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銀座の繁華街の奥まった、老朽ビルの間にあるその暗い路地は昼間には人気ない場所である。しかしその日はけたたましいサイレンを鳴らした所轄のパトカー数台が路地の入り口を占拠していた。青みがかった制服を着た所轄の警官と、黒い私服のスーツを着た警視庁の刑事たちがその狭い路地を出入りしていた。
金髪で、唇にべったりと口紅を塗ったギャルと茶髪で茶のグラサンをかけたチャラ男の若いカップルがお互いに肘で小突きあい、いちゃつきながら路地の入り口あたりをうろついて野次馬している。路地の入り口で立っている所轄の警官はうさんくさそうにチャラいそのカップルを見ている。そこへ、いかにも場違いといったふうの車が入ってきた。レトロな1950年代風のデザインで、丸みを帯びたキュートなデザインのブラックな小型オープンカー。日産のフィガロだ。先着していた鑑識の米沢がその車に駆け寄った。
「お待ちしていました! 警部!」
その車には二人の人間が乗っていた。運転していた、短髪オールバックで、縁の細い銀縁眼鏡をかけたインテリ風の、黒いスーツを着た中年の背の高い刑事はすぐに車から降りた。その刑事は無表情で、その場にすくっと立ち、周囲を見回した。
「なるほど……」
彼は警視庁特命係杉下右京警部である。
もう一方の助手席に乗っていた、長髪を赤いリボンでまとめているツインテールのほうの背の低い若い女の刑事は、スマホをいじっていて、いっこうに助手席から降りようとしなかった。米沢は車の窓に手を添えて、車中の女刑事にいった。
「矢澤さん! 降りてください!」
乗っていた女刑事は米沢を一瞥して舌打ちすると、シートに座ったままドアを開け、頬をぷっくり膨らませた不機嫌そうな表情で米沢を見上げた。警視庁特命係矢澤にこ巡査部長である。
「も〜! 米沢さんが邪魔するから失敗しちゃったじゃないですか〜!」
「何のことですか?」
「これ!」
にこはスマホの画面を米沢の目の前に突き出した。画面には『ラブライブ!』とあった。
「いい? 米沢さん。にこフルコン寸前だったのにぃ〜、米沢さんのせいで、失敗しちゃった……」
「はぁ……いいかげんにしてください……」
鑑識の米沢がため息してうつむいたのと入れかわりに杉下右京がにこに近づいてきた。
「矢澤さん、いきましょうか?」
「はぁ〜い」
にこは米沢に言われても全然降りなかったのにもかかわらず、杉下に言われると、すぐに車から降りて、ポケットにスマホをしまった。
先ほどチャラいカップルに冷たい眼を向けていた所轄の警官が、杉下とにこの前に立ちふさがった。その警官は警察手帳を見せた杉下は敬礼して通したが、続こうとしたにこは通そうとしなかった。
「な、なによ……」
にこは不審そうに警官を見上げた。警官は仏頂面で通せんぼして、重々しい声でいった。
「未成年の一般人のかたまで事件現場にお連れすることはできません」
にこはギロリとした眼を警官に結びつけて、怒りを露わにした。
「ハァ?! 未成年!?」
警官は動じず、にこを見下ろした。にこは毒づきながら内ポケットから警察手帳を取り出し、その警官の鼻っ面に突きつけた。
「にこは刑事よ! バカにしてんの! あんた!」
所轄の警官は眼を丸くして叫んだ。
「あっ……本庁の刑事さんでしたか!」
にこは勝ち誇るように顎を突き出した。
「そうよ!」
にこが揉めていることに気づいた杉下右京が戻ってきた。
「矢澤さん、いきましょう」
杉下右京は微笑んでいた。
「覚えてなさい! あんた!」
にこは捨て台詞を吐いて杉下と米沢に続いた。警官は謝罪の気持ちをこめてだろうか、最敬礼して見送った。路地の奥へ入っていく。路地は昼だというのに薄暗く、潰れた空き缶や、煙草の吸い殻が路上に散乱している。店の裏口近くにある、青いゴミ箱は倒れていて、中から腐敗して茶褐色に変色している野菜などの生ごみ、魚の骨がこぼれだしていた。それは強烈な異臭を発していて、にこは悪寒を感じ、思わず鼻をつまんだ。ふと杉下を見るが、杉下は表情一つ変えず進んでいく。にこはときおり煙草の吸い殻を踏んでしまい、カサカサとした気色の悪い感触を感じた。
少し進むと鑑識たちが集まって、写真をとっていた。路地の真ん中にうつ伏せになって、金縁眼鏡をかけスーツを着た白髪の老人の遺体があった。近くには伊丹と芹沢が立っていて、何か話し合っていた。伊丹がこちらに気づいて近づいてきた。
「ああ! なぜ警部殿がここに! それにちびツインテールも!」
杉下右京は微笑み、会釈した。
