タルドゥの密林はリザードマンたちにとって聖地のような場所らしく、彼らは他種族の侵入に厳しいらしい。そもそも、タルドゥという言葉もリザードマン語であり、「聖なる」とか「古の」といった意味だったはずである。
リザードマンは想像以上に手ごわい連中である。
人間より丈夫で、尻尾一本分手数が多く、そのうえ水属性の魔法を使うヤツまでいる。幼少期から武芸の鍛錬に励むため、武術の腕も平均的に高い。そして、こうした実戦混じりの見回りを日々行っているため、戦闘経験も豊富である。
まさに、戦闘民族である。
そのリザードマンが40歩ほどの離れた地点を歩いている。
「若い雌ですね」
エスメラルダが小声で話しかけてきた。
「どうするつもりですか?」
「理想としては、話し合って虫の種類や生息地を聞き出しておきたいが、ヤツは武装している。他を当たったほうが良さそうだ」
俺の意見を聞いて、不死鳥はわずかに眉を震わせた。
どうやらお気に召さなかったようだ。
前方を巡回しているリザードマンに注意を払いつつ、俺は溜息を吐いた。
「『やり過ごす』が最善策じゃないのか?」
「あなたはより広い視野を持つべきです」
「答えになってねぇよ。ただ、まあ、言いたいことは分かった。要するに俺は何かを見落としているんだろ」
俺はローブの下で這い回っていた葉巻蟲(ハマキムシ)を指であやしながら黙考した。
――何を見落とした?
相手のリザードマンの戦力を過小評価しているつもりはない。十分手強い相手だと認識しているからこそ、やり過ごそうと思ったのだ。地の利もあちらにある。ついでに、コミュニケーションを取れるかどうかも分からない。俺はリザードマン語を習得していない。
やはり、見落としていることはないように思える。
そう結論付けようとしたところで、エスメラルダに頬を抓られた。
「いででででッ!」
間抜けな声が密林に響き渡る。
前方を巡回していたリザードマンがギロリとこちらを睨んだ。俺は涙目になりつつ、エスメラルダの胸倉を掴んだ。
「おい! どういうつもりだ! 見つかっちまったぞ!」
「あなたのためを思ってのことです。経験の乏しさがあなたの視野を狭めています」
「だぁぁあああああッ!」
俺は怒りのあまり吠えた。
お前、ちゃんと答える気ねぇだろ! ちゃんと分かるように話せッ!
しかし、今ここで怒鳴り合っている暇はない。前方に見えていたリザードマンは滑るような足取りでスルスルとこちらに近寄ってくる。素人が見ても分かる、武芸を修めた者の足取りである。
「チッ!」
俺はエスメラルダの胸倉を放して臨戦態勢を取った。
こうなっては仕方ない。
何とか相手の隙を突いて逃げるなり倒すなりするしかない。ぬめる地面に不安を抱きつつ、すぐにでも虫を取り出せるようにローブの内側に手を入れたところで、後ろから凛とした声が聞こえた。
「碧鱗の戦士よ! 名乗りを上げなさい!」
不死鳥の声に、あと十歩の距離まで間合いを詰めていたリザードマンの動きが止まった。
俺とエスメラルダを交互に見比べてから、リザードマン語で何か叫んだ。
「おい。何が起きているんだ?」
エスメラルダは俺の問いには答えず、満足げに頷いてから口を開いた。
「勝負はこの男が引き受けます。私は付き添い人に過ぎません。絶対に手を出さないと誓います。この人間の名前はアングースト。粗暴にして純真な勇者です。召喚術も魔法も使わぬ陽の者です」
それを聞いたリザードマンが、槍を立てて軽く一礼した。
何が何やら分からない。
このまま和解できるのか、と思ったが、俺の期待も虚しくリザードマンは再び槍を上段に構えて戦闘態勢に入った。さっきのやり取りは何だったんだ? 事態が呑み込めず、俺はエスメラルダに目を向けた。
