にこはアイドル捜査官 ラブライブ✕相棒   作:くーたん局長

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2 ――死んでいた男――

 にこと杉下は昼下がりの西木野病院に来ていた。病院前の駐車場には何台も車が止まっていて、庇がある正面玄関前ではパジャマ姿の老人が家族に支えられて車に乗りこみ、医者と看護婦がそれを笑顔で見送っていたりした。病院のエントランスを抜け、エレベーターで上の階まで行き降りる。黒い聴診器をネックレスのように首に掛け、小脇に書類を挟んだ黒いクリップボードを抱えて、早足で歩いて相手を繰り返し指差しながら治療法について激しく議論している白衣の医者やその後に続く無表情の看護師、点滴スタンドを手に持って押している青いパジャマ姿の顔色の悪いやつれた入院患者のような人々が病院のつるつるとした光沢のある真っ白なリノリウムの廊下の上を歩いている。にこは気が急いて病室の廊下を小走りに走った。

「君! 廊下を走ってはいけませんよ!」という杉下の注意も聞こえなかった。

 307号室とある青い戸を大きく引き開けた。病室には四つのベッドがある。ドアに一番近いベッドに紫のフリースルームウェア姿の希はこちらに背中を向け座っていた。隣のベッドに寝ている七歳ぐらいのあどけないピンクのマイメロディのルームウェアを着た少女と希は話していたのだ。が、ドアが引き開けられると驚いたようにこちらを見た。そしてにこだと知ると嬉しそうに笑った。

「にこっち! 来てくれたんやな!」

「まあね。だけど、仕事の途中よ」

 白いブラウスの上に、グレーのスカートスーツ姿のにこは首を振ってツインテールの房を揺らしながらスタスタと歩いて、希のベッド脇の椅子に座った。

「うち、嬉しいわ。にこっちが来てくれて」

「だけどみんな来たんでしょ」にこはツインテールの左房を掴んでくるくるとした。

「まあな。花陽ちゃんなんて、うちのベッドにしがみついて泣き出すもんやから……後で他の病室の人にそっちの病室で誰か死んだ人おるんなんて聞かれたわ……」

 にこは笑う。

「へぇー、花陽らしいわね」

「そうやな」希は急に笑顔を消して真顔になり、にこの手をとって両手で包んだ。「にこっち……」

「な、何よ……」

 にこは戸惑って、急に希の手に包まれた自分の手を見た。希は眼を潤ませている。

「にこっち……ほんとおおきに……」

「何よ、そんなこと、あんたらしくないわよ……」

「いいや、にこっちが心配して来てくれなかったら、うち死んでたんやって。先生があと5分遅れたら危険だったって……」

「そう……気をつけなさいよね、本当に……ガス漏れなんてシャレになんないだから……」

「にこっちはうちの命の恩人や……」

「だけどにこってより、杉下さんのおかげっていうか……まあ九割がたにこのおかげであるのは間違ってないけどっ!」

「そうか。杉下さんが……そういや、杉下さんは?」

「えっ? そこらへんにいるでしょ……あれ?」

 にこはぐるりと部屋を見回した。杉下はいない。その代わり、さきほどまで希とおしゃべりしていた、小さな女の子と眼があった。女の子はにこと目が合うとにこりと微笑み、中指と薬指を折り曲げた手をこめかみに当てて「にっこにっこにー!」とやった。

