乾いた風の流れる荒野。切り立った岩山の頂に、紫紺の翼が舞い降りる。
「……」
厳かな空気が支配する霊峰、文明社会から隔絶された竜の箱庭、リブリィール山脈。
激動する光と闇の情勢から身を引き、永らく安寧の時を刻んできた大地に今、異変が起ころうとしている。遥か彼方の地平線に薄らと見える古塔。星々の瞬く夜空を赤く染め上げた異変を、若き竜族の戦士はその目に焼きつけていた。
「忘炎より生まれ出でし災厄の種。遂に現れたか」
竜族の巫女たる雲居の血を継ぎ、予てより災厄の出現を警戒していた彼女にとって、現状は酷く歯痒いものだった。古塔の異変に前後して生じた各地の魔物の凶暴化。ブレニア内海で頻発する大規模な嵐。セアール地方を支配する人間族の間には不穏な動きも見られる。
だが、これらの異常を指導者層に訴えて、後日彼等が下した結論は“静観すべし”。つまりは、この大事においても竜族は傍観者の立場を固持し、一切の手出しをする気がないのだ。
中庸の調停者として、天地を揺るがす自らの力を行使するという事は即ち、世界を脅かす邪悪の台頭の阻止。故に、未だ善にも悪にも振れてない災厄の種に、審判を下すのは時期尚早。竜族の長から、直々にその旨を伝えられた彼女――“空の勇士”は憤りを隠すことなく拳を握り締めた。
「悠長な事を。種が芽吹いてからでは遅いのだぞ……!」
老人たちの重い腰を如何にして持ち上げるか。平和の世に浸り過ぎるあまり、すっかり牙が抜けてしまった同胞の不甲斐なさに苛立ちが募る。
「……いかんな、気を鎮めねば。感情に振り回されるなど愚の骨頂ではないか」
長老たちの見解は正しい。若輩者である空の勇士では、永遠に近い時を生きた彼等の思慮深さには到底及ばない。今までもそうだった。私心を捨て、弱き者たちを守る信念の牙として、これまで一度たりとも長老の命に背いた事はない。いや、
「あれから、どれ程の月日が経ったか。あ奴は息災であろうか……」
数ヶ月前の偶然の出会い。永い竜の一生にとっては瞬きする程度の短い交流を経て、旅立って行った不思議な男。すぐに記憶から薄れるかと思いきや、日を追う毎に当時の情景が強く、鮮明に浮き上がる。
停滞していた世界に突如現れ、散々に掻き乱してから男が去った後には、元の静けさだけが残った。今までそれが当然だと、疑問すら感じずに過ごしていた自らの世界が、何故か空虚に感じられた。それからだった。外界に興味を抱くようになったのは。
「……オルステッド。お前は、目的を果たせたか……?」
青空に溶け込んでいく想いを見つめ、穏やかな微笑みを浮かべた空の勇士が翼を開く。無駄な時間を潰してしまったが、今は哨戒の任の途中だ。すぐに戻らなければならない。風を巻き起こし、その場から飛び立とうと彼女が足に力を込めた時、背後の空間が揺らいだ。
「ほぉ? これは珍しい。噂に名高き天空の覇者も小娘のように笑うのだな」
陽光を反射して輝く蒼い髪が空を泳ぐ。白い柔肌を包む、艶めかしい踊り子の薄衣が風に揺れる。虚空が罅割れ、砕け散った鏡面の奥で妖艶な美女が嗤う。
「貴様はっ……!」
「そう睨むでない。折角の美貌が台無しだぞ?」
気配を察すると同時に空の勇士が繰り出した掌底を、蒼い髪の女は平然と受け流す。お返しとばかりに振り上げた豪脚が勇士の腹を捉え、容赦なく岩肌に叩きつけた。
「怖い怖い。これでは嫁の貰い手に困りそうだの」
「黙れぇッ!!」
めり込んだ岩山を殴り壊し、一直線に飛んできた勇士が放つ無数の拳打を、女は僅かな身のこなしで躱し続ける。平和を乱す怨敵を討つべく、勇名を馳せる竜の拳が唸りを上げた。
「貴様は此処で朽ちろ! ハイシェラぁッ!」
「小童が、軽々しく我が名を呼ぶでない」
地の魔神ハイシェラ。自由気ままに世界を渡り歩き、歯向かう相手はその圧倒的な武力で全て薙ぎ払ってきた。理不尽を人の形に押し込めた暴虐の魔神にただ一人、単独で対等に渡り合う事が出来るのが空の勇士であり、故にハイシェラは
「そら、ついてこい。自慢の翼で我を捕まえてみせよ」
「舐めるな! 魔神風情に後れは取らぬっ!」
空間を歪める程の膨大な魔力を推進力に、地の魔神は大空を意のままに泳ぐ。傲慢にも翼を持つ者たちの領域に乗り込み、あろうことか支配者である竜族と肩を並べ、リブリィール山脈上空を舞台に蒼髪の天女が踊る。
「……ふむ。これは、なんとも妙だの」
「お喋りとは随分余裕だな!」
「おや、気付いておらぬのか? 此度の主の拳は随分と精彩を欠いておるぞ」
空中を目まぐるしく飛び交う紫紺と蒼の影。二つが交差する度に大地が震え、紫電と蒼炎が空を彩る。互角の死闘を演じていた両雄だが、次第に空の勇士側が圧され始め、遂には蒼い影が放つ衝撃波を避けきれず岩壁に吹き飛ばされた。
