それから事務所内を案内され、トイレや風呂、俺が自由にしていいと言われた部屋の場所の説明を受ける。
これから俺の家となる部屋は10畳程だった。思っていたよりも結構広いな。何より驚いたのが土足のままだということ。靴を履いたままでいいというのは、日本人としてはやや違和感がある。まぁ俺が住むに至って、土禁にしてもいいのだが、なんかアメリカンな気がしてオシャレなのでこのまま行こう。
そんなことを考えながら先ほどの事務所に戻ってくる。
「引越しに関してだが、業者を頼むのか?それなら知り合いを紹介する」
市原さんはそう言ってくれた。その気遣いは有難いが、出来るだけお金は使いたくない。いつ、”やっぱり向いてない”とここを辞めるかわからないのだから貯金は温存しておきたい。
「市原さん、お気持ちは有難いんですけど、大した荷物もないので自分でやります。レンタカーのトラックでも借りれば安上がりなので」
「そうか。ならいいが、1人で大丈夫なのかね?」
それなら大丈夫。今は連絡が取れないが、1人、手伝ってくれそうな奴に心当たりがある。
「1人、知り合いに力のある奴がいるんで、そいつに手伝ってもらいます」
市原さんは納得したように頷く。
少し間を置いてから、1つ疑問をぶつけてくる。
「君は誰でも苗字で呼ぶのか?」
「はい?」
市原さんはよくわからないことを聞いてくる。言われてみれば作中で俺が名前で呼んでいるのは小町くらいだけど。それは妹だからだ。確かによくよく考えてみると、名前で呼んでるやついないな。
「これは1つの提案なのだが、私のことは名前で呼んでくれないか?」
「え?なんですか、いきなり」
なんで名前で呼ぶことを提案してきたんだ?これについては雪ノ下も首を傾げている。
「まぁこれから君と私は一種のバディを組むことになる。それには信頼関係が必要だ」
はぁ、それと名前で呼ぶことになんの関係があるんですかね。
「名前で呼ぶことで少しでも私たちの仲を近づける。まぁ単純にそれだけなのだが」
いつだったか、誰かにも名前で呼んでくれと頼まれたことがあったが、気恥ずかしくて断った覚えがある。
まぁそれは置いといて。今日知り合ったばかりのこんな美しい女性を名前で呼ぶなんてスーパーボッチだった俺には少し無理がある。ちょっと喋るだけでも緊張するのに。
ここは適当にはぐらかして逃げよう。
「ええ、まぁ。その理屈はわかりました。慣れたらそのうち、、、」
「呼んでくれないか?」
市原さんは俺の言葉を遮って言う。なんでそんなに名前呼びに拘るんだよ。
「呼んでくれないか?」
何も言わずにいると、市原さんは凄く威圧感のある笑顔で催促してくる。
雪ノ下に助け舟を求めて視線を送ると、困った様な笑顔で言う。
「比企谷くん。大人しく折れたら?」
まぁそうですよね。こんな怖い笑顔を見せられたらそうなりますよね。
まぁ名前で呼ぶだけだ。それだけ。他意はない。そう、自分に言い聞かせて勇気を振り絞る。
「わ、わかりました。あ、杏里さん」
案の定、どもってしまったが杏里さんは嬉しそうな顔をして言う。やっぱり変人だ、この人。
「呼び捨てでも構わんよ?」
「いや、それは」
「そんなに気にすることはない。歳だって2つくらいしか変わらんのだし」
えぇ!?そうなの?てっきり20代後半かと。ああ、忘れてた。この作品での俺は25歳なんだっけ。年を取っても気持ちはいつも17歳!
どうでもいいことを考えていると雪ノ下が何か思いついた様に口を開く。
「では、私も名前で呼んでくれないかしら?」
雪ノ下はすこぶる悪い笑顔で言った。
「嫌だ、無理だ」
ほぼ即答で答えると、雪ノ下はその笑顔のまま、”そう、それは残念”と言つった。全然思ってないくせに。名前を呼んだら呼んだでどうせ、”やめてくれるかしら、気持ち悪い”とか言い出すんだろ?
