杉下とマスターがにこをじっと見ている。にこは我慢して紅茶を飲みこんだ。ブルーチーズに納豆を混ぜたみたいな青臭い後味が残った。飲み込んでも胃が嫌がってのたうち回っているように感じる。マスターが心配そうにいった。
「無理して飲まれることはありませんよ。やはり合わないようですね……」
「そうでしょうか。僕は案外好きな味ですがねぇ……」
にこは驚いて、杉下を見た。杉下は平然と紅茶を美味しそうに飲んだ。杉下の味覚のセンスを疑わざるを得なかった。
「そうですか……ではよほどの通向けなようですね。これは一般のお客さんには出せそうもありません」
にこはゴホゴホッと咳をした。眼が赤く充血している。
「大丈夫ですか?」
マスターが覗き込む。
「だ、大丈夫です……」
大丈夫ではなかった。不味い紅茶のショックで頭が痛くなってきた。
「お口直しに、ダージリンのマカイバリなどは?」
マスターが訊いてきた。
「それはいいですね」
杉下も頷く。
「お詫びに無料で提供させていただきます」
「すみませんねぇ……」
「いえいえ……私のせいですから」
お口直しの紅茶はミルク入りで、甘かったので、少し落ち着いた。
○
杉下とにこは店を出た。杉下の愛車フィガロに乗りこむ。車が走りだして、しばらくして、にこはため息をついた。
「ほんと、あんな不味い紅茶が一杯二千円ですよ! にこほんと意味わかりません」
「そうですねぇ……確かにロイド&ジョンソンとリラージュ・クレールは全く合いませんねぇ……」
「えっ? だけど杉下さん、さっき美味しいって……」
「あれは嘘です。本当はとても飲めたものではありませんでした」
にこは唖然として杉下を見つめてから、笑いだした。
「なぁ〜んだ。やっぱり警部も激マズだって思ってたんですね! なのにわかるふりして気取っちゃって!」
「すみません」
「いいんですよ。やっぱり警部も紅茶通ってわりにそこまで通じゃなかったんですね?」
「いえ。あのブレンドはそもそも間違っていると思います」
「負け惜しみですか?」
「いいえ。本当はもっとよいブレンドがあるはずです。被害者の胃腸のなかにはロイド&ジョンソンでない茶葉が複数種類あったのです。それはリラージュ・クレールではありません」
「ふうん……じゃあわざとそのベストのブレンドを隠してるんですか? マスターが」
「ええ」
「なんでですか?」
杉下は赤信号で車を止め、にこに笑いかけた。
「犯人だからですよ」
○
にこはひとりで慶大医学部の二宮研究室を訪ねた。解剖所見を拝借したおわびのためである。研究室を訪ねると、扉の前で白衣姿の真姫が不機嫌そうに腕を組んで待っていた。真姫はにこの姿に気づくと、怒ったような顔で近づいてきた。
「ちょっと来なさいよ」
真姫についていき、空き教室に入った。真姫は呆れたように首を振った。
「勝手に解剖所見見たでしょ?」
「勝手にじゃないも〜ん。ちゃんと言ったにこ〜」
「あのとき私寝てたのに……もう!」
「はいはい……ごめんにこ! ほらこれおわび!」
にこは真姫に箱を差しだした。
「何これ?」
「紅茶セットよ!」
「ふうん……リーベシールド……リーベシールド?!」
真姫は眼を丸くした。
「何よ……どうしたの?」
「これ……どこで買ったの?」
「えっ……人形町のリーベシールドっていう紅茶専門店よ」
「ふうん……私も行きたい」
「そう? じゃあ連れてってあげる」
「いいわよ……場所だけ教えて」
「え〜、じゃあ〜教えな〜い〜」
「ずっと探してたの! このお店! パパと昔行ったお店なの」
「ふうん……真姫ちゃんの思い出の店なんだ」
「うん。銀座にあったんだけどなくなっちゃって……」
「そう。じゃあ場所だけ教えてあげる」
「ありがと」
にこはメモ帳のページを切り取って最寄り駅からに簡単な地図を書いて渡した。
「そうだ。そのリーベシールドがあった場所も地図にしてよ」
にこは真姫に地図にして書いてもらった。
○
「……というわけなんですけど」
特命係でにこは杉下に真姫とのことを話した。杉下は興味深そうに頷いた。
「なるほど。リーベシールドというのは銀座にあったのですね」
「そうみたいです。銀座七丁目にあって、前は喫茶店だったみたいです。それで、そこで飲んだブレンドティーが忘れられないって、紅茶なのに青いんですって。紅茶じゃなくて青汁かもしれませんよ……ふふふ!」
