堕ちた勇者は彼の地にて   作:胸焼け

31 / 34
第27話 追う者、追われる者

 地下都市フノーロ。

 光の現神勢力の迫害から逃れるべく、当時の闇夜の眷属らにより築かれたこの街に、外から旅人が訪れてくることは極めて稀だ。腐海に沈んだ地上はあらゆる種の生存を許さず、瘴気が蔓延する一帯を取り囲むように聳える赤茶けた山々は、恐ろしい怪物達の根城となっている。迂闊にも足を踏み込んでしまえば最後、無事に生きて戻れはしないだろう。

 無数に蔓延る悪意から這う這うの体で逃げ延び、容赦なく襲い掛かる猛毒の脅威を奇跡的に切り抜けたとして、その先で待っているのは複雑怪奇な地下迷宮。これを踏破するには住民の中でも一部に限られた、迷宮の構造を熟知している者の案内が必須である。とは言え、極めて閉鎖的な環境に住む彼等が己が身を危険に晒してまで余所者を助ける筈もない。

 ましてや相手は素性の知れない人間。いや、そもそも人間であるかも定かでない。そのような存在に対してなんの疑いも、打算もなく、端から友好的に接する事が出来るとすれば、その人物はよほど豪胆か、或いは身目麗しい女の色香に惑わされた単なる愚か者だ。

 

 では今現在、都市から徒歩にして半日ばかり離れた迷宮内の一角を探索している魔術師の男は、果たしてどちらに該当するのか。周囲への警戒を忘れずに、されど頭の片隅でここ数日に渡る自身の行動を振り返っていたアビルース・カッサレの視線が、前を歩く存在の背中を捉える。

 

「地上ではそろそろ陽が傾く頃合いです。一旦、休憩を挟みませんか?」

「……いや、まだ大丈夫だ」

 

 アビルースの提案にやや遅れて、先頭を突き進んでいた人物から短く否定の言葉が返って来る。耳触りの良い、透き通った女の声。落ち着いた口調の中に僅かばかりのぎこちなさを滲ませて、後ろを歩く青年魔術師に遠慮がちに一言告げると、灰色の外套に覆われた背中が早足で動き出す。穏やかでありながらも、何者にも曲げられない強い意志を感じさせるその姿に、青年は朗らかな笑みを浮かべながら思考する。

 今日は早朝に街を発ってからずっと迷宮に籠っている。最初の目的であった、迷宮各所に設置されている浄化装置の修復は早々に完了した。なのに、未だ帰還せずこうして僻地の探索を続けているのには理由がある。 

 

(延々と魔物を倒し、不足している魔力を回収していく。冗談かと思いきや、まさか本当に実行してしまえるとは……)

 

 普通の人間でないこと自体は青年も見抜いていた。ただ、つい昨日まで歩くのがやっとだった程に衰弱していた人物が、翌日には平気で剣を振るっているなど、実際に傍で見ても信じ難いものがあった。常識を意に介さない目の前の存在がうかがわせる傑物の片鱗。勇ましくも、どこか哀愁を感じさせる物静かな出で立ち。

 まるで、それは――――

 

「――っ、この感覚は……セリカさん、前から来ます!」

 

 薄暗い通路の奥。闇の向こうより発せられる複数の視線に、アビルースの意識が瞬時に切り替わる。明確な敵意に向けて素早く両手を構えると、指先の魔力を研ぎ澄ませ、集中力を高めていく。若輩ながら、人間族としては一線級の実力を持っているアビルースであれば、不意を打たれない限りこの迷宮内に生息する大概の魔物は対処できる。彼自身も魔物退治は慣れたもので、見えない敵集団の規模についても既にほぼ把握していた。

 

(魔力に反応した数は六体。……ゆっくり近付いて来る)

 

 足を止めた彼等の見据える先、真っ暗な闇の中から不気味な火の玉が浮かび上がる。冷たい石の床に乾いた足音が響き、重々しい金属を引き摺るような不快な音が通路全体に反響する。おどろおどろしく揺らめく昏い灯火は徐々に数を増やしていき、こちらに近付いて来るにつれて、ぼんやりと人の形をした輪郭が浮かぶ。

 落ち窪んだ眼窩に嵌め込まれた二つの灯火。肉が腐り落ち、剥き出しとなった骨格。黒く変色した枯木の腕に支えられる肉厚の刀剣には錆びた血糊がこびり付き、その刃先で床を削り取りながら呻き声を上げている。

 

 アビルースの記憶にある、その魔物の名は“連鎖の骸骨”。

 自身が修める魔術の系統とは相性が悪いものの、幸いなことに敵は飛び道具の類を所持していない。ならば対処は容易だ。距離が離れている今のうちに牽制も兼ねた純粋魔術である程度弱らせ、強化の付術を施した“彼”がトドメを刺す。単純だが、複雑な思考が出来ない魔物相手には効果的だ。呆れ返るくらいに何度も繰り返し実践した工程を今一度、脳内で反復したアビルースが隣を向く。

 

「それでは、先ずは僕が――」

「待て、アビルース」

 

 紡ごうとした台詞はしかし、最後まで言い切る前に他ならぬ“彼”の手によって制される。なぜ、と疑問を口にしようとした青年だったが、次の瞬間に見たものを前にして息が止まる。

 

「大分、身体も軽くなった。だから少し試したいんだ」

 