そんな会話をしていると、笑いながら杏里さんが割って入ってくる。
「まぁ、そういうことだからこれからよろしく頼むよ。”助手くん”」
ああ、俺のことは名前で呼んでくれないですか、そうですか。別にいいけど。
×××
あれから簡単に業務内容の説明を受けた。雪ノ下ともにふむふむ聞いていたが、まぁなんとかなりそうだった。
しかし、いきなり杏里さんとともに探偵業を営むのは些か難しいとの判断で、しばらくの間は、杏里さんの仕事を見ながら、この事務所の清掃などを任命された。結局、掃除のおじさんじゃねえか。
時刻は午前11時を回ったところ。
「すまないが、助手くん。私はこれから依頼人と約束があるんだが、留守番を頼めるか?すぐに戻ると思うが」
「まぁ、留守番くらいなら」
そう答えると杏里さんは出掛ける準備を始めた。さて、どうするか。雪ノ下も帰るのかと思いきや、動く気配がない。いつまで居るんだよ。
そんな目線を送っていると、なにやらもじもじし始める。ん?お手洗いかな?
雪ノ下はなにかを決した様に口を開く。どうやらお花を摘みに行きたい訳ではないようだ。
「あの、少し比企谷くんをお借りしてもよろしいでしょうか?」
杏里さんは手を止めて、雪ノ下の方を見る。
「ん?それは別に構わんよ」
そう言い終えると、また準備を再開する。借す借りるって俺は物じゃないんですけど。相変わらず備品扱いだなおい。
「比企谷くん。その、少し頼みたいことがあって、、、」
雪ノ下は蚊の鳴くような声で言った。
それに俺が反応する前に杏里さんが食いつく。
「おお、依頼かね?」
「まぁそういえば、そうですね」
どうも歯切れの悪い返答を返す雪ノ下。さっきからどうしたんだこいつ。
内容は?と尋ねられると少し頬を紅潮させて下を俯いている。そんなに言いづらいことなのか?厄介ごとは御免だぞ。
しばし、間を空けてから雪ノ下は深呼吸して依頼の内容を話し始める。
「そのお恥ずかし話なのですが、今朝、飼い猫が脱走してしまって、、、」
消え入る様な声でそう言った。とうとう猫飼ったんですね。相変わらずの猫大好きフリスキー。
「依頼はその飼い猫の捜索という訳か」
杏里さんにそう問われると恥ずかしそうに頷く雪ノ下。そんなに恥ずかしいか?
「私としたことが今朝、家を出たときに車の鍵を忘れてしまって。家の中に取りに戻ろうとして玄関を開けた拍子に外に出てしまって。たぶん、マンションの外には出ていないと思うのだけれど」
はあーん。謎が解けたぜ。雪ノ下の今日のおかしな一連の行動は全て猫の捜索依頼に繋がっていたのか。猫が気掛かりで仕方なかったんですね。わかります。
「そうか。チュートリアルにはぴったりの依頼だな」
チュートリアル?それはゲームとかの最初の操作説明とかのあれか?
「何事にも初めては必ずある。先ほど、君は”お試しで”と言ったな。その依頼なら君1人に任せても大丈夫そうだ。どうかね。その依頼、受けてみないか?」
そう言われて、少し考える。比較的簡単そうな依頼だし、受けても問題なさそうだ。
「まぁそうですね。雪ノ下、それで構わないか?」
「ええ、受けてもらえるならそれで構わないわ。では、さっそくだけれどコントローラーの決定ボタンを押してもらえるかしら?」
「いや、チュートリアルとは言ったけど、誰かが操作してるわけではないからね?」
雪ノ下は俺の言葉を聞いて、首を少し傾げて言った。
「あら、この作品の作者があなたを操作しているのではなくて?」
いきなりメタ発言するのはやめて。チュートリアルで作中のキャラクターが”◯ボタンを押してね!”とかメタ発言するのはよくあるけども。てか、お前だって1回語り部やってるんだから操作されてんだろ。
というか、操作されているという点なら、この作品の登場人物は神である作者に全て操作されていると言ってもいい。なんなら、この作品自体全て操作されているまである。
「何を言っているのかしら。この物語の全てが作者である書き手に委ねられているのなんて当たり前じゃない。それにしても作者はあなたをいじめるのが好きよね」
確かに、2回も逮捕されたり、他県に飛ばされたりな。原作の方でもだいぶ、、、。おっとこれ以上は禁則事項だ。
俺たちのそんな会話を聞いて、杏里さんは笑みを浮かべいる。
「なにか?」
そう雪ノ下が尋ねると杏里さんその笑顔まま楽しそうに言った。
「君たちの会話はまるで夫婦漫才のようだな」
そう言われて雪ノ下はかけていないはずのメガネをすっとあげるような仕草をしながら”不愉快です”とすこぶる嫌そうな顔で言った。そのネタ。知っているのか、雷電。
「それは悪かった。では、戸締りするので外に出てもらえるか?」
いつの間にか準備を整えた杏里さんに促されて外に向かう。雪ノ下はまだ不機嫌そうな顔だ。そんなに嫌だったの?ゆきのん?
