夕暮れ、もう少しすれば夜の闇が迫るであろう頃。
一台の国産乗用車が公道を走っていた。運転しているのは正史編纂委員会エージェントにして赤坂将悟の懐刀、甘粕冬馬だ。
「…やれやれ、一縷の希望を抱いて手がかりを求めて来てみれば、待っていたのは予想外のアクシデントとは」
これは権禰宜さんたちからお説教をもらいますかねェ、と。
平時からくたびれた様子の青年は、今はもっとくたびれた様子でぼやいていた。ハンドルの握りながら後部座席に視線をちらりとやると、そこには目を瞑って眠っている万理谷裕理が横たわっている。
先ほど青葉台にある委員会の機密文書館にて万理谷裕理に、最近押収した魔導書の鑑定を行ってもらっていた。尤も鑑定とはいってもあくまで霊視の霊力で魔導書の真贋を判別してもらうだけなので、専門的な知識は必要とされない。
さておき、全国から押し寄せてくる種々雑多な情報の山の処理に忙しいはずの甘粕が何故わざわざ裕理の鑑定に同行したのかといえば……ありていに言えばサボりのためだった。いや、それだけではないのだが。
将悟の“予言”により、業界関係者から寄せられる情報は爆発的に増大したが、現時点ではどれもこれも有力なものではない。強いて言うなら今朝方羽田空港で目撃されたイタリア・青銅黒十字所属のリリアナ・クラニチャールの存在が気にかかる。だが如何に“剣の妖精”と噂される天才児であっても将悟の言う“嵐”になるかと言われれば首をかしげる。
そんな中、迫りくる災厄の手掛かりを求め、霊視力に優れる裕理に同行していたのだ。将悟に次ぐ霊視力を有する彼女ならばなんらかの予兆を感じてくれるのでは、と期待して。
―――正直な本音を晒せば迫りくる膨大な仕事の山から逃げだすための口実という一面もあったのだが。
いやホント勘弁してください、と今もデスクに待ち受けているだろう膨大な情報の山を思い出すと些かならず憂鬱な心情になる。学生の頃は月給泥棒が夢だったという甘粕冬馬。能力はあれど勤労意欲は薄い類の人間なのだ。
甘粕の処理を待っている仕事の山に密かにため息を漏らしながらハンドルを握っていると、胸元の携帯電話からコール音が鳴り始める。
道路交通法上運転中の電話操作はいろいろと不味いが、幸いなことに現代の電子機器は日々便利さを増している。耳元に装着していたハンズフリー・イヤフォンの調子を確かめると、通話機能をオンにする。
『―――っすさん! 聞こえますか、甘粕さん!』
「聞こえていますよ。何事ですか?」
途端に耳に飛び込んでくるのは、委員会エージェントの緊迫感に満ちた荒げ声だ。言葉だけは軽いまま何か起きたか、と警戒心を最大に高める。一言一句聞き逃さぬように耳に神経を集中させた。
『“剣の妖精”を張り込んでいた連中がやられました! “塩の柱”ですッ』
「はぁ?」
一瞬何を言っているのか意味が分からず、反射的に問い返す甘粕。
『ですから“塩の柱”です! 張り込んでいた奴らが全員塩の塊になっちまってるッ! こんな真似ができるのはあのバルカン半島の―――』
「そういうことですかッ! 全員すぐにその場から撤退、近隣住民の避難準備も急いで! 下手をすれば文字通り東京が水没しかねないですよコレは!?」
らしくもなく混乱した甘粕だったが、ここまで言われてやっと有力な候補者の名前が浮かび上がる。
デヤンスタール・ヴォバン侯爵。
バルカン半島に拠点を置く最長老の魔王であり、確か東欧出身のクラニチャール家現当主は彼の心棒者と聞く。そして悪名高き風雨雷霆の権能“
かの魔王は文字通り嵐を呼ぶ男、なるほど将悟の言う“迫りくる嵐”にもぴったり符合する。
矢継ぎ早に指示を出しながら一体この国に何の用だ、と毒づく。かの老王に将悟が強いこだわりを見せたところを甘粕は見ている。このことを知ったあの少年がどんな行動に出るか、甘粕にも予想がつかない。
(狙いは将悟さんですかね…。まあそれくらいしか思いつかない―――)
いや待て…と、密かに引っかかりを覚える。
確か数年前、誰かがヴォバン侯爵がらみの“何か”に関わっていたような…。
(…………! 裕理さんは確か四年前の儀式に)
まさか、という念が過ぎり反射的に後部座席の人物を確認する。ありえない話ではない、甘粕の読みでは狙いは9:1で将悟。だが楽観視していい見立てではない。なにせカンピオーネに抗うことなどどんな人間にも出来ないのだから!