 灰色の外套の下から伸びた、白く透明感のある美しい腕が胸元に回り、留め具を掴んで指を引く。分厚い衣が床に落ち、舞い上がる埃をすらりとした長い足が踏み締める。

 それは、暗く淀んだ地下とは明らかに場違いな、天上より舞い降りた紅の乙女。質素な冒険者風の衣服に身を包んでなお光り輝く碧眼の麗人。一瞬だけ宙を泳ぎ、重力に引かれて緩やかに流れ落ちる紅玉の艶髪はうなじの辺りで一本に結ばれて。背筋を真直ぐに伸ばし、鞘に収まった長剣を片手に、迫り来る亡者の群れに怯む事なく立ち向かう勇姿は、誉れ高き騎士のようであった。

 

 惜しむらくは、()は……そう、美しい女性にしか見えないが、彼は……紛れもない“男”である。その事実を本人から聞かされた時にアビルースが受けた衝撃は計り知れない。

 

「……はっ! こ、こんな時に僕は何を考えて……!?」

 

 妙な方向にズレていく思考を頭から叩き出し、混乱から復帰したアビルースの横顔を突風が掠める。その正体に気付き、風の行き先を追いかけるように視線を前方へ投げ、顔から血の気が引く。常人では視認も困難な速度で、獣よりも俊敏に駆け抜ける赤い閃光。刃を納めた得物を片手に正面から突貫しようとするセリカを、亡者達の燃える双眸は冷酷に、昏く歪んだ情念を灯らせながら捉えていた。

 

「いけない! 駄目ですっ、セリカさん!!」

 

 一斉に持ち上がった刀剣が、憎むべき生者に殺到する。最悪の結末を予感したアビルースが無我夢中で叫ぶ。完全に動きを読まれていた。狭い通路の僅かな隙間を埋めるように展開した亡者の壁がセリカを囲み、殺意の塊が容赦なく振り下ろされる。走り出した勢いを殺すことが出来ず、正面から飛び込んで来た獲物に嬉々として刃を向ける異形の眼光。だが、それを見つめ返す青い瞳に迷いは無い。

 

「心配するな、アビルース」

 

 背後で立ち尽くしている気の良い青年を安心させようと呟き、同時に身体を前屈みに折り曲げる。極端に重心を前に傾けた事で頭から床に転びそうになるが、寸前に右の軸足が床面を掴み、強烈に踏み抜くことで爆発的な加速を得たセリカが瞬時に敵集団の背後を取る。反応が遅れ、眼窩の炎を揺らめかしつつ振り返った亡者の数は三体。駆け抜けるセリカと交差した残る半数は、すれ違いざまに頭部や胴体を切り裂かれ、焦げた臭いと白煙を吐き出しながら床に崩れ落ちた。

 

「よし……これなら、魔力を節約しても十分に戦える」

 

 赤熱した切断面から煙を立ち上らせる亡骸を見下ろし、新しい得物――マーティルミルバの切れ味に満足げに頷くセリカ。 

 この階層を探索している時に遭遇した、“ヒートワーム”という魔物が呑み込んでいた一本の長剣。それは非常に珍しい、火炎属性が付与された魔法剣だった。相性の関係から使いどころは限られるが、通常の武器では歯が立たない不死の魔物を相手にする場合、神聖属性の次に効果的な火炎の魔力を宿したこの魔法剣は、今のセリカにとって極めて有用な手札と成り得た。

 

「立て直す暇は与えない。これで、終わらせる……っ」

 

 床を蹴り、間髪入れずに振り抜いた紅焔の軌跡が二条、三条と重なり、骸の兵士達の脇を滑り抜けていく。正面に陣取っていた一体の魔物は、盾代わりに構えた大剣ごと上下真っ二つに引き裂かれながら後方に吹き飛んだ。続けて、左右から仕掛けた魔物達の得物が何かに弾かれるようにして宙を舞い、硬直した身体に幾つもの光の筋を叩き込まれ、火達磨になってセリカの足元に倒れ込む。

 あっという間の出来事だった。凶悪な魔物の群れを無力化させるのに掛かった時間は一分にも満たない。支援もなく単独で、しかも無傷で討伐してしまった。高温で赤く発光した刀身を緩やかに鞘に戻すセリカを呆然と眺めて、アビルースは伸ばしていた腕を静かに下ろす。

 

「流石ですね。セリカさん、お怪我はありませんか?」 

「大丈夫だ。ただ、やはり援護がないと気が抜けないな」

「ご謙遜を。僕なんかでは戦力の内に入らないですよ」

 

 辺りに蔓延していた敵意はもう感じられない。念のため、近くに隠れ潜んでいる魔物はいないか周囲の気配を探るが、特にこれといった感触は無い。迷宮内に広がる薄い魔力の流れも正常そのもの。この階層から移動しない限り、暫くは外敵から襲撃を受ける心配はないだろう。

 

「まだ余裕はありますが、もう少し探索を続けますか?」

「そうだな……」

 

 心なしか、普段の息苦しさが幾分か和らいだように思える迷宮内でアビルースが問いかける。半日も狩り続けたせいか、あれだけ犇めいていた魔物達も大分その数を減らし、それに比例して魔力を回収する効率も悪くなってきている。これ以上、同じ場所に籠っていても劇的な変化は見込めない。膠着した状況を打開するには、より深い階層に潜り、より強大な魔物と対峙する必要があるが……

 

「いや……やめておこう」

「宜しいのですか? 僕に遠慮しているのでしたら――」

「そうじゃない。アビルース、後ろを見てみろ」

「え? 一体何が……あっ!?」

 

 口元に隠しきれない笑みを滲ませるセリカを奇妙に思いつつ、背後を振り向いたアビルースが驚きの声を漏らす。視界の片隅、薄暗い通路の曲がり角。その影からはみ出している白い羽と、金色の稲穂のように垂れ下がった前髪をぴょこぴょこと揺らす見慣れた人影を目にして、思わずその名を叫ぶ。