 にこは驚愕して、思わず眼を見開いたまま固まる。そして次の瞬間、感動と歓喜が訪れ、にこは思わずその場で飛び跳ねて叫んだ。

「にこにもちゃんとファンが残っていたのね! 嬉しい! にこ、嬉しいにこ! しかもこんな小さい子が!」

 にこは右手の甲で目元をこすりながら感激のあまりすすり泣き出した。芸能事務所をクビになって以来、久々のファンとの対面ににこは喜びを抑えることができなかった。

 少女はにこの狂喜乱舞する姿をポカンとした表情で見つめて首を傾げている。希も複雑そうな笑みを浮かべている。

「あのな……にこっち……」

「希〜! 嬉しいにこ〜」

「あのな……えっと……」

「生きててよかったわ!」

「これ言わんほうがええかな……」

「にっこにっこにー! にっこにっこにー!」

「あのな! にこっち!」

「にっこにっこにー! にっこにっこにー!」

 にこは狂喜のあまり、ただ一人でにっこにっこにーを繰り返している。

 希は呆れたようにため息をつき、首を振って、苦笑いを浮かべながら言った。

「それ、うちが教えてあげたんよ?」

「にっこにっこ……えっ?」

 にこはこめかみに手を当てたポーズで微笑んだまま、希を振り向く。

 希は繰り返し言う。

「だから……うちが教えたんよ、にっこにっこにーってのを……」

 にこは瞬きする。

「うん? ということは?」

「つまりや、その子はにこっちのファンじゃないということや」

「えっ……」

 にこの表情はピキッと固まった。

「にっ……にこっち……?」

 おそるおそる希がにこの顔をのぞき込む。そして次の瞬間、にこから笑顔が消え、眼から光彩が消えた。そしてガクッと肩を落としうなだれる。

「……ははは……」

 にこは力の抜けたように空虚に笑った。まるでにこの周りだけ心霊スポットになったかのようにおどろおどろしい陰鬱な空気がにこを包む。木魚を叩く音まで聞こえてきそうだ。

「なんか……ごめんな、にこっち……」

「ハハハ……いいのよ……希……そ、そんなことだろって……思ってたもの……」

「にこっち……」

 希も慰める言葉が見つからない。希はあたりを見回す。すると外の廊下で杉下が病室に背を向けた状態で何か病院の壁新聞を熱心に読んでいるのを目にした。

「杉下さん!」

 杉下が振り向き、微笑み会釈する。

「ちょっと、こっちに……」

 希は手招きする。杉下は微笑みながら病室に入った。

「どうも。お元気で何よりです」

「ああ、どうも。ほんまに今回も助かりました」

「いえいえ……僕は特に何をしたわけでもありませんよ」

「そんなこと……あの……」

「はいぃ?」

「にこっちが……」

 希がにこを指差す。杉下はにこの様子を見て眼を丸くする。

「おやおや! これはどうしたことでしょうねぇ。いつもあんなに騒がしすぎるほど騒がしい矢澤さんが、こんなに落ちこんだ様子でいらっしゃるとは!」

「そうなん……杉下さん……」

「ええ。そうですが」

 杉下は不思議そうに首を傾げた。にこは相変わらず俯いて、何か陰気臭いメロディの鼻歌を歌っている。

「元気づけてくれへん? 杉下さん?」

「ご期待に添えず恐縮ですが、できかねますねぇ……」

 杉下が困惑したように首を振る。

「やっぱり、そうですか……」

 希はちらりとまたにこを見る。心配してお見舞いに来たほうが、かえって心配されている。

 希と先ほどまで話していた、あどけない少女がオロオロして瞳をめぐらせている。自分のした、にっこにっこにーでにこを泣かせてしまったとでも思っているのかもしれない。だがにこが勝手に泣いているだけなので勘違いだ。希は少女をかわいそうに思って声をかけた。

「あおいちゃん。大丈夫やで。あおいちゃんが悪いわけやないんやから……」

 あおいという名の、そのあどけない少女は希を心配そうな眼で見つめかえした。

「ほ、ほんとう……?」

「ほ、本当や……」希はにこを振り返る。「なっ! にこっち!」にこは相変わらず俯いてブツブツ呟いている。希はにこの肩を乱暴に揺すった。「こら! にこっち! いつまでうじうじしてるん? アイドル捜査官になるんじゃないんか?」

