「さ、寒い……」
五月のとある日曜日の朝、わたし―――姫宮葉月は恋人である一ノ瀬和也くんの家に立っていた。
時刻は六時三十分、わたしがここに来てから三十分以上が経過していることになる。
「さ、さすがに早すぎた……よね。でも今更帰るわけにもいかないし……」
わたしがこんなことをしている理由はただ一つ。
和也くんのデートを監視するためだ。
とはいえ、デートの相手はわたしではない。
そもそも相手が女なのかどうかすら分からないという状況だ。
(メールには『デート』って書いてあったし、相手が女なのはほぼ確実。和也くんを疑うわけじゃないけど、彼女として確かめておかないと)
逆に相手が男だった場合それはそれで複雑な気分になりそうだが。
ともかく、せめて相手の顔くらいは見ておかないと安心できない。
自分と彼の共通の友人である可能性も否定はできないのだから。
(できればそうは思いたくないけど……)
とにもかくにも、彼が出てこないことには話が進まない。
しかし、いつまでたっても出てくる気配がない。
(無理言ってでも聞いておくべきだったなぁ)
彼の妹、雫ちゃんから聞き出した情報は、日曜に外出するらしいということだけ。
時間や場所のことは一切聞いていない、というより、彼女もそこまでは知らなかったようだ。
「くちゅんっ!」
だんだんくしゃみも出てきた。
五月も終わりとはいえ、この時間はさすがに寒い。
一体わたしはあとどれくらい待っていればいいのか。
マラソンと同じように、ゴールが見えないというのは人を不安にさせる効果がある。
そしてその不安は体力を余計に消耗させてしまうのだ。
「ふえぇん!和也くんはやく来てぇ〜!!」
かくしてわたしは自分がここに来た理由さえ忘れてしまうほどにまで追い詰められてしまうのだった。
◆◆◆◆◆◆
「いってきまーす」
「きたぁ!!」
二時間もの激しい戦いの末に家の玄関から鳴り響いた彼の声。
それを聞いたわたしはつい歓喜の声を上げてしまい、慌てて自分の口を押さえた。
そしてバッグの中から帽子を取り出し、顔が見られないよう深くかぶった。
「よし、行くか」
そう言って彼は駅の方へと歩いて行く。
わたしもこっそり、後をつけるようにして歩き出した。
電柱や曲がり角を駆使しながら、バレないように少しずつ歩みを進める。
「なんか後ろから気配がするんだが……」
五分ほど歩いたところで、彼がボソボソと何か呟き始めた。
(独り言……?もしかしてわたしに気づいたとか!?)
どうやらその考えは当たってしまったらしい。
彼が足を止めて、後ろを振り向いた。
焦ったわたしはズボンのポケットから携帯電話を取り出し、まるで通話しているかのようにブツブツと話し始めた。
あえて彼に聞こえるように、大きな声で。
「も、もしもし佐藤さん?今そっちに向かってるから……え、そうなの?わかった了解」
電話を切り、携帯電話をポケットにしまう。
肝心の彼は……大丈夫のようだ。再び歩き始めている。
(よかった……)
わたしはホッとしながら胸を撫で下ろした。
◆◆◆◆◆◆
駅に着き、彼が切符を買い始めた。
目的地が分からないので、わたしはその様子を背後から慎重に覗く。
彼が切符を買い終わると、すぐに同じ額の切符を購入する。
彼が改札をくぐり終える前に追いつかなければならない。
排出された切符を取り、すぐにその場を離れようとする・・・が、そこで隣のお婆さんの姿が目に入る。
券売機の前でオロオロしているところを見る限り、どうやら切符の買い方が分からないようだ。
「お婆さん、何かお困りですか?」
わたしが声をかけると、お婆さんは困った表情で答えた。
「御茶ノ水駅というところに行きたいんじゃが……どうしたらいいのかわからなくてのぉ」
「あぁ、それでしたらここのボタンを押して、お金を入れれば切符が買えますよ」
「そうだったのかい。ありがとうね、親切な娘さんだねぇ」
「いえ、これくらいお安い御用です。ホームの場所は……あそこに立っている駅員さんに聞いてみてください。それでは、失礼します」
お婆さんに別れを告げ、改札を通る。
しかし、すでに彼の姿はどこにもなかった。
(切符の値段から考えれば目的地は2つに絞られるけど……どっちだろう?)
