朝起きて、携帯を見ると、あのサイトから登録完了のメールが来ていた。俺はすぐさま返信する。
しかしまだ早朝ということもあり、すぐには返信は来なかった。
落ち着けと自分に言い聞かせるも、どうしてもソワソワしてしまう。なんか好きな子からの連絡を待ってるみたい。そんな清純なもんじゃねえ。
いつも通り出勤してきた杏里さんに悟られぬよう努力するも、さすがは探偵。それにここ最近の俺の偽装行為で俺の行動に敏感になっている節がある。
「どうかしたのかね?」
「おはようございます。なんでもないです」
ちょっと口調が変になったような気がしたが、それを気にする前にポケットに入っている携帯が振動する。今すぐでも確認したかったが、新しい携帯の存在を杏里さんにバレるわけにはいかない。焦る気持ちをグッと堪えて業務に取り掛かる。その姿をただ見ていた杏里さんが再び声をかけてくる。
「助手くん。ちょっといいかね?」
杏里さんは神妙な面持ちでそう告げる。何か勘付かれたか?
そう思いながら、顔だけをそちらに向ける。
杏里さんは少しだけ悩むような素振りを見せてから口を開いた。
「最近の君のことなんだが……」
そう言いかけた時、杏里さんの携帯が鳴る。彼女はすまないと告げて、事務所を出て行った。おそらく仕事の電話だろう。しかし、なぜ俺の前で出ないのだ。顧客からの電話なら俺にも関係すること。聞かれてまずいことなど何もないはず。俺に聞かれたくない何かがあるのか?まぁこんなに深く考えることもないか。
もしかしてあれかな?人前で電話するのが恥ずかしいタイプなのかな?
そんなことはどうでもいい。俺にはやることがある。
俺は杏里さんが戻ってくる前に携帯を確認する。
メール画面には、”ご登録ありがとうございます!!”という文面が踊っていた。
口元が勝手にニヤリと笑う。
しばらく喜びを噛み締めていると、携帯の画面が消灯する。すると、そこには不気味な笑みを浮かべた自分が映し出された。
自分で言うのもなんだが、やばいくらいに気持ち悪い。こんな顔は絶対に見せられないくらいにやばい。知らない女性が見たらすぐさま通報するレベル。
すぐに緩んだ口元を引き締め、携帯をしまう。そこに電話を終えた杏里さんが戻ってきた。
誰からですか?なんて尋ねる気はまったくなかったのだが、彼女は自分から告げてくる。
「雪ノ下くんからだったよ。家に忘れ物をしてしまってな。知人にお茶菓子を頂いたんだが、家に置いておいても手をつけないのでな。ここに持ってこようと思って準備していたのに玄関先に置いてきてしまったよ」
「そ、そうなんですか」
雪ノ下からの電話だったのか。
そういえば今は杏里さんの家に居候してるんだっけ。まぁどうでもいい。
しかし、杏里さんは見た目よりもおっちょこちょいなんだな。いろいろと。
杏里さんは言葉を発することはなく、俺の顔をじっと見つめ、何かも読み取ったような含みのある表情をした。
そのあとも口を開かず、自分のデスクに腰掛ける。
数秒の沈黙。
何のことないいつも通りの静寂。
俺はそれを心地いいとさえ感じていたはずなのに、このときはなぜだか逃げ出したくなるようなそんな感覚に陥った。
そんな息の詰まる沈黙の後、ようやく杏里さんが口を開いた。
「さっきの話なんだか」
「なんです?」
「最近の君のことだ。そのなんだ……」
何かを言いかけて、すぐに詰まる。
ここに来てやっと俺の偽装の効果が表立って現れたか。ここ最近の俺の目に余るような行動に耐えかね、尋ねてきたのだろう。
本来なら、このメールの信憑性をもう少し確かめてから行動に移したかったが、仕方ない。俺の思っていたタイミングとは少しズレるが、あの作戦を決行することにしよう。
俺の作戦では、自分から精神の乱れや不調を訴えるつもりだったが、ちょっとだけ作戦を変更する。
杏里さんから尋ねてきたのだ。彼女にそのことを口に出させて、自分では気づいていない体を取る。
そうすることでより精神に問題が発生していることを強調する。
まさか精神科を受診することを勧めてはきまい。ここで実家で療養することを告げれば作戦完了。
俺はなんのことだがさっぱりという感を満載に出して、首を捻る。
「どうしたんですか?」
「そのだな。最近、何か変調はないか?」
下手くそだなおい。もうちょっとあるだろ。
心中でそうツッコミを入れながら俺は答える。
「変調…ですか?」
「ああ、どうかね?」
「そう言われましても。確かにあのことがあってからは少し寝つきが悪いすけど」
「そうか……」
杏里さんは”残念だよ”と言わんばかりの顔をする。
「雪ノ下くんも心配していた」
「そうすか」
「自分のせいでと嘆いていたこともあったよ」
そうだよ。全部お前のせい。
「もしよければ少し休養を取ってはどうだ?」