「アイドル捜査官?」

 杉下が興味を持ち、突っ込む。

「そうなんよ。にこっち、アイドル捜査官目指してるんです」

「なるほど……」

 あまりよくわかっていなさそうな顔で杉下は頷いた。にこが顔を向けギロっと希を睨んだ。

「アイドル捜査官?」

「そうや、そうやで」

「じゃあ希はにこのこと、どのくらーい可愛いと思う? 他のμ'sメンバーより可愛いってことはわかってるけど……世界的にみて……ちょっと自信がなくなっちゃって……」

 にこが切なそうな表情を浮かべながら問い詰める。

「そ、そりゃ……日本一……」と希は言いかけて、にこの瞳がまた怪しくギラーンと輝いたのをみて修正する。「……う、宇宙一や……で……」

「本当にそう思ってるのね。じゃあ次、希、あんたはにこのために死ねるぐらいにこのこと好き? どう?」

「あっ……うん……それはどうやろ……」

「そう……死ねるのね……そうよね、にこに救われた命だし……」

「えっ?」

 にこはすすり泣いていた目元を拭い微笑んだ。

「そうよね……にこって……宇宙一可愛いわよね……確実に希よりは可愛いし。自信を取り戻せたわ。ありがとう」

「そ、そりゃよかった……」

「ということは、この状況はにこの実力じゃなくて、世の中がついてきてないのよね……にこの存在を世の中に教えてあげなくちゃ……にこは伝説の美人女刑事としてメディア出演が殺到して、冠番組もゲットしてついでに歌手デビューする運命にあるんだし……こんなところでめげてちゃダメよね……頑張らなくちゃ!」

「う、うん……」

「……そのためにも宇宙一可愛いにこはいつでも笑顔でいなくちゃね……」

 にこは立ち上がる。そして……

「にっこにっこにー!」

 にこは立ち直った。希と少女あおいは拍手する。

「満足ですか?」と杉下が呆れたように尋ねた。

「はい!」とにこは力強く頷いた。「にこがタレントに転向したら、杉下さんもパシリとして使ってあげるから! にこと離ればなれになるなんて心配しないでね?」

「僕は結構です。遠慮します」

「またまた〜、にこの魅力に夢中になってるくせに〜素直じゃないですね〜」

 そして少女のほうを振り向くと、近づいてガシっと握手した。「あおいちゃんっていうのね! よろしくね! 私はミス警視庁でアイドル捜査官の矢澤にこよ!」

「うっ……うん……悪い人を捕まえるひとだよね……」

 少女は戸惑っているように頷いた。困惑して瞳をめぐらした少女は杉下と目があった。杉下は少女に微笑みかけた。

「あおいちゃん……でしたね? ところで君のその脚はどうしたんですか?」

「脚? ほんとだ……それどうしたの? あおいちゃん」

 にこも見ると、少女のふとんで包まれた脚が包帯で包まれている。今までふとんのために杉下に指摘されるまで気づかなかったが、骨折しているのだろう。小さい子だから余計に痛々しく、かわいそうだ。

「階段から落ちたの……」

「おやおや! 階段からですか? それは大変なご災難でしたねぇ……」

 杉下は眉をひそめた。

「そうなんよ」希が口をはさむ。「有楽町にあるな、ビルの階段の踊り場から落ちたんやって……」

「た、大変じゃない! それ!」

 にこも眉間を吊り上げ、眼を丸くした。にこは少女あおいの脚を見た。こんな小さい子が階段から落ちてよく助かったものだ。もしかしたら死んでいたかもしれないのだ。妹たちが落ちる姿を連想すると背筋が寒くなる。

「それでな、あおいちゃん、不審者に追いかけられて……な?」

「うん、怖かった……」

「どういうこと?! 不審者ですって!?」とにこ。

「あのな……」

 希が訳知り顔に説明するところによると、仕事が遅くなりそうなあおいの母親は、あおいを自分の仕事場であるビルに連れてきたのだという。しばらくは仕事中の母親の側でおとなしく待っていたあおいだったが、しばらくすると飽きてしまい、ふらっと母親の職場を抜け出してビル中をふらついたのだという。すると急に後ろから、男に声をかけられたのだという。