「けっきょく戦うのか?」
「戦いの意味を変えました。是非勝ってください」
「……答えになってねぇよ」
俺は諦めて前に向きなおった。
「ああ、それと」
後ろから、エスメラルダが一言付け加えてきた。
「相手をなるべく傷付けないように配慮してください」
「はぁ?」
「あなたなら出来ます。お願いしますよ」
「おいおい……」
俺は溜息を吐いた。
不意打ちに備えて袖の下で待機させておいた雷光蟲を下がらせる。迂闊に打ってきてくれれば、カウンターで簡単に片づけられたのだが……単に卑怯を嫌って手を出さなかっただけかも知れないが、やはり場数を踏んだ武芸者は一筋縄ではいかないようだ。
相手は俺の得物が分からず、攻めあぐねている。
こう構えられるとこちらも困る。
虫では手数が稼げない。一撃、二撃で仕留められなければ逆にこちらが窮地に立たされる。
俺は仕方なく背負い袋からハンマーを引き抜いて片手で構えた。武器を手に取ったものの、まともに打ち合ったところで勝てる見込みは少しもない。俺は少し考えてから、背負い袋を肩から外して、振りかぶった。
「ドグァラッ!」
リザードマンの罵声が聞こえたが、俺は気にせず背負い袋を投げつけた。
相手が人間であれば避けられずに対処に困ったはずだが、リザードマンは違った。足場の悪いこの状況下で、身を伏せて滑るように前進してこちらの投げた背負い袋を躱しやがった。しかし、それも想定の内――
俺は手首のスナップを利かせてハンマーを投げた。
地面と水平に回転しながらハンマーは唸り声を上げてリザードマンに迫る!
ガギンッ!
硬い音が密林に響く。
目にも止まらぬ速度で振り抜かれたリザードマンの槍が、俺のハンマーを吹き飛ばした。
「冗談だろ!」
足を止めずに接近してくる相手に、背筋に悪寒が走った。
ぎろりと見開かれた丸い目玉に俺の姿が映っている。もう相手の間合いだ。俺は全力で後ろに飛び退きながら、ローブの内側に手を入れた。頼む。これで攻撃を躊躇してくれ! しかし、俺の願いは届かなかった。
「グァルルァ!」
聞き慣れない気合とともに鋭い突きが放たれた。
「クッ!」
俺は槍の穂先を胸の中心に来るように体を捻った。
――リザードマンの突きくらいなら!
吸い込まれるように槍の穂先が俺の胸に突き刺さった。相手もこれで勝負がついたと思ったに違いない。俺だってちょっと本気で死を覚悟した。俺の胸に一撃を入れたリザードマンは、静かに槍を引き戻そうとした。
そのとき、異変が起こった。
「ヌ……」
槍が動かない。
何かにがっちり掴まれたように、押せども引けども穂先は俺の胸から離れない。リザードマンの顔に焦りの色が浮かんだ。想定外の展開で混乱しているのだろう。俺はその好機を逃さなかった。
俺は倒れたままローブの袖から槍づたいに石喰百足(イシクイムカデ)を相手に向かわせた。
石をも砕く百足を前に、リザードマンは迷った。
自らの得物を手放すか、それとも――
「グラルァ!」
逡巡の末、リザードマンは槍を手放して飛びずさった。
相手が距離をとったので、俺はようやく立ち上がり、胸に刺さったままの槍を引き抜いた。穂先には鉄鎧蟲(テッコウチュウ)の緑色の体液ほんのり付着している。これでまた手持ちの虫が一匹減った。
しかし、鉄鎧蟲のおかげで場は整った。
相手は間合いの長い武器を失い、ちょうどいい具合に距離が空いている。
「終わらせてやるよ」
俺はローブの内側から葉巻蟲を五匹まとめて取り出した。
一匹一匹ではただ煙を吐き出すことしかできない芋虫たちだが、こうして数が集まると、より効果的な運用ができる。俺は両手で葉巻蟲を掴んで、手にほんの少し力を込めた。刺激に反応した葉巻蟲たちが一斉に煙を吐き出す。
