人生何が起こるか分からないと人は言う。だけれど、確かにそうだと思うほどのことが起こるのは稀だと思う今日この頃。平穏無事と言うのは大事だ。でも、たまには起こってくれてもいい。
「ふわあ……」
欠伸一つ。ビルから見下ろす町の全景は、深夜と言う時間帯のせいで光が少なく闇に包まれていた。僕のいる屋上は少しばかり明るくなっているが、多くのものは見えなくて、面白くもなんともない。苦労して忍び込んだと言うのに、得られるものは何もなかった。強いて言うならこの町は平和だと言うことか。骨折り損のくたびれ儲けと言う他なかった。
背負っていたバッグから携帯を取り出して時間を確認すると、既に二時を回って三時近い。明日、と言うか今日も学校がある。寝不足なのは確定だけど、出来るだけ多く寝ときたいとも思う。
「はあ……」
ため息一つ。忍び込むときにはこれ以上ないほどに気分が高揚していたのに、今では見る影もなく倦怠感が僕の体を包んでいた。このまま寝てしまおうかなあ、なんて思ってしまうけれど、ここで寝ていたら人に見つかって、学校に遅刻するばかりか、このビルの所有者に両親、更には学校からも怒られるに決まっている。
動きたくない僕の心境そのままに固くなった体を無理矢理動かし、ゆっくりと立ち上がった。夜風が服を揺らす。真っ黒だから闇に紛れて都合がいいだろうと制服を着てきたのだけど、今思えば一発で学校がばれてしまうと言う多大なリスクがあった。一時の感情に身を任せるのはいけないことなのだなあ、と僕は一人呟いてうなずいた。傍から見たら危ない奴だろうか。誰もいなくてよかった。
「何を言っているのですか?」
安心したところで、すぐ後ろから声がかかった。ビルの管理人だろうか。それにしては女の子と言うべきやや幼い声だった気もする。こんな夜中に聞こえる類のものではない。ビルの管理人のイメージは厳ついおじさんとかなんだけど、実際どうなのだろう。まあ、誰かが偶然通りがかるようなところでもないから、関係者であるのは確実だ。それでもこんな時間に屋上に来るか、と言う疑問の解決にはならない。もしかして見つかっていたのだろうか。
纏まらない思考を捨てて、僕は慌てたように口を動かし振り返った。
「すいません、夜風が気持ちよさそうだなあ、と……思って……」
言葉が止まった。口が開いたまま塞がらない。視線が一点に留まる。暗くて見えづらいけど、少女の手に握られていたのは確かにアレだった。今の僕を表すなら、思考停止と言う表現が最も適しているだろう。
そこにいたのは確かに女の子だ。年のころは僕と同じ高校生くらいだろうか。もしくはそれより少し幼いくらい。表情こそ伺い知れないが、長い黒髪が良く似合っているように感じた。深夜の屋上と言う状況には抜群に合っていないけど。それに加えて彼女は僕に向かってあるものを突き出している。重要なのはこれだ。突き出しているのが温かい缶コーヒーとかなら、ラブロマンスの片鱗を感じることくらいは出来そうなものだけど。残念かな、僕に向かっているものはハートフルなものだった。ラブロマンスなんてほど遠い。
「あのー……それはナイフですか?」
僕が恐る恐るそれを指さすと、彼女は僕とそのナイフとを交互に見て、すっと腕を下ろした。暗くて確証はなかったけど、どうやら僕の言ったことは正解だったようだ。当たっても全く嬉しくないのはどうしたことか。
「間違えました」
何と間違えたんですか? とは怖くて聞くことが出来なかった。どう答えられても対応できないだろうから、何も聞かないのが一番だろう。僕の精神衛生的に。
それから数秒。何も起きずに時間が過ぎる。目の前の彼女は、ナイフを下ろすと僕を見たままずっと動かない。どうすればいいだろう。気まずい。とりあえず僕から声をかけるべきか。
「その、何か御用でしょうか?」
