「……ぅ、あぁあ……もうやめてくれぇっ!」
四方を冷たい石壁に囲まれた牢獄で、男が呻き声を上げる。鎖で手足の自由を封じられた身体が、脚のすり減った粗末なベッドをがたがたと揺らし、色褪せた銀の燭台の上で蝋燭の火が明滅する。蒸し暑い空気に乗って漂うのは、強烈な精の匂い。
「お、俺が悪かった! 助けっ……ぐひぃ!?」
情けない命乞いが声にならない悲鳴へと転じるのに合わせて、見る見るうちに男の顔から生気が失われていく。ベッドから跳ね起きるかのような激しい抵抗も徐々に弱まり、最後はびくりと全身を痙攣させ、それきり動かなくなった。
「あら、もう終わり? 図体の割に情けない雄ね」
熱を失った肉の塊から手を離し、つまらなそうに女は吐き捨てる。衣服を一枚も纏っていない裸身の彼女の周りには、既に冷たくなった男たちの躯で溢れている。尋常でない快楽と苦痛を繰り返し与えられた末に、どれもこれもが醜い死に顔を晒し果てていた。
「みんなゴメンねー? でも、盗賊なんてどうせ碌な死に方しないでしょ。だからいいよね!」
所詮は食料に過ぎぬ異種族の雄、それも弱者を虐げる蛮行を武勇伝として語るような連中相手に、情けをかけてやる価値は無い。此処に転がっている人間たちは過去に散々悪事を働いた犯罪者だ。挙句、地上からやって来たという異邦人に頭目を殺されれば、我が身可愛さに真っ先に逃げ出したどうしようもない輩だ。
これまでの身勝手な行いのせいで、元の棲み処にも戻れない。そんな、社会の歯車から外れたゴミの掃き溜めも彼女にとっては好都合。行方不明になろうが、気に留める者は誰もいない。おかげで質は兎も角、相当な量の人間族の精が集まり、膨大な魔力へと変換し蓄えられた。
「結果は上々、なんだけど……まだ物足りないのよねー」
汗に濡れた瑞々しい肌を隠そうともせず、気だるげに死体の絨毯を踏み歩く。その光景は異常の一言に尽きた。だが、それはあくまで人間の目線によるものであり、彼女の見る世界に人の価値観など当て嵌まらない。
短く切り揃えられた桃色の髪。人懐っこい笑みからチラリと見える可愛らしい八重歯。大きな青い瞳は宝石のように光り輝き、快活で魅力的な女性像を印象付ける。
それは、異性の心を手繰り寄せる魅惑の武器。若い男の精を糧とする夜の種族。即ち、“睡魔族”である。
「あーあ、どうしよっかなー。あたしも主様みたいに外の世界に行ってみようかなぁ」
使い古された揺り椅子の背もたれに体重を預け、欠伸を噛み殺しながら天井を見上げる。
今から数ヶ月ほど前に、彼女の主は忽然と姿を消してしまった。群れを統べる女王が雲隠れしたことで、フノーロの睡魔族は大混乱に陥り、跡目を巡る派閥争いに巻き込まれそうになった彼女は群れを抜け、はぐれ睡魔としてなんとか今日まで生き永らえてきた。
苦労の日々を送る原因を生んだ女王には当然、思うところはある。ただ、それは恨みではなく……
「……羨ましい。イイ男捕まえた主様が羨ましい!!」
はぐれになった事は正直どうでもよかった。
何よりも重要なのは、消えた女王と一緒に居た男だ。一度だけ、陰でその姿を拝む機会があったが、アレは目の肥えた睡魔の感性でもとびきりの上物といえた。それを、それほどの獲物を、あの傲慢で高飛車な我侭女王はまんまと独り占めしてさっさと蒸発してしまったのだ。
仮にも群れの統率者がそれでいいのか。いや、自堕落で退廃的な営みを是とする睡魔族としては、ある意味正しい行動なのかもしれない。寧ろ規範とするべきかも。
「んー……よし、決めた。あたしも地上に出てやるわ!」
待っているだけでは始まらない。出会いを求めるなら自発的に動くべき。記憶の中の女王は下手に実力があったばかりに、人間族を過剰に見下す悪癖があったが、自分は違う。たしかに個として見れば肉体は脆く、身に宿す魔力も微々たるものだ。しかし、侮ってはならない。彼らの真骨頂は集団戦にある。熟練の戦士や魔術師やらが徒党を組めば、知恵無き魔物など造作もなく蹴散らすだろうし、時にはずっと格上の怪物すらも打ち倒してしまうのだから。
だから、利口な睡魔は人間族の集落を直接襲うような無謀な真似はしない。集団では手強くとも、個の弱さは変わらないのだ。ならば自分から出向かず、ちょっとずつこちらの領域に誘い込んでやればいい。異性を虜にする睡魔族の魅力を駆使すれば、警戒する雄の懐に入り込むなんて息をするより簡単だ。
事実、迷宮内をうろついていた薄汚いゴロツキたちは結局、最後のひとりに至るまで成す術なく搾り尽くされる始末。勢力争いに勤しむ間抜けな同族を出し抜き、相手の生命を度外視した性魔術を乱発した甲斐もあって、現在の彼女は若手の睡魔としては破格の魔力を有していた。