「休養ですか?」
「ああ、給料の面は心配しなくてもいい。ちゃんと保証する」
別にそれはいいけどね。お金はあるから。
ここまでは俺の思う通りにことが運んでいる。しかし疑うことを忘れてはいけない。もしかしたら俺の計画が露見していて、監視もしくは阻止するためにこんなことを言っている可能性もある。
「仕事の方も心配ない。君も知っての通り、ここのところ仕事も薄い」
俺は無言のまま俯く。我ながら名演技だ。
「陽乃のことは焦っても仕方がない。彼女と戦うにはまず、万全な体調を整えてからだ。少し時間がかかったとしてもなんの問題もない」
あの日から久しく聞いていない女の名前が出る。
「正直言うとな、あの日からの君はとてもじゃないが見ていられない。それは私たちのせいだということもちゃんとわかっている。だから陽乃の件も口に出さなかった。雪ノ下くんが事務所に来ないのは自分を見ると、嫌な思いをさせてしまうのではないかと思っているからなんだ」
ほう、ちゃんとわかっているんだな。
「どうかね?」
杏里さんは静かにそう尋ねてくる。
彼女はこう言っているが、本当のところはどうなのだろう。
聞こえのいいようにも思えるが、俺からすればただ彼女らは自分勝手なだけだ。
彼女らにも何か策があり、それを実行するには俺が邪魔で排除しようとしているのではないのか?
ここ最近の俺を見て、こいつは使い物にならんと判断したのではないか?
これは少し被害妄想が過ぎるか。これが本当なら気持ちいいくらいの裏切りになるけどな。
こちらとしても最初から協力する気などない。利用価値がないのならこちらから切り捨てるだけだ。
俺は迫真の演技で提案を受け入れる。
「わかりました。少し、実家でゆっくりしてきます。気を使わせてしまったみたいですいません」
「いや、いいんだ。何も気にすることはない」
なんだこの腫れ物を扱うような感じは。やはり俺を……。
いや、やめよう。
考えても仕方がない。俺の邪魔をしなければなんの問題もないのだ。
その後の話し合いで今日は午前中で仕事を終えることになった。
俺は荷物をまとめる。倉庫から拝借した秘密兵器も忘れない。
時計の針がてっぺんを回った頃に俺は事務所を後にした。
ようやくあのメールに返信ができる。
そう思いながら、事務所の前の通りを歩く。ポケットに手を突っ込んで携帯を取り出そうとすると、前から見覚えのある車が走ってきた。雪ノ下だ。
おそらく杏里さんの忘れ物を届けに来たのだろう。わざわざ俺が事務所を出た後に来るとは、随分と用意周到だな。
彼女の車とすれ違う瞬間、そちらに一瞥くれてやる。彼女もこちらを見ていたような気がしたが、俺はすぐに前を向いて歩き出した。
×××
実家に連絡を入れる。当然のことながら誰も出ることはない。仕方がないので、母親にメールを送る。
返信が来ることはなかったが、気にせず実家に向かう。
既にあのサイトへの返信は済んでいる。
大きな荷物を抱えて歩くこと10分。駅へ到着した。
切符を買って、ホームに降り立つ。電車はすぐにやってきた。それに乗り込み、空いている席に腰を下ろす。
それと同時に携帯が振動した。残念ながら振動したのは元々使っていた携帯。たぶん母親からの返信だろう。
メールを確認すると、急にどうしたの?という文面が記されいた。
ずっと連絡も入れずに知らんぷりを決め込んできた俺が突然帰ってくるなんてメールが来たらそりゃビックリするだろう。
あれから結構経ったが、どうなんだろう。母親たちは俺をどう思っているのか。再会して、また捕まって。
もしかしたら何の連絡も入れない俺にまだ恨まれていると思っているかもしれない。
だから向こうも連絡をしてこない。
何にも変わらねえな。
一度切れたものが、そんなに簡単に元に戻るはずがなかったんだ。
あの病院で話し合った時の俺に嘘はない。家族にもそれはないと思う。いや、そう思いたいだけだな。
俺は家族を恨んでなどいない。
ただ俺の中に残っているものはやり辛い感情だけ。
何で俺はこんなセンチメンタルな感情を持ち出した。こんなものは必要ない。俺を揺らがすだけ。
切り捨てろ。そうすれば楽になる。
そんな考えに行き着くと、もう1つの携帯が振動する。
何とも単純な男だ。あのサイトからのメールで先ほどの感情は何処かへと消え失せた。
メールを確認すると、あのサイトからではなく担当者を名乗る木村という人物からだった。
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差出人:木村
宛先:××××××××
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ご登録ありがとうございます!!
