一夏は半覚醒すると、まず違和感を覚えた。
寝室のベッドは必要最低限の安物で、少しでも動けばギシギシと響くような重心の不安定な物だ。
しかも毛布は薄くペラペラしたもので、夜は凍えるように寒く、そして満足に洗濯も出来なかったのでカビ臭かった。
ところが、幾ら一夏が動いてもベッドからは音がしないし、布団もまるで羽毛が入っているみたいにモコモコで暖かい。
まるで、小学生の時の自分のベッドのようで…………いや、それ以上に上等かもしれない。
「いっくん」
「!」
聞き覚えのある声に、凄く久し振りに聞こえた声に、意識が引きずり出される。
まだ起き抜けの、ボヤケた視界で辺りを見渡すと、ベッドの傍らに誰かが居るのが見えた。
「…………」
「いっくん……」
「…………束、さん?」
「うん、そうだよ」
その声の主は、篠ノ之束だった。
間違いなく、この1年半の間に織斑一夏が一番会いたかった人物が…………今、目の前にいた。
「……」
「久し振り、だね……」
「あ…………た、ば……そっ……」
言葉を出したいが、まるで口が壊れてしまったみたいに言葉が出ない。
まさか、暫くマトモに話していない内に喋れなくなってしまったかと思って、凄く怖くなった。
このままでは、束さんと話すことが出来ない事が…………
「…………良いんだよ」
「!」
「うん…………大丈夫だから…………ね、いっくん?」
束さんは、優しく迎え入れてくれた。
それが凄く温かくて、懐かしくて…………
「おかえり、いっくん……」
「た、だい、ま…………!」
束さんは、力強く一夏を抱き締めてくれた。
ギューッと、有らん限りの力で目一杯に。
だけれども、それはとても優しくて…………
そして気がつけば、一夏の眼からは涙が零れ落ちていた。
ビックリした。
まだ自分が、涙を流すことが出来たことに。
だけどそれが、堪らなく嬉しくもあった。
○
一夏は、この一年半に有ったことを全て包み隠さずに束さんに話した。
拉致されたこと、
厳しい訓練を強要されたこと、
銃を握らされたこと、
………………その銃で、人を撃ち殺したこと、
目の前で同い年位の男の子が、殺されたこと──
「そっか…………」
束は、それを何も言わずに傾聴した。
“辛かったね”なんて慰めの言葉は掛けない。
それが意味を為さない事を、何より篠ノ之束という人間自身が知っていたから。
代わりに
「……ごめんね」
束さんが、謝った。
「…………?」
「もっと早く、いっくんを見つけられた筈なのに……」
束さんは、この一年半の間も絶えずに一夏の事を探してくれた。
もし仮に、一夏が何処かある程度人の集まる場所に行っていれば、束さんのハッキングした防犯カメラがその姿を捉えていただろう。
しかし、一夏を誘拐した組織は表に姿を表さず……一夏は基本的に何処かの施設に収容されてきた。
今回見つけられたのは一夏が屋外に出されたこと、そしてISが極近くに居た為にコア・ネットワークを通じて束さんの元に一夏の居場所が知れたから…………
そんな好条件が重なった、偶然による物だった。
「だから、ごめ──」
「ありがとう」
「…………えっ?」
「ありがとう」
見つけてくれて、
助けてくれて、
迎えてくれて、
色んな、いっぱい、沢山…………
ありがとう。
「…………うん」
「……」
「そうだね、謝ってるだけじゃ駄目だ!」
何かを決意した様に、束さんは一度離れると、何かの機材を持ち込んできた。
「いっくん、あーんしてみて」
束さんは、銀色の舌圧子のような道具を一夏の口に向けてきた。
もちろん一夏は素直に従う。
舌に、甘い味が広がった。
「何か味はする?」
「甘い」
「よし…………じゃあ、これは?」
「苦い」
「これは?」
「しょっぱい」
様々な味のする物を、舌の上に乗せられた。
「じゃあ、次……」
「…………?」
しかし、何も味はしなかった。
「どう?」
「…………」
素直に、首を横に振る。
「!…………ちょっと、ごめんね」
今度は、腕の皮膚を持ち上げるように抓ってきた。
「……………痛くない?」
「うん」
「それじゃあ…………」
今度は、メスのような刃物を取り出し、同じ部分を少しだけ切り裂く。
当たり前だが、その傷からは血が流れだした。
「…………今度は?」
「痛くない」
「…………」
束さんは、切った傷の止血と治療をしながら深刻そうな顔をしている。
いったい、どうしたと言うのだろうか?
「…………ログを見て、まさかとは思ったけど……」
「?」
「ねえ、いっくん…………あのね」
暫く束さんは迷うように逡巡したが、また口を開いた。
「いっくんはね、病気なの」
「病気…………?」
「うん…………心的外傷後ストレス性感覚神経麻痺障害……それが、いっくんの病名」
難しい単語が、突然飛び出した。
何やら、PTSDみたいな病名だけれども…………
「この病気はね、最初は軽い無汗症や無痛症から始まって、徐々に味覚や嗅覚って言った感覚が失われていって、症状が進行すると聴覚や視覚も閉ざされて、最後には運動が麻痺して動けなくなって死んじゃう病気…………」
それは、思ったよりも深刻なものだった。
「これは、強いストレスが原因で起こるんだ。
それで、多分いっくんは…………心を閉ざして、ストレスの原因となることをなるべく考えないようにして、無意識の内に症状が進行しないように防御していたんだと思う」
「…………」
何となく、それには覚えがあった。
「私なら、これ以上は症状が進行しないようにするお薬は作れるけど…………」
「うん」
「…………もう、無汗症と無痛症は一生治らない」
「……」
「もっと早く、気付いてあげていられれば良かったんだけど…………」
ああ、また…………
束さんはやっぱり、何か勘違いをしている。
「違うよ」
「…………?」
「束さんがいたから、僕は死なずに済むんだよ」
「っ!」
「だから、やっぱり…………ありがとう」
「いっ、くん…………!」
そして束さんは、一夏の胸に顔を押し付けた。
そのまま、嗚咽も聞こえてくる。
「ありがとう…………ありがとう、生きててくれて、ありがとう…………っ!」
「…………」
「ありがとう…………ありがとうっ!」
暫く、束さんはそのまま泣き続けていた。
・心的外傷後ストレス性感覚神経麻痺障害について。
恐らく、検索してもPTSDについて以外出てこなかったかと思われます。
それもその筈で、何故なら架空の病気だからです。
「おお、そんな病気があるのか!」と感心されてしまわれた方には、大変申し訳なく思います。
設定としましては、無痛症と無汗症と言った症状の他に、進行すると味覚障害や視覚障害と言った感覚障害が生じ、最終的には生体機能を失い死に至る病です。
束さんがスプーンで何かを食べさせたのは、第一段階である無痛症及び、第二段階である味覚障害が発生しているかを確かめる為です。