穂乃香は文月町の土手を走っていた。とにかくあの男と同じ空間で同じ空気を吸っているのが嫌で、ここまで勢いで走ってきてしまったが、冷静になってみれば軽率な行動だった。あの男のことだから、どうせ自分にはそこまで関心を示さずに帰るに決まってる。つまり、寮に一時退避するにも、衣服の回収に行けばあの男とはち合わせてしまう。予備の制服だけは常備されてるものの、穂乃香も16歳の乙女なのだ。壱日中同じ下着をはいていられるほど図太い神経は持ち合わせていない。
「どうしよう……。勢いで出てきちゃったけど、何も考えてなかったし……」
とりあえず今から文月学園の寮に向かうべきか?校門は閉まっているだろうが、頑張れば入れないこともない。
用意が不十分というところはあるものの、大抵は優希に頼めば何とかなるだろう。胸の大きい優希のブラジャーが自分に会うのかどうか不安はあるけれど。
とにかく細かいことは寮に行ってから考えようと、穂乃香が再び足を前に出そうとしたとき、
「穂乃香!」
後ろから自分の名前を呼ぶ、明久の声。
「あ、明久君……」
「穂乃香……あの」
二人の間は5メートルの距離。遠くもなく、近くもない。明久はその距離をさらに詰めようとするが、
「来ないで!」
穂乃香が普段からでは想像できない大声で明久を静止する。
「穂乃香……」
「見たでしょ、さっきの。私の家、ギスギスしてるの」
穂乃香はその瞳にうっすらと涙を浮かべながら重い口を開く。本音を言えば、明久はこんな穂乃香は見たくないし、こんな穂乃香の話は聞きたくない。けれど、穂乃香が自分に話してくれている。自分を信頼してくれているという一種のプレッシャーの様なものが、明久の中の時間を止めた。
「最近、お父さんもお母さんも仲悪いんだ。しょうがないよね。赤の他人が家の中にいるんだもん」
「え……?どういうこと……?」
穂乃香の一言の意味が一瞬理解できず、思わず聞き返してしまう明久。そして、穂乃香の口からは明久が想像すらしなかった言葉が発せられる。
「私、もともと孤児だから。今のお父さん達に引き取られたの。あの人たちとは、血のつながりも何もない赤の他人なんだよ」
「………ッ」
穂乃香の台詞を聞いて、明久の表情が固まる。「家に帰りたくない」っていうのは、こういう意味だったのか、と。
「引き取って育ててくれたお父さんとお母さんには感謝してるよ。だから勉強だって1番でいられるように頑張ってきたし、わがままなんて一度も言わなかったし、学費の安い文月学園に入学したの。でも……あの人たちはそれが気に入らなかったんだって」
「それって……どういう……?」
「あの二人には子供ができなかった。だから私を引き取った。子供がわがままを言って、頼られる生活を望んだの」
だが、現実には、感謝の意から穂乃香は勉学で常にトップに立ち続けた。我儘も言わなかった。服も、おもちゃも、食べ物も、何も欲しがらなかった。それが、霞夫妻が望んだものと大きくかけ離れているとは思わずに。
「だからなのかな。だんだん、居辛くなっちゃったんだよね。あの二人は、何でも自分でできる子どもなんかいらなかったんだよ」
話す度に、穂乃香の瞳には大粒の涙が浮かんでくる。自分たちの子供に頼られたいと思う親の気持ちも、引き取ってくれた感謝の気持ちから迷惑をかけまいとする穂乃香の気持ちも、どちらも至極当たり前の感情。ただ、何かが食い違っただけで、穂乃香は両親と仲違いをする結果となり、明久の存在が何よりも重要になっていった。
「穂乃香……」
「………明久、君」
明久は辛そうに話す穂乃香を何も言わずに抱きしめる。穂乃香も、されるがままに身を任せる。
「もう、いいよ。話さなくてもいいよ。そんな辛そうな穂乃香、見たくないよ……」
「明久君……ごめんね……」
「いいんだ。家にいるのが辛かったら、僕の家に来てよ。穂乃香が寮に入るなら、僕も入る。だから、もう一人で抱え込まないでよ」
明久の優しい言葉に、穂乃香の瞳からとめどなく溢れ出す。その顔を明久の胸にうずめ、流れる涙を明久に見せないように。