担当の木村と申します。
この度は弊社をご利用いただきありがとうございます。
当社をあげて、〇〇様の夢をお手伝い致します。一緒に夢を叶えましょう!!
登録の際、アイドルコースを選択頂きました。
〇〇様に合ったより良いプランをご用意させていただく為に体全身の映ったお写真を1枚。胸から上のお写真を1枚を返信に添付ください。
お手数ですが、宜しくお願い致します。
株式会社 〇〇
木村 新
〒〇〇〇-〇〇〇〇
千葉県△△市××町12-3 2F
TEL:090-〇×△〇-×△〇△
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色々と突っ込みどころ満載だが、すべてに赤ペンで直しを入れていては先へ進まないので割愛。
さっそく直接のやり取りに持ち込めたわけだが、早くも顔写真を要求してくるとは。
すぐに顔を確認してターゲットにするかどうかを決めたいのだろう。
可愛いもしくは美人であれば、このまま継続させ、そうでなければ”今回はご縁がなかったということで”みたいな感じで終わらせるのだろう。汚ねえ奴らだ。
確かに不細工のアレを取っても需要はないだろう。それにこれは所謂、裏物。わざわざ裏物に金出してまで見たくはないだろう。それなら正規の女優さんにお世話になった方がいい。最近は可愛い子いっぱいいるし。まぁ世の中、顔だよな。人は顔が9割なんて嘘。10割だ、10割。フルパワー100%中の100%。
しかしまぁ本当に清々しいほどのクズ共だな。こんな方法で金を稼ごうなんてマジでクズ。
これなら同級生に金貸して、多額の金利を請求する女神みたいな女子高生の方がまだマシだ。よはねす〜。
いや、落ち着いて考えてみれば全然マシじゃねえな。そんな女子高生いたらマジでビビる。てか、よねはすって見た目はちょっと雪ノ下の似てるよね。どうでもいい。
閑話休題。
さて、写真を要求されたわけだが、これに関しては問題ない。既に用意してある。
どうやって用意したのか。俺はツイッターを利用した。適当にアカウントを巡って女の子の写真を入手した。悪いことをしている自覚はある。でも自分でネット上にあげているのだ。悪用される可能性を考慮しないのが悪い。俺もなかなかクズだな。
しかしその女性に直接被害があるわけではない。自分の知らないところで写真がやり取りされているのだ。
暴論だということは重々承知の上。仕方ないだろ。こいつらを潰すためなんだ。それに俺はヒーローを気取るつもりもましてや英雄になるつもりもない。これはただの私的な復讐だ。利用できるものは何でも使う。
俺は用意した写真を添付して返信する。ちなみに完全に余談だが、用意した写真の女性はちょいブサ目。あまり可愛すぎてもかえって怪しまれそうだからだ。それと厚化粧もNG。
自慢するわけではないが、普段から顔のいい連中と関わっていたせいで査定がやや厳し過ぎるかもしれないが、まぁ大丈夫だろう。
返信して次の駅に着く頃にはメールが返ってきた。
驚いたことにもう直接会って話がしたいなんてことが記載されていた。
マジでこいつらチョロ過ぎるだろ。あ、この場合は逆か。普通の女性ならもう既におかしいと気がつくだろう。こんな出会い系まがいな文面で信じろという方が無理だ。でも信じちゃう人がいるんだろうなー。遠い目。
明日は土曜日。
休日ということで俺は明日会うことを提案する。その提案は何のことなく了承された。さっそく時間を取り決める。そのあと適当な社交辞令的なやり取りしてメールを打ち切られた。
それと同時に電車は目的の駅に到着する。
俺は大きな荷物を背負い上げてホームに降りる。
とんとん拍子に物事が進んでいる。
非常に喜ばしいことだ。
気がつけば、また知らぬうちに口元が緩んでいた。まずい、通報される。
俺は口元を引き締めて、背筋をピンと伸ばす。
その表情、姿勢を保ったまま俺は改札を抜けた。
×××
ようやく実家について一息つく。