「そうですか、青い紅茶……。では少し調べてみましょう」
杉下はイスから立ち上がり、コートを着て、特命係を出ていった。にこも続いた。
○
地図どおりに行って驚いた。
「警部……」
「ええ」
地図どおりに行くと、リーベシールドの跡地は貝沢氏が殺害されたあの路地だった。あのにこを通せんぼした警官がまだ不機嫌そうな顔をして、立ち番していて、あのチャラ男は今度は前回と違うギャルを連れて、まだ飽かずに野次馬を続けていた。警官もカップルには既に興味を失って空気だと思うようになっているようだった。
「ここで間違いないようですね」
「どういうことですか?」
「行ってみましょう」
「はい!」
○
杉下とにこはリーベシールドに行った。昼間だったのでお客さんがたくさんいて賑わっていた。マスターは杉下とにこに気づくと笑いながらいった。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは」
「こんにちは〜」
にこと杉下はカウンター席に座った。
「今日はどうなさいますか? またロイド&ジョンソンとリラージュ・クレールのブレンドでも?」
マスターはいたずらっ子のように微笑んだ。
「いいえ、今日は金駿眉でお願いします」
「かしこまりました」
「ところでこのお店は移転して何年になりますか?」
「十六年になります」
「そうですか」
マスターは紅茶をいれた。
「お調べになったんですね」
「ええ」
「ところで、なぜ移転されたのでしょう?」
「貝沢さんに、紅茶に専念できる環境がほしいと泣きつきましてね……」
「そうですか。いいオーナーに、いいマスター。だからこんな人気店に……」
「ありがとうございます。貝沢さんは私の命の恩人であり、紅茶の素晴らしさを教えてくれた人でもあります」
「そうですか……貝沢さんも紅茶がお好きだった……」
「ええ。もともとリーベシールドは貝沢さんのお店だったのを私が借りているようなものです。お店だけじゃない……店にこめられた思い出も……」
「そうですか。ですからリーベシールドが始まったあの銀座の思い出の空き地に……貝沢さんの遺体を運んだのですね?」
紅茶を飲んでいたにこは思わず動揺して吹き出しそうになった。いきなり人前で追及しだすとは思わなかったのだ。近くに客もいる。しかし他のお客さんは会話に夢中で杉下の低い小さな声に気づかなかった。
「よきオーナーとよきマスター……なぜ二人はわかりあえなくなってしまったのでしょう……」
「遺体?」瓶を取ろうとしていたマスターは振り返り微笑んだ。「何のことでしょう?」
「お店にはお客さまの思い出がこめられている……それを商業主義的な貝沢さんに汚されていくことにあなたは耐えられなくなったのではありませんか?」
「なんのことだか……」
「チェックをお願いします」
「ありがとうございます」
杉下は財布から札を取り出す。
「貝沢さんはリーベシールドを大手に売却するつもりでした。大手に売却されれば、リーベシールドにも大手の安価な紅茶と関係ない商品が並ぶようになる……それが純粋に紅茶のみを愛するあなたには許せなかった」
「どうでしょう?」
「そこで最後にあなたは貝沢さんが最も愛したロイド&ジョンソンのブレンドティーを飲ませて翻意するよう促しましたね?」
「さあ?」
「あなたが貝沢光雄さんを殺害した……違いますか?」
「証拠は?」
「必要でしょうか?」
「ないんですね」
「では明日つれてきましょう。矢澤さん? 戻りましょう」
「はい」
にこも席を立った。
「またのお越しを」
マスターはお辞儀した。
○
杉下は車を運転しながらにこに話しかけた。
「矢澤さん」
「はい!」
「あなたのご友人で、慶應義塾大学医学部の……」
「真姫ちゃんですか?」
「そう。西木野さんですが。明日リーベシールドに来ていただけませんか?」
「真姫ちゃんですか? わかりましたけど……なんでですか?」
「事件解決のためです。それと……」
「なんですか?」
「事件現場近くの自動販売機近くの防犯カメラの映像を取ってきてください」
「今からですか?」
「ええ、今から」