×××
雑居ビルの外に出て、杏里さんを見送ってから雪ノ下の車が止まっている駐車場に向かう。
「依頼の件だが」
「ここから私の自宅まで3、40分かかるから、それについては車の中で話すわ」
そう言って車に乗り込む。
駐車場を出て、雪ノ下の自宅に向かう。
「その猫、どんな猫なんだ?」
「可愛いわよ?」
めっちゃ嬉しさそうに言ったけど、そういうこと聞いてるんじゃないんですけど。
「特徴は?」
「種類は雑種なのだけれど、色は白くて。そう、あれは冷たい雨の日だった」
なんか回想始まっちゃったよ?
それからその猫との出会いやどのくらい可愛いのか、どんな甘え方をするのか細かく説明された。普段は構っても気だるそうしているが、急に膝の上に乗って甘えてくるらしい。それ、普通の猫です。そんな説明を聞いて、ふと、実家の飼い猫のカマクラを思い出す。奴はまだご存命です。長生き。
雪ノ下はときより、ハッと自分の説明に力が入り過ぎているに気づいて恥ずかしいそうにしていたが、それでも話すのをやめることはなかった。そんなに聞いて欲しいのかよ。なんか今日のゆきのん、ぶっ飛んでんな。
結局、大したことも聞けず、雪ノ下の家に着いてしまった。
そこであることに気づく。
「あのマンションじゃなくなったんだな」
「ええ、あのマンションは高校卒業と同時に引き払ったわ。このマンションは今勤めている弁護士事務所の上司が不動産屋に便宜を図ってくれて通常よりも少し安く借りられているの」
「へえー、いい上司に巡り合ったな」
俺の言葉に雪ノ下はなんだか歯切れの悪い返答をした。なんか上手くいってなさそうな雰囲気だな。まぁどんな職場でも人間関係にはいろいろあるもんだ。
しかし、以前住んでいたタワーマンションとさほど変わらない外見だ。いかにも高そう。
「変なこと聞いてもいいか?」
「何かしら?」
「いや、実のところ。家賃はおいくら万円なんですの?」
俺の聞き方が気に入らなかったのか、少し睨まれたが問いには答えてくれた。
「私は10万円で借りられているけれど、実際は15万円だそうよ」
じゅっ、15万ん!?俺の住んでたアパートの約3倍以上だ。茨城にいた時に住んでいたアパートなんて2万だぞ。これが格差社会。
てか、そんな家賃を払えるなんて一体、いくらお給料をもらっているんですかね。
雪ノ下は”これくらいかしら”といって両手で3と0を作る。
はあぁ、なんてことだ。俺が7年かけていろんな資格を取って、やりたくもないリーダーや現場監督をやってようやく辿り着いた額をまだ社会に出て日の浅い雪ノ下がいとも簡単に稼ぐなんて。やっぱり弁護士って凄いんだなとか思っていると雪ノ下は聞いてもいないことを話し出す。
「ちなみに高校時代に住んでいたマンションは〇〇万円よ」
聞いていて頭の痛くなる額だ。自慢してんのか、このやろ。金持ちなのを鼻にかけないやつだと思っていたが、お金の話ばっかりしやがって。この金のんめ!なんかこんな名前の黄色の怪獣いたな。
というか、金の話振ったの俺だった。
しかし、よくそんな家賃の高いところに住めるなと思っているとある事を思い出す。そういえば、雪ノ下のお父上は建設会社の社長で県議会議員でしたね。ハチマンナットク。
厳重なオートロックの玄関を抜けて、ロビーのエレベーターの前までやってくる。
「お前の部屋は何階なんだ?」
「最上階よ。エレベーターが来たわ。さっ、行きましょう」
雪ノ下に促されてエレベーターに乗り込み、最上階までやってきた。
エレベーターを出ると、広い廊下が広がっていた。
「こんなところに猫がいたら、一発でわかるな」
「管理人に同じフロアに住む住人に聞いてもらったのだけれど、手掛かりと言える証言は得られなかったわ」
はて、猫が隠れられそうなところもそう多くはない。既に雪ノ下が捜索済みだろう。
「このマンションの昇降手段はエレベーターだけか?」
「いえ、普通の階段もあるけれど、普段は自動でロックがかかっているわ。それを利用する人は殆どいないから。このマンションの住人なら誰でも開けられるけれど」
ロックがかかっているということは、また厳重な扉があるのだろう。もし誰かがそれ開けたとしてもそんなところに猫がいたらすぐわかる。よって、猫はこの階から移動していない。
「なあ、雪ノ下。名前を呼んでみれば、ひょこっと顔出すんじゃないか?」
「それはできないわ」
「なんで?」
「なんでもよ」
なぜ、名前を呼ぶのを嫌がる?