「ごきげんよう。伊丹くん」
にこも杉下の真似をして会釈した。
「元気だったか? イタミ〜ン?」
伊丹は歯を剥き出しにして怒鳴った。
「その生意気な口の聞き方は何だ! 矢澤!」
「ははーん、じょーだんですよぉ〜。にこにーのジョークですよぉ〜。やだ、伊丹さんこわ〜い」
にこはくねくねと腰を振った。
「警部殿! 自分の部下ぐらいきちんとしつけてください!」
杉下は微笑み頷いた。
「わかりました」
伊丹は米沢に気づくと、指さした。
「米沢! お前が呼んだんだろ!」
「あっ……ハハハ……ま、参りましたな……」
米沢は申し訳なさそうに笑って頭をかいた。
芹沢が笑顔で近づいてきた。
「ああ! にこちゃん、来てたんだ!」
「はい! 芹沢先輩! あの早速……被害者の身元教えてほしいんですけど……」
にこはもじもじしながら、上目遣いで芹沢に訊いた。
「いいよ! 貝沢チェーンの社長、貝沢光雄、57歳だね」
伊丹が目を剥いて芹沢を怒鳴りつけた。
「こら! 芹沢! 余計なこと教えるな! ほら特命は帰ってください!」
杉下右京は人差し指をピンと立てた。
「貝沢チェーンといいますと、都内に二十店舗近く展開しているイタリアンレストランチェーンですねぇ……本格的な本場のイタリアンを食べられると近頃評判で、瀟洒な店内の雰囲気が若いカップルにも人気だとか」
芹沢は意外そうに口を丸く開けた。
「へぇ……そうなんですか。よくご存知ですね」
「ええ、今朝矢澤さんとそこで朝食をとってきたものですから」
「ええ!」芹沢は顔を引きつらせて絶句して、よろめき、にこを青ざめた表情で見た。「……え、え……ほ、本当、にこちゃん……」
にこはニッコリ笑った。
「はい! すんごくおいしかったです!」
「あっ……ああ……」
芹沢は呆然としてうめき声あげ、髪をくしゃくしゃにかいて、うつむいた。
「ふうん……朝からイタリアンレストランで朝食とは特命係もいい身分ですね……」
伊丹は鼻を鳴らして、腕を組んだ。
「いえいえ、矢澤さんが寝坊して朝食をお召し上がりになってないとおっしゃるものですから」
「杉下さんには感謝です! また……連れて行ってくださ〜い。警部」
「それはどうでしょうか?」
「そっ……そういうことですか……えっと……ガイシャの……」
芹沢が少し元気を取り戻した。杉下は遺体に眼を移した。
「被害者の腰部ですねぇ? お願いします」
芹沢はため息をつき、被害者の遺体に視線を戻して、いった。
「大動脈を一突き。即死でしょうね。たぶん」
杉下は被害者の遺体の近くに屈み、被害者の遺体の服をめくった。腰にナイフで刺されたような刺殺痕があった。黒い血が腰じゅうに飛び散っていた。後ろから刺されたのだろう。
「なるほど……大動脈を一突きですか……」
「なんかわかりましたか〜。警部」
にこも隣に屈んだ。
「まだなんとも言えませんねぇ……」
杉下右京は遺体を鷹のような鋭い視線で見つめた。
○
特命係に鑑識の米沢がやってきた。杉下右京は紅茶を飲んでいて、にこは持ち込んだ私物のピンクの手鏡を手に取ってマスカラをしていた。にこが特命係に配属されてから、少しずつアイドルグッズなどを持ちこんで、もはや特命係は、杉下とにこの私物でいっぱいだ。
「杉下警部、矢澤さん。事件についてですが……」
米沢は書類を両手に抱えていていて、それをにこの隣の空き机に置いた。
「警部、どうも貝沢チェーンの経営はだいぶ苦しかったようですな」
にこはマスカラをしながらいった。
「へぇ……あんなに美味しくて、お客さんも入ってたのに……」
「客入り自体はよかったのですが、どうも短期間で経営を無理に拡大しすぎてしまったようでしてな。銀行への返済が滞っていたようです。それで店員のリストラやサービスの質を下げることを検討していて、各店の支配人とかなり揉めていたそうで。捜査一課は仕事上のトラブルからの殺人と踏んでいるようです」
杉下はカップに高すぎる位置のポットから紅茶を注いだ。
「なるほど……」
杉下は紅茶を飲みながら、米沢が持ってきた捜査資料のコピーを手に取り眺めた。米沢は黒縁メガネを指で押し上げた。
「ただイタリアンレストランではないのですが、貝沢氏がオーナーを務めていた紅茶専門店がありましてな、そこだけは業績好調であるそうで。ここは近いうちに大手に売却され、それで赤字を補填するつもりだったそうです。警部も紅茶好きですのでちなみにお伝えしました……」
にこは手鏡で自分をうっとりと見つめながらいった。
「事件とは関係なくないですか? その店は?」
杉下はコートかけから、コートを取って羽織った。
