子でない彼を連れ出そうとするのは如何なものであるが、保護者の青年は頭を抱えて自分の部屋に籠っているので気付かない。なので誰にも止められる事なく、綺麗に洗濯して折り畳まれていた衣服を着た上で、セリカはペルルと一緒に玄関を出た。
「じゃーん! 此処が闇夜の眷属たちが集う街、地下都市フノーロだよー!」
意気揚々と家を飛び出たペルルを追っていくと、人々の活気に満ちた地下の街並みがセリカを出迎えた。蟻の巣のように張り巡らされた迷宮内の、一際広大な空間の中に築かれた都市フノーロ。此処では魔力を燃料に燃える無数に設置された街灯が、太陽の代わりに青白い光で街を照らしている。表通りでは屋根のある出店で恰幅の良い商人が食料品を並べ、狭い脇道に足を向ければ、浮浪者のような風貌の老人が地べたに座って敷物の上に骨董品を広げていた。
「お爺ちゃん、こんにちはー!」
「ほう、珍しいのう。魔術師殿のところの娘っ子か。少しは弟子らしくなったかえ」
「ボクは日々進化してるよ! つい最近はリンゴの皮むきをマスターしました! えっへん!」
「ホホ。ワシは魔術の一つでも覚えたのかと聞いたつもりじゃったんだがのう」
手のかかる愛らしい孫を見るような目で、老人はペルルの自慢話に耳を傾けていた。それに倣って、少し離れた位置で彼女の話が終わるのを黙って待つセリカだったが、不意にその背中をくいくい引っ張られる。
首を横に回せば、喚石に戻した筈のパズモが何故か肩に乗っていた。ジト目で何かを訴えている様子から察するに、どうも好物である果物の名に反応して勝手に出て来てしまったようだ。念の為にと、先ほど通りがかった市場で購入しておいたリンゴを投げてやると、無口な風妖精はやたら機敏な動きでそれを受け取り、満足げに飛び去っていった。
「うむ、お主の成長ぶりはよう分かった。して、そこのおなごは?」
「俺は男だ」
「……なんと。こりゃ驚きじゃわい」
衝撃の事実を聞いて唖然とする老人にセリカが溜息を吐く。隣で「やっぱりそう見えるでしょー?」と老人に同意見を述べる少女は努めて無視する。
「ま、まぁよい。男か女かはさておき、ワシが初めて見るということはお主、余所者じゃな」
「……ああ。それがどうかしたのか?」
「ふん、気付いておろうに。街の連中がお主のことを噂しておるのじゃぞ」
閉鎖された環境で外部との交流が制限されているこの街では、人の出入りも少ない。だから外から来た者は嫌でも衆目を集めてしまう。浮世離れした美貌を持つ今のセリカならば尚のこと、ほんの少し出歩いただけで人々の関心を惹いてしまうのだから、仮に正体がばれてしまえば間違いなく騒動が起きる。
(そう考えると、アビルースが最初に俺を見つけたのは幸運だったのかもしれないな)
まだ完全に信じきったわけではない。だが、少なくとも自身の事情をある程度打ち明けてもいいと思えるくらいには、セリカはあの青年の人格を信用していた。
出会った当初からして、アビルースは今のセリカが人間族とは似て非なるものである事を一目で看破していた。それでも彼は真理を追い求める魔術師としての矜持を捨て、最高の実験材料に成り得る神秘を秘めたセリカを無償で介抱したのだ。
それは邪欲に突き動かされる外道には、決して真似できない事だろう。まだ出会ったばかりではあるが、善人か悪人かでいえば間違いなく前者であろう彼の気遣いはセリカとしても正直有難い。故に、なるべく迷惑が掛からないよう、早めにこの街から立ち去ろうと心に決める。
「……元より、長居するつもりはない。心配されずともすぐに此処を出ていくさ」
「そうかい、ならばいいんじゃがの」
ふんと鼻を鳴らして、それ以上の言及を止めた老人が路地裏の奥に視線を投げる。街灯の光も届かない暗闇に何があるのかとセリカらも釣られるように首を傾ければ、遠くからコツコツと石畳を踏み鳴らす小気味良い音が耳に入った。