 

「ペルルっ! 怒らないから出てきなさい!」

「……え、えへへ。バレちゃった」

 

 誤魔化すように笑いながら顔を出したのは、魔術師アビルース・カッサレの唯一の弟子にして自称優秀な一番弟子。現在、師から留守番を任されている筈の鳥人の少女ペルルだった。

 

「なぜ付いて来たのです。僕は意地悪で君を残した訳じゃないのですよ?」

「ご、ごめんなさいお師範様。でも、ボクもセリカの役に立ちたくて……」

 

 顔を俯けて言い淀む愛弟子に、アビルースは小さく首を振る。セリカに協力したい、彼の力になりたいという気持ちは痛い程によく分かる。自身も、ペルルと同じ理由で彼と行動を共にしているのだから。

 だが、魔物と戦う際に本調子でない者を連れていては、却って足枷となってしまう。使い魔が生命の危機に陥った場合に、無事に回収する為の喚石は工房に置いてきた為、絶対の安全圏(セリカの手元)で匿うことも出来ない。今後、新たな魔物と遭遇すれば必然的に戦闘に参加する事になるのだが……寝不足で目の下に大きな隈を拵えたペルルを見て、これなら大丈夫だと誰が言えようか。

 どうしたものかと険しい表情で唸る師匠に何も言えず、泣きそうな顔で両腕の翼を縮こまらせる弟子。その様子に、流石に居た堪れなくなったのか、気まずそうに助け舟を出す者が一人。

 

「その辺で勘弁してやってくれないか。夜中まで彼女を付き合わせたのは俺だ。責める相手が違うだろう?」

「セリカさん……はぁ、仕方ありません。ペルル、この鞄を預けます。君には素材の採取で頑張ってもらいますよ」

「っ! うん、任せてお師範様!」

 

 鬱屈とした雨模様から打って変わり、明るい日差しの降り注ぐ満開の笑顔になったペルルがアビルースの手を引いて元気に歩き始める。急に力強く引っ張られ、何度も転びかけては師匠が文句を言い、弟子はそれを聞き流して迷宮を闊歩する。二人の後を追従するセリカは微笑ましい師弟の姿に一瞬、此処が血生臭い地下空間であることを忘れそうになった。

 

(こうして見ると師弟というより親子か、兄妹だな……)

 

 

 ――『ほらセリカ! い……でも泣かないの!』

 ――『…………』

 ――『そりゃ……悔し……わよ。で……たちは……』

 

 

「……っ」   

 

 か細く、聞き取り辛い雑音のような声が脳裏を掠める。

 輪郭の崩れた、人の形をしたナニカが語りかけてくる。

 

 灰色の砂嵐に覆われたその顔は、何よりも大切な記憶の断片。お互いに支えあい、苦楽を共にしてきた者との絆。この世に一人だけの、掛け替えのない肉親への想い。

 能天気で、妙齢の女性とは思えぬほど私生活はだらしなく、その割りに神殿の職務は真面目にそつなくこなすのが腹立たしい。そこいらの荒くれ者を鼻で笑うくらいに豪胆で男勝りで、身内として真剣に嫁の貰い手の心配をしてしまうような、とにかく放っておけない不肖の片割れ。

 だけど、そんな彼女の笑顔に勇気付けられた。真っ直ぐで、裏表が無く、異人の血が混じっているからと侮蔑の視線を向けられても、だからどうしたと豪快に笑い飛ばす。頼りがいがあって、誰よりも尊敬する、自慢の姉だった。

 

「なのに……どうして思い出せない……? 姉さんの顔も……名前も……どうして……っ!」

「セリカさん? ……セリカさん!? 大丈夫ですか!」

「どうしたのセリカ!?」

 

 背後からの苦渋に満ちた声にアビルースが振り向き、様子がおかしいセリカを見て血相を変える。慌てて駆け寄り、声をかける傍らで、同じように慌てふためいているペルルに急いで指示を出す。

 

「ペルル! 鞄の中の薬をっ!」

「えっ、クスリ!? え、えーと……」

「精神安定の葉を煎じた水薬です! ほら、緑色の!」

「……待て。俺は、大丈夫だ……」

 

 肩がけの袋を開き、師匠に急かされつつなんとか目当ての代物を発見するペルル。しかし、目の前に差し出された薬をセリカは手で押し返し、肩を貸そうとするアビルースから離れ、背を向けて立ち止まる。

 

「セリカさん、なにを!?」

「心配は要らない……ただの立眩みだ」

「強がらないでください! さぁ、一緒に戻りましょう」

 

 なるべく相手を刺激させないよう気を払いながら、慎重にアビルースが歩を進めていく。一歩、二歩、ゆっくりと。離れていた距離は徐々に縮まり、深く息を吐く。焦ってはいけない。意を決して伸ばした手が、セリカの手首をしっかりと掴み――

 

「ッ――触るなっ!!」

 

 迷宮に響く叫び声。

 絹を裂くような悲鳴に、すべての時が止まる。

 

「……セリカさん?」

 

 寒々しい静寂の中に茫然と立ち尽くすアビルース。

 己が拒絶された、その事実を正しく認識出来ていないのか。払い除けられた手を虚空に漂わせ、蒼白な顔にぎこちない笑みを貼り付けて言葉を紡ごうと試みるも、口は震えてまともな発音が叶わない。対するセリカは硬直した青年の姿に逸早く我に返り、しまったと乾いた声で呟く。

  

「ち……違うんだ! その、今のは……」

 

