「その方はいつもこの紅茶を飲まれてから帰られたんですね?」
「ええ。いつもこの紅茶を飲まれてから帰られたものでした」
にこは口出ししたくなったので、口出しした。
「過去形ですね? まるでそのお客さん死んじゃったみたい」
「ハハハ……お亡くなりになったわけではないですが、最近来店されないもので」
杉下は頷いた。
「そうですか」
「ですが、悲しくはありません。この店はそのようにふらっと来て、去っていくようなお客さまのためにもあるんです」
「……というと?」
「人生に疲れたひと、たとえば恋に破れたひとのためなどですね、一時の癒やしにでもなって、生きる力を取り戻してもらえればということなんです。ですから生きる力さえ取り戻してもらえればそれでいいんですよ。もともと私がこの店を任されたのも、婚約者に……私が捨てられまして。死のうとしていた私を……オーナーが拾ってくれたんです。それが私と紅茶の初めての出会いでした」
「なるほど……だから店名がリーベシールドなのですね?」
蚊帳の外のにこは杉下に訊いた。
「どういう意味ですか?」
「リーベシールドとは『愛の悲しみ』という意味です」
杉下はいった。
「へえ……」
「ええ。ご推察のとおりなんです。お恥ずかしいですが」
「ですが……経営にいろいろとくちばしをいれられたりすると困ったのではないでしょうか?」
「いえ……特に困ったことなどは……」
「そうですか? ですが、この紅茶」
杉下はカウンターの前に山積みになっている箱を取り上げた。
「たとえばこのように安価な紅茶の詰め合わせなど。この店の雰囲気に全くあっていません。これは貝沢チェーンのものですね。それに、このクッキーも貝沢チェーンのもの……」
「貝沢さんをご存知なんですか?」
「いえ、刑事をしていますとそういうことも耳に入ってしまいましてねぇ……」
「刑事?」
にこは警察手帳を見せた。
「私もです!」
「なるほど貝沢さんの事件をお調べなんですね?」
「ええ。ところで貝沢さんがお亡くなりになりになって、このお店はどうなるのでしょう?」
「どうなる……とは?」
「経営は続けられるのか、ということです」
「ああ、そのことですか……ええ当分は……」
「そうですか。それは結構」杉下は席を立った。「それでは失礼します」
「そうですか。またのご来店をお待ちしています」
「それでは」
杉下とにこは店を出た。
○
杉下とにこは、鑑識課にいる米沢を訪ねた。米沢は顕微鏡を覗いていた。杉下右京はその耳元に「少し調べていただきたいことがあるのですがね?」と囁いた。米沢は苦笑いして顕微鏡から眼を離した。
「参りましたな……実は今たいへんたてこんでおりまして……昨日も徹夜でして……」
「何があったんですかぁ〜」
にこは勝手に顕微鏡を覗きながらいった。顕微鏡には青い衣服片が映っていた。
「ああ! もう勝手に見ないでください!」米沢はにこから顕微鏡を奪い返した。「東京湾の埠頭で爆発事故があったんです! ですから忙しいんですよ! もう三日というもの少しも寝ていないんです!」
にこは眼を細め、眉をひそめた。そして両手をあげて呆れたポーズをした。
「ハァ!? 杉下警部に興味持たせたの、米沢さんなんですから、責任取ってちゃんと調べてくださいよ!」
「内容によりますな……時間がかかるのはちょっと……」
「殺害された貝沢光雄さんの解剖結果のデータが必要なんですがねぇ……」
杉下も顕微鏡を覗いた。
「警部も覗かないでください! それと貝沢さんの解剖結果は私の担当でないので不可能です! 管理している課長に直談判してください!」
米沢は鑑識課長の席に視線を向けた。人相悪い三白眼の中年男が資料に判子を押していた。
「そうですか……ちなみに監察医の方は?」
「それは存じ上げていますが……それを漏らすと課長に殺されてしまいます……」
「そうですか……殺されてしまいますか……」
「そんなわけないでしょ! そうだ!」
にこはポケットからピンク色のチケットを取り出した。米沢の眼の色が変わった。
