朝、何時もなら私よりも早くに起きている姉上が朝餉時になっても起きて来ない。
他の貴族の邸は知らないが私達の住む邸では昨年から体調を崩し、そこまで老い先が長くは無いことを悟ったことをきっかけに職を辞し出家した父や、姉上の母君の葛の葉様がまだ邸に居られた頃から朝餉は皆で摂っていた。
あの頃は良かった。まだ私はその頃は幼く完全に覚えてはいないが、子供の目で見てもあの頃は皆が幸せに暮らしていた。
両親は勿論、姉上も子供ながらに、そして葛の葉様も私を可愛がってくれた。
あの様な事さえ無ければあの日々が続いていたのかもしれない。
いかんな、なぜか最近こんなことばかり考えている。
それにしても遅い…。五年前に結婚した妻と息子達もこちらを心配そうに見ている。
…少し様子を見てくるか?
◆◆◆◆◆
渡殿を歩き姉が暮らす棟へ向かう。
万が一の事があっても事欠かない為に厳重な式よって幾重にも重ね敷かれた、何人たりも通すことの無い結界…、しかし姉が半妖で女であることを知るごく僅かな例外は何もしなくても通り抜けることが出来る…。姉が半妖かつ女であることを知るのは両親、私そして元々葛の葉様と姉付きで既に他界した下女の合わせて四人だけだ。そのような入る者を選ぶ結界など、とてもでは無いが私には真似などできない。本来は身を守るための結界だが、ここまで来ては一種の封印の陣といっても過言ではない。
そして何時も通り結界に入った瞬間だった。
「っ!?」
結界内には滅多に感じる事が無い、息が詰まる程の濃密な妖気が立ち込めていた。
発作だ!しかもいつもとは比べ物にならない程の!
「姉上!」
姉上は何時も衝立の奥に床を敷いて寝ているため部屋の入り口からその様子を窺い知ることはできない。
すぐに奥を見るために衝立の向こうへと走る。
少し荒れた状態の床に姉の姿はない。
姉は少し離れた部屋のさらに奥、部屋の隅にうつ伏せに倒れていた。
変化が解けている。見た目の歳は十六七歳の年若い娘の姿だ、これが半妖としての姉の本来の姿なのだろう。変化している時は勿論男が着る衣を着ており、本来の姉の体格からしたらかなり大きいため今姉はぶかぶかである。それにしても葛の葉様が出ていかれてからも発作を起こすことは何度かあったが、変化が解けてしまう程の発作は無かった。
「姉上!」
急いで近くに寄って姉の体を起こす、…よかった、息はある…、だが、顔色も蒼く苦しそうな浅い呼吸を繰り返しているし、手足も氷のように冷たい。
それにしても、この状態…、昨晩、何かがあったのだろうか?
いや、この部屋は兎も角、敷地と邸を囲む感知結界は何かが通れば私も気付くようになっているためそれは無い…?では一体何が…?
仕方ない、ここは一旦母上も呼ぼう…。いや、駄目だ、ここはこの邸にいる母上をはじめ私以外の者にはあまりに妖気が濃すぎる。普通の人間には厳しい。仕方がないが容態を伝えるにとどめよう…。
◆◆◆◆◆
…目が覚めた、意識が鉛のように重いし、全くと言っていいほど頭が回らない。少し気を抜けばまた鉛が水に沈むの避けられないように意識を失ってしまうだろう…。
大部分が脂汗であろう寝汗で衣がべったりとついていて余計気持ち悪い…。
何日ほど経ったのだろうか?体内の妖力は今でこそ少しは落ち着いている様だが、正常とは言い難い、あそこまでかき乱されたのだ、幼い頃の経験から完全に落ち着くまではおそらく数日かかるとは思う。まだそれまでは変化は厳しい。
隙魔妖怪、境目に棲む妖怪、境界を操る妖怪。名前とその強大さだけは知識としては知っていたがあらゆる境界を操る、そんな力を操るとは…、人と妖怪の間に生まれた私のような存在自体が曖昧な存在からしてみれば危険な、いや、天敵だな、これからアレともう遭遇しないなどということは職業柄有り得ない。つまりこの状況はかなり良くない。何か対策を練らなくては…。
そして何より私が半妖であり、あまつさえ女である事まで妖怪である奴に知られてしまった、糞、内心悪態を吐きたくなってくる。口封じは…厳しいだろう。こちらも何か対策を練らなくてはいけない。
「はぁ…。」