七雄神社に向かう予定だったが、行先変更だ。一刻も早く将悟と合流し、その庇護の下に入るべき。即断した甘粕は将悟と連絡を取るべく、一時道交法を棚上げして携帯電話を手に取って操作し始める。
11桁の数字を呼び出し、コールしようとする。ほんの十数秒の余裕があればそれは完遂されるはずだったが、生憎と少しばかり、しかし何もかもが遅かった。
「―――!? 次から次へとッ」
唐突に目の前の車線、甘粕が運転する国産乗用車の進路上に3人の人影が空から降り立ってくる。銀褐色の長髪をポニーテールにまとめた可憐な容貌、リリアナ・クラニチャールを筆頭に不気味な雰囲気の戦士が更に二人。手にはサーベル、戦斧、長剣と盾と物騒な武器が握られている。
咄嗟に周囲に視線を走らせても人影は見えない。恐らく進路を予測したうえで人払いの術をかけていたのだろう。
「狙いは裕理さん、と。入国したのは確か今朝だというのに嫌になるくらい手際が良いですねェ…。私のような貧弱な文系男子には荷が重すぎますよ、まったく」
こんな時も変わらないぼやき節。甘粕はこんな時でも甘粕だった。伊達に何度も将悟の繰り広げる騒動に巻き込まれては、その後始末に従事してきたわけではない。元々図太い性格が鉄火場慣れして更にしぶといものに変わっていた。
が、だからと言って状況が好転するわけではない。今のところ敵には電光石火の鮮やかさでことごとく先手を取られている。
「ひとまず失点が1、挽回はこれから次第といったところですが」
そして今日一番深い溜息をつき。
「言っても聞こえていないでしょうが……本当にすいません、ご迷惑をおかけします。裕理さん」
そしてアクセルを猛然と踏み込んだ。
エンジンが獰猛な唸りを上げ、車体が急加速する! 進路上の少女がギョッとした顔をするが、すぐに動揺を鎮めて手に持つサーベルに危険な光を漲らせる。抵抗されるならやむを得ない、そんな表情だ。
実際あの見るからに危険な魔術をかけたサーベルなら暴走する乗用車でも文字通り一刀両断しかねない。
こちらの勢いにひるんで突破できるものならばあわよくば、と考えていた甘粕だが流石にそこまで甘くはないらしい。だが構わない、もとより容易くこの場を切り抜けられるとは考えていない。
再度重い溜息を吐いた後、乗用車を操作する。
急ブレーキ、そしてハンドルを左に切る。手元に召喚した呪符に呪力を込める。猛スピードで動く常用車のタイヤとコンクリートが擦れ合う凄まじいスリップ音を響かせる! そのまま結構な速度で車体をクルクルと独楽のように回転させながら滑り続け、少女たちの丁度数メートル手前で急停止。
タイヤのゴムが溶ける嫌な臭いを漂わせながら、運転席の甘粕と通せんぼする銀髪の少女の目が合う。目線で車から出てくるよう促され、これみよがしにやれやれと頭を掻きながら敢えてゆっくりとした動作でドアを開けた。
「これはどうも、素敵なお嬢さん。ところで我々の進路妨害されているところ申し訳ありませんが、ただいま人を待たせておりまして。どいて頂けると助かります」
「……。すまないが、万理谷裕理は連れて行かせてもらう。承知しないのならば、残念だが手荒な真似をしなければならない」
「待ち合わせの相手が我らの王、赤坂将悟と知ってもですか? リリアナ・クラニチャールさん」
甘粕のとぼけた発言に、旧知の少女を思い出したのか若干の沈黙を挟んだ後不本意そうな声音で万理谷裕理の身柄を要求する銀の少女。自然な様子でリリアナの要求をスルーしつつ、カンピオーネの雷名を利用してこの場を切り抜けようとする甘粕。
両者の間に見えない火花が散った。
「……それがヴォバン侯爵の命故に。騎士として王の勅命に逆らえない以上、私に引き下がることは許されない」
「なるほど、ご苦労されているようで」
リリアナの言葉からやはりヴォバン侯爵の企みだったか、と疑惑を確信に変える。
渋い口調であくまで言葉を曲げないリリアナに、彼女とヴォバン侯爵との溝を感じながらやはり口だけで何とかなる相手ではなさそうだと感じる甘粕だった。