 しどろもどろになって、どうにか弁明をしようとセリカが足を踏み出したその時だった。

 思わぬ事態、誰もが予期していなかったであろう異変が、兆候となって“降り注いだ”のは。 

 

「うひゃ、冷たいっ! なにこれぇー!?」

 

 ぽたぽたと、水滴が床に弾ける音が暗がりに木霊する。堅牢な石造りの通路に、まるで雨が降り出したかのような奇妙な現象。驚愕、混乱、疑問。ソレを受け止める反応は三者三様。だが、次に彼らが取った行動は全て同じ。怪奇現象の発生源、自分達の頭上を一斉に見上げ、そして全員が息を呑む。

 

「なんだ……これは……?」

 

 真っ赤に濡れた天井。切り出した石の繋ぎ目から滲み出る濁った赤黒い液体。滴り落ちる粘着質の雨粒が灰色の床を紅く、乱暴に塗り潰す。天井や壁の亀裂から夥しい量の血が噴き出し、真紅に染め上げられていく異様な光景にアビルースも、ペルルも驚愕のあまり動けなかった。

 

「――逃げろッ!! 今すぐ此処から離れるんだ!!」

 

 眼前の惨状を前にして硬直する二人に、鬼気迫る表情のセリカが怒号を飛ばす。

 

「せ、セリカさん? 急にどうしたのですか?」

「説明は後だ! 二人とも、振り返らずに走れッ!」

 

 血溜りの向こうから忍び寄る、尋常ならざる悪意の奔流。迷宮を震わせる魔の胎動。アビルースらの背中を突き飛ばすように強引に押しやりながら、一刻も早くその場から離れろと叫ぶ。人間の領域を逸脱した肉体が彼に教えてくれた。超然たる存在が等しく有するモノ。生態系の頂点に君臨する王者が放つ覇気とでも言うべき、極限まで高め、磨き抜かれた純粋なチカラの断片。暗闇の彼方から獲物を見据えるその気配に、セリカは覚えがあった。

 

()ではない! ニアクールの遺跡で襲ってきた奴とは違うが……これは、駄目だっ!)

 

 神の定めし理の檻に囚われた脆弱な生命体には到底、理解し得ぬ。過去にそれが大地を過ぎり、間近に居ながら幸運にも生き残った弱き者は、世を蹂躙し尽くした超常の支配者達が身に纏う覇気を――――“異質な気配”と言い表す事で、辛うじて自分達が住む世界の枠組みに落とし込んだ。

 

「なんだか床が揺れてるよぉ! うわぁっ!?」

「止まるなペルル! 今は少しでも遠くに逃げるんだ!」

 

 躓いたペルルの手を取り、再び足を動かすセリカの背後で、瓦礫の砕け落ちるけたたましい音が鳴り響く。セリカに連れられて一緒に走り出す寸前につい、音がした方向を振り向いてしまったペルルは、迫り来る赤い津波を見て飛び上がりそうになった。

 

「あ、あわわ……わぁあああ!?」

 

 叫びながら全力で走るペルル達を瓦礫の濁流が猛追する。通路を崩落させながら残骸を巻き込み、転がっていた魔物の死体を粉砕し呑み込んでいく。暴力的なまでの質量の塊は無秩序に、目の前に立ち塞がる全ての存在を平等に轢き潰す。

 このままではとても逃げ切れない。追い付かれるのも時間の問題だ。必死になって逃げるアビルースとペルルに黙って、セリカが足を止める。

 

(二人を付き合わせたのは俺だ。責任は、俺が取る)

 

 己の勝手で、罪無き善良な人々を死なせる訳にはいかない。知らずに遠く離れていく彼等に心の中で謝罪し、深呼吸をして乱れた精神を落ち着かせる。意識を己の内へと沈ませ、体内を循環している膨大な魔力を外に引き出していく。

 

「……サティア。俺に力を貸してくれ……!」

 

 想い人の名を囁き、力強く腕を振り上げたセリカに容赦なく濁流が襲い掛かる。華奢な身体はあっけなく呑み込まれ、赤茶けた津波は更に勢いを増しつつ、次なる標的に向かって唸りを上げた。

 

 

 ――――電撃魔術『落雷』

 

 天を裂き、大地を砕く一条の光。白く、眩い輝きを放つ雷光の槍が濁流に突き刺さる。衝撃波が汚泥を吹き飛ばし、続けざまに響いた轟音が迷宮を軋ませる。雷撃の落着点となった場所は黒く焦げ、へし折れた柱の上に降り立ったセリカが小さく呟く。

 

「……まだだ」

 

 今の一撃で濁流の勢いは完全に殺せた。

 だが、それで終わりではない。

 

「こんなものじゃ、まだ……っ」

 

 通路の片側を塞ぐ瓦礫の山を睨む。射殺さんばかりの鋭い眼差しを向け、昂る感情のさざ波が猛々しい魔力となって全身に迸り、暴風の渦がセリカを包み込む。

 

「出し惜しみをしては……アレは止まらないッ!」

 

 ――――電撃魔術『大竜巻』

 

 光が満ちる。音が消える。

 何も見えず、何も聞こえない。

 

 持てる全ての力を振り絞った渾身の大魔術が、先の雷撃とは比較にならない極光があらゆるモノを焼き尽くす。逃げ場の無い閉鎖空間を、無限に広がる真空の刃が切り刻む。世界を蹂躙する轟雷と烈風は正に必殺。 

 人間族の扱う魔術とは即ち神の奇跡。人々は信仰を捧げ、その見返りとして神々は魔術という奇跡を人々に与えた。ならば、背信者となったセリカが今尚こうして神の奇跡を行使できる理由、その答えは自ずと一つに導かれる。

