まだ俺にも両親がいて、家があった頃。
俺の一家は水の都ウォーレスで生活していた。
その頃の記憶はほとんど残っちゃいない。たしか、近所の同じくらいのガキとよく遊んでいた。親父はほとんど帰ってこず、後から知ったことだが、どうやら数人でパーティを組んで年がら年中どこかを冒険していたらしい。
母親はよく俺に勉強を教えようとした。
読み、書き、計算。
今思えば、あれは英才教育というモノだったのかも知れない。
親父のような武闘派になってほしくない。そんな小言を聞かされたこともあった。
「お母様は優しい方でしたか?」
「細かくて、強くて、厳しいひとだったな」
「いい人だったのですね。お母様のことを話すアングーストは楽しそうです」
「そうか?」
話を元に戻そう。
俺の家は簡単に吹き飛んだ。
ある日、黒ずくめのいかにもガラの悪そうな連中がやって来た。
そこでようやく、どこか遠くで親父が破産したと知らされた。
パーティの仲間が何人か死んで、ソイツらの蘇生代で信じられない額の借金を背負いこんじまったとか何とか……黒服の男たちは紙切れを片手に事細かに語ってくれやがった。
「まったく、馬鹿な親父だよ」
「アングースト。お父様の悪口は感心しません。それに……」
「それに?」
「すいません。口が過ぎました。続けてください」
「あ、ああ……」
正直、俺の知ったこっちゃなかった。
俺は白い砂を詰めた瓶や、お気に入りのハガキを近所の友達に貸したままだったし、これから勉強するはずの問題も山積みだった。来週、こっそり街の外に探検に行く予定だってあったのだ。
それらがすべて、消し飛んだ。
母親は押しかけてきた男たちと怒鳴り合っていたが、あとから現れた奴隷のオークに引きずられてどこかへ連れていかれてしまった。俺はすぐに煤だらけの煙突の中に身を隠した。家の中ではしばらく男たちがドタバタ騒がしく物音を立てていた。
その間中、俺はじっと息を殺していた。
そこで待っていれば、いつか母親が帰ってくるんじゃないかと期待していた。
しかし、何も起こらなかった。
辺りが暗くなり、男たちが引き上げて物音が聞こえなくなっても母親は帰ってこなかった。
汚い煙突の中に身を潜めていた俺は、空腹に負けて部屋に降りた。
「そしたら、どうなったと思う?」
「借金取りが下で待ち構えていた、という展開ですか?」
「いいや。もう連中はいなかったよ。人どころか、物すら無くなっていたな……」
「どういうことですか?」
「家ン中が空っぽになっていやがったんだよ」
買い置きのパンどころか、テーブル自体がなくなっていた。
椅子も、ベッドも、化粧台も。調理場の壁に吊るしてあった鍋や、小さな壺に小分けに保管していた調味料も、蝋燭を置くための燭台も、ベッドの脇に置いていた水差しや、勉強のための蝋板も、何から何まできれさっぱり撤去されていた。
何もない暗闇のなかで、俺はようやく実感できた。
――これまでの日常はもうどこにもないんだ、と。
開けっ放しにされた窓から見える隣家の灯りが妙に眩しく見えた。
「それから、どうしたのですか?」
「しばらくはスリで何とか食いつなげたな」
「窃盗……ですか……。今は反省していますか?」
「他にやりようがなかったんだ。反省のしようもねぇだろ」
非力なガキに回される仕事がないこともなかった。
金屑集めや露店商人の真似事なんかをやるようなガキもいた。だが、そういうヤツは春に働き始めて、冬が過ぎると見なくなった。飢えと寒さを凌げるほど稼げる仕事じゃなかったということだ。
俺の周りでも、俺と似たような境遇のガキがバンバン死んでいった。
ひとつの街でスリを続けていくことには限界があった。
港のあるウォーレスは人の入れ替るものの、カモの数は限りがあった。与えられた少ないパイを取り合っていては、すぐに限界が来る。俺は早々に見切りをつけて故郷のウォーレスから出ていった。
「それから、メルラルズに?」
「ああ。まあ……実際一番つらかったのは、メルラルズに着くまでの道中だったな」
「路上強盗団ですか?」
「そんなようなところだ」
ウォーレスからノリスを経由してここメルラルズに辿りつくまでの道のりは、ありていに言って地獄だった。過ごしやすい春に旅立ったから、そう苦も無く進めるだろうと楽観視していたのが間違いだった。
ある程度の治安が保たれていた都市と外の街道は別世界だった。
