3話構成。一日一話投稿します。
日本から遥々飛行機を用いてロンドンの地に降り立った赤坂将悟一行。
長旅の無聊に自身が神殺しに至るまでの一連の騒動に相棒の少女に語り聞かせ、休憩や睡眠を挟むうちにひとまずヒースロー空港に着いていた。
無事に飛行機から降り立ち、若干の時差ボケを感じながらも将悟は無暗にタフな肉体に任せて既に空港内を歩いている。
その傍らにいつもいる少女の姿は無い。
どうにも一連の騒動に関する話を語り聞かせてから少女の様子がおかしいのだ。
具体的には普段よりどこか心ここに在らずな風情だった。
そんな少女を適当に確保した長椅子に置いて将悟はブラブラと人でごった返す空港をほっつき回る。
恵那のことが気にならないわけではないが、声をかけても気のない返事を返すばかり。どうも彼女自身自分の気持ちを探っている様子なので邪魔することもないだろう、と。それに前々から決まっていたこともあって今回の渡英では空港まで賢人議会が迎えを寄越す手はずとなっていたのだ。
尤も将悟にわざわざ迎えの人間を探すつもりなど全くない。
仮にも己は魔王の雷名を持つ者なのだ。自身の人相を把握していない人間がわざわざ迎えになど来るはずもない、目立つところをほっつき歩いていれば向こうから見つかるだろう…と非効率的かつ適当過ぎる考えのもと種々雑多な人種の入り混じる空港を悠々と見物に回る。ヒースロー空港は国際線の利用者数が世界屈指の大空港。自然行き交う人込みの人種、国籍、年齢は千差万別で在り、人数は膨大だった。
―――と、ここで異国の空港をほっつき回っていた将悟の足が止まる。
目に留まった先には無数の人混み。
見ると有名人でもやってきたのかどうも件の人物を取り巻くように人垣ができているようだ。群衆のざわめきに耳を傾けると「…すごい美人ね」「もしかして貴族の御令嬢じゃないか」などと対象の容姿、雰囲気を感嘆交じりに賛美する呟きで満ちている。
貴族の御令嬢、の辺りで思わずピンと来た将悟。
人混みから首を伸ばして視界に“貴族の御令嬢”を入れると……ビンゴだった。意外な、というより本来いるはずのない、だが割とあっさりやっちゃいそうな人物の姿を発見する。どうも己がやろうとしたことをそのままやられたようだった。
要するに己が見つけるのではなく、向こうの方から見つけてもらおう…と。
その思惑は見事に成就したのだが、もちろんあの人混みをかき分けて渦中の人物に突撃など御免こうむる。無暗に人目に付きすぎるし、場違い感が半端ではない。
条件反射的に人混みから離れ、比較的閑散とした区画まで行くと懐から携帯電話を取り出し、目当ての番号をコール。件の御令嬢と連絡を取る際に多用しているツールなので、例え“霊体”と言えど所持している可能性は高いと踏んだ。
しばしのコール音の後、ピッという音とともに予想通り通話が繋がる。
『こんにちは、魔王陛下。ロンドンの空は如何でしょう?』
「悪くないんじゃないか。尤も今の心情は青天の霹靂って感じだが」
『あら、まあ。悪名高き大魔王様がそのようなことを仰るなんて…凶事の前触れかしら』
通話口から聞こえる涼やかで淑やかな美声…言うまでもなくプリンセス・アリスのものだった。思わず向けた視線の先にいる“貴族の御令嬢”も当然右手に携帯を握り、通話している。
「知らねーよ。少なくとも“今回”俺は何もしてないぞ」
と、そんな含みのある将悟の発言に。
『……流石の鋭さでいらっしゃること! もしや既にご存じだったので?』
一拍の沈黙を挟んだアリスが呆れたように鋭い語気で問いを投げかけてくる。
直接的ではないもののなんらかの“厄介事”が持ち上がったと推測できる発言だった。
「適当なカマ掛けだよ。幾らフットワークが軽くても姫さんがわざわざ空港までお出迎え、なんてお堅いミス・エリクソンが許すわけねーだろ」