「なんて声をかけられたの?」

 にこは尋ねるが、あおいは首を振った。覚えていないようだ。

「よくわからないらしいわ。とにかく急に声をかけられて怖かったらしいわ」

「ふうん……」

「続けてください」と杉下。

「それでな……」

 そして急に後ろから声をかけられて怯えたあおいは、急に走り出して、階段で脚をくじいて踊り場から落ちたのだという。

「なるほど……で? その不審者は逮捕されたの?」

「いいや。逮捕されてないらしいわ」

「逮捕されてないですってっ!」

「矢澤さん。ただ後ろから声をかけただけで逮捕することはできませんよ。その方が階段から突き落としたという事実もないのですからねぇ」

 杉下がいう。

「そりゃそーだけどー。だけど怪しい目的で近づいたに決まってるわ! きっとそのビルで働いてる人のなかにいるのよ! 犯人!」

「ああ、海未ちゃんもそんなこと言ってたわ」

「ああ、海未にも話したの?」

「話したというか……海未ちゃんがあおいちゃんを見つけたんよ」

「ええ?」

「海未ちゃんもそのビルに用があって来てたらしいわ。それで階段を降りたところで海未ちゃんが見つけたんやな」

「あのお姉さん……すごく優しかったよ」と少女あおい。

「ところでその男の顔は? 覚えてる?」

「えっと……」

 少女は俯く。暗かったろうし、怯えていただろうから覚えていないようだ。

「まあ、警察が見つけてくれるやろ。な、にこっち」

「当然でしょ! 日本の警察はちょー優秀なんだから! あおいちゃん心配無用よ! 必ずそいつを捕まえてやるんだからっ!」

「う、うん……」あおいは頷いた。「あのねぇ……え、えっと……」と少女あおいがおずおずと言った。

「どうなさいましたか?」と杉下。

「アニメ……」

 少女はテレビを指さした。テレビは消えている。

「ああ、テレビが見たいんやな」希は笑顔で頷くとチャンネルを手に取り、テレビをつけた。「あおいちゃんはな、このアニメがほんまに好きでな……」テレビ画面はついたが、アニメはやっていない。ニュース番組だ。「あれ? おかしいな……」

「アニメじゃない……」

 あおいは悲しそうな表情をしている。

「あれ? おかしいな?」

 希も戸惑っている。

 杉下がテレビを指さす。

「緊急特番のようですよ……」

 ニュース番組のようだ。国会の映像が流れる。政治に大きな動きでもあったらしい。しかし今、あおいちゃんに必要なのは、政治の緊急ニュースではなく、通常編成で放送されるはずだったアニメである。

「ごめんな。あおいちゃん、今日はアニメやらないみたいやわ……」

「そんな……」

 少女あおいはしょんぼりしている。

「これがテレ東だったらねー。テレ東はいつでも通常編成だから、テロが起きても。全く緊急ニュースなんて誰が見るのよ!」

 こういう緊急放送にがっかりする気持ちはにこにもわかる。北朝鮮のミサイル発射や内閣改造のせいでアニメや音楽番組が中断される無念さは計り知れない。

 にこは無念に思いながら、国会中継を見た。杉下だけは興味深げに見ている。野党議員たちがいつものように騒いで、委員長席に詰め寄ったりするシーン。そのあと政党幹部へのインタビュー、野党幹部へのインタビュー。

「あっ!」あおいが急に画面を指さす。「この人!」

「えっ?」

 全員がテレビ画面に目を移す。画面には若い男が映っている。テロップには『黒木・労働党政調会長』とある。眼鏡をかけたインテリ風の若いハンサムな男である。切れ長の瞳で、すらっと鼻筋が通っていて、小顔だ。爽やかな貴公子的なイケメンである。ボイスレコーダーを突き出して互いに押し合いへしあいしている政治記者らは彼を囲んで四方八方から矢継ぎ早に厳しい語調で質問をしている。それに答えて、黒木政調会長は落ちついた様子で、低い声で淡々と政権批判をしている。

『まず一つ、私が申し上げたいことは今国会で私たち労働党が提出したブラック企業撲滅法案についてです……政府は今国会でブラック企業規制に尽力する、ブラック企業撲滅法案も必ず審議すると国民に約束したにもかかわらず、わずか開会三ヶ月で福丸首相は今国会の解散に踏み切りました。これはまさしく民意の軽視であり……』

「労働党の黒木政調会長やな。イケメンやな〜しかし。あおいちゃんも好きなん?」

 希の問いかけにあおいは首を振る。

「あ、あおい追いかけられたの……この人……」

「えっ?」

 にこは画面を見る。既に画面には、黒木政調会長でなく、衆議院解散に踏み切った福丸首相が映っていた。

「あおいちゃん。それは勘違いやないかなー。だってこの人、偉い人やで?」

 あおいはぶんぶん首を振る。

「違うよ! あおいが見たのはこの人だよ!」

 にこと杉下は顔を見合わせた。にこは他人の空似だろうと思った。そんな偉い人がロリコンの変質者なわけがないからだ。ただ貴重な証言ではある。黒木政調会長に似た人物を探せばよいのだ。にこは杉下に頷きかけた。杉下は微笑んだ。

