風見幽香の殺し方【完結】   作:おぴゃん

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蝸牛の12月
1『風見幽香と火遊びとはじまりの一夜(上)』


 今日も鶴見家の夕食は四人だ。

 メインは器いっぱいのブリ大根で、味のよく染みた大根はもろい。利き腕をギプスに包んだ青年が四苦八苦しているうちに妹の箸がそろりと伸びてきて、あえて残していたブリを誘拐していく。

 

「あ、おい!」

「とろいなあ。あにきは実にとろい。お姉ちゃんの言うとおりだね」

「ケガ人なんだから。少しくらい手加減してあげなさい。沢山おかわりもあるんだし」

「はいはーい」

 

 青年の妹はあろうことか実の兄を差し置いて、この家に居着いた『お姉ちゃん』に従順だ。

 

「そっか。もう冬だもんな」

 

 兄妹間で勃発しつつある冷戦には我関せずを決め込むと、窓の外を静かに滑っていく雪を見つめて父が呟いた。つい数日前までは朝晩コンビニ弁当が立ち並ぶディストピア的食卓にいたのだ。献立ごときで季節を感じるというのも、無理はない。

 

「お父さん、今日の味付けはいかがですか?」

「うん。美味いよ」

「よかった。実は魚を調理するのは初めてだったんです」

 

 顔を輝かせる『お姉ちゃん』に、照れたように顔を背ける父。正直そんなものを見せつけられたところで、兄妹にとっては食欲減退以外の効果はない。それでもとりあえずふたりの喧嘩は中断される。これまでのやり取りがそれを狙ってのことなら、彼女は相当なやり手だ。

 

「ハジメ。あなたはどう思う?」

「え」

 

 不意に彼女に見つめられて、青年は思わず言葉を詰まらせていた。家事上手で、妹の面倒を見てくれて、おまけにかわいい。三拍子揃った女の子がいきなり家に居候を始めるなど、未だに信じられない気持ちだ。

 

「あぁ」

 

 うまいよ、と言いかけて彼は押し黙った。目の前には箸で持ち上げられた鰤の切り身がぶらぶらと揺れている。不思議そうに、『お姉ちゃん』は首をかしげる。

 彼女にわずかでも心を許しそうになる度に、青年は彼女との間に交わしたとある約束を思い出すことにしている。どれだけのことがあろうと、彼女に心を許してはいけない。

 

「あにき?」

 

 彼女は敵だ。

 青年は彼女を殺さなくてはいけない。殺せるほど強くならなくてはいけない。

 猶予はたったの半年。

 

 さもなくば。

 

◆◆◆

 

 そこは息苦しい場所だった。

 炎が立ち込め、あちらこちらで嫌な音を立てて柱が倒れ、立ち並ぶ建材が、ガラスが爆風に吹き荒れる。その中を這いずり回る青年は、まるでハリウッド映画のクライマックスシーンにでもぶち込まれたような錯覚を覚える。

 

 ただしこの場の主役たる青年は至って真人間であって、この場をタフに切り抜けて『仕事でもこんなビルは二度と登らねえ』と抜かすことはできない。彼は決して刑事マクレーンではなく、一介の高校生でしかない。少なくとも、この瞬間までは。

 

 爆風で割れたガラスまみれの床に転がった彼の体は、ミキサーにでも切り刻まれたようだった。全身に入り込んだ鋭片。その痛みと異物感に絶えず苛まれる。炎に包まれた高層ビルの中をかれこれ数階分這ってきた。それでも、まだまだ出口は下だ。

 

 なるべく危ない場所には立ち入らないようにして、ヤバそうな付き合いは極力断って。そうしていても危ない時は危ない。ヤバい時はヤバいし、もちろん死ぬときは死ぬ。

 おまけに人生シメというのに気の利いたセリフも湧いてこない。

 

 新たな火の手が上がった。今や彼の全身を支配するのは死の実感と、ひどい息苦しさだ。息をするだけで喉を焼かれる。肺が焦げる。

 