「御機嫌よう。今日は面白いモノが並んでいるかしら」
「あっ、オトクイサマのお姉さんだ! やっほー!」
「あらあら。うふふ、いつも賑やかなことね」
ばさばさと手を振るペルルに、暗い路地の向こうより歩いて来た魔術師と思わしき装いの女が上品に応える。頭から膝下まで全身を濃紫のローブに包んだその女は、小さな鳥人の女の子の頭を撫でると、フードの下から覗く艶やかな唇を愉快気に吊り上げた。
「可愛いお弟子さん、お使いの途中なら他を当たった方が良いわよ。此処に置いてるものはあなたの師にとってガラクタでしかないわ」
「ふん、久しぶりに顔を出すなり生意気を言いおって。暫く見ないものだから、迷宮で不死の者共の仲間入りでもしたのかと思っとったぞ」
「やぁねぇ、失礼しちゃうわ。勝手に人間辞めさせないでよ、もう」
冗談を交えつつ、慣れた調子で軽口を叩き合う。地上の世界から追いやられた先祖によって築かれたこの街の住民達は、外から来た余所者を必要以上に警戒してしまう反面、住民同士の繋がりは他の何処よりも深い。亜人間族に対する差別的な感情も薄い為、影に隠れてではあるが、少数の獣人らも住み着いている。だが、それでも本来は敵対する種族であるが故に、滅多に人目に出る事はない。
表を出歩く時のペルルも基本的に、身を隠せる程の大きな布切れで身体を包めて、なるべく自身の白い翼が見えないように気を遣っている。ただ、目の前の魔術師の女や老人もそうだが、他種族への理解がある良識的な者達も中には居る。人間族と同じように、気兼ねなく接してくれる彼らのことがペルルは大好きだった。
「あれ? お姉さん、今日はいつものスカーフじゃないんだ?」
「ん……ああ、これね。そうなのよ、それでちょっと困ってるのよね」
はだけたローブの首元から見える真新しいスカーフを擦りながら、億劫そうに女魔術師が溜息を吐く。どうにも、外出する時には必ず身に着けている愛用の品を、数日前の迷宮探索中に何処かに落としてしまったらしい。ペルルに訊かれてその事を思い出した彼女は、頬に手を当てて目元を覆うフードの下から悔しさを滲ませていた。
「お気に入りだったのに残念だわ。ミノタウロスに襲われたあの時に落としちゃったのかしら」
「なんじゃと?」
それまで横で二人の会話を聞いていた老人が急に声を上げる。いきなり話に割り込んできたことに女魔術師が不満げな声を漏らすが、有無を言わさない迫力で老人は断言した。
「アレはリブリィ―ル山脈一帯にしか生息しておらん。こんな穴蔵に出没する筈がなかろう」
「あら、それじゃあ私が嘘を吐いてるとでも?」
「決まっておる。若者が見栄を張りたがるのは地上も地下も関係ないからの」
「……あ、そう。中々言ってくれるじゃない、お爺さん」
別に信じようが信じまいがどうでもいいが、妙な勘違いをして勝手に分かった気になられるのも癪に障る。口調は穏やかなまま、されど冷たい目線を突き立てて腕を組む。偏屈なご老体を睨み付け、ならば若者なりの助言をしてやろうかと柄でもない愚考が浮かんだところで、ぐいっと腕を引っ張る白い翼。振り返れば、ペルルがキラキラと目を輝かせていた。
「お師範様から聞いたことあるよ! ミノタウロスってすっごく強い生き物なんだよね! ねぇ、どこで会ったの? ボクも見に行く!」
「あなたの師が心配するからやめておきなさい。それに今行っても、屍が転がってるだけよ」
パタパタと両手を羽ばたかせる好奇心旺盛なペルルに苦笑しつつ、子供らしい食いつきの良さに女魔術師も満更でない気分になる。だが、それに水を差すように、人を小馬鹿にするような皺枯れた笑い声が隣から聞こえてくる。
「面白い冗談じゃ。まさかお主、竜の山に棲まうあの怪物を退けたとでも言うのか?」