「……全く人使い荒すぎますよ……」
○
翌朝の早朝。人形町にはにこと杉下がいた。そこにタクシーが入ってくる。降りてきたのは真姫だった。私服姿で、黒いワンピースを着ている。
「何よ、その格好。葬式でも行ってきたの?」
「違うわよ。もう! だいたいレポートの締め切りが!」
「捜査に協力していただいてありがとうございます」
「杉下さんですよね……にこちゃんの上司さんの……本当に紅茶を飲むだけでいいんですか?」
「ええ。思い出の青い紅茶を注文してください」
「はい」
「それではいきましょうか」
店の前までたどり着いた。真姫は嬉しそうにいった。
「ここがリーベシールド……」
杉下はドアに近づいた。
「おや? おかしいですねぇ」杉下はドアを指さした。『CLOSE』と板がかかっている。「妙ですねぇ……営業時間であるはずなのですが……」
するとドアからマスターが出てきた。真姫が眼を丸くした。
「あの人だわ……」
マスターは杉下たちを見ると申し訳なさそうに笑っていった。
「申し訳ありませんが本日は臨時休業でして……」
真姫が近づいた。
「あ、あの……私……覚えていらっしゃらないと思いますけど」
マスターは真姫をみると微笑んだ。
「覚えていますよ。18年前にリーベシールドが銀座にあったころに、お父様と来店していただきましたね?」
「覚えていてくださったんですか!」
「ええ。いや嬉しいなぁ……あのときの娘さんがこんな立派なお嬢さんに……どうぞどうぞ……みなさんも!」
真姫に続いて、みんな入店した。妙なことにあちらこちらに紅茶の空き瓶が目立った。
「お父様はお元気ですか?」
「ええ。はい」
「そうですか。それはなにより。お座りください」
真姫、にこ、杉下と座った。
「ご注文は? おすすめはアールグレイのブレンドティーなど……」
「あのときの……あのときパパと飲んだ……青い紅茶……あれが飲みたいです……」
「私もそれで」
にこはいった。
「僕もそれを」
「青い紅茶……?」マスターは笑いながら首を傾げた。「何かの記憶違いでは?」
「覚えていらっしゃいますね?」
杉下は訊く。
「覚えてませんよね……」真姫は悲しそうにうつむく。「だってもう18年も経つし……」
「覚えてますよね!」にこは食い下がる。「ロイド&ジョンソンのブレンドティー! 青いんでしょ!」
「にこちゃん、いいのよ、もう……」真姫は笑う。「実はあのときパパがママと喧嘩して、それで離婚するなんて言い出してね、パパが私を連れて家を出てしまったの……そのときパパと私はリーベシールドであの青い紅茶を飲んで、マスターと他愛も無いお話しをして……それでパパが機嫌直してくれたの。もしあの紅茶がなかったらそのままパパとママは離婚して、家族はバラバラになっていたかもしれない……だからあの紅茶は特別なものなの……私にとって……」
「そうなの……」
にこはうつむいた。
「だからあのときは……ありがとうございます」
真姫は深々とマスターにお辞儀した。
「あなたのおっしゃったとおりですねぇ……リーベシールド……人生に疲れた人に生きる力を取り戻させる店……」杉下は深く頷く。「マスター……ブレンドしていただけますね?」
マスターはうつむいていた顔をあげ、真姫を真剣な表情でじっと見つめた。そして小さな声でポツポツと話し出した。
「あのとき……お嬢さん、あなたは泣いていましたね。それでお父様は、楽しい気持ちになるようなブレンドとおっしゃった。そこで私は紅茶なのに青い……そういう紅茶を作ってさしあげたのでした……」
「作っていただけますね?」
杉下は念押しする。
「ええ」
マスターは微笑むと、棚から瓶を下ろした。ロイド&ジョンソン含めて九種類の茶葉。それで棚にある茶葉はすべて空になった。
「ただブレンドすればいいというものではないのですね?」
杉下はいう。
「ええ。微妙なブレンドの違いで、味も見た目の美しさも変わってしまいますから」
「なるほど」
マスターは手際よくかつ慎重に茶葉をブレンドしていく。その間も人差し指は伸びている。真姫は嬉しそうに肘をついて見ていた。
「どうぞ」
マスターが紅茶を差しだす。その紅茶はやはり青かった。真姫は嬉しそうにすする。
「美味しい……」
「それはよかった」