『秋葉原行きが間もなく出発致します』
わたしが悩んでいると、そんなアナウンスが聞こえてきた。
秋葉原駅はまさに今わたしが悩んでいる駅の一つだ。
どうやらゆっくり考えている暇はないらしい。
(行くしかない!)
わたしは今にも扉が閉まりそうな電車に飛び乗った。
電車には無事に乗れたものの、勢いあまって男の人にぶつかってしまった。
「きゃっ!!ご、ごめんなさい!」
「いや、こちらこそ。大丈夫?怪我はない?」
「はい、大丈夫で……す?」
聞き覚えのある声だと思い相手の顔を見てみると、その人はわたしの恋人、和也くんだった。
電車が合っていたことに安堵しつつも、バレるのではないかという緊張が走った。
「ん、どうかした?」
「いいえ、なんでもありません!!」
硬直するわたしを心配したのか、彼がわたしの顔を覗き込もうとしたが、わたしは咄嗟に顔をそらしてそれを回避する。
「それならいいんだけど……」
怪訝な顔をしているものの、どうやらわたしの正体には気づいていないようだ。
・・・少し残念な気もするが。
それから秋葉原駅に着くまでの間、わたしは必死にバレないようにしなければならなくなったのだった。
◆◆◆◆◆◆
秋葉原駅に着き、一斉に人が電車から降りた。
人混みの中、わたしは彼を見失わないように気をつけながら前へ進む。
対する彼はこういう場に慣れているのか、わたしとは違い、人波を掻き分けながらぐんぐんと前へ進んで行く。
(なんでこんなに人がいるの!?いくら休日でもこれはさすがに……)
何かイベントでもあるのだろうか?
ここはあまり来たことがないのでよく知らないが・・・。
わたしはやっとの思いで改札まで辿り着き、駅の中から外へ出る。
「つ、着いた。和也くんは……いた!」
柱に寄り掛かってスマホをいじっている。
どうやら誰かを待っているらしい。
(もうすぐ和也くんを呼び出した相手に会えるんだ……)
心臓が高鳴り、自分でも緊張しているのがわかる。
わたしは深呼吸をして、気分を落ち着けようとするが、なかなか鼓動は収まらない。
するとそこへ、一人の女性が彼に近づいていくのが見えた。
金髪で、とても綺麗な人だ。
染めているようには見えないが・・・地毛だろうか?
(あの子が……和也くんの友達?)
しばらく二人で話した後、どこかへ向かって歩き出した。
わたしは再びその後を追った。
(和也くん、楽しそうだなぁ……)
自分の前では見せたことのない笑顔。
それを見るたびに、胸のあたりがズキズキと痛んでくる。
彼と彼女の関係は分からないが、彼が他の女性と一緒にいるというだけで、なんだか嫌な気分になる。
(わたしって嫌な女だなぁ……)
すると突然、女性の方が前方を指差した。
その先にあるのはゲームセンターだ。
(あそこが目的地なの?)
角を曲がり、裏道を通って先回りをする。
少しでも近くに行って会話を聞こうと思ったのだ。
入り組んだ路地を出ると、ちょうどゲームセンターの隣に出た。
そしてわたしの前を二人が通りかかる瞬間、女性の言葉が風に乗ってわたしの耳に入った。
『私の親友は誰にも渡さない』
その言葉に危機感を覚えながらも、わたしは一つの疑問を口にする。
「今、あの人と目があったような……」