当たり障りのない適当な言葉だ。でも返答は大体予想できている。彼女はビルの管理人で、僕を追い出しに来たのだろう。色々引っ掛かるところはあるけど、それが一番しっくりくる。
しかし僕の予想に反して、彼女は首をかしげた。
「いえ、特に用はありません」
「え」
僕は素っ頓狂な声を上げてしまった。何だか会話のペースを掴まれっぱなしだ。一度咳払いをして体勢を立て直す。痰が絡んでもう一度咳払い。それでも治らなくて結局咳をする。もちろん彼女からは顔を背けて。
「風邪ですか?」
「全然。ちょっと手違いがね」
僕の返答に彼女は不思議そうな顔をする。誤魔化した物言いなのだから当然か。言えるものなら、不思議なのは君の方だよ、と言いたいところだ。
「それで……何だっけ。ああ、そうそう。何でここに来たんですか?」
「特に理由はありません」
「……なるほど」
すぱっと切って捨てられた気がするのは気のせいではないはずだ。これほど会話が進展しないのはいつ以来だろう。ここ十年はなかった。それ以前の記憶は曖昧でわからないけど。ただこれだけは言える。彼女は僕と会話しようと言う気がないに違いない。そっちがその気ならば僕も付き合っていることはない。
未だに僕を視線に捉えて離さない彼女の横を通って立ち去ろうとしたとき、ふいに彼女が口を開いた。
「榊です」
「え」
本日二度目の呆けた声が出た。突然告げられた言葉の意味が理解できず、僕はオウムの様に言葉を返した。
「榊?」
「私の名前です」
変わらぬ表情で彼女はそう言う。つまり、僕に自己紹介をしていると言うこと、でいいのだろうか。となれば今度は僕の番か。何となく期待を込めた眼差しのような気がするし。榊と名乗った素性の知れない彼女に本名を名乗るのは大丈夫かどうか不安になったが、僕の名前一つでは何も起こりはしない。結局素直に名乗ることにした。
「柳井、です……えっと、榊さん」
「はい」
名乗ったところでどうすると言うこともなく、沈黙に耐えかねて榊さんを呼ぶと案外素直に反応してくれた。会話が繋がったと思って少し嬉しくなった僕をぶん殴ってやりたい。
「僕はどうしたら?」
「お帰りになられたら如何でしょう?」
あっさり言われた。納得のいかない微妙な気分である。しかし、帰っていいのならここにいても睡眠時間が減るだけだ。少しずつ瞼が重くなってきている。早く家に戻ってベッドに潜り込みたい。
「あ、じゃあそうさせてもらいます」
「どうぞ、暗いので足元にお気をつけて」
榊さんは半身を引いて僕の通る道を開けてくれた。要所要所は丁寧な人なのに、会話だけはずぼらと言うか、する気がないと言うか。ギャップと言うやつかもしれない。僕には全く響かなかったけど。
榊さんに軽く会釈した後、屋上の扉まで歩いていく。
「また、会いましょう」
屋上を去る時、榊さんのそんな声が聞こえた気がした。
階段を下りながら思う。今の出来事は、人生何が起こるか分からない、の何の中には入るのだろうか。
月が綺麗に輝く帰り道は、どうしたことか、やけに静かだった。
○
翌日。予想通りの眠気と闘いながら通学路を歩く。こういう時、家から一番近くの高校に入学してよかったと思う。電車で二駅三駅とか行ったところだったら、寝過ごして終点まで行きそうだ。
「ふわあ……」
噛み殺そうとした欠伸が僕の意思から離れて大きく出た。目尻に涙が溜まる。手の甲で軽く拭った。
まさに、歩けど歩けどなお我が眠気なくならざり。今なら立ったまま寝て、武蔵坊弁慶みたくなれるかもしれない。
そんな阿呆なことを考えながら歩き続け、小さな十字路を過ぎると、学校まであと半分くらいだ。ここまでくるとちらほらと他の生徒が見える。電車の生徒たちと合流するところなのだ。その中に、よく一緒に話す友人の姿を見つけた。大抵は彼が僕を見つけて寄って来るが、今日は僕から行ってみようか。
空を見上げてぼけっと歩いている彼、皆見宗太の近くに行き、肩に手を置いた。