「多分、今なら群れの長になれちゃうかも。でも興味も無いしー? 面倒事はお断りよ、っと」
軽やかに椅子から跳び上がり、出口の前に降り立つまでの一瞬で水着のような衣装を纏った睡魔の娘が、意気揚々と隠し扉を押し開く。外の広大な地下空間から流れてきた冷気が火照った頬を撫で、幾度か深呼吸を繰り返せば、情事の後で朱を帯びた顔もすっかりと元の白さを取り戻す。
「さてと。上に続く道は多分、こっちかなー?」
縦横無尽に広がる無数の通路と、大小様々な空間によって構築されているこの地下迷宮は、さながら巨大な蟻の巣だ。たとえ迷宮の一部に縄張りを持つ睡魔族であろうと、その全貌を把握している訳ではない。なので彼女は己の勘を頼りに地上を目指す。充分に魔力を蓄えた今なら、誰が相手でも確実に逃げ切れる。その自信が、彼女の行動を大胆にさせた。
「どうせなら、適当な奴相手に今のあたしの力を試してみたいわね。んー……活きが良い獲物はいないかなぁ?」
ちょっとした悪戯で、身体の奥底に抑え込んでいた魔力を少しだけ開放させると、物陰で息を潜めていた魔物が慌てふためき逃げていく。かつての油断ならぬ外敵が見せた、情けなくも可愛らしい反応に睡魔は満足げに顔を綻ばせる。
血生臭い獣の脅威に怯え、こそこそと隠れる惨めな生活はもう終わり。あの家出女王を上回る程の力を手に入れたのだ。これからは自由に堂々と生きていける。
魔族としての格が上がった優越感が彼女の足を軽くする。これまでの鬱憤を晴らすように、生温い風の過ぎる通路を上機嫌に練り歩く。
「ふふ、あたしを怖がって誰も出てこない。ガラじゃないけど、なんだかイイ気分ねぇ」
気ままに地上を目指していた足を止め、風で乱れた髪を手櫛で整えながら辺りを見渡す。いつの間にやら、自分以外の生き物の気配がぱったりと途切れている。実に愉快なものだと、支配者気取りの睡魔は笑みを深め……疑問を口にした。
「変ね。なーんか、妙に静かっていうかさぁ?」
睡魔族らしからぬ慎重な性格のおかげか、彼女は場の空気の変化に逸早く感付いた。変化、といってもそんなに大げさなものではない。しかしどうにも気になってしまうのが小物のサガ。強大な力を得ても、生まれ持った性分までは変えられない。
「いつもはもっと賑やかなのになぁ。んー……ねぇ、誰も居ないのー?」
艶やかな髪の毛先を指で弄り、警戒の色を浮かべた丸い瞳が闇に溶け込む何者かの姿を射抜く。種族柄、夜目がきく彼女にとっては地下の薄暗さも晴天の昼下がりと何ら変わりない。
(人間……いや、違う……? なにかしら、あれ)
果たしていつから其処に居たのだろうか。微塵も気配を感じさせずに忍び寄り、反して、背後を襲い掛かることもなく悠然と立つ黒い男。
夜の帳を切り取り、丁寧に仕立てた薄闇の衣からは青白い肌が覗き見える。何が嬉しいのか、痩せこけた頬を緩めて喜悦の表情を浮かべる様は生者の如き亡者。それとも、亡者と成り果てた生者というべきか。腰帯に差された紅い剣は寒気がする程に美しい光沢を放ち、鞘に収めているにも関わらず、相対した者の喉元に抜き身の刃を突き付けるかのような圧迫感を感じさせた。
「むぅ。人外の娘よ、其れほどに刀が珍しいか」
「っ……別に。というか近寄らないで。死にたいの?」
「そう睨むな、取って食いはしない。この通りだ」
制止の声に律儀に従い、男は相手の要求通りその場から一歩も動かない。思ったよりも友好的で且つ、対話が成り立つ事に睡魔は少なからず驚き、続く男の語りに自然と耳を傾けていた。
「最深部に用があってな。銀の絡繰に乗れば近道だと耳にし、早速試したのだが。どうにも同じ景色が続くのだ」
「カラクリ……? えっと……つまり、道に迷ったの?」
「然様」
「……。……そ……それは、気の毒ね」
何やら聞き慣れない単語があったが、要は人間族の作った転移装置をよく知らぬまま適当に動かしたせいで見当外れな場所に飛ばされてしまったのだろう。迷宮を熟知した住民にしてみれば便利な移動手段に過ぎないが、それ以外の者にとっては出口の無い迷路への落とし穴だ。間違っても迂闊に使用して良い代物ではない。
黒髪黒目と、この地域では珍しい容姿である男も恐らくは後者の、それも後先を考えない愚かな旅人か。だが、異郷からやって来たにしてはやけに恰好が身軽に思える。荷物らしい荷物といえば、反りのある独特な形状の細剣が二本。先程から矢鱈と存在感を放つ紅い剣と、特に語ることもない地味な剣が共に仲良く腰元に収まっているくらいで、あとは小脇に抱えた下着姿の小さな女の子がひとり。たったのそれだけだ。