政治を理解する適性は無いが人を見る目はある将悟らしい言い草に、早合点したアリスの声音がちょっと恥ずかし気な響きを帯びる。そう、賢人議会のトップに近い立場であるアリスが幾ら神殺しとはいえわざわざ空港まで迎えに足を延ばす、というのはちょっとした異常事態だ。
となればそんな行動をアリスに取らせるだけの“何か”が起こったと考えるのが普通である。
『それもそうですね。貴方が意外と頭の回る方なのを忘れていました』
「意外と、は余計だ」
『普段が普段ですので。御自身の直感を信じられるのは良いのですが、端から見ているととても考えて行動しているようには到底思えませんから』
淡々とした毒舌で、己の行状について突っ込まれては将悟としても返す言葉は無い。
巻き込まれ、あるいは引き起こした騒動の渦中をその場その場を根拠のない直感で切り抜けていく将悟の動きは控えめに言って理解不能の域にある。アリスの言い分は不本意であっても尤もであると言えた。
「―――で、詳細を聞く前に一応確認したいことがあるんだが」
『こちらも予想はつきますが一応聞いておきます。なんでしょう?』
「アレクは? 英国で起こった騒動は主にあいつと賢人議会の管轄だろう?」
『管轄、というほどキチッとしたものではないのですが…。質問の答えを返しますと、一週間ほど前にいつもの冒険行で失踪しました』
「いつもの、かぁ…」
『ええ。いつもの、です』
危険と冒険、知的好奇心を満たす難問を何より愛する同族の予想通り過ぎる行動に思わずため息を吐く。遺憾ながら気忙しく天才肌の黒王子が“ちょっとした思い付き”あるいは“突然手に入った財宝への手掛かり”をきっかけに行先を誰にも告げずに失踪する事例、実は割と頻繁に起こっているのだ。
結果だけ視れば見事に面倒事を押し付けられた形になる将悟は英国に降り立った早々に暗雲が立ち込めてきたことを感じ取る。
ヴォバン侯爵との二度目の決闘から一か月以上平穏な時間を過ごしていたというのに、ちょっと自分から行動を起こしただけで“コレ”だ。己の意思など否応なく騒動と闘争と縁が切れない己の宿命にさすがにちょっとうんざりする。
「……OK。他に押し付けられる相手がいないんじゃしょうがない。俺がやるよ、その程度のボランティア精神は残ってる」
『それを聞いて安心しました。詳細は車中にてお話しますが、まず端的に事態を説明します』
声音だけでなく視線の先でもどこか居住まいを正した様子のアリスが“厄介ごと”の正体を告げる。
『サマセット州キャドバリー
―――うわ、面倒臭そう。
不謹慎ではあっても端的な心情が漏れそうになるのをなんとか堪えた将悟だった。
イングランド南西部サマセット州。
今回件の騒動が持ち上がった中心地である。
観光業が盛んな地域であり、地元の名産品はリンゴを原料としたシードル酒であるという。アリスの手配した車に揺られながら望む景色ものどかな田園地帯といった風情で、畑谷の内、牧草地にそこを歩く家畜の群れとひどく牧歌的な雰囲気だ。尤も顕現した存在の権能の影響か、分厚い暗雲が立ち込め、酷く重苦しく湿った空気になっているが。
そしてこの地域でアーサー王伝説と絡めて語るならばキャドバリー城の存在は外せない。尤も
古くはケルト人が砦とした丘だったが、今はその面影はない。見るものが見れば丘周辺に残る盛り土や堀の痕跡に気付くだろうが、一見してはただの丘である。
このキャドバリー城こそアーサー王の居城、キャメロットであると主張した学者もいた…尤もキャメロットの候補地自体他に幾らでもあるのだが。そもそもその真偽…というかアーサー王からして実在したかもあやふやな人物なので眉に唾を付けて話を聞くのが正しいのだろうが、少なくともこの付近にはアーサー王と関連した伝承が幾つも残っているのは確かだ。
その一つがキャドバリー城近くのキング・アーサー・レインと呼ばれる古道であり、風の強い冬の夜はそこをアーサー王が猟犬を連れて疾駆すると言う伝説が19世紀には信じられていた。