リビングのソファにどーんと腰を下ろし、両手を広げて天井を見上げる。
久しぶりに来たが、何にも変わってねえな。俺が住んでいた頃と内装も家具の位置も何にも変わっていない。少しだけ壁紙がヘタってきているくらいだろうか。
久しく感じたソファの座り心地と、実家に帰ってきた安心感。
しばらくそうしていると、日頃の睡眠不足のせいか、瞼が重くなっていく。そして、意識はまどろみの中に溶けてゆく。
懐かしい感覚だ。
学校から帰宅し、リビングに入るなり鞄を床に放り出し、このソファに身を投げ、うとうとし始めると、買い物袋を持った小町が帰ってきて夕飯の支度を始める。
知らぬうちに時が帰ったような。
そんな感覚を覚える。
何で俺はこんな……。
俺は……。
トントンと一定のリズムでまな板を叩く音が俺を眠りから覚めさせた。
何だか懐かしい夢を見ていた気がする。
ソファから半身を起こし、キッチンに目をやる。そこには母親の後ろ姿があった。お袋がキッチンに立っているのを何年ぶりに目にしただろう。
その姿をしばらく眺めていると、俺が起床したことに気がつく。
「八幡、起きたの?」
「ああ、おかえり」
「ただいまでしょ?」
そう言われればそうか。しかし、先に帰ってきたのは俺だ。まぁこんなことはどうでもいい。
久しく見たお袋の顔には年齢相応のシワが刻まれていた。俺がもうすぐ26になる。親が老けるのは当たり前のこと。
昔と変わらぬ笑顔を浮かべてお袋は尋ねてくる。
「急にどうしたの?」
「またまた長く休みが取れたから帰ってきた」
「そう。なら、小町にも連絡しようかしら」
「いや、いいよ」
「いいじゃない。お父さんも今日は早く帰ってくるって言ってたし。またには家族揃ってご飯食べるのも」
そう言われて携帯を見る。時刻は午後6時過ぎ。昔からすると、随分早くに帰ってきている。今、両親が何の仕事をしているのは知らないが、再会したときに聞いた話じゃそこそこブラックな企業さんに勤めていたような気がする。
俺が帰ってくると聞いて、早々に仕事を切り上げてきたのか?
そんなことを思っていると、リビングの扉が開く。
「ああ、おかえり」
お袋が帰ってきた親父にそう声をかける。
ネクタイを緩めながらリビングへと入ってきた親父の手にはコンビニ袋が下げられていた。
「ただいま。八幡、もう来てたのか」
「お、おう」
これまた久しく親父の顔を見た。前に会った時よりもだいぶ白髪が増えている。親父はコンビニ袋をテーブルの上に置く。置かれた袋はコンっと音を立てた。中身は缶ビールのようだ。お袋は振り返ってそれを見て言う。
「また無駄遣いして」
「いいだろたまには」
何気ない夫婦の会話。これもとても懐かしい光景。
お袋は思い出したように親父に言う。
「お父さん。小町に連絡してくれる?帰ってこいって」
「もうした」
お袋は”さすがっ”と声を上げて、夕飯作りに戻る。
親父は着ていたスーツの上着を脱いでコンビニ袋からビールのロング缶を2本取り出して俺に声をかけてくる。
「飲むか?」
「お、おう。もらうわ」
親父からビールを受け取ろうとすると、お袋が再度こちらを向いて注意してくる。
「お父さん!まだお風呂はいってないでしょ?」
「いいじゃないか。明日休みだし。なぁ八幡?」
「まぁそうだな」
そんな会話を交わした後、お袋は呆れたような笑みを浮かべて”もうすぐ出来るからね”と告げた。
それを聞くと親父は嬉しそうな顔して、俺の隣に腰を下ろす。そして缶ビールのフタを開ける。俺もそれに習い、プシュと音を立ててフタを開けた。
「乾杯っ」
「お疲れ」
そう言葉を交わして一緒に缶ビールを煽る。八幡的にはコップに注いでから飲んだほうがよかったんだけどなー。
親父は缶ビールを口から離すと”あぁ〜”と声を上げた。また随分と親父くさくなったな。その声を上げたくなる気持ちもわかるけど。
親父が缶ビールをテーブルに置いて、何か言いかけた時、再びリビングの扉が開かれた。