他に隠している物は見当たらない。
荷物持ちの従者と逸れてしまったというならまだ納得する余地があるが、これが一人旅なら随分と豪胆で、殊更に愚かであると……いや、ちょっと待て。
「えーと……えっ? お兄さん、その子は?」
「気にするな」
「で、でもなんか服を着てないし――」
「気にするな」
「いやムリでしょ!? 気にするわよ普通!!」
「むぅ。騒々しいおなごだ」
何故だか顔色を悪くして一方的に騒ぎ始めた桃色娘を訝しげに男が睨む。その原因が、片手で抱きかかえている女の子にあるとは露知らずに。
睡魔の彼女がもっと冷静であれば、少しは話が違っていただろう。女の子の両腕に生えた白い羽から、その子が人間ではなく鳥人で、一見下着にしか見えないソレも立派な鳥人族の装いであると察していたに違いない。
「面倒な。よもや、お前は絡繰を操る術を知らぬのか?」
「知らないわよそんなの! あたしだって最近まで引き篭もってたんだから!!」
「なんだと。むぅ……」
遠回しに道案内は出来ないと告げられ、当てが外れた男は露骨に肩を落とすが、いずれにしても返って来る答えは変わらない。これ以上は平行線、ならばどうするか。以外にも先に折れたのは男の方だった。
「致し方あるまい。他を当たるとしよう」
警戒はされているものの、嘘は吐いていない。それを理解したのか男は特に食い下がるそぶりも見せず、あっさりと背を向け去って行く。
元々、期待も薄かったのかもしれないが、実に淡白で潔い。しつこく粘着されるとばかり思っていた睡魔にしてみれば、酷く拍子抜けな結末だった。
(はぁ、無駄に緊張しちゃった。なんだったのよアイツ)
結局、彼が何者なのかは最後まで判らなかった。
どちらにせよ戦って負ける気はしないが、こうして平穏無事に済むならそれに越したことはない。歪な性癖の件は置いておくとして、意外と話の通じる相手で助かったと、ホッと胸を撫で下ろす。
「それにしても可愛かったなぁ、あの子」
不穏な足音が去り、余裕の生まれた頭の中に最初に浮かんだのは、あの女の子の愛らしい寝顔だった。
長い睫毛。綺麗な髪。柔らかそうな唇。どれをとっても魅力的で、幼さの残る顔立ちが無性に庇護欲をそそる。
そして何より、とても……とっても、
「いいなぁ。羨ましいなぁ。……貰っちゃおうかなぁ」
ふらりと身体が傾く。熱に浮かされたように顔は赤らみ、暗闇の先に続く真新しい足跡を潤んだ瞳で辿っていく。左右に肩を揺らし、足を縺れさせながらたどたどしく歩き出した睡魔の耳に、微かな話し声が届く。
「うぅん……むにゃ?」
「やっと起きたか寝坊助」
目覚めの挨拶を交わして男は立ち止まり、片腕を占領していた荷物を適当に放り投げる。寝ぼけ眼を擦りつつも、未だ意識の大半を夢の世界に残していた彼女は、それは見事な放物線を描いて頭から石床へと衝突した。
「ふぎゃ!?」
「これで起きたか」
「んぅ、もっと優しくしてよぉセリ……あ、おはようお師範様。ちょっと雰囲気変わりました?」
「そうか、お前は阿呆なのか」
床から身を起こすなり、特に痛がる様子もなく平然と翼に付いた埃を振り払うところは見事と褒めるべきなのか。珍妙な会話を経て、兎にも角にも、鳥人の女の子――ペルルは漸く、目を覚ました。
「むむ、言われてみれば! おじさんとは初めましてだね。ボクはペルル、よろしくね!」
「ほぉ。俺を見て物怖じしないか。肝の太い奴よ」
「ふぇ? もしかしてボク、褒められてる? えへへー」
「……むぅ」
泥だらけの顔に締りのない緩んだ笑みを拵えて呑気に笑うペルルに、男の方もどう対応したものか判断に迷う。
この、ふざけた態度のどこまでが本気で、どこからが冗談なのか。これが見た目通りの年相応な幼子であれば可愛いものだが、必ずしもそうとは限らない事を男は知っている。
いつぞやの寒々しい夜の森で垣間見た。麗しい人形の皮を被った、悍ましい触手の妖怪。仮初の安寧に包まれたこの世界の裏に潜み、戯れに人類を滅ぼしかねない未曾有の狂気というものを、あの青い肌の怪物は身をもって教えてくれたのだ。
(つくづく惜しい。せめて名を聞いておくべきだったか)
闘争の果てに討ち取ったクビ諸共、泡沫の如く溶けて消え失せた童女に思いを馳せ、右の指先で赤い刀の握りを弄る。暫し感傷に浸っていた男が思い出したように視線を戻せば、同じく己の一大事を思い出してぱたぱたと羽を動かすペルルと目が合った。
「ああー!? 急がなきゃ! みんなが危ないんだよ!」