―――否、キャドバリー城付近だけではない。イングランド各地にアーサー王を頭領とした猟犬や猟師、悪霊を率いる集団の伝承は存在する。ただしそれらの伝承におけるアーサー王は“ログレスの騎士王”というより“夜空を駆けまわる亡霊集団の頭領”としての性格が極めて強い。
というよりはっきり言えば頭領に相応しい人物としてアーサー王を引っ張ってきただけで在り、アーサー王の名はいわば飾り物で添え物。
故にその本質は“夜間の空中を疾駆する伝説上の狩猟団”―――時に
「……つまり神獣以上まつろわぬ神未満の雑魚ってわけだな」
とは、封鎖されたキャドバリー城の上空を一人の騎馬に跨った騎士を先頭に立てて縦横無尽に駆けまわる無数の亡霊群を見た将悟の感想である。ちなみにヒースロー空港からキャドバリー城は車でおおよそ3~4時間の距離と意外と近い。
「欧州各地で無数の目撃例、無数の名前を持つ“仮称”ワイルドハント。それが“アレ”の正体ってわけだ。焦って損した」
「流石に雑魚と言い切られると大慌てで王の来臨を願った我らの立場がないのですが」
「姫さんが思わせぶりな名前を上げるからだ。封印したアーサー王がどっかの馬鹿の手で復活したかと思った」
「……まあ、赤坂様なら連想して当然の御名ではありますね。ただ、正直我々としてもいまいち真性のまつろわぬ神なのか、アーサー王を名乗るだけの存在なのか判別できなかったもので」
迂闊に言い切ることが出来なかったのだとアリスは言う。
「別に構わんがね。ボランティアが楽になる分には大歓迎だ。見たところそこまで被害も出てないようだしな」
「まつろわぬ神ほど派手には活動していないのは確かですが、伝承通り彼らの姿を目撃した一般住民は残らず床に臥せったり突然の不幸に見舞われたりと地味に被害も出ていますからね?」
「ご愁傷さま。でもまあ、物理的にサマセット州が壊滅したとかじゃないんだ。マシな方だろ」
アリスは順調に社会的常識が死につつある将悟の発言に眉を潜めつつも、魔王の良識を鍛え直すような無為に注力するつもりは勿論ない。口を挟むのは目下必要な情報の提供に留めることとする。
「ちなみに魂をとっ捕まえられて、群れに無理やり加えられた可哀想な奴は…」
ワイルドハントを目撃したり、ユーモアを試す会話に失敗したものは時に無理やりその集団に加えられ、永遠の行軍を強いられるともいう。流石にそんな連中がいた場合もろともに消し飛ばすのは将悟の良心が咎める。多分いざとなればあっさり決断して“やって”しまうのだろうが。
「幸いいません。なので遠慮なく消し炭にしてくださって結構です」
「そりゃ重畳。無駄な手間が要らないってのはいいな」
語尾を楽しそうに跳ねさせてまで言い切るアリスに今度は将悟が呆れたような視線を向ける。魔王による大規模自然破壊も彼女にとっては夏の夜空に咲く花火を鑑賞するくらいの気持ちなのだ。相変わらず破天荒と言う人柄を絵に描いたような姫君だった。
「さて、と…」
じゃあ始末してくる、と気負いのない発言を残し、あっさりと『転移』。ワイルドハントの影響か、分厚い黒雲を孕んだ夜空の下に躍り出ると『創造』の言霊が口から零れ落ちていく。
「我は智慧の守護者なり。その言葉に力を与えるもの。幾万年を舟の中にある魔術師にして道の開拓者―――」
生み出すは二等辺三角形の形状をした銀に輝く板上の物体。トートと習合するテーベ三柱神の一、コンスの持ち物。その劣化コピーだ。
「―――顕れ出でよ、『月の舟』」
そのまま生み出した銀のサーフボートじみた代物に足を載せるとまるで視えない手で支えられているかのように滑らかな軌道を描き、空中を翔けていく。大気と言う波に乗るサーファーじみた滑空姿だった。
時折まつろわぬ神あたりに挑まれる空中戦用に生み出す『月の舟』である。尤も冥府と現世を易々と飛び越え、神速にすら至るだろう本家本元と異なり、精々が高速の空中戦に耐えうる程度の性能しか持たない代物に過ぎない。
だが眼前の狩猟団を相手にするには十分過ぎる。足元の『月の舟』に命じ、大気を切り裂きながら闇夜の亡霊集団と対峙する位置へと移動する。