「おはよう。今日は何だかお疲れみたいだ」
「んー? ……おはようさん」
皆見は僕以上に眠そうな顔で振り返った。髪型はいつにもましてぼさぼさだし、目の下には大きな隈が出来ていた。
僕は苦笑しながら並んで歩き始める。
「眠そうだねえ」
「眠い。物凄く眠い。果てしなく眠い。つかもう寝たい」
矢継ぎ早に皆見は言う。僕が面食らうほどだった。ここまで言うとは、何があったのか気になるところだ。
「徹夜でもしたのかな?」
「いんや……まあ、結果的にはそうか、うん」
要領を得ない返しだった。どういうことなのか聞きたいものだけど、あまり触れてほしくない話題の様に感じた。無理に聞くほどのことではないし、そうなんだ、とだけ言葉を返してその話は終わり。
無言のまま少し歩いて、皆見が口を開いた。
「そっちはどうなんだ? 俺も相当だがよ、お前も危なそうじゃねえか」
「あ、分かる?」
「分からねえわけねえって。いつものお前なら今の時間ここ歩いてねえだろうし、髪はぼさぼさだわ隈は出来てるわ……最初気付かなかったっつの」
僕が挨拶した時の間はそれが原因だったのか。てっきり眠くて反応が遅れたと思っていた。
「じゃあ、今は鏡を見ているような状態なんだね」
「……俺もそんな酷いか?」
「ばっちり」
僕が笑顔でそう言うと、皆見は乱暴な手櫛ですく。飛び跳ねていた髪を押さえると他のところが飛び跳ねて、そ
の飛び跳ねたところを平らにしようとすればまた他のところが飛び跳ねていた。そのせいで更にぼさぼさとなってしまっているのは、言わないであげるのが優しさか。学校に着けば嫌でも気づくだろうから、今は放っておこうか。見ているこっちとしてはなかなか愉快な光景だった。
僕がにやにや見ていたからか、皆見はただでさえ鋭い目つきを更に鋭くして僕を睨んだ。寝不足の隈も合わさって恐ろしく人相が悪い。
「何笑ってんだよ」
「笑ってないって。微笑んでいるだけだよ」
「んだそりゃ」
皆見は眉を顰めてそう言った。その姿が一昔前の不良漫画に出て来る典型的な不良のように見えて、つい声を上げてしまいそうだった。僕は堪らなくなって上を向く。眩しくて目を瞑った。
「どした?」
皆見が聞いてくるけど、僕は答えられなかった。口を開いたら吹き出してしまいそうだったのだ。
「おい、何かあったのか?」
何もないよ、と言いたい。いや、強いて言えば君にあるんだ、と言いたい。頭の中では返答パターンが幾つも作られていく。どのパターンで行くにしても、口を開くことを回避できないところからして、結末はどうしようと揺らがないけども。
「一体何見てんだ……って、んんっ!?」
ちらりと横を見てみると、皆見が僕と同じように空を見上げて大きな声を出していた。
「ど、どうかした……ふっ、ふふ」
辛うじて笑い声をあげるのは押さえられたけど、その代わり妙に怪しい声が出てしまった。だけど皆見はそんなことは気にしていない様子で、先ほどまでの僕と同じように空を見上げて固まっていた。聞こえていなかったのだと思って、僕はもう一度声をかける。
「どうかしたのかい?」
それでも皆見に反応は見られない。少しの間見ていると、唐突に僕の方に顔を向けた。
「行ってくる!」
「あ、うん」
僕は皆見の言葉に首を縦に振った。と言うかその程度しかできなかった。何で、と声をかける暇もなく皆見が走り去っていったからだ。一人取り残された僕は、周囲の生徒に奇異の視線を送られながらも歩き出した。
「はあ」
朝から疲れてしまった。ただ、こんなことは初めてではない。彼と付き合い始めてからは何度もある。
彼が言うには、いきなり頭の中に声が聞こえるときがあるのだそうだ。それに従って進んで行くと、困っている人のところに着くらしい。信じがたい話だけど。
まあ、つまり、何が言いたいかと言うと、だ。
――皆見宗太は変人である。