「一々うるさいわね。あと一応訂正させてもらうけど、倒したのは私じゃなくて外から来た旅の御方よ」
「……外から来た、旅人さん……? ねぇお姉さん、もしかしてその人ってオル――」
「ハズレ。私を助けて下さった方はその人じゃないわ」
ピンと立てた人差し指でペルルの口を塞ぎ、言い切る前に不正解だと告げる。かなり期待していたのだろう。想像していた人物ではないと知らされた途端、子犬の尻尾みたいに元気よく揺れていた後ろ髪がへなへなと萎れてしまった。
「なぁんだ……でも気になる。そんなに凄い人なら、街のみんなも知ってる有名人なのかな?」
「いいえ、多分この街の誰も……カッサレ様も知らないと思うわ。つまり、あの方を知ってるのは現状私だけってこと」
「えぇーっ!? ズルい! ボクにも教えてよー!」
「うふふ、仕方ないわね。あなた達だけの特別よ? そうね、特徴としてまず一番に挙げるとしたら、あの方が腰に帯びていた綺麗な紅い……」
勿体ぶるように語り始めた女魔術師の口が唐突に止まる。そわそわしながらペルルが話の続きを急かすも、見上げる相手は云々唸って首を傾げるばかり。
「……紅い……なんだったかしら?」
「もぉー、誤魔化さないで教えてってば!」
「い、いえ……違うの……違うのよ……っ」
焦らして聴衆の反応を愉しむつもりなのかと思いきや、どうやらそうでもないらしい。呆けていた口からは焦った声が漏れ、周りに居るペルルらの存在を忘れたかのようにぶつぶつと独り言を零し始めた。
「気付いたら、目の前に怪物の首があって……倒れていた私に、あの方が手を差し伸べて……それを私は……」
頭を抱えて熟考を重ねること暫し。やがて、持ち上げていた手から力が抜け、大きく息を吐きながら腕を下ろすと、諦めたように顔を俯かせる。
「……駄目、思い出せないわ。期待させちゃってごめんなさいね」
そう言って申し訳なさそうに謝った彼女は足元にも届くローブの裾を翻し、誰かが口を開くよりも早く、逃げるようにその場から立ち去った。慌ただしいその背中が路地裏の奥に消えたことをしっかり確認して、ペルルと老人がお互いの顔を見る。動揺した女魔術師の珍しい姿に、ペルルが目を丸くするのは勿論、与太話と断じて鼻で笑っていた老人さえもこの時ばかりは表情を変えた。
「妙じゃな。お主もそう思うじゃろう」
「うん、助けてくれた人のことを忘れちゃうなんてダメだよね!」
「それも大事ではあるが、問題なのはあの娘っ子の不可思議な応対じゃ」
最初、女魔術師は迷宮の探索中に魔物に襲われたところを、見知らぬ旅人に助けられたと語っていた。しかし、その人物に関する事柄を助けられた本人は何一つ覚えていなかった。途中まで平然と受け答えしていたのにも関わらず、いざペルルが旅人の話題に触れた途端に顔色が悪くなった事から、彼女も自覚していなかったのだろう。
偶然、気が動転して記憶が飛んだだけなのか。もしくは、女魔術師の語る旅人とやらが、助けるついでに彼女の記憶を消したのか。この街の魔術師を手玉に取れる時点で無名の人間でないことは確かだが、それほどの実力者がこんな辺境に何の用がある。猛毒の瘴気が渦巻く地上はとても生命が根付ける環境ではない。価値があるとすれば、地下都市フノーロを内包するこの広大な迷宮に張り巡らされた結界術くらいのものだ。
「……考えても無駄か。まぁ話の通じぬ相手ではないじゃろ」
「ふふーん、ボクは一度会っただけの人の名前もちゃんと覚えてるよ! だってボクはお師範様の弟子だからね!」
「おぉ、よしよし。ほれ、後ろのお嬢ちゃんも笑いなされ。折角の美人が台無しじゃぞ」
「余計なお世話だ。あと俺は女じゃない」
老人のたわ言に顔を顰めながら付き合う傍ら、セリカは己の内から奇妙な感覚が沸き立つのを感じていた。
(なんだ、この胸苦しさは? 名前……みんなの、名前……?)