 

「まだ……俺は何も成してない……何一つ、俺はッ!」

 

 まだ、死ぬわけにはいかない。

 記憶を失い、自分を待っている人達を置き去りにして勝手に死ねるものか。こんなところで、何もわからず仕舞いのまま無様な死を遂げるなど。そんなこと、認められる筈がない。

 

「俺は生きる。生きて、迎えに行くんだ!」

 

 サティアを、姉さんを、故郷のみんなを。

 

 運命が邪魔をするというのなら、此処で冷たい骸をさらすのが神々の定めというのなら。たとえ世界を敵に回そうとも、行く手を阻むその全てを否定し、未来を掴み取ってみせる。

 

「だからッ……道を開けろぉおおお!!」

 

 本来であれば矮小なる人の器に見合った慎ましい魔術が、桁外れの威力を伴って世界を圧し潰していく。限界を超え、運命を切り拓く人間の意志は、ときに世の理をも捻じ曲げる。それは、神々にすら想定できない奇跡の所業。圧倒的な光の暴風雨が、忍び寄る邪悪を彼方へと洗い流していく。

 

「どう、だ……! これならッ!!」 

 

 これなら、退けられるかもしれない。魔術を行使するさなか、セリカは手応えを感じていた。絶望の淵で見出した小さな光明。儚い灯火は彼に更なる勇気を与え、酷使の連続で擦り減った精神が果敢に奮い立つ。同時に、彼は僅かに気を緩ませた。

 隙と呼ぶにはあまりにも小さ過ぎる隙。次の瞬間、白光の渦を引き裂いて猛然と突っ込んできた巨大な“壁”が、小粒のようなセリカの身体を撥ね飛ばした。

 

「がッ!? な……ぐ……ぁ……ッ」

 

 何が起きたのか、理解できなかった。

 血飛沫が舞っている。天地が何度も引っ繰り返っている。足を下ろす地面が何処にもない。それが、空を泳いでいたせいだと気付いたのは、重力に引っ張られて床に激しく叩き付けられてからだ。

 

「ぐ、ぅ……足が……重い……からだが……動かな――」

 

 血反吐を吐き、床を這いながらなんとか立ち上がろうと呻くセリカの眼前に、一滴の雫が落ちる。粘性のある不気味な赤黒い液体が、罅だらけの床にじわりと染み込んでいく。震える両手で床を押し退け、激痛に耐えながら頭上を覗き見て、血に濡れたセリカの端正な顔が苦々しく歪む。

 

「くそっ……化物……め……」

 

 地に這い蹲って悪態を吐く惨めな獲物を、蛇に似た姿を持つ異形の怪物が悠然と見下ろす。堅牢な黒鉄の鱗に覆われたその途方もない巨躯は、人間用に造られた迷宮の通路にはとても収まりきらず、身動ぎする度に周囲の壁が砕け、罅割れて陥没した床の上にぼろぼろと砂礫が降り注ぐ。頭部に刻まれた無数の古傷は、永劫に亘る闘争の果てに手に入れた絶対的強者の証。

 なかでも特に目を惹く、潰れた左目の上を逆袈裟に走る大きな裂傷の跡はまだ真新しいようで、塞がりきっていない傷口からは血の涙が止めどなく流れ落ちていた。  

 

「逃げ……ないと……ぐっ……!」

 

 受け身も取れずに倒れ込んだセリカに、怪物の巨影が迫る。城塞の如き鋼の体表に目立った傷痕は無い。潰れた左目も、おそらくはセリカ達が異変を察する以前に負傷したものだろう。決死の覚悟で放ったセリカの全力も、所詮は足止め程度にしかならなかったのだ。

 立つこともままならず、もはや打てる手はない。それでも、抵抗の意志を曲げずに活路を見出そうと足掻き、残された可能性を懸命に模索するセリカの視界に、黒衣に包まれた何者かの足が映る。

 

「セリカさん!! なんて無茶な真似をッ!」

「……っ………ああ……アビルース……か……?」

「無理に喋らないで! 兎に角、此処を離れましょう!」

 

 瀕死のセリカを助けに来たのは、先に逃げていた筈の魔術師の師弟。彼等、もといアビルースは只ならぬセリカの様子に危機感を覚え、逃げている途中で背後から莫大な魔力が噴き上がるのを感じるや否や、すぐさま引き返して来たのだ。

 

「この先に転移装置があります、それまでの辛抱です!」

「……すまない……すまない、アビルース……」

「お師範様! はやくはやくっ!」

 

 血塗れのセリカに肩を貸してなんとか走り出すアビルースから少し離れた先で、両腕をばさばさと振りながらペルルが声を張り上げる。少女の傍には細い柱が円形に並んだ奇妙な構造物が鎮座しており、その中心に据えられた魔法陣は静かに光り輝いていた。

 

「最後に、このレバーを引いて……よいしょお!」

 

 大きな掛け声と共に魔法陣の輝きが強くなり、甲高い起動音を上げながら装置が振動する。これで準備は完了。一仕事終えたペルルが白い翼で汗ばんだ額を拭い、自信満々に師匠たちの方を振り返る。そして目にしたのは、こちらに駆け寄って来るアビルースらと、その後方で大口を開けたまま静止している隻眼の怪物。

 濁り、血走った黄金の瞳が醜く歪む。底無しの闇が広がる口腔から熱風が吹き上がり、暗闇の奥底で火の粉が散った。

 

「あっ……」

 

 不味い。

 彼女の直感が警笛を鳴らす。

 

 ぶわっと汗が滲み出る。いつの間にか、寒いぐらいだった通路は地下とは思えないほどの異常な暑さと熱気に満たされていた。

 