「悪いが同じ事を二度言うつもりはない。貴方は口が上手そうだからな、付き合っていたら何時まで時間がかかるか分からない」
「ということは、あなた方にとって時間をかけるのはマズイということですかね?」
「……ッ! 会話を引き延ばそうとする手には乗らないぞ、貴方みたいな知り合いを一人知っているが口車に乗れば大抵ロクなことにならないんだ!」
苦虫を噛み潰した表情でグイとサーベルを突き付けてくる少女。心なしか、そのロクでもない知り合いに抱く不満まで込められているのは果たして気のせいか。この少女、冷静沈着な見た目に反して中々直情径行にありそうだ。
「やれやれ……どうしても、裕理さんの身柄が必要と仰る?」
「そうだ。この国の人間として忸怩たる思いだろうが……悪いことは言わない。万理谷裕理の身柄を渡してくれ。侯は智慧の王と争う気はないと仰っていた。今ならば彼女の身柄だけで済むはずだ」
視線を鋭くして問いかける甘粕に、目を伏せて後ろめたそうに言葉を継ぐ。
「何故、彼女を? やはり四年前の儀式ですか」
「……そうだ。侯は再びあの儀式を執り行うつもりだ」
罪悪感と侯爵への反抗心からか、本来ならば喋る必要もないことをさらりと漏らしてくる。話しているだけで分かるほど彼女は善性の人間である。騙し合いや詐術にはとことん適性がなさそうだ。
「なるほど…。どうやら、この場は貴方に従うしかないようですね」
「感謝する」
「感謝など、筋違いもいいところですよ」
「…そうだな、すまない」
甘粕が言っているのは“そういう意味”ではないのだが。まあいい、自分から目を塞いでくれるのなら好都合だ。
「裕理さんはある呪物を霊視して頂いたショックで寝込んでいます。丁重な扱いをお願いしますよ?」
「承知した。私は魔女だ、上手くやるさ」
自身は油断なく甘粕と相対したまま目配せで背後に控えていた二人に裕理の確保を指示する。見るからに死相を浮かべた死人が壊れ物を扱うように繊細な手つきで、車の後部座席から万理谷裕理を運び出す。
「それでは私はこの辺でお暇を―――」
そのまましれっとこの場を去ろうとする甘粕。
当たり前だがリリアナはそれに待ったをかける。このまま放置すれば将悟に話が行くのだから当然だ。
「それと万理谷裕理だけではなく貴方にも同行してもらう。この国の王に話が持ち込まれては困るからな」
「いやァ、それは困りますね。無断欠勤したなんてバレたらまた減給を食らいかねない」
甘粕をして反応できない速度でサーベルをその首元に突き付け、恫喝する。伊達にこの若さで大騎士の位を戴いているわけではない。ミラノの神童の看板に偽りない剣技の鋭さだ。
「なるほど。それでは抗ってみるか」
「いえいえまさか♪ これでも私暴力とは縁を切りたい性質なんですよ。だって殴られると痛いですから」
「ならば大人しく私に従ってほしいものだな」
サーベルを手に凄むリリアナに肩をすくめ、飄々とした調子を崩さない。この辺り甘粕も中々大した糞度胸の持ち主だった。しばし睨みあう二人だが、やはり最初に視線を逸らしたのは甘粕だ。
「まぁ、そろそろ頃合いですかね」
そうぽつりと呟きながら。
そして耳聡く聞きとがめたリリアナが次の行動に移るよりも早く。
「魅力的なご提案でしたが、それをやるとウチの王様が恐ろしいので。
最後に戯言を吐きながらパチリ、と似合わないウィンク。するとドロンッ、と古典的な音とともに甘粕の肉体が煙に変じ、後に残るのは人型に切り抜かれた一枚の紙がひらひらと舞うのみ。
「言ったでしょう? “感謝なんて筋違いも良いところだ”ってね」
捨て台詞がどこからともなく聞こえ、遠ざかっていく。
甘粕が使用したのは分身の術。講談で語られ、広く周知されたメジャーな忍術を使った見事な逃げっぷりだった。
「コレは噂に聞く、分身の術!? 迂闊、彼はニンジャだったか!」
あまりに見事に出し抜かれたリリアナは驚愕を顔に張り付けて叫ぶ。