唐突に湧いた違和感。重たく、鈍い痛みが頭の奥をがんがんと打ち鳴らす。視界が揺れ、強烈な吐き気に立っていることもままならず、崩れ落ちるように地面へと両手をつく。
肩を震わせ、青白い顔に大粒の汗を浮かべるセリカのただならぬ様子に、傍にいたペルルが驚きながら駆け寄る。
「ど、どうしたのセリカ!?」
「……分からないんだ……姉さんの名前も、マクルやキート村の皆の名前も……何も、思い出せないんだッ……!」
寒気がする。肩の震えが止まらない。
心の中に、大きな喪失感の塊が居座っている。
なにか、大切なモノを失ってしまったのではないか。セリカ・シルフィルという人間が、戦士として目指したもの。強い心、強い力を持ち、魔を打ち砕く勇ましき姿に憧れた。迷う心に、決して折れる事の無い鋼色の信念を教えてくれた、憧れの背中の主。
あの人の名前はなんだっただろうか。
最後に話をしたのはいつだっただろうか。
『人の成長とは……思っている以上に早いものだな……』
一瞬、頭を過った記憶の断片。
どうして、あの人は笑っていたのだろうか。
「教えてください……貴方は……誰なのですか……?」
出口の無い迷路を彷徨うかのように、虚空に向けて腕を伸ばす。それで求める答えが掴めるわけでもないのに、意識が落ちるまで、セリカは見えない相手に問いをこぼし続けていた。
・
・
・
・
・
「見当たらないと思ったら、こんなところに居たのね」
さざ波に揺られる甲板の上で、緑衣の女が呆れ半分の笑顔をつくる。鉛色の空に覆われたブレニア内海の冷たい潮風が、船首に向かって歩みを進める女の長い髪を撫で上げる。乱れた髪を片手で整え、指に巻き付けた艶のある金糸の毛先を弄りながら、嵐神官カミーヌ・セッテが口を開く。
「傷、深いんでしょ。貸してもらった部屋で休んだ方がいいんじゃないの」
なんてこともないように、それこそ古くから付き合いのある友人を相手にするような気軽さで隣に並び立ち、自身と同じ色をした美しい髪の女の顔を覗く。静かに沖を見つめる憂いを帯びたその横顔は、同性である者でもつい見惚れてしまいそうな色香があった。
「ご心配なく。わたくしに構う必要はありません」
「じゃあ、次また倒れたら今度は誰があなたを介抱するのかしら?」
意地悪く笑うと、無言のまま女が顔を背ける。それを愉快に眺めていたカミーヌの視線が、女の背中に向けられる。今は村娘を模した格好で人間族を装っているが、彼女の真の姿は、光り輝く一対の翼を有する超常の存在。古き神に仕えし氷の天使。
四守護テシルヌ――――それが彼女の名である。
この船に辿り着いた初日に話の途中で突然部屋を飛び出した天使は、実はその後、甲板に続く階段の前で倒れていたところをカミーヌに見つかり、あっけなく捕獲された。どうやら、本人の思っている以上に衰弱が激しかったらしい。だから暫くは安静にする必要があった。それでも目を離したらすぐに抜け出そうとする天使の監視と面倒を、手持ち無沙汰に困っていたカミーヌが一手に引き受けることになり、そして現在に至る。
「折角の厚意なんだから、素直に受け取っておきなさいよ」
「それはわたくしの望む事ではありません」
この身に代えても主を守り通す事こそが、四守護の最後の一人である己に課せられた使命。なのに、結局何も出来なかった。今この瞬間にも、主の御体が野蛮な人間族の欲望に晒されていると思うと、使徒であるにも関わらず黙って見ているしかない己の不甲斐無さに怒りすら湧いてくる。
「……そう」
控えめに相槌を打つカミーヌの足元を、湿った風が通り抜ける。分厚い雨雲に覆われた水平線で雷鳴が轟き、遠く離れた沿岸に停泊している船が波に揺れる。
ブレニア内海全域に発生した大嵐は、数日が経っても衰えることなく勢力を維持していた。猛烈な波風に出航を阻まれ、バリハルトの軍船の行方も追えず、大人しく嵐が過ぎ去るのを待つしかない。誰もが、現状を歯痒く思っているだろう。それはカミーヌも同じであったが、何よりも彼女が気懸かりにしていたのは悲嘆に暮れる天使の存在だった。
「此処に来る前にさ、あの男の様子を見に行ったの」
「……」
「もうずっと意識が無いし、どうせ無駄足になるのは分かってたんだけどね。でも、分かってても期待しちゃうのよ。今日こそは起きるんじゃないかって」
カミーヌの“大切な人”の仲間である男。初日に短い会話を交わしてから、件の人物は死んだように眠り続けていた。嵐の猛威に身動きが取れない船内での数日間、朝夕と部屋を訪ねては、一向に目覚める気配の無い男に焦燥を募らせる毎日。
いつまで寝てるんだ。
早く起きて、“彼女”の無事を教えろ。
いくら訴えかけても望んだ答えが返ってくることもなく、ただ時間だけが過ぎていく。焦れったくて、もどかしくて、ひたすらに苦痛だった。何度も、何度も声を掛けて、その度に重たい沈黙に打ちのめされて。苦痛を誤魔化すために、傷だらけの、反論もできない相手に見当違いの苛立ちを吐き出してしまう事もあった。