「我は
そして唱えるは《太陽》を『創造』するための言霊―――ただし、その規模は滅多にない程に大きなものだ。惜しみなく注がれる呪力に比例して加速度的に熱量を蓄えていく紅蓮の太陽。その威力は草薙護堂の最大火力、『白馬』にも匹敵する。
威力に比して過剰なまでの呪力を消費するため、費用対効果と言う意味では決して優秀と言い難い。万全の状態で二発が限界。三度目を試みれば途中で力尽きるだろう。
少なくともまつろわぬ神や同族連中相手に無策で使う気には一切なれない。
だがこの場の標的はまつろわぬ神に満たない程度の格しか持たない亡霊集団。策など必要なく、力押しで問題なく殲滅できるだろう。
「消し飛べ」
さながら弓弦から放たれた矢のように―――解放された紅蓮の奔流が夜空を切り裂いていく! 淡々とした殺害宣言とともに放たれた激烈なる一矢は極大の流れ星の如き鮮やかさ。
溢れ出る呪力に反応して将悟に向けて突撃態勢を整えようとしていた亡霊集団だが、それが完全に裏目に出た。
群勢の密度を高め、自身を
文字通り灰すら残さず、群勢の八割以上が消し飛ばされる。ついでのようにサマセットの大地に赤黒い傷跡のような破壊痕を残して。
こうした群体型の神獣・神使の類は統率する核となる個体を持つのがセオリーである。今回の場合はアーサー王を名乗る騎士がそれにあたり、加えて群集団の大半が跡形も残らずに消滅した。僅かに生き残った者たちもあとは自然消滅するだけの残りかすに過ぎない。何をどうしても致命傷であり、致命的だ。
それを確信した将悟は一仕事を終えたとばかりに背を向け、
―――夜風が、ざわめいた。
「…………」
背筋を奔る嫌な予感に顔を顰め、振り向く。視線の先には今まさに呪力に還ろうとしている亡霊たち―――否、その中心でうっすらと光を放つ発光体の存在を夜目に優れた将悟は捉えた。さながら縋りつくように亡霊たちは発光体を中心に群れ集っている。
大分距離があり、加えて発光体はかなり小さい。恐らく赤子の拳ほどもないだろう。だがなんとなくつややかな光沢のある乳白色の石……の、ようなものに見えた。
その発光体から突如として
神獣程度の位階では到底なし得ぬ奇跡。如何なるからくりを以てかほんの十数秒、ごく短時間で壊滅したはずの野蛮なる狩猟団は復活した。
「うーわー…」
面倒くさいことになるかもしれない。
アリスから第一声を聞いたその時に感じたその予感はばっちり当たっていたらしい。
嫌なことばかりよく当たる己の勘に、さしもの将悟もうんざりした溜息を洩らした。
おまけ
ロンドン、ヒースロー空港。
多くの人が行き交う空の玄関口であるそこに、一人の日本人少女がぼんやりとロビーの長椅子に座り込んでいる。
手荷物の類は無い軽装、しかも洋の東西を問わず人目を引く美しさの持ち主であることもあって少女は人目を集めていた。
艶のある黒髪をロングで後ろに流し、視線の焦点が合わない茫洋としたさまはどこか日本人形のようにも見える。
もちろん彼女は清秋院恵那。『智慧の王』赤坂将悟の《剣》たる少女だった。
傍に彼女の王様の姿が見えないが、これは長旅に疲れた様子の彼女に配慮し、賢人議会からよこされているはずの迎えを一人で探しに行ったせいだった。尤も彼女がぼんやりと心ここに在らずな風情なのは長旅による疲労は全く無関係だったのだが。
清秋院恵那はゆっくりと頭の中で思い定まらない胸の内を探っていた。
先ほどからどうにも心が落ち着かない。心が落ち着かず、じっとしていられない精神状態なのだ。
何故こんなにも己は心を騒がしているのか、じっくりと胸中の思いを見定めている。
何時からこんな状態なのか、と問われれば長旅の道すがら彼女の王様が語った神殺しの物語を聞き終えた辺りからだと答えるだろう。
運命の悪戯から一振りの神具を巡る神々の争いに巻き込まれた少年の反骨と逆襲の軌跡、そして少年を援けた白き女神の結末。