「まー、見間違いよねー」

「ええ、一般的に考えるとそう考えるのが最も自然といえますねぇ……」

  にこと杉下は警視庁へ帰る車のなかにいた。

「普通というより絶対よ。だって政治家がそんなことするわけないもの」

「絶対とは言い切れないと思いますが。政治家の不祥事、犯罪などざらにあると僕は思いますよ?」

「そりゃそーだけどー……だけど被害者、幼稚園生だしー」

「たしかに証言の信頼性に疑義があるということは確かです。君の言うとおりですねぇ」

 杉下が急に右にカーブを切った。

「ちょっと。杉下さん! そこ曲がったら警視庁まで遠回り……」

「少し有楽町に寄りたいのですが」

「有楽町って……まさか……」

「ええ。あおいちゃんが転落して負傷したビルに行ってみようかと」

「だけど中園参事官から、部長室前の廊下の掃除をしろって昨日言われたんじゃ……それにまた勝手なことすると内村部長に怒られるし……」

「まあ、いいじゃありませんか。僕たちはどうせ暇ですし。掃除はいつでもできますよ。それに僕は叱られることには慣れています」

「に、にこは慣れてないからっ!」

「おやおや? そうでしたか?」

「はぁ……もうついていけないにこー……」

「なるほど、このビルですねぇ」

 にこと杉下はビルの前に来ていた。

「そうだと思うけど……なんか車がたくさん……捜査車両よ! 杉下さん!」

「そのようですねぇ。では入ってみましょうか」

「はーい、にこー!」

 にこと杉下が入っていくと入り口あたりに捜査官らが群れていた。

「あっ」にこが指さす。

その中に見慣れた顔があった。鑑識の米沢だ。いつものように青い帽子と制服で他の鑑識たちと話し合っている。

「あおいちゃんの事故でこんなに人が!?」

「いえ、それは違うと思いますよ。この人員からすると何か他に何かが起きたのではないでしょうか」

「あおいちゃんのお母さんの仕事場……大丈夫かしら……例の不審者がまた何かしたのかも……」

「さあ、それはどうでしょう」

 杉下は米沢に近づいていく。

「こんにちは。米沢さん」

 米沢は驚いたようで、顔をあげて眼を丸くする。

「おっ! 杉下警部! それに矢澤さん。どうしてここに?」

「偶然このビルを訪問する用事がありましてね」

「何かあったんですかー?」

「ええ、実は神田川沿いの廃工場でダンボール箱に詰めこまれた遺体が発見されまして……」

「おやおや……そうでしたか」

「さ、殺人ですって!?」

「ええ。遺体は清河英一郎という、芸能スクープを専門にされているフリージャーナリストの方です。芸能人の薬物使用や、暴力団とのつながりなどのスクープを掴んでは大手出版社に持ちこむ……古い言い方だとトップ屋とでもいえましょうか」

「なるほど」

「ふうん……聞いたこともないわね」

「その清河さんの事務所がこのビルの4階にありまして何か取材資料でもないかと押収しにきたんですよ」

「ははーん! にこわかったわ!」

「何がですか?」と杉下。

「だからあれでしょ。芸能界の黒いスクープつかんじゃってー……それで口封じに殺されたのよ!」

「ええ、矢澤さん。捜査一課も取材上のトラブルによるものではないかと捜査しているようですな」

「ふうんやっぱりねー。にこの思惑通りにちゃんと捜査してるのねー、捜査一課も……安心、安心……ところで死亡推定時刻とかもちゃんとわかってるの? 米沢」

「ええ。胃の内容物の消化具合から判断すると、四日前の深夜11時から2時の間ですな」

「なるほど。死因は何でしょう?」

「毒殺ですな。アコニチン、いわゆるトリカブトの毒です。それがウイスキーの成分と共に検出されました。ちなみに殺害現場は特定されていません」

「なるほど……自分の家におびき寄せて毒殺したわけね! 自分ちの高級ウイスキーの中にこっそりとトリカブトを……」

「米沢さん。どうもありがとう」

「ありがとね、米沢」

「いえいえ……なぜ後輩に呼び捨て……まあいっか……」

 杉下とにこは米沢に礼をいうとビルに入っていった。にこも追う。壁に掛けられていたビルの案内板の前で杉下は立ち止まった。黒いステンレス製の案内板は少し触って撫でてみるとざらざらしている。

『第三勧業ビルディング――INFORMATION』という題。下から1F、2F……とその階に入居している事務所の名前がそれぞれ白い文字のフィルムで貼り付けられていて、右側に営業時間や電話番号が表示されている。にこは4Fのところを右手人差し指で押さえる。