「お師範様ッ! セリカぁ!! 逃げてぇぇッ!!」

 

 叫んだ瞬間、固定砲台と化した怪物の顎門が咆哮する。張り裂けた稲妻の断層が通路を分断し、衝撃波を伴う轟音が階層を越えて迷宮全体に伝播する。鼓膜が引き千切れそうな砲声を浴びて、反射的に耳を抑えたペルルの足が床から離れる。強烈な熱風は小柄な彼女の身体を容易に持ち上げ、起動中の魔法陣へと押し込んだ。

 

「あ……だ、ダメッ!? 待って! まだみんなが――」

 

 制止の声は掻き消され、自動で動き始めた魔方陣により、ペルルは一人どこかへと転移させられる。直後、業火の荒波に呑み込まれた装置はその機能を喪失し、あらゆる生物が紅蓮の災禍に沈む。狂った雄叫びを上げながら怪物は尚も灼熱を吐き散らし、地獄を拡大させていった。

 

「――――っ」

 

 だが、不遜なる王者の行進は唐突に終わりを迎える。

 狂気に染まった隻眼に再び黒い殺意が宿り、炎に包まれた瓦礫を押し退けながら巨体を反転させると、荒々しい砲声が連続して轟く。空気を裂いて飛来した流星群は火の海の一角に突き刺さり、一瞬遅れて無数の火柱が上がる。

 天井を貫き、壁面を逆流して膨れ上がった爆炎が彼方此方で弾け飛ぶ様を睥睨し、尚も執拗に暴虐を振り撒く大蛇を押し留めたのは、紅蓮の海原から射出された銀の一閃。

 

「堕ちた竜よ、これ以上は貴様の好きにさせぬ」

 

 更なる猛攻を浴びせようと、鎌首をもたげた怪物の頭部からだらりと伸びる銀色の鎖。鞭のようにしなり、鋸のような細かい刃を展開させる事で、全方位を縦横無尽に切り刻む特殊な武器。ナーガ族が好んで使う蛇腹剣の薄刃だ。怪物の右目に突き刺さった刃の連結を辿っていけば、渦巻く炎を隠れ蓑にした結界の中で、二人の人間と一人の人外が息を潜めていた。

 

「さて……主ら、死んではいまいな?」

「リ・クティナ……助けてくれたのか……」

「お主に死なれては妾も困る。使徒ならば当然の働きよ」

 

 礼には及ばぬと、蛇の下半身を揺らめかせた白金の美女がセリカに答える。白磁の肌を晒し、一糸纏まぬ姿でありながらも、何気ない所作の節々から溢れる高貴な佇まいは淫靡な香りと無縁のもの。その細腕が操る蛇腹剣の軌道は変幻自在。吹き荒れる業火を侍らせた貴婦人が腕を横に振るうと、その動きに呼応して周囲の炎がうねり彼女らを覆う垂幕となる。

 

「暫しの時間稼ぎだ。全く、面倒な輩に目を付けられた」

「っ! まさか、貴女はあの化物をご存知なのですか?」

 

 リ・クティナの呟きに反応したアビルースが問いを投げる。しかし、彼女は疑問の答えを口にすることなく、伸びきった蛇腹剣を引き戻し、手元に手繰り寄せた刀身を見詰めて押し黙る。薄く、鋭い切っ先に血や体液が付着した形跡は無い。

 

「固いな。眼球すらも急所とは成り得ぬのか」

「……リ・クティナ……アビルースを連れて逃げろ……」

「簡単に言ってくれる。お主には使命が――むっ?」

 

 死に体の主が吐いた無責任な発言に異を唱えるも、その寸前に視界を横切った緑色の小さな妖精に意識が傾く。光り輝く翅を羽ばたかせるのは、無言で自身の存在を主張するパズモ。無表情ながら、どこか焦った風な様子で通路の反対側――怪物とは真逆の方向を指差す妖精を見上げ、瞬時にその意図を解したリ・クティナが傍らのアビルースに叫ぶ。

 

()()()()()()()! 魔術師よ、セリカを抱えておれ!」

「それはどういう……いえ、そもそも貴女は――」

「問答をしている場合かッ! 妖精よ、頼むぞ!」

「……!」

 

 折れて傾いた床をリ・クティナの繰り出した火炎魔術が抉り貫き、下層へと通じる大穴に全員が否応なしに呑み込まれる。悲鳴を上げ、猛烈な勢いで落下していきながらアビルースはセリカを抱きかかえ、自分の身体を下にして衝撃に備えたものの、実際にその身に降り掛かったのは肩透かしの浮遊感。

 

「――っ、これは……身体が、浮いて……?」

「風妖精の力だ。このまま下に着くまでじっとしておれ」

 

 狭い立坑をふわり、ふわりとつむじ風の揺り籠に運ばれ降りていく一行。穴を抜けると一気に視界は開け、地下都市フノーロがすっぽりと収まってしまうだろう広大な空間が彼女らを歓迎する。

 

「ふむ。随分と光が遠い。だいぶ深い所まで落ちたな」

「……リ・クティナ殿」

 

 パズモと並んで、天井の大穴から零れた残火を眺めるリ・クティナの背に、今日幾度目かの問いを投げるアビルース。怪物の襲来、命懸けの急降下と、衝撃の連続に挫けそうになった精神を辛うじて持ち直した彼は、真剣な顔でナーガ族の長を見据えていた。

 

「言わずともよい。彼奴について知りたいのだろう?」

「……やはり、あの化物達をご存じなのですね」

 