そういえば、猫の名前聞いてねぇな。
恥ずかしい名前でもつけているのだろうか。
それからいくら聞いても名前を教えてくれることはなかった。謎だ。
「名前もわからずにどうやって探せってんだ」
とりあえず、雪ノ下の部屋の前まで来る。
「中には入れないわよ」
「いや、中には用事はねぇよ」
雪ノ下はムスッとした顔で睨んでくる。なんなんだよ。
「まぁ、他の階にはいった様子はないし、この階に居ることは確実だ。隈無く探すしかねぇな。ちなみに脱走したのは今朝の何時頃だ?」
「6時半くらいかしら」
「なんでまたそんな時間に」
雪ノ下は、はぁと大きくため息をついてから俺を見る。
「あなたを迎えに行くためよ。猫を探していたから、迎えに行くのが遅くなってしまったの」
6時半ってお前。なんでそんなに早い時間に迎えに来るんだよ。おかしいだろ。
「あなたの逃亡を未然に防ぐためよ」
「本当、信用されてねぇな。逃げたりしねぇっての」
「どの口が言うのかしら。1度逃亡を図ろうとした癖に」
いや、あれは違う。掃除のおじさんになりたくなかっただけだ。まぁそれは置いといて。
脱走したのが6時半。雪ノ下が俺の家に来たのが9時過ぎ。ここから俺の家までは1時間はかかるだろう。ということは1時間くらい猫を捜索していたことになる。確かにこのフロアは広いが、それだけ時間をかければ見つかりそうなものだが。
「あの子は一体どこに行ったのかしら」
雪ノ下は今にも泣き出しそうな顔だ。どんだけ心配なんだよ。仕方ない、少し考えてみるか。
雪ノ下がそれだけ時間をかけて探して見つからなかった。しかし、隠れられるようなところは多くはない。やはり、違う階に行ったのか?しかし、このマンションの昇降手段では、システム上、猫が他の階に移動するのは難しい。なんかちゃんと探偵物みたいになってきたな。
むー。面倒くせぇことになってきたな。猫の移動手段。人間の移動手段とは同じとは限らない。奴らは人の通れないような狭いところをするすると抜けて行ったりする。猫は狭いところが好きだったりするからな。うちのカマクラも本棚に空いた少しの隙間にちょこんと収ってたしな。普通に見たら、猫の置物のようだった。小町が写真撮ってたっけ。
俺は雪ノ下を置いて、廊下を見て回る。
「猫が入れそうな隙間、隙間」
そう呟きながら、下には目線を落とす。しかし、そのようなものは見当たらない。下にないなら上か?
そう思い立って、今度は上を見ながら歩みを進める。
少し歩くと、換気用の通気口を見つける。そして、その通気口の蓋はネジが外れてぶら下がるような状態になっている。ビンゴだぜ。
それを見つけて雪ノ下を呼ぶ。
「何かわかったの?」
「あれを見てくれ」
俺は通気口を指差す。しかし、雪ノ下は怪訝そうな目で見てくる。
「確かに外れているけれど、あれがなんなのかしら」
「あれはお前が猫を探しているときから外れていたのか?」
俺の問いに雪ノ下は少し考えるような態度をとる。
「わからないわ。ずっと下の方ばかり探していたから」
「まぁ、そうだよな。人間は意識しないとあまり上を見る習性はない。それに猫を探すのにこの状態では下を見るのは当たり前だ」
「結局、何が言いたいのかしら。あの通気口を通って行ったとでも言いたいの?あんな高いところに猫が上がれるかしら」
猫の飛躍力を舐めるなよ。中には軽く2メートルくらいジャンプ出来る奴いるからな。
「まぁ、可能性の一つとしてだ。これだけ探しても見つからないんだ。確かめてみる価値はあるだろ?」
雪ノ下は”探偵気取りなのが気に入らない”とか言ってたが、俺を探偵業に就かせたのはお前だからね?