「これです……パパと飲んだ青い紅茶……」
「美味しい!」
にこにもこの紅茶は素直においしかった。
「美しいブルーですねぇ……まるでサファイアのよう……」
「ありがとうございます」
「マスター……ちょっと」
杉下とにことマスターは、真姫を残して外に出た。
「マスター。これは十分な証拠ではありませんか? このブレンドティーを作れるのはあなただけなのですから……」
「そうですね……でもまだ足りません」
「そうですか。矢澤さん」
「はい! これを見てください」
にこは持ってきたノートパソコンを開いた。そこにはある動画が映っていた。
「これは事件現場近くの防犯カメラなんですけど、これ被害者とマスターでしょ?」
にこは画面をポンポンと叩いた。動画には夜中自動販売機でドリンクを買う被害者と誰かが映っていた。
「この被害者じゃないほうの人……指見てください……ペットボトルの蓋を開けるとき、人差し指だけ伸びてる! あなたですよね!」
「これだけでは不十分かもしれませんが、あなたのご自宅を捜索すれば証拠などすぐ見つかると思いますよ? この動画も詳しく解析すれば……」
「自首してください!」
にこは詰め寄った。マスターは観念したようにがっくりとうなだれた。
「いつから……眼をつけていられたのでしょう?」
「爪です」
杉下はいった。
「爪?」
マスターは聞き返し、爪を見て、ハッと気づいたように口を開けた。
「爪が伸びていたり、割れていたりしています。飲食業に携わる方で爪の手入れをしない方はいません。あなたのプロ意識の高さから考えますと、爪の手入れを忘れるほどの衝撃を受けている、悩みを抱えていると思いました」
「なるほど……爪の手入れも忘れるとは……貝沢さんを殺す以前に私はティーブレンダー失格でした……」
「いいえ。18年前にブレンドしたものを覚えていらっしゃる……そして罪を逃れるよりも、お客さまの思い出を大事にする……あなたは確かにティーブレンダーでした。罪をきちんと償ってください……」
「はい……」
「イギリスの科学者ジョン・レイは言いました、『告白された罪は半ば許される』と。自首を決断していただきありがとうございます」
○
にこは花の里に来ていた。和服姿の穂乃果がにこに話しかけた。
「どうする? 今日も焼酎にする?」
にこは一つ席を離れて座っている真姫を見た。真姫は憂鬱そうに肘をついて、刺し身をつついている。何か物思いに耽っているようにもみえた。
「真姫ちゃんはなに飲んでんの?」
にこは真姫を親指で指す。
「えっとね……」穂乃果は真姫のほうを見る。「まだ水しか出してないけど」
「ふうん……」にこは少し考えた。そして思いついた。「じゃあにこ、今日は紅茶にするにこ!」にこは手をあげて首を傾げて微笑み、高らかに宣言した。
「ええ! 紅茶なんて飲むの!」
穂乃果は仰天して揚げていた天ぷらを油のなかに落としてしまった。
「な、何よ……」
にこは穂乃果の反応に気を悪くした。
「熱……ないよね?」
穂乃果が不安そうな顔をして、にこの額に手を当てる。
「ないわよ!」
にこは穂乃果の手を振り払った。
「えっ……だけど紅茶なんてあるかな……」そのとき奥から割烹着を着た希が出てくる。「希ちゃん! 紅茶ってあるかな? ないよね……」
穂乃果は遠慮がちに訊いた。希は穂乃果とにこを意外そうに交互に見て、ニヤッと笑った。
「あるで!」
穂乃果は意表をつかれて思わず聞き返した。
「あるの!」
「うん」
希は頷く。
「じゃあ青い紅茶なんてのは?」
にこはニヤッと笑う。さすがに紅茶はあっても、青い紅茶なんて小料理屋にあるわけがない。
「青い紅茶?!」
穂乃果は眼を丸くする。
「あるで」
希がニヤッと笑う。
「あるの!?」
思わずにこはイスから転がり落ちた。
「大丈夫?」
穂乃果と希は慌ててにこに駆け寄り、助け起こした。にこは「いた〜いっ!」とわめきつつ、腰を撫でながら起き上がる。他の客は心配そうににこを見ているが、真姫だけは「バカみたい……」と呟いてにこに冷たい視線を向けた。そのあとすぐににこから眼をそらし、自分の料理に視線をもどし刺し身を口に運ぶ。
「本当になんでもあるのね……」
そしてにこは花の里の品揃えに呆れつつ、イスに座り直したのだった。
(了)