 上層から落ちる直前、地響きを上げて猛進する黒い影をアビルースは目撃していた。先の怪物と同様の姿形、同様の巨躯を誇り、迷宮を破壊しながら迫り来る黄金の双眸。その意味を飲み込むと同時に絶望が込み上がる。

 一匹だけでも手に負えないというのに、少なくとも二匹。暴虐の化身は複数の個体が存在したのだ。

 

「どうすれば……あのような怪物が何匹もいてはフノーロはおろか、地上も――」

「違う」

 

 震える腕を抑えて恐怖に慄く魔術師の言を、リ・クティナはバッサリと切り捨てる。毅然とした態度で彼女は、ナーガ族としての叡智が導き出した怪物の真名を魔術師と、彼の背後で静かに立ち上がった赤髪の戦士に向けて告げる。

 

「奴は――――だ。今まで目にする事はなくとも、その名を耳にした事くらいはあるだろう?」

「っ!? ならば先程の二匹……いや、アレはッ!」

「同一の個体。唯一にして絶対の存在――“魔神”だ」

 

 アビルースが絶句し、彼より一歩前に出たセリカが虚空を睨む。

 

「……どうやら、奴は俺達のことを諦めていないらしい」

 

 近付いて来る。小さな振動が、段々と強くなっていく。壁際に並んで設けられた青白い灯火が揺れ、空に穿たれた大穴を中心に亀裂が走り、砂埃が彼等の頭上に落ちてくる。逃げ道は、何処にもなかった。

 

「そんな……追いかけて来たというのですか!?」

「覚悟を決めよ。彼奴めは血と闘争を求める理性なき獣。その残忍さは、かの魔神ハイシェラに比肩するものぞ」

 

 やがて大穴は打ち砕かれ、狂える業火を纏い、ソレは現れる。

 溢れ出る憎悪を燃やす隻眼。輝く黄金の双眸を細め、地上の人間達を見下ろす黒鉄。二頭の怪物を両脇に退け顔を覗かせたのは、山羊の様な捻じれた角を生やした三つ目の頭部。それは地平を喰らい、生態系の頂点に君臨する三つ首の黒竜。その名は、“魔神トリグラフ”。

 

「ど……どうして、なのですか……!」

 

 魔神の全貌を視認した途端、あまりに冒涜的で圧倒的な重圧にアビルースの膝が床に縫い付けられる。休みなく襲い掛かる死の気配が抵抗する気力さえも根こそぎ奪っていく。

 

 無理だ。

 勝てる訳がない。

 

 生物としての格が違いすぎる。あんな化物に、神に近しい力を振るう魔神に抗える筈がない。

 

「なのに……どうして……っ!?」

 

 ――どうして、セリカ(貴女)は立っていられるのだ。

 

「生き永らえたくば剣を取れ、セリカ・シルフィルよ」

「言われずとも。俺はまだ、少しも諦めちゃいない」

「ふ、然様か。それでこそ妾の見込んだ男だ」

「……!」

「ああ、わかってるさパズモ。俺は……生き残る」

 

 血塗れになりながらも、その青い目に陰りは無い。傷付き、心折れた魔術師を守る為に。己の帰りを待っている家族を迎えに行く為に。想い人から神格を託された人間族の戦士は、人ならざる者達と共に運命に抗う。

 愚かにも抵抗を続けようとするムシケラを強大なる竜は嘲笑い、容赦なく牙を剥く。

 瘴気を帯びた黒翼を広げ、生命を蝕む狂乱の叫びを三つ首から奏で――――魔神トリグラフが、飛翔した。

 

 

          ・

          ・

          ・

          ・

          ・

 

 

 ――同時刻、地下迷宮上層。

 

『……』

 

 ひと気の無い小道を小さな影が疾走する。全身を包む純白の毛並みは新雪のように柔らかで、短い四肢で軽々と障害物を飛び越えていく。傍から見れば、白い毛玉が跳ね回っているようでなんとなく滑稽なその生き物の正体は、何処にでもいる普通の猫である。

 

『……!』

 

 一本道の通路の分岐に差し掛かった辺りで急制動をかけた毛玉は、すんすんと鼻を鳴らした後に、幾つもある枝道のうちの一つに飛び込んだ。そうして選んだ道を暫く走っていたかと思えば、またしても急に動きを止め、壁際に落ちていた布切れに視線を投じる。

 

『……。……っ……』

 

 空色の瞳を光らせ、一心不乱に布切れの匂いを嗅いでいた白猫がパッと顔を上げる。遠くの方から微かに聞こえた足音に目敏く反応し、こちらに近付いて来る何者かの息遣いを感じ取った段階で白猫は素早く物陰に身を隠した。すると……

 

「お師範さまぁ……セリカぁ……どこにいるの……?」

 

 暗がりの中からトボトボと歩いて来たのは、師匠とはぐれてしまった鳥人の女の子。天真爛漫、いつも明るく元気一杯な少女は、赤く腫らした目から涙を零しながら知らない道で迷子になっていた。

 

「うぅ……みんなどこなの……? ……あ、これ……」

 

 俯いていたペルルは視界の隅に紫色の布切れが転がっていることに気付く。妙な既視感に促されるまま手に取り、観察してみて思い出す。コレはフノーロの女魔術師が愛用していたスカーフだ。 

 

「なんでこんなところに……? よくわかんないけど、戻ったら届けてあげなくちゃ!」

『……っ』

 

 ペルルがスカーフに意識を向けたその隙に、隠れていた白猫は機敏な動きで背後に回り、彼女が肩にかけている道具袋へと忍び込む。半開きだったフタの隙間にするりと体を滑り込ませた猫は全身の毛を逆立たせ、“外からやって来る脅威”に対して身構えた。