まず、食い物がない。
比較的都市に近い場所であれば、街道沿いにもぽつぽつ民家が建っていて、運が良ければ軒下に野菜や果物が吊るされていることもあり、それらを盗んで食いつなげたが、だだっ広い平原を何日もかけて進むときはよく空腹で視界が歪んだ。
さらに厄介な問題があった。
数人で郎党を組んでやってくる路上強盗団だ。
ゴブリン、オーク、バードマン。
誰かに襲われる可能性など、それまでほとんど考えたこともなかった。
だって、俺は何も持っていなかったのだ。
相手の懐に潜り込むまでに身なりで警戒されないように洋服や髪はそこそこ清潔にしていたが、それ以外は浮浪者と何ら変わらなかった。もしも襲撃者たちが俺を殺せていたら、きっと無駄骨だったと後悔したに違いない。
ウォーレスを出るときに有り金はたいて買った背負い袋の中は空っぽだった。
「で、何度も死にかけながら、俺はあることに気付いた」
「あること? 何でしょうか?」
「虫はどこにでもいるってことさ。俺が飢え死ぬ一歩手前の状態でも、虫たちは草を食って元気に生きている。驚いたことに、自分より小さくて非力だと思っていた生き物が、自分より逞しく生きていやがった。不思議な気分だったよ」
「私も、よく同じことを感じます」
「……やっぱり、アンタにとって俺は…………」
「アングースト?」
「何でもない。忘れてくれ」
とにかく、俺は虫に目を付けた。
虫を摘まんで飢えを凌ぎ、草を食んで渇きを潤した。途中で何度か激しい下痢に襲われたが、それでもなんとか死なずにやっていけた。そんな旅を続けているうちに、俺は虫と草を非常食として持ち歩くようになった。
このとき、ようやく俺のスタイルの原型みたいなものができてきた。
マントの内側に草と虫を抱え込み、道端でそれらをちょこちょこ補給していく。強盗団を見かけたら一目散に逃げたが、しばらくしてから、俺が虫たちの習性――例えば、斑蟷螂(マーブル・マンティス)は危険を察して身を固くするし、小粒小金(こつぶこがね)は自由になると安全なほうへ飛んでいく――に気付いてからは、そもそも強盗団と遭遇する機会がグンと減った。
メルラルズに辿りついたときには、俺も立派な虫使いになっていた。
「そこから先は、ほとんど話すこともねぇよ」
「えっ?」
「メルラルズの地下遺跡にこっそり忍び込んで、右も左も分からずにダンジョン内をウロウロするだけの日々と、地上に出て発掘品を売りさばく生活を繰り返して数年経ったある日、ダンジョンの綻びみてぇなものを見つけてな」
「メルラルズの綻び、ですか……」
「ああ、虫たちのほうが先に気付いたが……アイツらも反応に困っていたよ」
定期的に部屋の配置や通路が入れ替わる不思議なダンジョン。
メルラルズの最深部に隠された財宝を守るための防御装置だとか、奈落の底に封印された邪悪な魔物の魔力を拡散するための機能だとか、いろいろな説が飛び交っているが、とにかくメルラルズの地下遺跡はよく構造が書き換えられる。昨日まで通路だった場所が一夜にして大きな泉に姿を変えたり、冒険の拠点としてテントを張れるような大部屋がまるごと土の中に埋まるようなことさえある。
そのため、「メルラルズの地下に定住する者は存在しない」というのが定説である。
――しかし、メルラルズにも綻びがあったのだ。
地下二階と三階を区切る分厚い岩盤に刻まれたわずかな綻びから中に入り、進んでいった先には、メルラルズのシャッフル機能に影響されない、不動の空間が広がっていた。
「それが、土蜘蛛の国だ」
「聞きたいことがいくつもあります」
「ほぅ」
「まず、彼らはあなたをすんなり受け入れてくれましたか?」
「それが……よく覚えてねえんだよ」
土蜘蛛の国に来たときは、手持ちの草と虫と、ついでに俺自身も限界まで消耗しきっていた。
ほとんど行き倒れるように土蜘蛛の国に足を踏み入れて、それからちょっと記憶が抜け落ちちまっててな……気付いた時にはもう普通にこの国で暮らしていてな……自分でも少しおかしいとは思ったが、それで現実が変わるわけでもない。
何より、土蜘蛛の国の生活は辛酸を舐めてきた俺にとっちゃ天国みたいなもんだった。
だから、多少の違和感はあっても、俺はしばらく土蜘蛛たちと一緒に暮らしていた。