それから管理人にこのマンションの図面を見せてもらい、確認すると、その通気口は屋上に繋がっていることが判明した。
「よくあんな複雑な図面をすぐに理解できるわね」
雪ノ下は感心したように言う。
「ああ、前の仕事で毎日睨めっこしてたからな」
まさかこんなところで役に立つとは思わなかったけどな。
「あの子。そんな危ないところに。大丈夫かしら」
雪ノ下は先ほどよりも肩を落として落ち込んでいる。
「とにかく行ってみようぜ」
そう言って落ち込む雪ノ下を引っ張って屋上に向かった。
×××
ロックの掛かった階段を登って屋上にやってくると、心地よい春の風を感じる。フェンス際まで行くとそこからは街が見渡せる。
「見ろ雪ノ下。人がゴミようだ」
「人なんて大して見えないじゃない」
雪ノ下はとても不機嫌そうに言う。ああ、猫が心配でそれどころじゃないんですね。わかります。
「ふざけてないで真面目に探してちょうだい」
「へいへい」
そう言われて、最上階から繋がっているであろう通気口の出口を探す。
「あ、あった」
「ほんと?」
見つけた通気口の出口はいくつかあり、出口には細かいメッシュ状の網が貼ってあった。たぶん鳥などが侵入するのを防止するためだろう。その中の1つに鋭利なもので裂かれたような跡がある。
「どうやらお前の飼い猫はこの屋上にいると見て、間違いねぇな」
「そのようね。でも一体どこに」
雪ノ下の飼い猫があの通気口を通って、この網を爪か何かで切り破って這い出たはずだ。しかし、この屋上はかなり広い。このマンションの面積分だからな。先ほどのフロアより探すのにかなり骨が折れそうだ。
「仕方ねぇけど、しらみ潰しに探すしかないな」
雪ノ下も頷いて答える。
そのとき、微かに遠くで猫の鳴く声が聞こえた。
「雪ノ下!今の聞こえたか?」
「え?なにかしら?」
「猫の鳴く声だよ!」
雪ノ下は慌ててキョロキョロと周りを見渡す。しかし、猫の姿は見当たらない。
”にぁ〜”
「ほら、また聞こえた!」
「本当かしら?」
雪ノ下は怪訝そうな顔をする。
嘘じゃねえよ。空耳でもない。ずっとボッチだった俺が長年かけて編み出したスキルの1つだ。どんな喧騒の中でも聞きたい声を拾うことができる。学生時代はずっと教室の隅で机に突っ伏してたからな。ステルスヒッキーも同時に発動していたので、皆、俺の存在を忘れて好きなように喋ってくれた。誰々が付き合ったとかそういう噂や悪口を誰とも会話せずに知ることができた。
しかし、皆、俺の存在も気づかずに喋るから、俺の陰口も聞くことになったが。
「何をぶつぶつ言っているの?」
「いや、なんでもない」
過去のトラウマはとりあえず置いて、声のする方に向かう。そこへ近づくにつれて猫の声はだんだん大きくなり、ついに雪ノ下もその声を聞き取る。
「あ!ヒっ、、、。うちの猫の声だわ」
今何を言いかけたんだ。もしかして猫の名前か?わざわざ言い直すとは余程知られたくないようだな。
そんなことを思っていると雪ノ下は声のする方へ駆けていく。
しかし、猫の姿は一向に見えない。雪ノ下は俺の目も厭わずに膝を付いて屈み、近くにあるエアコンの室外機の下を覗く。
ちょ、ちょっと雪ノ下さん?必死なのはわかるけどなんて格好してるの?
雪ノ下は下がスカートのスーツを着用している。膝上までのタイトスカート。まぁ見た目は普通のOLだ。しかし、俺の目も憚らずに屈むもんだから、スカートの裾が上がっていろいろとやばい。後ろから見ると大事なものが見えそう。というか、もう見えてる。タイトスカートだからあんまり屈むとあのラインが浮き出ててしまう。ほう、雪ノ下はフルバック派なのか。
俺が煩悩に悩まされていると雪ノ下がその体制のまま、こちらを振り返り、怪訝そうな眼差しを向けてくる。
「なにをしてるの?あなたも探すのを手伝いなさい」
いつもの通りに俺の考えていることをエスパーされたのかと思って肝を冷やしたぜ。しかし、振り返る姿もまたエロいな。
雪ノ下はまた前を向くと”おーい”とか”出ておいで〜”と呼びかけながら、その四つん這いのまま進んでいく。やめろ、お尻をふりふりするんじゃない。八幡の八幡が今にも暴れ出しそうになるから本当にやめて!