「助けて、くれ」

 

 手を伸べた先の天井ですら、炎の舌に舐められている。

 べりりと無慈悲な音を立てて安っぽい作りの薄板が剥がれ、青年の腕を叩き潰した。燃える瓦礫に埋まり、そのまま炎に飲まれていく青年の目に映ったものは。

 

「いいわ」

 

 場違いに美しい、何かだった。

 

「あなたを助けてあげる。とりあえず、この場はね」

 

 それをよく見れば、女だった。瓦礫の山を難なく押し分けた彼女の腕に、青年は抱き抱えられる。女の白い指は傷の一つもない。青年はむしろ、助かったことへの喜びよりも焦りを感じていた。

 

 こんな場所に、こんな人物がありうるハズはない。きっと本当に死が近づいていて、これは俗に言うアレだ。ヤバい幻覚かなにかなのだろう、と。

 

「あ、折れちゃってるから戻しておくわね」

 

 まるで肩についたホコリを払ってくれるようにさりげなく、むしろ一片の優しさすら見せて彼女は折れ曲がった青年の腕を正しい位置に戻した。ぽきんという情けない音は、なぜか業火の中にあっても確かに響いた。

 

「おぉおっ!?」

 

 脳天を貫くような痛みだった。

 

「――――て、てめえ、何しやがる!」

「だってこのままにしておいたら、後々もっと大変なことになるわよ?」

「がああ、いたたたた! せめて言えよ、痛いってさ!」

「痛いわよ」

「今じゃねえよ!」

 

 だがその痛みが涙に滲んだ視界を正常に戻してくれた。

 あたりに敷き詰められたガラスのカーペットと、炎の渦。そして女。何の冗談のつもりか、日傘を携えて、女は確かにこの場にいる。

 

 興奮の中で当たり前のように怒鳴っていたが、それはまさしく奇跡だった。

 

「もう。助けろって言ったから助けたのに」

 

 どこのどんな神様が遣わしたのかはわからない。

 ただ、青年にとって彼女はまさに、地獄の淵に投げ入れられた蜘蛛の糸にも等しいものだった。

 

「あなた、名前は?」

「俺は…………ハジメ。鶴見一だ」

「そう。ハジメ、ひとつ言っておくけれど、ここからはあなたの力で何とかなさい」

 

 さっそく蜘蛛の糸はぶつりと音を立てて切られた。他でもない蜘蛛自身の手によって。

 彼女は幻よりもタチの悪い何者なのかもしれなかった。

 

「それ、どういうことだよ」

「助けは差し伸べた。ここから逃げ出せるかどうかは、あなた次第」

 

 彼女はハジメに、壁の一つを指し示した。

 

「サービスで教えてあげるけど、あそこの壁が一番薄いし脆い。もう普通の出口は炎に飲まれた。もちろんわたしが入ってきた場所もね」

 

 つまりは、あの壁をぶち破らないことには決して助からない。女はそう言っているのであった。信じられない気持ちでハジメは壁まで体を引きずっていく。膝に突き刺さったガラス片が体の奥深く押し込まれ、彼は情けない悲鳴を上げた。

 

 力なく、折れていない左腕で壁を叩く。もちろん、コンクリートをむき出しにした壁はこゆるぎもしない。比較的薄いというだけで、満身創痍の人間がぶち破るには手にあまる代物だ。己の血が描いた手形を、青年は呆然と見つめる。

 

 女を振り返ったとき、青年はほとんど泣いていた。

 

「無理だ!」

「なら死ぬしかないわね」

 

 とことん無慈悲だ。ハジメはありったけの罵声をかすれた声でつぶやきながら、壁に手をつく。もはや腕を振るう力がないので頭突きをかます。一度。二度。結局三度と数えず目眩を起こして仰向けに倒れ込んだ。配管をむき出しにした天井から火の粉が降り注ぐ。この部屋の限界も近い。

 ぜいぜいと息を荒げて、ハジメは女を睨んだ。

 