あぁ、ため息まで出てきた…。さて、周囲を見回す。屋外はどうやら夜、漏刻は細かいところまで見えないが子の刻あたりを指しているのはわかる。部屋はあの時のまま、いつも通り何も変わらない、私の妖気が立ち込めていることを除けばだが…。少し離れた所の柱に吉明がもたれかかって寝ている。この妖気だ、母上をはじめこの邸の者はこの部屋に入れば気絶してしまうだろう。そのため倒れていた間、私の介抱をしてくれたのは間違いなく弟だ、だがたとえ弟にとっても今回のこの妖気は生半可なものではなくかなりきついものだろう。本当に申し訳ないし頭も上がらない。だが少しすまないが訊ねておかなければならないことがある。
「ょ…ぁ…らっ、けほっ、けほっ。」
口から出た声は喉が渇ききっているため小さく思うように出なかったが、おそらく咳をしたことで弟が気付いて起きてくれたようだ。
「姉…上、気が付かれたのですか?」
「すまないっ、みずっ、をっ。」
「!みずですね、わかりました。」
少したって椀いっぱいの水を注いできてくれた。何日経ったかは分からないが数日ぶりの水だ。美味しい、生き返る。
「大丈夫ですか?」
「まあ、気を失った時に比べれば大丈夫だが、まだ妖気を引っ込められそうにはない。正直辛いのではないか?すまないな、吉明。」
「まあ、少し辛いのは事実ですが、大丈夫ですよ。」
苦笑いをしつつもこちらを心配してくれる、本当に…、
「そうか、あまり無理はしないでくれよ。ところで、何日の間私は気を失っていた?」
「五日です。」
「五日か…、長いな…。」
「はい、最初の頃は体は氷のように冷たく、息も本当に弱いものだったので、正直、このまま目を覚まさないのでは…と。」
「心配をかけたな、本当にすまなかった。」
「後で母上にも言ってください、ここには結界内に立ち込めた妖力のせいで入れないことも有ってか、私以上に気が気ではなさそうでしたので。」
「…わかった、それと変化ができるように戻ったらお前の奥方の
ははは、と乾いた笑いを上げて冗談を言ったつもりだったのだが…、
「梨華にもですか…、姉上、笑い事では有りませんよ。私達は本当に心配をしたのですから。」
通じなかったか…、いや、少し巫戯け過ぎたか。
「わかったわかった、そう怒るな、冗談だ。私が悪かった。ところですまないが体を起こすのを手伝ってくれないか?」
若干眉間に寄っていた皺は収まった、どうやら許してくれたようだ。
「ふん…、分かりました。」
碌に力も入れることのできない私の体を起こした後に吉明は怪訝な表情で切り出した。
「それはそうと一体何が有ったのですか?どうも今回の発作は腑に落ちない点があるのですが?」
「この部屋に妖が侵入した。」
私がそう伝えるとやはり驚いた様だ。
「そんな馬鹿な!?この部屋は勿論この邸は結界で」
「そんなものは無意味だったのだ、あの隙魔妖怪にはな…。」
「隙魔妖怪……と言いますと…八雲紫…ですか?」
「そうよ、その八雲紫がその隙間とか言う能力を使って外から結界を介せず直接私の部屋に現れた。」
「そこで対峙しているとき運が悪く発作が起きたと、」
「いや、それが今回の発作は奴が意図的に起こしたものだ。」
吉明の顔が驚愕の色に染まっている。
「そんな事ができるのですか!?」
「奴の能力は『境界を操る程度の能力』というらしい、それで無理矢理封じ込めている妖力と霊力の境界を奴の言を借りるなら『弄った』のだろう。まさに神にも等しい厄介な能力だ…。」
「そうです…ね、それで、八雲紫には…、」
「そうだな、私が半妖であり、女であることは知られてしまった。最初は女であることまでは気付いてはいなかった様だが、予想外の発作で変化が不完全なものになってしまったのだろう。無理矢理変化を解かせられ露見してしまったよ。」
「そうですか…、これからどうなさるのですか?」
「どうもこうも、奴の言を信じるならば他言はしないそうだが、アレは持つ手札が増えたぐらいにしか考えていないだろう。おそらくは何かの交渉の材料として使ってくるだろう。」
「厄介ですね。」
「そうだな。」
取りあえずは体調を戻すことに専念せざるをえない…か…、あっ!
「そういえば暦の件はどうなってる?」
「心配しなくてもとりあえず私だけで進められるものは進めておきました。残りは姉上に相談が必要な所であと一日程度で終わらせることはできますよ?それと忠行様方には急な病で当分の間は出仕できないことは既に伝えてありますので。」
「そうか、わかった…、何時も済まないな、吉明がいて本当に助かってるいよ。」
私は乾いた笑みを浮かべた。
「いえいえ、私でも姉上の力にのなれるのであれば…。」