このままその姿を見ていると何か間違いを起こしていまいそうなので(絶対そんなことないけど)俺は別の所を探すことにする。
雪ノ下は下を見ているから俺は上を探すか。何気なく近くの給水タンクを見上げると、そこには白い毛に包まれた尻尾のようなものが見えた。
「あ!いた!」
「え!どこに!?」
その声を聞いて、雪ノ下は俺の肩を掴んでぐいっと顔を寄せてくる。近い、近い。だから必死なのはわかったからもう少し落ち着いてくれよ。
俺が猫の尻尾が見えた方を指差すと雪ノ下は給水タンクに上がるためのハシゴに手をかける。
「いま。いま、助けてあげるからね」
「おい、危ねえぞ」
俺の忠告も無視して雪ノ下はハシゴに足をかけて登ろうとしている。何にも気にせずに足を上げるもんだから、またスカートの裾が上がってすらりと細い太ももがあらわにある。本当に目のやり場に困るからやめて!というか、さっきからなんなん?狙ってんの?
雪ノ下はハイヒールのままハシゴを登るもんだから2段目に足をかけようとするも見事に足を滑らした。
すぐ後ろにいた俺が落下してきた彼女を受け止める。しかし、軽いな。
雪ノ下はすぐに俺の手の内から離れると少し顔を赤らめる。すごいいい匂いがしたけど、別に変なところ触ってないからね!
「ご、ごめんなさい。いつ、焦ってしまって」
「猫が大事なのはわかるが、少し落ち着け。危ねえから俺が行く」
雪ノ下は俺の言葉を聞いて静かに頷いて了承する。
ハシゴをさっと登るとそこには白い猫が怯えるように縮こまっていた。猫は俺に気づくと立ち上がって威嚇するような仕草をする。顔を見るとなんだか原作絵のカマクラに似ている気がした。特に目とか。
「大丈夫だ。俺はお前の飼い主の仲間だ。ほれ、こっちこい」
俺の言葉を理解したのかはわからないが恐る恐る歩み寄ってくる。そうして猫を抱き上げる。
すぐに下に降りて、猫を雪ノ下に渡す。彼女は大事そうに猫を抱くと優しく頭を撫でる。
「全く、心配かけさせて。でも無事でよかったわ、”ヒッキー”?」
「は?」
今、ヒッキーって言ったか?雪ノ下はそれに気づいて顔を真っ赤にする。
「今、なんて言った?」
「なにも言ってないわ、気のせいよ」
「いや、言ったよね?”ヒッキー”って」
それから雪ノ下は下を向いて黙ってしまった。
なんで飼い猫に俺のあだ名つけてんだよ。
「そ、その、あなたに目が似ていたから」
いや、そうかなーと思ってたけどさ、いくらなんでもね。雪ノ下が普段、その猫を”ヒッキー”と呼んで可愛がっているのを想像するとなんだか俺まで恥ずかしくなる。彼女が断固として名前を教えてくれなかったのはこれが理由か。
「ま、まぁとりあえずこれで依頼は完了だな」
俺は誤魔化すように言うと雪ノ下は顔を赤らめたまま、恥ずかしそうにムッとした表情を作る。
「バカっ!」
雪ノ下はそう言い捨てるとツカツカとヒールを鳴らして行ってしまう。
そうして階段の扉を勢いよく閉めて、彼女は去っていった。いや、なんで最後、俺は罵られたの?普通、そこは感謝するところだよね。なんとも複雑な気分である。
まぁいいか、猫も無事に見つかったし。そう思いながら雪ノ下の後を追って扉の前に立つ。
「あれ?」
扉のドアノブをどちらに回しても一向に開く気配がない。
そこで雪ノ下が言っていたことを思い出す。
「”普段は自動でロックがかかっているわ。それを利用する人は殆どいないから。このマンションの住人なら誰でも開けられるけれど”」
しまった!え!どーするのこれ!?
エレベーターは屋上まで来ていない。したがって、この階段を降りる以外にここを出る方法はない。
「ちょっと?雪ノ下さーん?」
俺の呼びかけが虚しく響く。応答が帰ってくるわけでもなく、扉が開くこともなかった。
「そりゃねえだろ」
俺は大きなため息をついてから、少し考えて携帯電話を取り出すのであった。