「たっだいまー!!」
愛しのマイシスターの登場である。
×××
小町が帰ってきてからすぐに夕飯が出来上がった。それを家族皆で囲った。
酒を飲んでいたせいだろうか。前に感じたやり辛さは薄れていたような気がした。
初めて親父と酒を飲んだ。
初めてお袋が顔を赤らめるのを見た。
初めて小町が酔っ払うのを目にした。
昔の話や現在の話。
誰も口を閉じようとはしなかった。
気を良くした親父がどこかからウイスキーのボトルを引っ張り出してくるもんだからもう止まらない。
時刻は午前0時を回ったところ。
親父と小町はデロデロに酔っ払って2人仲良く床でご就寝。よかったな親父。愛しの愛娘と一緒に寝れて。そんな2人にお袋は布団を掛けてやっている。
「八幡は自分の部屋で寝る?」
「おう」
お袋もそこそこ飲んでいたはずなのだが、普通に後片付けをして、普通に風呂に入って、今も普通。お母さん、お酒がお強いんですね。
「お父さん。すっごい嬉しそうだったね」
「ちょっと引くぐらいな」
お袋は優しく笑う。
「小町も仕事忙しいみたいでね。あんまり帰ってこられないから尚更ね」
「そうなのか」
「うん。お父さんが家でお酒飲むのなんて何年ぶりかわかんない」
確かに俺の記憶でもそんなに家で晩酌するタイプではなかったな。
そんなことを思っていると、お袋は俺の名前を呼んだ。
「八幡」
「ん?」
「いろいろ忙しいと思うけど、たまには帰ってきてね。お父さんも小町も喜ぶし、それにお母さんも」
その言葉は俺の胸に途轍もなく響いた。
お袋が寝た後も、俺は残ったウイスキーをロックでチビチビと飲んでいた。
たぶんお袋や親父はまだ心にしこりを残している。小町も同様だ。
やはり俺が感じていたことは少なからず当たっていた。
きっと親父もお袋も小町もまだ罪悪感を拭いきれていない。
確かに俺が家族を完全に許せているかと問われればたぶんそうではない。口では許した、恨んでなどいないと言っていても心のどこかでまだ許しきれていない部分があったんだろう。だからやり辛さを感じていた。だから連絡できなかったんだ。
あんなことがなければ。
あの女がいなければこんな感情抱かずに済んだ。家族に抱かせずに済んだ。
8年前の事件がなければ、俺たち家族はこんな普通で一般的な楽しい家族の団欒をずっと過ごすことができたはずなんだ。
やめよう。この家であの女のことなど思い出したくもない。
そろそろ寝るか。
残っていたウイスキーをグイッと煽って飲み干す。グラスを片付けてリビングを出ようとすると、小町が寝返りを打ったのが見えた。
小町も親父同様、風呂にも入らずに飲み始めたもんだから仕事のスーツのまま床に転がっている。あーあー、シワになっちゃうよ。てか、化粧も落としてねえじゃねえか。お肌に悪いよ?小町ちゃん?
寝返りを打ったせいでかかっていた布団がはだけてしまっていた。それを直そうと俺は小町に近づく。
「お兄ちゃん……」
「うおっ!って寝言か」
小町はムニャムニャ言いながら再び寝返りを打つ。あの頃のあどけなさなどとうの昔にに消え失せている。随分と大人になったもんだ。こんなに大人になった妹に寝言でお兄ちゃんって言われてもな。
そんなことを考えていると、クスリと笑いが出た。はだけた布団を再び掛け直して俺は立ち上がり、リビングを出る。
「……お兄ちゃん……もうどこにも………」
微かに聞こえた声を聞き終える前に俺はリビングの扉の扉を閉める。
ごめんな、小町。お兄ちゃんはもう止まれそうにない。
俺たち家族から大切なものを奪ったあの女を潰すまで。
今日は久しく感じていなかったいろんなものを感じることができた。
できることなら何も偽装することのないありのまま自分で居たかった。
でもこんなものは今日限りで終わりにしよう。心のどこかで求めていたものはもう必要なくなった。
これから地獄に行こうというのだ。
中途半端な感情はいらない。もやは、感情は必要ない。
切り捨てろ。すべてを。