「……最低ね、私って」
最初は気遣うつもりだったのに、気付けば醜い己の内を曝け出して懺悔するように膝をついていた。隠しても滲み出る天使の神々しさにあてられてしまったのか。内心の変化に戸惑いはあっても、今更自分を取り繕う気にもなれず、首を垂れたままカミーヌは押し黙った。
「……」
沖から目を離し、暗い面持ちで項垂れる人間を翡翠の瞳が静かに見下ろす。
カミーヌ・セッテ。誤解とはいえ、仲間から裏切りに等しい仕打ちを受け、命を狙われた哀れな人間。頼れる者が誰もおらず、街に戻ったところで其処に元の居場所が残っている保証もない。意識して明るく振舞ってはいたようだが、このままでは遠からず限界がくるだろう。
(……状況が状況です。深入りするつもりはありませんが……このまま見捨てたが為に、海に身を投げられては我が主に申し訳が立ちません)
未来を失った絶望感に今にも圧し潰されそうなっているカミーヌという人間を見つめて、大きく息を吐く。憎き現神に仕える神官であれど、大罪を犯そうとする人の子を前にして平気でいられるほど堕ちてはいない。だから彼女は、ほんの少しだけ善意を差し出すことにした。
「人の……いえ、カミーヌ。顔を上げてください。戻りましょう、もうすぐ此処にも雨がきます」
「先に行ってて。私は、後から戻るから」
「そうですか。ならば無理にとは言いません」
ぽつぽつと、甲板に水滴が落ち始める。空を見上げれば、沖の方から流れ込んで来た黒く分厚い雲が船を丸ごと覆い、不穏な唸り声を轟かしていた。もう間もなく、本降りが来るだろう。
「しかし、宜しいのですか? 雨に打たれて風邪でも引いてしまったら、貴女の大切な人はきっと心配するでしょう」
「……えっ?」
その言葉に思わず振り返ったカミーヌと目を合わせる。彼女の心の中を見据え、不安げに揺れる瞳の奥にちらつく本音を掴み、ゆっくりと引き上げていく。
「その人物が何者であるか、わたくしは存じません。ですが、いつも楽しげな貴女の語り口から彼女の人物像を想像するのは容易です。少なくとも、悪人ではないのでしょう」
「も、勿論よ! クルージェは本当の私を理解して、愛してくれたんだから!」
勢いで立ち上がってから目の前で微笑を浮かべるテシルヌを見て、ハッと手で口を押さえる。なにか、とんでもなく恥ずかしいコトを口走ったような気がして、顔が熱くなるのを耐えながら必死に言い訳を考えていると、穏やかに微笑むテシルヌの全身から眩い光が溢れ出した。
「人は弱い。弱いからこそ人は支え合う。己を裏切った同族を信じる事が出来ぬのであれば、そのクルージェなる人物を信じて、生き延びなさい」
慈しみに溢れた声と共に、背中に生み出した光り輝く翼を広げて、降り掛かる雨粒からカミーヌを守る。天使としての本来の姿を限定的に発現させたことで、二人の周囲に澄んだ空気が流れ、青い燐光がぼんやりと甲板を照らす。短い時間ではあるが、魔術で他の船員達の注意は逸らしてある。誰にも気付かれる事のない閉ざされた空間。神秘的な光景に目を奪われながら、震える声でカミーヌが囁く。
「く、クルージェは……私を、見捨てないよね? 信じて、いいのよね?」
「はい。貴女が今の心を失わない限り、その想いはいつか必ず実を結ぶでしょう。だから、何があっても彼女を信じ続けなさい」
「……分かった。私、もう少しだけ、頑張ってみる……」
縋りつくカミーヌの肩を天使は何も言わずに抱きとめ、そっと彼女の髪を指で梳く。人間の感覚では捉えられない白い光に包まれて、静かに涙を流す人の子と、不器用ながらも温かな目でそれを受け止める天使。激しい雨が降り注ぐ中で、二人の居る空間だけは優しい時が流れていった。
『……ふぅん。あの天使も残酷ねぇ。ま、同情はしてあげるわ』
帆を畳んだマストの上。降りしきる豪雨も意に介さず、甲板の二人を面白そうに眺めていた影が適当に感想を呟く。だが、すぐに興味を無くしてそっぽを向くなり、ひょいとマストから飛び降りた。
『うふふ、凄く強い気配が一つ、二つ、三つ……あら、わたしの“半身”も其処にいたのね。あとは、ぼんやりしててよく分かんないのが一つ。やだもう、お姉様ったら人気者なのね』
燃えるような紅い髪に、穢れのない純白のワンピースを着た小さな少女がにこにこと笑う。青白い稲光が連続して落ち、空を引き裂く轟音と閃光を背に侍らせ、小鳥のさえずりのような可愛らしい笑い声を溢しながら。軽やかな足取りで船内へと戻ろうとして、階段の縁で立ち止まり、くるりと身を翻す。
光を吸い込む昏い輝きを灯した蒼い眼は、遥か遠く先に薄らと見えるリブリィ―ル山脈の、更に向こうを見据えていた。