「おい。何処へ行く」
危なっかしく走り出すペルルの肩を掴み、力任せに引き戻す。彼女が勝手に飛んで行かないよう背中から太い腕を回し、固く締め上げると、腕の中から苦しそうな声が漏れる。
「は、離してよぉ! 早く行かないとみんながっ!」
「喧しい。勝手に先走るな鳥頭」
「ダメよお兄さん、女の子にそんな乱暴しちゃ」
尚も暴れるペルルを片腕で抑えつける男の視界の端で、桃色の髪が揺らめいた。
「なんだ小娘。まだ居たのか」
「うん。さっきはゴメンね。じゃ、死んでちょうだい」
鋭く引き絞られた睡魔の右腕が目標を捉え、空気を切り裂き振るわれる。口から零れかけた男の言葉は爆撃染みた轟音に掻き消され、衝撃が迷宮を駆け抜けた。拳の重みで石床は砕け、耐え切れなくなった柱が次々に崩れていく。瓦礫と土煙に紛れ、魔を宿した女は笑う。
「ふふ、フフフ……っ、信じられないわ……!」
圧倒的だった。有無を言わさない、正しく圧倒的な破壊力。元女王に比肩する……いや、あの女を上回って余る程の魔力を全身に巡らせ、最大限まで肉体を昂ぶらせた。
絶対の自信をもって断言できる。自傷覚悟で放ったこの一撃は、遥か格上の存在たる魔神にだって通用するに違いないと。
「隙を突いての急所狙い。あたしの“ねこぱんち”は主様を超えたわ!」
人間族の多くは、睡魔を性魔術しか取り柄のない下賎な種であると認識している。だが、それは大きな誤りだ。睡魔も歴とした魔族であり、精強な神殿騎士を鎧ごと粉砕する強力な拳技だって習得している。ただ、睡魔族は荒事を嫌い、色事を非常に好む生粋の遊び人集団であるため、本気で拳を振るう機会が滅多にないだけだ。
無名の睡魔であっても、まともに受ければ一溜まりもない。それが女王を超えたと自負する己の全力であれば尚更だ。分かりきった結果を目の前にして、抑えようのない笑いが込み上げてくる。
「はぁー、おかしい。らしくもないわ。たかが鳥人の子ひとりに、なんでこんなに必死になってるのかしら」
無秩序に崩れゆく通路の中央でへたり込み、自身が引き起こした壮絶な破壊の痕跡をぼうっと眺める。無意識に彼女は、拳撃の反動で痛む右手を床に這わしていた。
無残に赤く腫れ上がった指でなぞるのは、衝撃の中心点から目と鼻の先に刻まれた真一文字の軌跡。
「運の良い奴よ。もう一歩を踏み躊躇ったか」
壁に等間隔で設置されていた照明が纏めて潰れ、黒く染まった空間に妖しく煌めく紅月が浮かぶ。鮮やかな朱で彩られた鞘。抜き放たれた刀身もまた赤く、互の目乱れの刃文を奔る稲妻が、無機物である筈のソレに強烈な生命の脈動を感じさせた。
「或いは俺の目算が甘かったか。小娘の分際でやりおる」
「フ、フフ……怖気づいたなら見逃してあげるけど?」
「敵を前に逃げるのは性に合わん」
闇を見通す睡魔の眼をもってしても、男の空虚な双眸の裏に隠された感情を読み取る事は出来ない。この場から逃走を図ろうにも、肝心の両足は底なし沼に嵌ってしまったみたいに重く、立ち上がる事もままならない。
(強がってはみたけど、ダメね。腰も抜けちゃったわ)
こうなってはもはや、助かる道なんて何処にも残されていない。それでも睡魔は不遜な態度を崩さなかった。魔族としての矜持がそうさせたのか、彼女なりの意地があったのか。最後まで自分を貫こうと覚悟を決め、死地に臨んだ睡魔の行動は潔いが、愚かだった。
本気で生を望むのであれば、見っともなく命乞いをするべきだ。浅ましく媚び諂うべきだった。しかしながら、愚かな睡魔は口を噤み、これ以上の生き恥を晒す事を拒む。
(はぁ、急に力を得て調子に乗っちゃったのかな。こんなんじゃ主様を……クルージェ様を馬鹿にできないや)
愚かな睡魔は気付かない。
目を瞑り、悲壮な決意の下に歯を食いしばる彼女の横をしれっと通り過ぎた男は、進路上の瓦礫を蹴飛ばしながらあちこちに視線を向ける。男の関心は既に睡魔から離れていた。
「どこだ鳥頭。さっさと出てこい」
「うぅ、急に放り投げないでよぉ。もう少しでペシャンコになるとこだったじゃないかぁ」
男の背丈よりも高い瓦礫の山の隙間からペルルが這い出てくる。全身余すところなく泥塗れではあったが、目立つ怪我は特にない。とはいえ、いくら何でも雑過ぎる扱いに不満顔なペルルを男は気にも留めず、文句を言いつつ近寄ってきた彼女の額を鞘に収めた赤い刀で小突く。
「ふべっ!? ちょっとなにすんのさ!」
「退がってろ。焼き鳥になるぞ」
「えっ。な、なにその不穏なぁあああ!?」