一瞬の閃光のように鮮やかな物語だった。
最初の語り出しはどこかわくわくと心を沸き立たせ、鍛冶神の陥穽に嵌まった下りはハラハラとすぐに物語に引き込まれた彼女。その後も話が進むうちに一喜一憂を露わにする恵那に興が乗った将悟もついつい感情を込めて語り続けた。
郷愁や嘆き、寂しさと尊敬、愛おしさ―――そんな感情が混沌となって“彼女”について語る将悟に宿っていたのだ。
きっとその時だろう。どこか腑に落ちない、息苦しさのような感覚が恵那の胸の内に生まれたのは。そのもやもやとした曖昧模糊とした情動になんだろなーと己を顧みる恵那。結論は未だ出ていない。ただなんとなくその原因に察しはついていた。
このもやもやが生まれたのは“彼女”―――滝壺の女神こと白娘子が話に現れてからのことだ。その時、彼女の王様はとても一言では表現できない複雑な表情をしていた。一目見るだけで将悟にとって白娘子の存在が無二のものだったと思わせる程に。
そこにあったのは恋になる前に燃え落ちた熱情の残滓。
きっと“彼女”は王様にとって初恋だったのだ―――だが、それを自覚する前に“彼女”は逝ってしまった。あまりにも鮮烈すぎる生き様を魅せ、誰よりも深く己の存在を赤坂将悟の心に刻みつけて。
そして時間が過ぎる内に将悟が抱いた感情は昇華され、“彼女”の存在は一言で言い表せない複雑なものになってしまった。
触れ合った時間は僅か、だけどそれを補って余りあるほどに二人が駆け抜けた神殺しの軌跡は鮮烈だった。まるで一瞬で夜空に咲いて消え失せる花火のように。将悟の語る物語を聞いていた恵那が心乱す程に。
―――“彼女”が羨ましいと、認めざるを得ない程に。
「…あ、そっか」
そういうことなのか、と恵那は得心する。
何のことは無かった。自分は嫉妬していたのだ。女神のことを妬み、羨望しているのだと自覚する。
自覚し、もやもやが晴れた後に胸の内に訪れた感情は一言で表現できない。
まるで自分が年頃の少女のように、という新鮮な驚き。一層湧き上がってきた“彼女”への対抗心。そして
意外なことに湧き上がってきた感情の中に暗く、ネガティヴなものは無かった。ただ“負けない”という思いは逆に意外なほど熱く、激しかった。この瞬間、恵那の中で女神の立ち位置が“恋敵”あるいは“好敵手”とでも言うべき対象へと変化する。
ただ己の生き様で赤坂将悟を魅了する―――それはきっと今までに女神ただ一人がなし得た偉業だ。
己もまた斯く在りたい。ただ将悟のために命を捧げるのではなく、己の意思で以て貫いた誇りの形として。己が生き様をもって赤坂将悟の
「うん…」
心の中の迷いは晴れた。また一つ、恵那の中で目的が生まれ、目標と言うべき対象も出来た。まだまだ心のうちに整理できない感情もあるけれど、“彼女”の話を聞くことが出来てよかったと思う。
「よし、行こう」
ぼんやりとした視線を宙に向けていた少女は何処へ行ったやら。
目にやる気を漲らせた恵那が心機一転、力強い仕草で立ち上がった。
「あ、王様!」
同時に視界に軽やかな足取りで歩いてくる彼女の王様を捕え、ブンブンと手を振る。
人目に付く仕草に周囲の耳目が集まるが、恵那は一切気にせず自分から風のように軽やかに将悟へ駆け寄るとその腕を取り、抱き着いた。
「おいおい、どうした。いきなり」
「んー? なんでもないよ。もっと王様の近くにいたいって思っただけ」
長旅での疲れを見せていたはずの恵那がいきなりアグレッシブに迫ってくるのにやや困惑した声を出す将悟。
対して恵那は何処までもいつも通りの、それでいて決意を窺わせる声で応じた。
「王様!」
「ああ、どうした?」
「うふふ。なんでもないよー。これからもよろしくね…って言いたかっただけ」
なんだそりゃ、と頭を掻く王様にも構わず恵那はどこまでも明るく笑う。
(例え末期の時を迎えても―――幾久しく貴方の心に)
そうあれかし、と決意を込めて少女は誰にも知られずに決意を表明した。