狭いながらも自分の家があり、町外れの井戸から水をくみ上げて、それを民家に配ったり、植物に撒いて、それから虫を使って土の状態を整えて……そんな仕事を毎日繰り返すだけの日々だった。近所の土蜘蛛たちと衝突することもあったし、仕事に関してもたくさん文句をつけられたし、意味不明な理由で怒られたりもしたが、生き死にの狭間を渡り歩く生活に比べれば、そんなもん屁でもなかったさ。
「人里離れた秘境で、ようやく俺も人間らしい暮らしが出来たってわけだ」
「ならば何故、ここを出ていったのでしょうか?」
「ハッ! 土蜘蛛たちからも散々似たようなことを聞かれたよ。『どうしてお前はここを出ていくのか?』ってな。俺もこの国は嫌いじゃなかった。でもな。虫たちが俺から離れていくようになっちまったんだ……」
「虫、ですか」
「そうさ。たぶん、ここの草が口に合わなかったんだろう」
何年も暮らしているうちに、俺の手元からどんどん虫が去っていった。
苦労して配下に入れた虫がいなくなるのは淋しいもんさ。やつらは置手紙なんて残さない。いつの間にか俺のことを見限って消えちまう。マントの内側にできた空きスペースは冷たくてな。俺はその感触に耐えきれなかった。
だから俺は、土蜘蛛の国から出ていったのさ。
「………………」
「どうした? 何か思い当ることでもあったか?」
「……はい」
エスメラルダは目線を宙に彷徨わせてから、ピンと人差し指を立てた。
俺にはそれが何を意味するのか分からなかったが、どうやらエスメラルダが集中していることだけは伝わってきた。不死鳥はしばらく自分の指先を見つめていたが、諦めたように小さく溜息を吐いてから俺に目を向けた。
「やはりダメでしたか」
「おい。一体何をやろうとしていたんだ?」
「魔法を使おうとしました。初級の魔術師でも扱える『ライト』の魔法を唱えました」
しかし、不死鳥の指先は少しも光らなかった。
「つまり、魔法が使えなかったってことか?」
不死鳥は魔法に長けた生き物である。
すべての属性の呪文を使えるうえに、それぞれの威力も凄まじい。髑髏の魔術師と戦ったときは俺という弱点を抱えていたために防御に専念していたが、まともに戦っていれば、髑髏の魔術師も無事では済まなかっただろう。
そのエスメラルダが、魔法を使えないなどということは――
「そうです」
エスメラルダは暗い表情で頷いた。
「ここの空気は変わっています。魔法を発動させるためには体内の気を使って周囲の魔素に働きかける必要があるのですが……この国の空気からは魔素の気配を感じられません。混じりけのない不自然なまでにクリアな空気……これは、狂霊嵐(エレメンタル・ストーム)とは真逆の現象が起きているように思えます」
「はぁ?」
狂霊嵐とは魔素の乱れによって生じる大規模な自然災害である。
元来、この世界は狂霊嵐によって滅びることになっていた。それを『とある召喚術師の手記』の著者であるブリオッシュとモンブランが食い止めて世界を救う未来も存在していた。しかし、ブリオッシュより先に世界を救ってやろうと企てた俺は、モンブランたちとは別の方法で狂霊嵐を未然に防ぐすべを探していた。
その狂霊嵐と真逆の現象といわれても、イメージが湧かない。
「ひょっとして、その魔素の話は、俺の元から虫たちが消えたことと結びつくのか?」
「その可能性は高いと思います」
「まさか、さっきお前が茶に口をつけなかったのも……」
エスメラルダの手に口を塞がれた。
なるほど。ここでも壁に耳あり障子に目ありってことか。
俺は目で了解したと伝えてから、エスメラルダの手をどけた。
「話せる範囲で説明してくれ」
「分かりました。メルラルズ全体の空気はかなり混沌としていて、魔素も豊富に漂っています。おそらく地下遺跡に施された儀式魔術の影響でしょう。ここの地面や植物からは魔素を強く感じられます。しかし、この国の空気だけは違っています」
「何が原因なんだ?」
エスメラルダは額に手を当てて首を振った。
「分かりません。ただ……」
不死鳥が顔を上げてこちらを見つめてきた。
相変わらずきれいに澄んだ双眸が珍しく心配そうに揺れていた。どうしてここでそんな目を見せるのか……俺はワケも分からずただ本能的に心臓だけが勝手に高鳴った。ロマンスの気配を察したわけではない。
むしろ、その反対だ。
「アイツらか?」
「はい。彼ら(土蜘蛛たち)から強大な魔力を感じました」