反射的にその場から飛び退いたペルルの前で巨大な火柱が噴き上がる。事前に男が忠告してくれたおかげで直撃は避けられたが、安心するにはまだ早い。睡魔の拳撃で脆くなっていた床に駄目押しとばかりに火柱が貫通した事で、通路の崩落が更に加速する。穿たれた大穴は絶えず黒煙を吐き出し、じわじわと二人を追い詰めていく。
「派手な歓迎だ。向こうから招いてくれたぞ」
「熱い熱い!? なんでおじさんは平気そうなのー!?」
「喧しい。さっさと
「え、ちょ、ちょっと!?」
首根っこを掴まれ、そのままごく自然な流れで肩に担がれたペルルは大量の冷や汗を流す。視界いっぱいに広がる炎の大穴。不敵な笑みで見下ろす男。これだけお膳立てされれば、能天気な彼女も流石に察してしまう。
「ね、ねぇ。すごい燃えてるよ? 別な道を探そうよ?」
「口を閉じてろ。舌を噛むぞ」
「うぅ……悪魔だ。おじさんの馬鹿ぁぁぁっ!!」
汗と涙に塗れた恨み言を無視して、男は軽く地を蹴り大穴に身を投じる。断続的に噴き上がる炎の間隔を見計らい、嬉々として火中に飛び込む狂人の暴挙を遠目に見ていた睡魔の娘は、ただただ呆然とするしかなかった。
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腐海に沈んだ死の大地の地下深く。今や日の目を見る事も叶わぬ朽ちた迷宮の深層では、この世の地獄が生み出されていた。
荒れ狂う灼熱の海。閉ざされた石の空は分厚い黒煙に覆われ、吹き荒ぶ熱風が真紅の海原を巻き上げる。
暴力的な光と熱量に支配された地下空間に轟くのは巨大な生物の咆哮。黒鉄の鱗は鋼鉄をも溶かす
闘いが始まってから、どれだけの時間が流れたのか。個でありながら群を凌駕し、古の戦乱を生き抜いた正真正銘の怪物――魔神トリグラフ。
意思を持った災害とも云われる魔神の一柱と、防戦一方ではあるがほぼ単独で渡り合い、辛うじて戦闘の体を成している“彼”もまた、常識を超えた存在といえよう。
「くっ……なんて硬さだ。同じ生物とは思えないな」
赤熱化した魔法剣を杖代わりに片膝を突き、辟易した顔でセリカは頭上の怪物を見上げる。
「狙うならあの傷しかないか……!」
凶悪な三つ首のうち、唯一の隻眼である正面の首。片目を潰した深い裂傷の痕からは未だ血涙が零れ続けている。
百を超える飛燕の刃を跳ね返したあの強靭極まる外皮に、明確な傷をつけた者がいる事実に戦々恐々としながらも、同時に、思いがけない突破口を残してくれた先人に感謝した。敵はあまりに巨大。比較するのも馬鹿らしいが、人間が片手で持てるような矮小な刃物で殺し尽くすのは凡そ現実的ではない。頼みの綱の電撃魔術も黒鉄の鱗には通用しなかった。
しかし、今ならば。傷が塞がる前に、剥き出しの弱点をどうにか突いて敵を怯ませられれば。少なくとも、仲間を逃がす時間は稼げる。
「っ! 不味い!?」
数秒にしか満たない僅かな思案の隙に、三つ首の黒竜は動き出していた。歪に生え揃った牙をぎらつかせ、腐臭の漂う大口の奥から業火が生まれる。
「セリカ! 妾に掴まれ、早くッ!」
「その声は……リ・クティナか!?」
叫びながら、咄嗟に声がした方向に飛び出す。炎の壁を裂いて現れたリ・クティナがその手を掴み、両腕で抱き締めるようにしてセリカを受け留めた。
「間一髪であったな。全く、肝が冷えたわ」
「ああ、おかげで助かった。他の皆は無事か?」
「……少しは己を顧みよ。彼奴の狙いはお主なのだぞ」
生きるか死ぬかの瀬戸際で、まず確認するのが仲間の安否とは。つくづく甘い男だとリ・クティナは思う。戦意を失った人間族の魔術師を守る為に、敢えて囮を買って出た自分が一番傷を負っているだろうに。小賢しい昨今の人間族にしては珍しい、まっすぐな心根を持った男だった。今回に限ってはその誠実さが仇となったが。
(態勢を立て直さねばならぬ。しかし何処に身を隠すか……)
絶え間ない地響きを凌ぎ、火の海からセリカを守りながら魔神と距離を取る。
フノーロの地下都市が丸ごと収まる広大な空間であろうと、自我を有した空飛ぶ城砦の暴走に耐えうる設計はされていない。飛び交う三条の熱線が石の空を焼き切り、炎を纏った岩石が降り注ぐ。柱に隠れるリ・クティナの真横を流れ弾が掠め、偶然にもそれが彼女らを閉じ込めていた石壁を吹き飛ばす。
「……! よし、あの裂け目まで走るぞ」
「待ってくれ! アビルースがまだ向こうに居るんだ!」
そう訴えかける主を抱えたまま、怪物が用意してくれた抜け穴に飛び込む。煙と炎に捲かれて逸れてしまった魔術師にまで気遣う余裕は無い。古き神の眷属である彼女の護るべき優先順位は決まっている。非情と罵られようとも、何を犠牲にしてもこの場からセリカを逃がさなければならない。魔神の手中に落ちてしまえば、主を救うどころか世界に災いが齎されてしまうのだから。