「そ、それは……」
にこはニヤニヤ笑って、米沢の前でチケットをひらひらと振った。
「そういえば〜、米沢さんって〜最近Aqoursにハマってるって婦警の子たち言ってたんですよね〜」
米沢は眼をキラキラさせてチケットを見つめている。
「じ、実は、そうなんです! そのチケット! Aqoursのライブチケットではないですか!」
米沢はチケットを掴もうとしたが、にこはひょいとチケットを取り上げた。
「ああっ!」
「ふふん……実はにこって〜Aqoursのプロデューサー小泉花陽とは長〜い付き合いなんですよ?」
「そ、そうなんですか……」
「このチケットはにこのものだからあげられないですけど、友達のよしみで花陽に席一つ余分に用意してもらってあげてもいいんですよ? それに楽屋に案内してあげても?」
「な、なんですと……」
「教えて……くれますよね?」
「し、しかたがないですな……」米沢は口を開いた。「監察医は慶應義塾大学の二宮准教授です」
「ああ。あの人か……」
二宮准教授の教室は、真姫が所属している教室であり、以前事件に協力してもらったことがあった。
「私からということは内々に! それとライブも!」
「もちろんです。そうですね、矢澤さん?」
「ええ。もちろん」
「ありがとう。それでは失礼」
杉下とにこは鑑識課を出ていった。
○
杉下とにこは慶應義塾大学の二宮准教授の法医学研究室を訪ねた。二宮准教授の研究室は大学の敷地のなかでも奥まった隅のほうにあり、日陰で薄暗かった。二宮准教授の自嘲『慶大医学部の流刑地』というのも案外間違っていないようだ。以前来たときと同じように黒魔術研究会とヌーディスト同好会の部室に挟まれていた。黒魔術研究会の部室の扉には髑髏や、悪魔のイラストが書かれたおどろおどろしいシールが貼ってあり、『真理探究の同志求む……』とかすれて歪んだホラーなフォントで赤いマッキーで扉に直に書かれていた。黒魔術研究会の部室の扉が少し開いていたので、隙間から何かブツブツ唱える声が聞こえていた。興味を持って、なかを覗いてみると、真っ暗な部屋に蝋燭の灯りだけがあって、真っ黒のフードを被った人たちが中心で手を繋いで円陣を作って、ブツブツ低い声で何かを唱えながら蝋燭の灯りの周りを回っていた。これは冗談サークルなどでなく、本格的に首を突っ込むとヤバイタイプのサークルだったので、にこはすぐ眼をそらした。ヌーディスト同好会のほうは眼鏡をかけた男の学生がエロ本を読むだけのしょうもないサークルなようであった。
杉下とにこは二宮研究室に入った。デスクの上に何台ものコンピューターが置かれていて、その周囲に雑然と研究器具やら書類やらが山積みになっている。壁ぎわには巨大冷蔵庫のようなのがある。二宮准教授も学生もいないようだった。
「……誰もいませんね」
「いえ、いますよ」
「えっ?」
杉下が指さしたさきを、にこは凝視した。デスクの上に書類が乗っている。しかしその書類がガサッと動いた。よく見ると書類の間から赤い髪の毛が飛びだしている。誰かが書類に埋もれながら、うつ伏せでデスクで眠っているらしい。にこは薄々誰か勘づきながらも、近づいて書類をのけた。真姫が書類の山のなかで眠っていた。書きかけのレポートがあって、手にペンを握ったままだった。にこは真姫の指を開いてペンをのぞいて、ペンをデスクに置いた。真姫が「うんっ……」と呻きながら静かに起き上がった。目元にくまができていて、目元がとろんとしている。髪も癖っ毛でくしゃくしゃしている。
「おはよー、真姫ちゃん」
「……レポート……」
「おはよー!」
「……レポート……書かなきゃ……」
「真姫ちゃーん!」
「にこちゃん……?」
真姫は眠そうな眼をにこに向けた。
「矢澤さん、二宮准教授がどこにいるか聞いてください」
「はい。真姫、二宮先生はどこにいるの?」
「……知らない……」
「もう十一時だけど講義はいいの?」
「……今日は休みよ……」
「あのさ、貝沢光雄って人解剖したでしょ? そのデータほしいのよ」
