気紛れ更新、と銘打っていますが流石にこれは…と思ったり。
…まあ、次回もまた未定なのですが。
とりあえずどうぞ。
ふんふんふふふん、なんてちょっと浮かれ気味に探索を続ける。
床板が鳴らす、ぎしぎしぎしりきしきしりという音を伴奏にしながら歩みを進める。
時折、相棒からの合いの手なのか抗議の声なのか分からない鳴き声をスルーしながら、長く複雑な廊下を突き進む。
障子、障子、襖、障子、襖、襖…、たまに引き戸。
そんな奇妙だけど、どこか小気味良いリズムに乗りながら、ただただ進む。
廊下には、たまに壊れかけている戸棚や、中に何も入っていない花瓶、壺なんかがあるくらいで基本的には殺風景だ。
場所によっては床板が崩れていて、床下から植物が伸びているために色鮮やかな所もあったけれど、おおむねそんな感じだった。
鼻唄がループしはじめるくらいには長い時間を歩き、一つの異色を放つ襖にたどり着いた。
その襖は四枚続きになっていて、一番右から風に舞う桜、空に向かって元気に伸びている向日葵、雨に濡れた紅葉、雪化粧をされた松、とそんな風に四季を表している襖だ。
春の桜は、その薄紅色の花弁を雪の様に舞わしていて、桜吹雪という言葉そのままの姿を描いてる。
場所は河原のようで、舞っていた花弁が水面をさらさらと流れていく。
浮き沈みしながら流れていく花弁は、遊んでいるようにも見える。
夏の向日葵は、青く透き通った空に柔らかそうな真白い雲、それと地上を埋め尽くす一面の黄色い向日葵が伸び伸びと描かれてる。
その姿は見るからに生命力に溢れていて、お天道様の恵みを受けながら、一生懸命に生きてるのが分かる。
秋の紅葉は、真っ赤に染め上がったその葉が、水に濡れることでより鮮やかに映えている。
一緒に描かれているのは、寂れた鐘つき堂だ。その中に吊るされている梵鐘には、長い年月を経た証のように所々が青緑に染まっている。
冬の松は、白い世界の中で唯一、色鮮やかに緑色を発している。一年を通して枯れず、緑色のままなことから縁起物として扱われるのも頷ける。
傍らには一つの石が置いてある。丸みを帯びていて、松と一緒に多くの季節を見てきたのだろう。その頭に帽子の様に雪をのせていて、どこか愛嬌を感じる。
かつてはきっと、四季折々の表情を鮮やかに表現されていたんだろうそんな襖も、今ではすっかり風化して色褪せてしまっている。
それでもなお、綺麗だなと素直に思えるのだから名作だったのではないかと思う。いや、今でも名作なのかな?
そんな年月を感じさせる襖を、丁寧に開ける。
そこはーーー。
何故か屋外だった。
ここの主人は本当に変わり者だったようだ。
いや、ひねくれ者かな?
まあどちらにせよ、変わり種だったのら間違いないと思う。
というか、屋外に続く扉が襖というのはどうなのだろう、と思って後ろの襖を見ると、そこには板が見える。
どうやら襖の裏側は板戸になっていたようだ。
…これって襖って言うのかな?
ふとした疑問を頭の奥隅に追いやって、改めて中庭を見る。
ーーーコーン。
中央よりやや外れた場所には、かつてそう音を鳴らしていたであろう鹿威しがあり、その周囲には竜の髭と呼ばれる草が生えている。ところどころに、その青い実が良いアクセントとなっている。
そして、鹿威しに被さるようにして一本の南天が生えている。
冬場に来れば、その枝に小降りの赤い実を付けているのだろう。
その赤は、きっと白い雪にさぞ映えるだろうな。
それに南天は縁起物だったはず。南天を『難転』。難を転じると読んで、災い転じて福と成す…、確かそんな感じだったはず。
正直に言ってこじつけなような気もするけれど、縁起物なんて大抵はそんな感じだし、信じるものは救われるとも言うのだから別にいいのだろう。
…もっとも、信者と書いて儲けると読むのだから、日本語は恐い。盲目的に宗教なんかを信仰すると『信じるものは巣くわれる』なんて皮肉が出来るのも、日本語の面白い所でもあり、闇が深いところでもある。
閑話休題、思考をつらつらとさ迷わせたら、脱線して獣道に突っ込んでしまった。
実は目の前にある鹿威し、竹の部分は腐食して壊れているようなのだけれど、水は未だに出ていたりする。
その水はチョロチョロと音を立てながら、石の器を伝い落ち、その下を通っている小さな苔むした石の水路に流れ込んでいる。
そしてその水路、不思議なことにそのまま向かいの部屋の床下を通っているようだ。
…え?床板とか湿気が籠って腐らないのかな?
ちょっと…いや、かなり足を踏み出すのに躊躇してしまう。とはいえ、ここから見る限り他の床と色は変わらないので大丈夫なのだろう、と心に言い聞かせる。
…行かないわけにはいかないしね。
それでも…はぁ、と一つ溜め息を吐くくらいは許してほしい。
何故か筆が横滑りして後編ではなく中編になりました。なぜだ。
次回こそ和室!…になればいいなぁ(遠い目