「あの人間族には風妖精を付けている。心配は無用ぞ」
せめてもの情けと、リ・クティナは逸れた魔術師の元へパズモを向かわせていた。風を操るその力があれば、人間一人を火と煙から守るくらいはできるだろう。後は怪物がセリカを追ってその場から居なくなるまで、息を潜めてやり過ごせば良い。尤も、それまでにあの空間が完全に崩落してしまえばそれまでだが。
「置いて行く気なのか!? 駄目だ、彼は命の恩人だ!」
「目的を履き違えるな。お主には成さねばならぬ使命があろう。それすらも忘れたかセリカ・シルフィル」
「っ……それは……!」
果たさなければならない願い。
恋人の無実をバリハルト神殿の皆に認めさせ、囚われた姉を神殿から取り戻す。それが己に残された生きる目的。使命を全うするまで、立ち止まる訳にはいかない。振り返ってはならない。
「アビルース……俺は……っ」
バリハルト神殿の刺客に追われ、魔物が蔓延る地下迷宮を彷徨っていた中で出会った二人。心優しい人間族の魔術師はセリカを迎え入れ、鳥人族の女の子と共に献身的に治療を施した。わんぱくな女の子は寝台で塞ぎ込むセリカの下に毎日押しかけ、外の世界の話を聞いては目を輝かせる。
非情に徹するべきだった。余計な関わりを持たず、早くフノーロを発つべきだった。無償で与えられる懐かしい人の温もりを惜しみ、二人の好意に甘えてしまったせいで災厄を招き、挙句それを放置して逃げ出すのか。
それが、己に課せられた使命だというのか。
『久し――だな』
『どうし――此処に居ることが――不思議か、セリカ』
『そう慌てるな。私は逃げも隠れもしない』
顔を黒く塗り潰された男が笑う。
彼は最期まで立っていた。誰よりも勇者らしくあった。
「……すまない、リ・クティナ。俺は戻る」
「なッ!? ま、待て!」
仲間の手を振り切り、元来た道を引き返す。常人には耐えられない灼熱の世界を駆けるセリカの顔に苦痛はない。頭から被っていた分厚い外套の裾に火がつき、全身に燃え広がる。それでも足は止まらなかった。契約で繋がっている風妖精から念話を受け、倒れかけた支柱を蹴って火の海から跳び上がる。眼前には三つ首の黒竜。途方もない巨躯が今まさに、進路上の瓦礫の傍で蹲るアビルースを踏み潰さんとしていた。
――――飛燕【沙綾円舞剣】
極まった剣技に超常の力が重ねられ、竜巻と化した斬撃が黒竜を襲う。真正面から不意打ちを食らい、前進を続けていた巨躯が大きく仰け反る。魔神の動きが止まったその隙に、地面に着地したセリカは魔術師の青年を助け起こした。
「傷は浅い。よかった、間に合ったか」
「せ、セリカさん? どうして……」
差し出された白い手のひらを掴み、やっとの思いで立ち上がったアビルースの声は震え、目を合わすのを避けるように顔を俯かせた。黙り込む青年の様子に疑問を抱く間もなく、両手に握り締めた直剣に魔力を集中させながらセリカが叫ぶ。
「パズモ! 俺を奴の頭上に運んでくれ!」
「――ッ!!」
契約者の意図を察した風妖精が指を振る。砂塵が舞い、炎を引き裂き、小さな指揮者によって統率された烈風がセリカの周囲で渦を巻く。見上げる先は、狂える黒竜の首のひとつ。風妖精の力を借りて大きく跳躍したセリカが狙いを定めたのは、唯一の傷を負った隻眼の面貌。血の涙が流れる眼孔に飛び込み、電撃魔術を帯びた光の刃を振り下ろす。そして、フノーロの地下迷宮に魔神の絶叫が轟いた。
「がっ、ぁ……流石にこれなら、効くみたいだなっ!」
防ぎようのない衝撃をまともに受けたセリカの耳や目、穴という穴からどろりと血が流れる。悍ましい体液で満ちた巨大な眼孔に身を沈ませ、まともに息も出来ない状況で懸命に剣を突き刺すセリカを振り払おうと、魔神は何度も首を壁に叩きつけた。しかし、一向に出ていかない羽虫に対して遂に我慢の限界を超え、熱気を孕んだ二頭の顎門が開く。
「お主という奴はっ、本当に世話の焼ける男だ!」
――――火炎魔術【メルカーナの轟炎】
セリカごと焼き払うかに思えた灼熱の息吹は、突如噴き上がった火炎魔術に絡め取られ、強引に向きを変えられた熱線が灰色の天を貫く。
炎を操る白金の貴人、リ・クティナ。彼女の力でも魔神には届かない。だが、傷をつける事は叶わずとも、時間稼ぎは出来る。隻眼の竜の首が青い稲光に包まれ、内側から盛大に爆ぜる様を見届けた彼女は、急いで肉片の落下地点に向かう。
「……居た! セリカっ!」