 

「ん? なんか袋から変な音が――うわぁっ!?」

 

 もぞもぞと動く道具袋の中身に気を取られていたペルルは、闇を裂いて飛びかかってきた魔物への初動が遅れ、馬乗りになられた上でその強靭な手足で床に拘束されてしまう。

 

 ――双頭の獣、レブルドル。

 赤褐色の大柄な肉体を支える筋肉は分厚く、生半可な刃物は通さない。両の口から溢れる火の息吹で獲物を焼きながら捕食するこの獰猛な魔物は、リブリィール山脈一帯を縄張りとしているため、フノーロ周辺の地下迷宮まで降りてくるなど通常では考えられない事態なのだが、そんな事はペルルの知る由ではない。

 一つだけこの場で断言するとしたら……このままでは、確実にペルルは殺される。

 

「ぅ、ああ……! お師範様……ごめんなさい……」

 

 全身の骨が折れそうな程強く圧迫され、暴力によって自由を奪われた翼に魔物の涎が落ちる。生臭い息が降りかかり、凶悪な牙が白い柔肌に触れる。目前に迫る死の恐怖を前にペルルは師への最期の言葉を遺して、意識を失った。

 

『……っ!』

 

 道具袋の中の小さな密航者は、ただ見届ける事しか出来なかった。今この場を支配する強者は凶暴な魔物であり、自然界の摂理に従い、弱者としてその命を散らそうとする鳥人の少女の命運を握れるのは、我を押し通す事のできる魔物以上の強者のみ。力に頼る無法者を抑えられるのは、更なる力を持つ善人だけだ。

 

『……っ……? ……ッ!?』

 

 だがこの時、弱者の窮地に馳せ参じたのは、大いなる力を正しく振るう善人ではなく――――

 

「――むぅ、これは珍しい。よもや、このような黴臭い洞窟で天狗の子を見かけるとはな」

 

 それは、奈落の奥底で蠢く悪鬼の囁き。

 闇よりも暗い、深淵の水面に浮かぶ亡霊の呼び声。

 

「それにこの不愉快な匂い……退け、犬っころ」

 

 音も無く、瞬きの次には既に眼前で佇んでいた男に、魔物は数歩下がると牙を収めて恭順の意を示す。この男からは、勇ましい人間族の戦士達のような殺気も、誇り高き竜族が発する重圧も感じられない。しかし、だからと言って、弱者達の情けない気配が漂っている訳でもない。

 

「むぅ、気絶しておるようだな。であれば、事は簡単よ」

 

 何も感じられない。それこそが異常の証明。二本の足でしっかりと其処に立っている筈なのに、少しでも気を抜けば見失ってしまいそうな程に希薄な存在感。知性に乏しい魔物は……否、下手に頭が回らぬからこそ、獣の本能の部分が体を動かした。敵意も見せずに底知れぬ男の異常性に屈した魔物の行動は、自己の生存を最優先した末の模範解答だ。

 

「どれ、ちと覗いてやろうぞ――」

 

 仰向けに倒れたまま意識の無いペルルの額に、無骨な掌が重ねられる。時間にして五分程度の短い沈黙を経て、掌をゆっくりと離した男の口元には歪んだ三日月が浮かんでいた。

 

「……そうか、そうか。あの蜥蜴め、いずこに逃げたかと思えば……ようやっと居所を掴めたわ」

 

 その場から立ち上がるなり、男は腰に差した二振りの得物に手を伸ばす。特徴的な反りのある鞘に収まった“カタナ”と呼ばれる武器を携え、風通しの良さそうな黒い衣に袖を通した男の格好は、大陸南方の国々でよく見られる兵士の装いを再現したかのようであった。

 

「にしても、この童め。色事のイの字も知らんような面をしておるくせに、随分とお盛んのようではないか」

 

 ――道理で、お前から忌々しい“神”の匂いがする訳だ。

 

 うっかり零しそうになった一言を飲み下し、光を映さない眼で鳥人の少女を見下ろす。

 どこぞの人魚と同じ匂いを醸し出しているからと調べてみれば、なんと紛らわしい。当初の警戒は杞憂であったが、それよりも興味深い情報を知り得てしまったではないか。 

 

「……せりか。セリカ・シルフィル、とな」

 

 神の肉体に、人間の魂を宿した男。

 現の神々は怨敵である古神の存在を認めず、古の神々は同胞の肉体を奪った咎人を赦さない。人間族の嘗ての仲間達からも命を狙われ、只管に理不尽な運命に翻弄される哀れな人間。

 

「向かう先々で災いを振り撒き、望まずとも混沌を世に招く。そうだ、お前は世界の敵よ」

 

 ともすれば、停滞した時代の潮流を掻き乱し、淀みきった神の箱庭に次世代の風穴を穿つ特大の火種となるやもしれぬ。成程、上等ではないか。

 

「“紅き月神殿”とやらはもぬけの殻。やはり女の尻を追うのは性に合わん。先ずはセリカ・シルフィル、お前の面を拝んでやろう」

 

 今はまだ眠りについている世界の脅威に思いを馳せ、野心を滾らせた男が歩き出す。ついでとばかりに気絶したペルルを小脇に抱いて一緒に連れ出したのは、貴重な情報を提供してくれた事への男なりの返礼か。

 

「面白い。漸く、俺にもツキが回ってきたわ……!」

『……』

 

 虚無に取り憑かれた追跡者が、迷宮の最深部を目指し駆けて行く。ペルルの道具袋の中に潜む白猫は、愉快だと口にする空虚な男の横顔をただ、じっと見詰めていた……。

 

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。