それから沼地を三日ほど歩いて、俺たちはようやく碧鱗ノ國に辿りついた。
リザードマンたちの主な住処は絶壁の崖を登った先にあるしっかりとした高地の上に建てられていた。石と木で作られた、風通しの良さそうな建物。石畳の上でリザードマンたちが整列して演武をしている脇を通り抜け、俺たちは宮殿へ連れていかれた。
宮殿では青い着物に身を包んだ偉そうなリザードマンたちと引き合わされた。
沼地で出会ったリザードマンからは碧鱗の王、シン・メーンだと紹介されたが、エスメラルダの補足によると、あれはシン・メーンの影武者であり、本物はもっと奥の別室に控えていたらしい。まあ、そもそも俺は王様に会いたいなんて思っていなかったから、大して腹も立たなかった。
謁見の終わりに、シン・メーンの影武者が尋ねた。
「人間の眼に、この国はどう映る?」
学の無い人間には難しい質問だった。
俺が悩んでいると、エスメラルダが代わりに答えた。
「質実剛健。堕落した人間たちには真似できない健全な社会だと感じました」
碧鱗ノ國はまさに健全であった。
瀑布の上の街には学舎や道場、寺院があちらこちらに点在しており、通りを歩くリザードマンたちの身なりもしっかりしていた。おそらく、酔っ払いの浮浪者や歓楽街とは縁の無い世界なのだろう。
「ふむふむ。朕も左様な社会を目指して国策を執ってきた。時には苦しい選択を迫られもしたが、遠方の客人にも認めてもらえたのだから、朕の選んできた道に大きな間違いはなかったのだろう。嬉しい限りである」
影武者は実に嬉しそうに顔をほころばせた。
リザードマンたちは不死鳥の言葉を褒め言葉と受け取ったようだったが、俺には別の響きを持って聞こえた。落第者(ドロップアウター)の存在しない世界。健全であるということは、不健全なものを受け止められないのと同義である。
――この国は脆い。
エスメラルダは言葉の裏でそう警告していた。
奥の間に潜んでいた本物の碧鱗の王にはどう聞こえたか。俺は少し気になった。
その後、紋切り型の謁見を終えて、俺たちは宮殿を後にした。
宮殿を出たところで、沼地で出会ったリザードマンと別れた。
ヤツは沼地での修行に戻り、俺たちにはシン・メーンから手配された別のリザードマンが案内役としてつくことになっていた。
別れ際にヤツは握手を求めてきた。
「俺の名前はガロオムだ。覚えておけ」
それだけ言うと、ヤツはさっさと手を放して離れていってしまった。
俺は握手していた手を何となく引っ込められず、ただ茫然とガロオムの後ろ姿を見送った。虫使いのことを偏見なく評してくれた初めての相手だった。俺に「素質がある」とも言った。お互いに口には出さなかったが、少なくとも俺は気の合うヤツだと感じていた。何日も連れ立った相手と別れると、こう、心に隙間ができるのか。
初めての体験だった。
エスメラルダに説明を求めると、笑顔で断られた。
「あなたの心が感じたことを素直に受け止めなさい。それが真実となります」
「……そうか」
俺はようやく手を引っ込めた。
ガロオムか。しっかり覚えておこう。
案内役のリザードマンは名乗らなかった。
どうも碧鱗ノ國には親しい相手にしか名を明かさないような風習があるらしい。新しい案内役が名乗らないことが、俺にとって心地よかった。エスメラルダの要望により、俺たちはほとんど観光せずに客人の泊まることができる無心教の寺院へ直行した。
俺たちには、本堂からだいぶ離れた敷地の隅に建てられた庵が割り当てられた。
「宿泊施設もあるが、人間はこちらを好むのか?」
リザードマンがそう尋ねてきた。
俺は背負い袋を床の上に下ろしながら答えた。
「一般的な人間は宿を選ぶだろうな。これはコイツの趣味だ」
「二人は<無心教徒>か?」
<無心教>とは辺境で信仰されることの多い宗教である。
自らの肉体を鍛え抜くことによって心を無に近づけ、自然との調和を目指す。それが無心教の教義である。そのため、無心教徒たちはひたすら肉体を苛め抜き、屈強な体を手にする。考えてみれば、日々修行に明け暮れている碧鱗族のリザードマンとはすごく相性が良さそうだ。
しかし、俺には向いていない。
「虫たちと話しているうちに宗教のことは忘れちまったよ」
俺は手のひらで懐炉蟲の幼虫をあやしながら答えた。
四六時中遺跡に潜っていた俺には神を崇める時間はなかった。
それに、つい最近まで神を呪いたくなるような生活を送ってきたから、どの神であろうと崇めてやる気にはなれない。胸中でそう付け足してから、ふと思い付いたようにエスメラルダに目を向けた。
「そういや、お前は信仰している宗教があったりするのか?」
「まさか。愚問ですよ」
不死鳥は御座の上でごろんと寝返りを打ちながらそう言った。
たしかに、コイツの立場を考えれば愚問だったかも知れない。コイツの正体は何百年と生きてきた不死鳥なのだ。周囲から神格視される存在が、他者から奉られる存在が、誰かに縋っては格好が付かない。
――相当な負担だっただろうな。
エスメラルダの背負ってきた重みを想像して、俺は胃が痛くなった。
「ぷっ、くふふふふ」
そんなことを考えていると、エスメラルダが横になったまま声を立てて笑い始めた。
「あなたはまだ私と思念の糸が繋がっていることを忘れないように」
「どういう意味だ?」
「あなたの思考は筒抜けで私の頭へ流れ込んできています。その考えを私が瞬時にリザードマン語に翻訳して、再び思念の糸伝いに相手に伝えることによって、言語の障壁を越えて会話できているのです」
「つまり?」
「あなたの想像していることはお見通しです」
にこっ。
そんな音が聞こえてきそうな飛び切りの笑顔で不死鳥が見上げてきた。
俺は自分の顔が赤くなっていくのが分かった。羞恥に耐えられず、俺は案内役のリザードマンを追い出した。向こうも俺とエスメラルダの力関係を理解したらしく、やけに素直に出ていってくれた。
「だぁあああああッ! 今すぐ切れ! 思念の糸とやらを!」
「恥ずかしがる必要はありません。あなたの他人を思いやる気持ちは立派なものです。今まで私の立場について同情して下さった者はおりませんでした。私は今、確信しました。やはりあなたに賭けて正解だった、と」
「うるせぇッ! いいから思念の糸を切りやがれ!」
それからしばらくの間。
俺は鳥に突かれる芋虫の気分をたっぷりと味わわされた。