煙を上げて崩れ落ちる肉片の雨を突っ切り、地面に激突する寸前のセリカを回収する。手足の一本が欠けていてもおかしくない無茶具合を見せてくれたが、運良く五体満足で生き残っていた。気絶しているこの契約者はよほど女神に愛されているようだった。
「人間族の魔術師よ、彼奴が怯んでいる間に逃げるぞ」
「あ、貴女は……」
アビルースらと合流し、急ぎこの場から離れようと動くリ・クティナを灼熱の壁が取り囲む。だが、彼女が軽く腕を払えば、燃え盛っていた火の海は波を引き、出口までの道が切り拓かれる。
「セリカさん!? そんな……こんな傷だらけに……」
「ぼさっとするでない! こやつの覚悟を無駄にするつもりか!」
負傷したセリカの姿に狼狽する魔術師を連れ、脱出を急ぐ。怒り狂う黒竜の残った首の片割れが一行に追い縋る中、先頭を走るリ・クティナの耳を、傍で飛んでいたパズモが慌てた顔でグイグイと引っ張る。
「む、どうした」
「――! ――ッ!」
「……なんだ? 上に何かあるのか?」
脅威はすぐそこまで迫っていた。なのに、いつになく必死な風妖精の警告を聞いて、思わず足を緩めてしまった彼女の背中に巨大な影が忍び寄る。
しまった、と己の失態に歯噛みしながら蛇腹剣を抜く。片手で抱き寄せた赤毛の主を一瞥し、決意と共に振り返ると、目の前に何かが落ちて来た。
「天井の破片? いや、これは……」
「――!? ――っ!」
ヒトの背に隠れて震えている風妖精に促されるまま、前方の落着物に目を向ける。落下の衝撃で高く舞い上がった土煙。その中で、人影が動いた。
「手伝ってやろうか」
「なに……っ!?」
「ただし、――」
人影から男の声が発せられた直後、一層激しい地響きを打ち鳴らして黒竜の顎門が突っ込んでくる。石床を捲くり上げ、瓦礫を粉砕し、セリカもリ・クティナも人影も、纏めて呑み込まれた。
鬱陶しい羽虫を始末した魔神は醜悪な笑みを浮かべ、翼を広げる。重力を無視し、一気に飛翔した巨体から二頭の砲門が持ち上がり、先に片割れが放った熱線が天井を穿つ。たったそれだけで最深部から上層までが貫かれ、駄目押しのもう一発が放たれようとした時。
「真っ二つだぞ」
一閃。竜の喉元を赤い閃光が横切る。
血に染まった凶眼を見開き、だらりと舌を伸ばした生首が転がり落ちる。頭を失った頸部の切断面からは、栓が壊れた蛇口のように大量の鮮血が噴き出し、最深部の広間へと墜落していった。
それから少し遅れて魔神の生首も落ちてくる。場所は、年若いはぐれ睡魔が自慢の拳を披露した通路の片隅。口腔内から這い出たリ・クティナは、信じられないものを見る目で大穴の底を覗いていた。
「馬鹿な……信じられん。魔神がこうも容易く……?」
あれほど苦しめられた怪物が、無様にのたうち回っている。鱗だけでなく、眼球すらも鋼鉄以上の強度を誇る生きた要塞を、一刀のもとに斬り伏せてしまった。不完全ながら神の力を宿すセリカでさえ、ひとつ潰すのがやっとだった竜の首をだ。それをあっけなく、いとも簡単にやってのけた。ニアクールの賢者でも理解が及ばない事象だった。
(よもや
同等の偉業を成せる存在に心当たりがない訳ではないが、それでも信じ難い。今の時代、現神勢力の干渉を純粋な力ではね除け、表の世界に名を馳せる程の実力者は非常に限られる。例えば、この辺境の地に君臨する青髪の暴君。
“地の魔神ハイシェラ”
かの女傑であれば、或いは――
「起きろ、人間」
いつの間にリ・クティナの手から掠め取っていたのか。意識の無いセリカを地べたに置き、異国の衣を纏った黒い男が彼に呼びかける。だが、反応らしきものは返ってこない。
「立たねば皆死ぬぞ。お前の巻き添えを食らってな」
「……っ」
ぴくりと、指先が動く。
男は静かに腰を下ろし、横たわるセリカの耳元に顔を寄せる。
「お前が垂れ流した極上の
「……俺の、せいで……」
「覚えがあるだろう? まさか忘れたとは言うなよ色男」
近くに転がっていた魔法剣を手に取り、セリカに押しつける。一度は握り締めるが、しかしそれも続かず、力なく開いた指の間から抜け落ちてしまう。男はわざとらしく溜息を吐き、腰を上げた。
「死んだら終いよ。お前は恩人を裏切るのだな」
背を向け、感情の一切を排した声で吐き捨てる。興味を失った男が何処ぞへと歩き出そうとする後ろで、地面を踏み鳴らす音が響く。
「違うっ……! 俺は仲間を裏切ったりしない!」
「ならば殺せ。禍根を残すな」
怪我を押して立ち上がったセリカの、力強い姿を見た男は自分の懐に手を伸ばし、拳大の塊を投げつけた。
「最後のひとつだ、使え。奴にトドメを刺せ」