「えっと……4階がさっき米沢が言ってた……」

「――米沢さんです」

 にこが呼び捨てにしたのを、すかさず杉下が修正する。にこは気まずく、コホンと咳をしてから続ける。

「わ、わかってるわよっ!……えっと……米沢さんが言ってた、清河ってひとの事務所が4階でー……」

「あおいちゃんのお母様が働かれている事務所が2階ですねぇ」

 杉下は2Fのところをポンッと右手人差し指で軽く叩くと、手を後ろで組み、フロアをスタスタと横切ると、階段を上がっていった。

 二人は階段を軽快に数段駆け上がり、一階と二階の間の踊り場で立ち止まった。あおいちゃんが転倒した階段と踊り場である。血などもなく、現場保存も特になく、一見すると普通の階段である。そして捜査員は誰もいない。にこは憤懣やる方ない思いだった。にこは拳を握りしめると、隣で平然と腰を低くしてあたりを観察している杉下を睨みつけて、強い語気で言い立てた。

「信じらんないっ! あんな小さな女の子が不審者に襲われて大怪我したのに! まだ4日しか経ってないのに! 捜査を打ち切ってるなんて! キー! なんなのよ! 日本の警察はっ!」

 杉下は怒れるにこをじろりと一瞥してそっけなく言う。

「ただ後ろから声をかけただけの不審者を捜査するほどの余裕は警察にはありませんよ。類似の連続事件なら捜査することもあるのでしょうが……」杉下は天井を見上げる。「それにこのビルには防犯カメラも設置されていないようですしねぇ……」

 にこは納得いかない。

「そ、そりゃそーだけどっ!……」

「――だから僕たちが捜査しにきたのですよ」

 杉下は微笑む。にこはハッとした。杉下が捜査しにきたのは気まぐれではなく、捜査打ち切りになってしまうことも視野に入れていたのだ。にこは納得して頷く。

「なるほどね……」

 杉下は階段の上を指さす。

「あそこから、あおいちゃんは足を挫き――」杉下は指さす方向を階段の上から踊り場まで動かす。「――ここに転落して、あなたの友人でこのビルを訪問していた園田海未氏に発見され救助されたというわけですね」

「あー、なるほどねー」

 にこは杉下の指さす先を見ながら頷く。杉下は指さした人差し指を身体に引きつけて、顎のあたりでピンッと立てて言った。

「ところで君の友人、園田さんは階段を下りていくときにあおいちゃんが倒れているのを発見したのでしょうか。それとも階段を上がってくるときに発見したのでしょうか。どちらでしょう?」

「そんなこと知らなーいにこ〜。てゆーか、そんなのどうでもよくて……」

「どうでもよいことなど捜査にはありませんよ?」

「じゃあ、後で海未に聞きに行く?」

「ええ、そうしましょう」

「はーい。それじゃ次は、黒木政調会長似の人が働いてないか、ひとまずビル全体の職場に聞き込みね! 聞き込み! 聞き込みには自信があるにこ!」

「いえ、その前に清河さんのほうも覗いてみましょう。殺人事件にも僕は興味があります」

「……あ、はーい……」

 

――希のガス事故、幼稚園生の転落骨折、芸能記者の殺人事件……杉下さんといると事件が勝手にやってくるのね……杉下さんが警視庁の疫病神ってのは本当みたいね……

 

 さらに階段を上っていき4階まで行くと、4階の奥の部屋から警官たちが出入りしていた。清河のオフィスをその部屋であるようだ。杉下とにこも部屋に入った。部屋は、床にまで書類やら新聞の切り抜きやらノートらが散乱していて、足の踏み場もなかった。泥棒にでも入られたようだ。数人の私服刑事たちがぶつくさ呟きながら引き出しを開けたり閉めたりしている。

 運の悪いことに伊丹と芹沢がいる。伊丹と芹沢は白い紙の切れ端のようなものを見ながら首を傾げていた。杉下は近づいていく。にこも嫌々ながらついていく。にこが二人のことが苦手なのは理由がある。それは伊丹はにこの魅力に悩殺されていることを素直に認めないこと、芹沢はにこの魅力を理解しすぎていることだ。杉下は二人に声をかける。