「ちぃっ! まだだ、これしき掠り傷にもならん!」
即座に起き上がり、迎撃の構えを取る。しかし何を血迷ったか、地の魔神は全身に漲る魔力の鎧を霧散させ、無防備な恰好でゆっくりと地に降りていく。
「この辺にしておくか。簡単に殺しても味気ないからの」
「なんだと!? 貴様、逃げるつもりか!」
戦士としての矜持を愚弄されたのだ。このまま帰してやる訳にはいかない。怒りを露わに、白炎の立ち昇る両拳で地面を殴りつけ、爆発的な加速で飛び上がる。天空の覇者の牙が喉元に迫るのを眺めながら、地の魔神は嗤う。
「余裕が無いな。まるで初めての男に逃げられた生娘よ」
魔神の呟いた一言が、空の勇士の耳を突き抜ける。気がつけば、拳はハイシェラの眼前で止まり、拳圧による突風が蒼い髪を靡かせていた。
「……貴様」
「どうした、図星を突かれたか? 分かり易い奴だの」
整った眉尻を上げ、目の前で不格好に固まった小娘を鼻で笑う。リブリィール山脈を仕切る竜族の猛者とはとても思えぬ醜態に、ハイシェラの生来の嗜虐心が刺激される。
「主ほどの戦士が気に入った男か。我も興味があるのう」
「やめろ。貴様には関係ない」
「ほぉ? 随分と肩入れする。これは益々気になるわ」
真顔で抗弁する空の勇士の姿があまり可笑しく、どうしたらもっと愉快な表情を見せてくれるか考えた。そうして思いつく。自由と無縁の籠の鳥に盛大な皮肉を込めて、一層悔しがる姿を拝んでやろうと言葉を紡ぐ。
「番犬は大人しくしておれ。主の男は我が手籠めに――」
ハイシェラがその台詞を言い切る事はなかった。
饒舌に語っていた口を鉄拳が塞ぎ、頭から地面に殴り落とされる。燃え盛る竜の拳は勢い止まらず、倒れた魔神の痩躯を何度も、何度も殴り続け、陥没した大地に亀裂を刻み、乱打は激しさを増していく。
「ふざけるなッ!!
その先は言ってはならない。
直前で理性が引き留め、全力で牙を噛み締める空の勇士の背後で、いやらしく目を細めた無傷のハイシェラが囁く。
「どうした、何を言い淀む? ほれ、素直に申してみよ」
「……見くびるな。儂は戦士だ、貴様の甘言は聞かぬ!」
右足を軸にその場で身体を捻り、回し蹴りを放つ。断頭台の刃の如く鋭い爪先が魔神の華奢な体幹を圧し折ろうと、がら空きの側腹に突き刺さる。
「涙ぐましい程の忠犬だの。まぁ、それもよかろう」
蹴り抜かれた胴体が上下に分かたれる。血しぶきを飛ばす己の身を他人事のように見下ろしながら、尚もおどけた顔でハイシェラは言い捨てた。
「それが偽りなき本心ならば、な」
にやりと口を歪めたまま、ハイシェラの身体が砂に変わり崩れていく。逃げるなと激昂する空の勇士を嘲笑い、好き勝手に暴れ回り満足した地の魔神は、塵となって青空の向こうに消えた。
「愚かな。魔神の戯言に付き合う義理は無い!」
地面に残留する魔神の残滓を竜の翼で吹き飛ばし、捨て台詞を吐いて逃亡した卑怯者に聞こえるように叫ぶ。
リブリィール山脈を守護せし竜族は平和の管理者でもある。世界に混沌を招く邪悪の存在を許しはしない。私心に拘り、信念を忘れた先に待ち受けているのは破滅だ。欲望に囚われ、堕落していった先達の覆轍は踏まない。
「儂は……空の勇士だ。我が身は世の安寧の為に……っ」
未だ名を持たぬ若輩者でありながら、聖域の民を守り、恐れを知らず果敢に魔獣を討伐するその勇猛さを認められ、竜の長より空の勇士の称号を与えられた。
知恵有る竜の戦士として、未来を予見せし雲居の後継者として。これより訪れる未曾有の災厄から世界を守る。それが大いなる力を持つ者の責務。天空を翔る空の勇士としての正しい在り方だ。
「そうだ。正しい道を……迷う事など何も……」
惑わされてはいけない。所詮は、欲望に生きる魔神の戯言。一時の気の迷いで道を踏み外すなど、愚か者のする事だ。
「……迷う? 儂は……迷っているのか……?」
中庸の調停者にして、リブリィール山脈の守護者である空の勇士。我欲とは無縁の信念の牙が、ほんの僅かに揺らぐ。鋼の意志の裏で密かに芽生えていた種を、この時初めて彼女は自覚する。
「儂の本心……真に望むもの……」
不変にして泰然。永劫の時を生きる竜の娘が独り思い悩み、答えを導き出すまで世界は待ってくれない。
程なくして、リブリィール山脈に住まう竜族に激震が走る。恐るべき怪物、魔神トリグラフの死。古神の器を操る人間族の青年。彼を狙う地の魔神に、その裏で蠢く不穏な影。
信念と欲望。暗躍する悪意と思惑。決して交わる事のない正義。嵐が、近づいていた。