受け取った手の中で淡い光が零れる。深く、澄み渡った青色の宝玉。手に握られた宝玉の光が、傷ついた彼の身体を少しずつ癒していく隣で、硬い表情のリ・クティナが呟く。
「それは水精の……いや、より高位の力を宿す氷精の核ではないか。お主、一体どこでそれを――」
「お師範さまぁー! セリカぁー!!」
目にも留まらない速さで飛んできた少女を、咄嗟にセリカが受け止める。が、耐えきれず一緒になって転がってしまう。あわや壁に激突するところで、ギリギリで割り込んだリ・クティナが二人をなんとか確保した。
「鳥人の子か! たった一人でよくぞ生きていた!」
「酷いんだよー! 上に居るならそう言ってよ! 羽が焦げちゃったじゃないかー!」
「な、なんの事だ? よもやあの男が……むお!?」
二人を抱えて両手の塞がったリ・クティナめがけて、更に白い物体が飛んでくる。後一歩、避けるのが間に合わなかった彼女の顔面に、小さな毛むくじゃらの生き物が貼り付いた。
「離れよ! 妾をニアクールの長と知っての狼藉か!」
「その子、ボクの鞄に入ってたんだよ。可愛いでしょー」
「貴様の仕業かぁッ!!」
どうにか顔から引き剥がした生き物の正体は、毛並みの美しい白猫であった。空色のつぶらな瞳を丸くして、こてんと首を傾げる子猫の愛らしさには冷酷な女王でも手が出せない。仕方ないので、代わりに暫定飼い主のペルルを物理的に締め上げる事にした。
「うぎゃー! なんでぇー!?」
「ふん、反省しろ馬鹿者が」
ペルルが
天に座す白猫は決着の時を待つ。
曇りのない眼差しの奥に、湖畔の静けさを浮かべて。
「火に、氷に、毒。往生際の悪い奴よ。まだ足掻くか」
怨嗟の声を滲ませて起き上がった黒竜の、残された最後の顎門が開く。腐敗の息吹を撒き散らし猛進する黒鉄の要塞。圧し潰し、薙ぎ払い、すべてを粉砕する魔神の暴威を一振りの刀が迎え撃つ。
「見せてやろう。鬼をも喰らう剣客ハクドウの妖剣をな」
右脇を側め、大上段に構える己の半身。真紅の刃。
腕に宿りし古強者の魂が、偽りの血潮を熱く滾らせる。時代の奔流に呑まれ、歴史の闇に消えていった男達。動乱の大火に焼かれた数多の流派。悪と断じられ、失伝を余儀なくされた一子相伝の秘剣。名も無き戦士の足跡を辿り、後世に語られぬ彼らの生き様を背負い、亡霊は唯一無二の剣を振るう。
――――【音無しの剣・雲竜の型】
極限まで時間を引き延ばした静寂の中を、赤く輝く三日月の軌跡が走り抜ける。竜の頭を削ぎ取り、蛇のように長い頸部を二枚におろし、半ばまで引き裂かれた胴から閃光が飛び出し、背後の大広間に袈裟切りの爪痕を刻む。
振り抜いた刃を鞘に納め、停滞していた時間が戻る。炸裂し飛散する肉塊。分かたれた巨体から噴出する赤黒い濁流。倒壊した柱や壁を蹴り、上層へと男は脱出を図る。その足元で罅割れた咆哮が轟く。
「大した生命力だ。いいぞ、ついてこい」
千切れかけた黒翼を翻し、血溜まりに沈んだ筈の魔神が猛然と襲い掛かる。潰れた三つ首を狂ったように叩きつけ、地獄に引きずり込もうとする悪鬼の妄執をさらりと受け流し、男は涼しい顔で言い放つ。
「やれ、人間」
壁を駆け上がる男の傍を、赤い残像が横切った。
「っ、うぉおおおッ!!」
男と入れ違い様に、魔法剣を構えたセリカが突っ込んでいく。手足の如く振り回される竜の三つ首を潜り抜け、裂けた胴体の中心部、鈍く光る魔神の核に渾身の一撃を叩き込んだ。
「やった! これで皆、助かっ……ぐぅ!?」
魔神の核を貫き、すぐさま離脱しようとしたセリカの顔が苦痛に歪む。貫通した剣を通じて、魔神トリグラフを構成していた膨大な魔力がセリカの中に雪崩れ込んできたのだ。
「手が離れない……っ!」
溢れかえる魔力を抑え込むのが精一杯で、身体の自由が効かないセリカを乗せたまま、巨大な竜の屍が落下していく。崩壊を続ける最深部に戻ってしまえば、もう二度と這い上がる事は出来ないだろう。
「俺は……! 俺はまだ、死ねないんだ!」
渾身の力を込めて、核から魔法剣を引き抜く。すると漸く魔力の流入が収まり、辛うじて動くようになった足を引きずって胴体の外に出る。
急激に大量の魔力を得た影響なのか、全身から汗が噴き出し、視線も定まらぬまま這いつくばるセリカ。絶望的な状況でも諦めず、生の渇望だけが彼を突き動かす。正気を疑ってしまう程の執念であり、近くに降り立った人影は、そんな赤毛の麗人の足掻く姿を愉快気に眺めていた。
「なんとも骨のある男だ。これは面白くなりそうよな」
抱き起こしたセリカと共に肉塊から飛び退く。奈落の底に落ちていく竜の屍を背景に、古き世の魔神は天に手を伸ばした。