「こんにちは」

 伊丹と芹沢はビクッと背筋を震わすと、二人とも心底嫌そうな、それこそ死神でも見るような目つきで恐る恐る顔を上げた。伊丹は杉下と目が合うと、舌打ちして天井を見上げ目をつむり眉間の肉をつまんで、首を下ろし、そして呆れたように首を振った。

「警部殿……なぜここに……」

「にこもいるにこ〜!」

 すかさず杉下の後ろから、ファンサービスをしたいという衝動で飛び出すにこ。

「またお前かよ。特命係の矢澤〜」

「はーい! 警視庁のナンバーワンアイドル、にこにーで〜す!」

 素直になれないツンデレ伊丹のためににこはウインクする。

「うぜえ! 消えろ! このぶりっ子セミロングがっ!」

「ハァ……にこちゃん可愛すぎる……」

 芹沢はうっとりとした目つきで、にこを見つめ、だらしない笑みを浮かべる。伊丹はそんな芹沢を歯ぎしりしながら睨みつけると芹沢の首をつかんで振る。

「しっかりしろ! 芹沢!」

「何でしょう? その紙は?」

 杉下が、伊丹の持っている白い紙の切れ端を指さす。伊丹はニヤッと笑うと、それを杉下の鼻先でひらひらさせてから自分のポケットにしまいこんだ。

「残念ですが、警部殿。これは捜査資料ですので部外者にはお見せするわけにはいきませんね〜」

「おやおや……そうですか」

「早速ですが、警部殿の出番はありませんから、お引取りください!」

「芹沢さ〜ん」

「な〜にかな? にこに〜」

「伊丹が隠してる紙なに〜?」

「う〜ん、僕にもよくわから――」

「――芹沢っ! ぶりっ子セミロングに捜査情報をもらすなっ! それと矢澤! 俺を呼び捨てにするなっ!」

 ……とここまで言ったところで伊丹は目を丸くする。自分がポケットに入れたはずの白い紙を、にこが持っていたからだ。伊丹は慌てて自分のポケットに手を突っ込む。タバコの箱しか入っていない。にこを見るとニヤリと笑ってひらひらさせている。とっさに芹沢を見れば申し訳なさそうな顔をしている。

「芹沢っ!」

「す、すいませんっ! にこちゃんが見たいっていうから……」

 芹沢がにこに囁かれて、伊丹のポケットから紙を抜いて渡したのである。

「芹沢! お前、バカかっ!」

「はーい、杉下さーん。あげるわ」

 にこは杉下に紙を渡す。杉下は微笑みながら紙を受け取る。

「おやおや……ありがとうございます」

 杉下は白い紙に書かれていることを読み上げる。

「X、I、A、……」

 杉下は書かれているアルファベットを一字ずつ読み上げていき、最後に「……丸」と言った。

 白い紙には鉛筆で左記のアルファベットの羅列と、大きな少し楕円形にいびつに歪んだ『○』が殴り書きされていた。

 

―― xiaisyd rnqqnts○ ――

 

「なんでしょう? これは?」

「フンッ……教えませんよ、警部殿」

「ローマ字だとシアシド・ルンクツって書いてあるんですっ」

 芹沢は言った。にこはすかさず両手を胸の前で寄せて、さも感動したかのように目を潤ませながら甲高い声で

「すごーい! 芹沢先輩! ローマ字、読めるんですかー!」

 と芹沢をおだてる。

「えっ……まあね……俺、一応大学出てるし……今、シアシド・ルンクツっていうのが何語か、ネット検索してるんだ……」

 芹沢は滑稽にも誇らしげに胸を反り、顔を真っ赤にして鼻の下を伸ばした。

「これは暗号ですねぇ……」

 杉下が言う。

「えっ?」

 芹沢と伊丹は杉下を見つめる。その滑稽な反応を見て、にこはニヤリとほくそ笑む。

「僕が思いますに、シアシド・ルンクツなどという言語は世界の言語に存在しないと思いますよ? それにこの文章が外国語であるという芹沢君、君の仮説だとこの最後の○の記号も説明できませんよ?」

 芹沢は慌てて泡を吹いて抗議する。

「だ、だけど杉下さん……そうとしか意味が……」

「適当なこと言わないでくださいよ、警部殿!」

 伊丹も眉間に皺を寄せる。

「すごーい! 杉下さん! それじゃこの暗号はどういう意味なの?」

 にこは眼をキラキラさせて尋ねる。

 杉下は微笑み、口を開く。

「それは――――」

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