「事件とは関係ないかもしれませんが、僕はその店に興味が湧いてきました。どこにあるお店ですか?」
「人形町にある、リーベシールドという店ですが……今から行かれるのですか?」
米沢はきょとんとしている。
「ええ」
にこは杉下の言葉に反応した。すぐに手鏡から眼をそらして杉下を睨みつけ、指さして叫んだ。
「ずるいですよぉ! 警部! 昨日中園参事官から倉庫にある証拠品の整理しろって言われたじゃないですか!」
「なら、君も行きますか?」
ポールハンガーにかかっていた黒いハットを被っていた杉下は微笑んで振り返った。
「もちろん! 行きますよ!」
にこはイスから勢いよく立ち上がった。
○
戦前戦後の老舗商店が立ち並ぶ人形町に一軒、浮いた店があった。ロンドンのバーリントンにでもありそうな雰囲気の紅茶専門店リーベシールド。ドイツ語の看板は金の崩し文字で書かれている。ショーウィンドウには紅茶の茶葉が入ったガラス瓶が陳列されていた。杉下とにこが入店すると、カランコロンとベルが鳴る。他に客はいない。マスターだろう。坊主の角張った顔をした中年男がカウンターで紅茶を淹れていた。袈裟でも着れば弁慶のような赤ら面の男である。マスターはにこたちに気づくと、微笑んだ。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは」
「こんにちは〜」
にこは店内を見回した。まるでバーで酒瓶を収納するかのように紅茶を入れたガラス瓶や、茶葉の入った缶が棚にところ狭しと収納されていて、カウンターの前にも土産物の菓子を入れる箱のようなのが山積みになっていた。もちろん入っているのはマカロンとか饅頭などでなく紅茶の茶葉だ。これは杉下さんには嬉しい店だろうと思い、にこが杉下を見上げると、案の定杉下は眼を輝かせて店内じゅうを見回していた。
「すばらしい……品揃えですねぇ……」
「あっ、ありがとうございます」
マスターはつるつるした頭をポンッと叩いて、ニヤッと笑った。強面だが、海坊主みたいで愛嬌がある。
「ロイド&ジョンソンがあると聞いたのですが、いただけますか?」
「お嬢さんもそれでよろしいですか?」
「えっ……」
にこはちらりと杉下を見た。一杯数千円もするような高い紅茶で自腹切らされてはたまらない。杉下はにこの耳元で「僕がおごります」と囁いた。にこは笑顔でいった。
「はい!」
「では少々お待ちください」
マスターは棚から紅茶の瓶を取り出した。杉下とにこはカウンター席に座った。マスターは紅茶を淹れる。当然だが、杉下のように高すぎる位置から注いだりはしない。にこは暇だったのでマスターが紅茶を淹れるのを見ていた。マスターには妙な癖があって、爪が谷型に割れている人差し指をずっと伸ばしていた。真姫が髪をくるくるするように人には変な癖があるものだ。
「どうぞ」
杉下が飲んだので、にこも続けて飲んだ。正直にこには普通の紅茶と何が違うのか、よくわからなかった。飲み干したが違いがわからず、首を傾げた。杉下を見ると心底満足そうな表情でいる。
「いい店を見つけました」
「それはありがとうございます」
マスターは軽く頭を下げた。
「すんごくおいしいです!」
にこは満面の笑みを浮かべた。
「ありがとうございます」
にこは何もわからなかったが、一応おいしかったと言っておいた。
「しかしずいぶん砂糖が多いですね」
杉下がいった。
「ご不満ですか?」
「いいえ。ただこの紅茶は最後に飲むべきでしたね」
「ええ。確かに、あるお客さまのお気に入りだったのですが、その方もお帰り際の最後の一杯として飲まれました」
「やはりそうですか」
「実は……ティーブレンダーとしては恥ずかしいことなのですが……当時の私はロイド&ジョンソンというブランドの存在を存じ上げていなかったんですよ。ですからそのお客さまのご要望で初めて仕入れて、ロイド&ジョンソンの存在と、その魅力を知ったんです。しかし一般には知られていないブランドですので、このブランドをご注文されたのは、あなたとそのお客さまと、一組の親子のお客さまの四名様だけです」
「そうですか」
「あなたも相当な紅茶通とお見受けしました」
「いえいえ」
「ロイド&ジョンソンのことをどなたから?」
「先日、バーで知り合った方からですよ」
にこは思わず杉下のほうを見た。杉下は先ほどこの店のことを知ったばかりだ。なのになぜそんなマニアックな紅茶のブランドがこの店にあることを知っていたのだろう。どうして先日バーで知り合った人からなどと嘘をつくのだろう。にこは杉下の表情を穴があくほど見つめたが、何の感情も狙いも読み取れなかった。