真姫は二宮准教授のデスクを指さした。
「……最近解剖した人の解剖所見なら……二宮先生が持ってるけど……」
真姫はそう言い残すと、またデスクに崩れ落ち、眠り込んでしまった。にこは起こそうとしたが、杉下に制止された。
「お疲れのようですし、寝かせてさしあげるべきでは?」
「そうですね」
杉下は二宮准教授のデスクを物色し始めた。
「いいんですか? 勝手にいじって?」
「構いません」
杉下は二宮准教授のデスクの引き出しを開けた。二宮准教授はルーズな人であるらしく、引き出しに鍵もかかっていない。
「もう……バレてもしりませんよ」
「それは困りますね。そうだ、君。部屋の前で見張っていてください」
「見張り役ですね……はいはい……」
にこは部屋の外に出た。廊下には誰もいない。黒魔術研究会の呪文の声と、物色する音だけが聞こえる。しばらくして杉下が部屋から出てきた。
「どうでした?」
「ええ。僕の読みどうりでした。被害者の体内から紅茶の成分が検出されたようです」
「ふうん……なんで紅茶を飲んでたと思ったんですか?」
「被害者の歯です。歯に着色があったので、かなり頻繁に紅茶を飲まれている方だと思いました。それに……」
「それに?」
「被害者の衣服に紅茶による染みのようなものがありました。捜査資料によると一般に市販されているものではないと」
「ふうん。それがロイド&ジョンソンっていうブランドですか?」
「ええ。ロイド&ジョンソンは紅茶なのですが、染みは少し青みがかった色になる性質があるんです。僕も昔ロンドンにいた頃に飲んだことがあったので」
「へぇ……じゃあ、あの紅茶専門店のおじさん限りなく怪しいですね」
「ええ。非常に怪しいですねぇ……」
杉下は天井を見上げた。
○
杉下とにこはまたあの紅茶専門店にいた。店内にはお客さんがいない。午後七時半という時間帯だからだろう。杉下はマスターに訊いた。
「亡くなった貝沢さんとは古いお付き合いですか?」
「ええ、まあ……」
「貝沢さんはこのお店によく来られたのですか?」
「以前はよく。しかし最近はイタリアンレストランのお仕事が忙しかったそうですから」
「なるほど。では火曜日の午後九時ごろは?」
「火曜日……」
「ええ。貝沢さんが殺害された夜なのですが」
「あいにくうちは八時には閉店するので……」
「そうですか」
杉下は紅茶を一口飲んだ。マスターはにこに微笑みかけた。
「お嬢さん。おいしいですか?」
にこはカフェインの効能で頬を真っ赤にして眼をうるうるさせていた。
「ああ、はい! 何だかすんごくリラックスしていい気持ちです!」
「そうですか、それはよかった。ティーブレンダー冥利に尽きます」
マスターは笑いながら頷いた。杉下はカップを置いた。
「ところでこのお店ではマスターが紅茶をブレンドしていただけると?」
「ええ。何かブレンドいたしましょうか?」
「それではロイド&ジョンソンと一番合うものを」
杉下がいうと、マスターの顔が曇った。
「ロイド&ジョンソン……それは難しいですね……」
「難しいですか?」
「ええ。あれは癖が強すぎて……かなり通向けですから……合う茶葉があるかどうか……」
「そうですか……」
「他のではどうでしょう?」
「しいて合わせるなら?」
「しいて……ですか……なら……」
マスターは棚から瓶を取り出した。
「もしかしたら、これなら合うかもしれませんね……」
「それは?」
「リラージュ・クレールです」
「リラージュ・クレール? 存じ上げていませんねぇ」
「ハハハ……そうでしょう。これも私がお客さまから教わったブランドでして」
「ロイド&ジョンソンがお好きな方と同じ方ですか?」
「いえいえ……別のお客様です。これは少し女性向けかもしれません」
マスターは紅茶をいれた。やはり人差し指がピンっと伸びている。
「どうぞ」
マスターがカップを置く。杉下がそれを美味しそうに飲む。
「なるほど……」
にこも続いて飲んだ……が
「ま、まずっ!」
にこは吹き出しそうになり、慌てて口を押さえた。