魔女のリリアナが至近距離で視認しても気づかれず、加えて流暢に会話までこなす
「油断した…もしや、彼がアマカス。智慧の王のお付きとかいう、ニンジャマスターか!?」
本人が聞けばそんなマスターシーフみたいな称号を勝手に付けないで下さいと突っ込むであろう台詞だった。
「一体何時の間に入れ替わった…いや、最初からか!」
リリアナと会話しながら入れ替わる隙など数瞬たりとも与えなかった、それは断言できる。ならば初めからリリアナはあの青年と直接顔を合わせてなどいなかったのだ。
わざとらしいほどにスリップしながら迫りくる乗用車にリリアナの注意は完全に引き付けられていた。その隙をついて分身を作り出し、運転席の本体とすり替わる。車体が死角となったタイミングを見計らい、ドアを開けて素早く離脱。リリアナの襲撃からほんの十数秒で決断し、実行せしめた手並みは敵ながら天晴れと称賛する他ない。
なにせリリアナが最も恐れるのはこの事態がかの智慧の王の耳に入ること。神出鬼没にして魔術に長けた魔導王を相手に逃げきれる自信、はっきり言って全くない。万理谷裕理を確保しながら状況は有利と言い切れない。一刻も早くヴォバンの元に戻らなければ、下手を打たずとも死ぬ。
「やってくれたな、ニンジャマスター。この借りはいずれ返すぞ!」
そして捨て台詞とともに万理谷裕理と二人の死せる従僕を連れ、軽やかにその場を飛び去って行った。
そんなリリアナを優に2㎞は離れた場所から視線を送るものが一人。
「―――誰がニンジャマスターですか、誰が」
ボソリとやはり突っ込みを入れながら、付かず離れず尾行を試みるのは甘粕である。
当初は一目散に逃走するつもりだったが、相手方が思った以上に赤坂将悟の存在に焦っていることに気付いた甘粕は一部方針を切り替えた。あの場から離脱した後、安全マージンを取った上で可能な限りリリアナを追跡することにしたのだ。
隠行は甘粕が特に得手とする術だ。例え追跡を警戒していたとしても、時間制限のあるあちらに慎重を期す余裕はない。そう踏んでの尾行だったが中々上手く嵌まっている。
甘粕に一杯食わされたことに気付いたリリアナは万理谷裕理をカバーしながらとにかく速度を重視して帰還しようとしている。行先は恐らく拠点としている場所だろう…とはいえ日本に来て一日も経たず、土地勘もない彼女たちが用意できるハコなどロクな物件ではないだろうが。
こちらとしても最低限拠点が判明すればそれでいい。出来れば移動中に奪い返せれば最上だが、大騎士クラスにサポートが二人いては甘粕では太刀打ちできそうにない。
それよりも今は将悟に連絡を付けなければ。
足音を潜めて疾走しながら懐から取り出した携帯電話で11桁の数字をコール。鳴り響くコール音が、2度3度と続く。普段なら何ということもなく待つ時間が今は焦りを呼び込んでやまない。
十数秒後、丁度甘粕がビルからビルの間をノーロープで飛び越えつつあるタイミングで電話先の相手に繋がる。
『おう、甘粕さん。例の件についてかい?』
「ええ、まあ。大本命が向こうからやって来ましたよ」
『そいつは奇遇だな、丁度俺の方にも容疑者最有力候補が来たところなんだ』
なに、と驚いて問い返す暇もなく二の句が継がれる。
『悪いけど切るわ。そっちも気になるが、今はどう考えても目の前のジジイに集中した方がよさそうだ』
「将悟さん? …まさか、いまそちらに―――」
ツー、ツーという無情な音が鳴り、通話が切断されたことを知らせる。
甘粕の脳裏に嫌な予感、というより確信が走る。絶対に間違いはない、こういう時に限って最悪の状況かその少し斜め上を行くのがカンピオーネという人種の特徴なのだから。
つまるところ甘粕からの報告を無視させるだけのものが、将悟の前に現れたのだろう。
一体誰が、などと敢えて考えるまでもない。
王に相対できるのは王だけなのだから。
ニンジャマスター・アマッカスの苦労はまだまだ続く!
そして次回、ヒロイン対決始まるよ!(ミスリード感)