ふしゅーっ、
気の抜ける音とともに、灰色の煙幕がリザードマンを包み込む。向こうが慌てて腰の短刀を抜こうとしたところで、辺りが煙幕に呑み込まれ、視界が灰色に遮られた。おそらく、相手は何もできずに立ち往生しているはずだ。
俺はこの隙にローブの内側から大量の虫を解き放った。
地獄蠅(じごくばえ)、吸血鬼蚊(ヴァンパイア・モスキート)、狂々蝗(フォビア・ローカスト)、風斬蟲(かぜきりむし)、迷宮百足(ダンジョン・センティピード)……羽を持つ虫たちは宙を飛び、血を這う虫たちはぬかるむ地面にめげることなく煙幕の中に呑まれていった。短刀一本を構えたリザードマンが四方八方から迫り来る虫たちに翻弄されながら四苦八苦している姿が霧の中にうっすら浮かび上がる。
いくら剣を振り回したところで、虫たちの侵攻のすべては止められない。
徐々にリザードマンの影の動きが遅くなっていく。
「ははははっ! 踊れ踊れ!」
どの虫に噛まれ、どの虫に刺されたか。
きっと本人にもよく分からなくなっているに違いない。
「ドゥガルガッ!」
いかにも悔しそうな声が絞り出された。
リザードマンの言葉を分からずとも、相手の台詞を理解できた。おそらく、降参と宣言したのだろう。しかし俺はここで勘弁してやるつもりはなかった。虫が死んだ。何十何百と俺の育てている商売道具の一匹二匹に過ぎないが、それでも俺と温もりを分かち合った虫だった。
薄くなった霧の合間から、リザードマンの姿が見えた。
全身虫塗れになっており、もはや立っているだけでも辛そうだった。
蒼い瞳が俺を見据える。
俺は黙って腕をローブの中に――
「そこまでですッ! アングーストッ!」
ぱしんっ!
強烈な張り手を頬に受け、視界がブレた。
横合いから割り込んできたエスメラルダは怒りと悲しみの入り混じったような複雑な顔をしていた。
――どうしてそんな顔をするんだ?
俺には分からなかった。
「彼は自らの敗北を認めました。それはあなたも理解したはずです」
「ああ」
「ならば矛を収めなさい。戦いは終わりました」
エスメラルダは氷のように冷たい声でそう言った。
不死鳥の後ろで、リザードマンが膝を折って地面に崩れた。どうやら本格的に限界が近いらしい。狂々蝗に鎧の紐を齧り取られ、甲冑の間に滑り込んだ迷宮百足に鱗を荒らされ、肩の上にとまった地獄蠅は今か今かとリザードマンの死を待ち構えていた。
「アングースト。矛を収めなさい」
宝石のような赤い双眸が悲しげに細められた。
ああ。
ひょっとして、俺はまた一人になっちまうのか?
――それは困るな。
不死鳥エスメラルダ(コイツ)が俺の手から離れれば、きっとロクな対策も取らずに三年後にダークエルフたちに殺されるだろう。不死鳥の死は太古の暴君〈欲深き皇帝〉の復活に繋がり、結果として数多の人々が命を落とす。
正直、他人の命にそこまで感心はなかった。
それでも俺が犠牲者の数に拘る理由は、すべてブリオッシュに勝つためであった。あの、苦労知らずな甘ちゃんが打ち立てるはずだった功績を上回る成果をこの俺が叩き出して、アングーストという名を歴史に刻み付けてやる。
俺にはそんな魂胆があった。
しかし、不死鳥の意図は分からない。
――こいつはどうして他人の生き死に拘るのだろうか?
分からない。
分からない。分からない。
考えが纏まらない。
俺は長い間エスメラルダと見つめ合っていた。
相手の目を覗き込んでいれば何か分かるのではないかとも期待したが、ダメだった。
――仕方ない。
俺は口笛を吹いた。
「戻ってこい。お前ら」
虫たちを呼び戻すために再度口笛を吹き、そしてそのままぶっ倒れた。