ジャッカルの頭に、人間の身体。浅黒い肌。
そしてその鍛え上げられた表皮には刺青で呪印がびっしりと刻み込まれていた。
アヌビスの魔拳士であるヘルマニビスは石で造られた宮殿の内部を駆け回っていた。常人であればすぐに息が切れるであろう速度で走っていても、アヌビスの魔拳士は涼しい顔で動き続けた。
普段は彼女もこのように宮殿内を駆け回るようなことはないが、今日は特別だった。
ネフティス様からお呼び立てがあったのだ。
言いつけられた時刻よりまだずいぶん時間があるものの、ヘルマニビスは居ても立ってもいられずこうして駆け足で謁見の間を目指して動いていた。自分でも早すぎるとは思うが、遅れるよりは絶対に良い。
謁見の間の前までたどり着いたとき、ヘルマニビスは事の重大さを思い知った。
指定された時刻よりまだずいぶん時間があるというのに、自分より遥かに位の高い神官たちが既に皆到着しており、石の扉の前に集結していた。ヘルマニビスは神官たちに跪き、頭を垂れた。
「只今到着いたしました!」
若々しい声が石の壁に反響した。
神官たちは新参者の声を聞いて鬱陶しそうに鼻を鳴らした。
「遅いぞ」
それだけ言うと、神官たちは再び議論に戻った。
「ネフティス様は何故このような愚か者を選ばれたのか……」
「シッ。あまり大きな声で申されるな。今回の件に関してはネフティス様のみならず、我らが長の思惑も絡んでいるらしい。濫りに疑問を抱けば、それだけで身を破滅させられることになりますぞ」
そう言って、年老いた監察官が皆を牽制するように睨んだ。
宮殿にいながらあらゆる陰謀を躱してきた監察官らしい慎重な態度である。ヘルマニビスは平伏したまま感心して聞き耳を立てた。ピリピリした緊張感の漂う監察官の話の流れを変えるべく、管理官が口を開いた。
「それに此の者は身分こそ低いものの、武術と呪術に長けているそうではないか」
「若さゆえの強靭さと今後の将来性まで含めて考えれば、あながち悪い選択でもあるまい」
「その若さが裏目に出なければ良いが……」
ヘルマニビスは何となく自分の話をされているような気がした。
しかし、平民階級の出で、武術の才能を見込まれて宮仕えの端くれとして昇格させられたきり何年間も忘れ去られていたこの自分に、大事が回されるはずがない。おそらく、自分の同僚の誰かについて話しているのだろう。
ヘルマニビスは勝手にそう結論付けた。
「ここで愚痴を溢しても、ネフティス様とオシリス様の決定は変わらんさ」
「どうなることやら……」
「偉大なるネフティス様は非常に正確な予知能力をお持ちだ。我らは何があろうともこの暗黙の条件を疑ってはなりませぬ。これ以上の危惧はネフティス様に対する狐疑を抱いたと見なされかねませんぞ?」
監査官の忠告に一同は閉口した。
掟、掟、掟……
表の掟に、裏の掟。
血族の掟に、役職の掟。
よくもまあ律儀に守れるものだ。
ヘルマニビスは平伏したまま胸中で神官たちを嘲笑った。
――と、そのとき。
指定された時刻にまだ達していないにも関わらず、石の扉の向こうからけたたましい銅鑼の音が二度三度と聞こえてきた。じゃぁあああん、じゃぁあああああん、じゃぁああああああん。銅鑼の音が止むと、石の扉が物々しい音を立てながら内側に開いていった。
いつの間にやら周りの神官たちも石畳の上に跪いていた。
ヘルマニビスも地面に額を擦りつけて、玉座が現れるときを待った。
ガガォン、と石の扉が開き切ってから、ようやく王家の者が声を発した。
「一同。そのまま待機」
神官たちは微動だにせず、黙って指示に従った。
扉の向こうからは黒い光が流れてくる。
平伏したままのヘルマニビスには、謁見の間の様子すら窺えなかった。
しかし、魔拳士としての修行を終えたヘルマニビスは目で確認せずとも、肌で謁見の間にいる相手を感じていた。気配からして二人……。おそらく、ネフティス様と、ネフティス様を護衛する近衛騎士だろう。
そう見当をつけたところで、声を掛けられた。
「ヘルマニビス。面を上げよ」
「はっ!」
まさか名指しで呼ばれるとは思っていなかった。
ヘルマニビスは慌てて顔を上げて玉座に目を向け、ぴくりと肩を震わせた。
――二人どころではない。
玉座についているネフティス様は気を隠そうとしていないために感じ取れたが、その周りに気配を消して佇んでいる十五人の近衛騎士団に関しては一人の未熟者を除いて、誰も感じ取ることができなかった。
――やはり、近衛騎士は格が違う。
ヘルマニビスは悔しさ半分、誇らしさ半分でネフティス様の顔を見上げた。
黒い毛並みの頭部に、白目の部分まで金色に塗りつぶされた邪眼。肌から滲み出している黒い瘴気のせいで身体の輪郭がぼやけている。黒い瘴気のおかげで王家の象徴である黄金の首巻がよりその存在を主張していた。
「そなたに申し付ける大事がある。そこな神官たちはその証人のために招集した」
「はっ!」
「単刀直入に告げる。そなたにはこれより旅に出てもらう」
「はっ!」
「密命故に親族の者たちには宮殿より追放したと言い聞かせるが、それは妾の本心ではない。無事、使命を果たした暁にはそなたは一族の英雄として迎えられるため、後始末の懸念は不要である」
「はっ!」
歯切れよく答えながら、ヘルマニビスは内心動揺していた。
世界を見て回ってみたいとは思っていたが、まさかそれがこのような形で実現するとは思っていなかった。
しかし――密命というのが妙に気に掛かる。
ネフティス様が手を挙げると、近衛騎士が一冊の本を手渡した。
「そなたは『滅びの書』という預言書を知っているか?」
「いえっ!」
「そなたは知らぬであろう。しかし、一部の神官は知っているはずだ。監査官!」
「はっ!」
背後で監査官の声が上がった。
「『滅びの書』について教えてやれ」
「畏まりました!」
それから監察官の説明が始まった。
しかし、その説明はヘルマニビスに向けたものではなく、彼女を通り越してネフティス様に話しかけるような調子で語られた。
監察官曰く――
『滅びの書』とは世界の終焉について書かれた預言書である。
それによれば、世界はまもなく訪れる空前絶後の自然災害〈エレメンタル・ストーム〉によって魔素が混じり合い、すべてが混沌に染まり、やがて滅びるらしい。『滅びの書』の著者によれば、本来は異世界からやってきた錬金術師や魔剣姫や若き召喚術師たちの活躍のおかげで、この大災害を回避できたらしい。
しかし、『滅びの書』の著者が歴史を改ざんしたために世界が滅んだ。
「『滅びの書』とは、即ち、著者の懺悔の記録でもあるのです」
監察官はそう言って説明を締めくくった。
ヘルマニビスにとって、何もかもが初耳であった。
預言書の存在も知らなかったし、あと少しで世界が崩壊するなど聞いたこともなかったし、異世界から救世主が現れるといった未来についても同じだった。ここがネフティス様の御前でなければ鼻で笑っていただろう。
しかし、この場にいる者は残らず緊迫した表情で固まっていた。
――一体何が起きているのだ?
「ヘルマニビスよ。そなたに密命を与える」
「はっ!」
「『滅びの書』の結末を変えよ」
「はっ!」
ヘルマニビスは困惑した素振りをおくびにも出さずに即答した。