「なぁ、意地悪しないで助けてくれよ。もう一度くらい、いいだろ」

 

 女は積み上げられた鉄パイプの山に指を当てて温度を確かめているようだった。その悠々とした動作により一層焦燥を募らせる。

 

「おい、アンタも死んじまうんだぞ!」

 

 パイプの山に腰掛けて彼女はうっすらと微笑んだ。こんな状況でも見る青年の心を揺らすような、蠱惑的な笑顔だった。

 

「それが?」

「それが……って……」

「少なくともあなたは死ぬけれど。わたしはきっと大丈夫よ。」

 

 もはや彼女は何もする気がないのだ。たとえ、この場で青年ともども火葬されようとも。そのどこまでも超然とした態度に、ハジメは言い知れぬ怖気を感じた。だが、この場は焦りが競り勝つ。

 

「ふざけん、なよ」

 

 血まみれの体を動かす。右腕が壊れたポンプのように痛みだけを送り込んでくる。

 それでもなんとか立って、威勢を張ることだけはできそうだった。

 

「まだ十七歳なんだぞ」

「そう」

 

 いつものクセで青年はポケットに指を突っ込んでいた。そこにはいつもどおりの硬い感触。そいつをキツく握り締めて体を起こす。目の前には依然として分厚い壁が立ちふさがっている。

 もちろん勢いづけて立ち上がったところで、拳を振るうような余裕はない。まるで向こうに聞き耳を立てるように頭ごともたれかかり、たった一本の指を壁へと突きつける。

 

「彼女なんかいた試しがない」

「そう」

「勉強はからっきしでそんなに顔がいいワケでもなくて」

「そう」

「家族はほとんどバラバラで妹はひきこもり。母さんは俺たちに愛想を尽かして、俺は毎朝親父が焼いたクソ不味いトーストをかじってる」

「へえ」

 

 壁から体を離し、よろめきつつもその向こうを見据える。それから彼が取った行動について説明するのは、ひどく難しいことだ。意識朦朧とした中で、彼は自分を最強の殺戮マシーンか何かと勘違いしたのかもしれない。

 

「こんだけツイてないのに。どうして俺が死ななくちゃならないんだ。どうしてこんな苦しいままで。一山いくらのモブみたいに死んでいかなきゃいけないんだ」

 

 まるで銃を構えるように人差し指を壁へ突きつける。その爪先に宿るのは炎だ。直径一センチにも満たない、炎の輪が浮いている。輪は二つ。もう一つは彼の左目の中に。

 それが一体何を意味するのか、青年には理解できない。だが、それの使い方だけはわかった。

 

「それはあなたがどうでもいい人間だから?」

「違う。断じて俺はそんなんじゃない」

 

 悔しい。ただそれだけの想念が第二の奇跡を起こそうとしていた。

 

「なら証明して見せて。惚れてあげるわ」

「ナメやがって」

 

 二つの炎の輪が重なる。炎の中に像が結ばれる。壁の像が。

 青年の頭の中で見えない撃鉄が引き起こされる。見えない弾倉が回転し、たった一発の透明な弾丸がトリガーを誘う。

 

「見てろよ。生きて帰れたらお前、ぶっ殺してやる!」

 

 

 ただ一つ、その誓約だけが。

 

 

 ただ一つ、その覚悟だけが見える形で成された瞬間。

 

「――ッ!!」

 

 雷光がハジメの左目から迸った。

 二つの炎の輪を通り抜けた圧倒的な破壊のエネルギーが壁を直撃する!

 

 女は穏やかに笑んだ。

 

「そう。楽しみにしてるわね」

 

 壁に激しく火花が飛んだ。衝撃波が室内をぶん殴り、青年はその勢いで頭から床に倒れこんだ。今や部屋中を覆った炎がそよぎ、ウェーブのかかった女の髪が揺れる。

 

 そして、再び業火の熱と唸りが戻ってきた。

 

「やったぞ。はは、見たかよ。やったんだぜ!」

 

 なんだかよくわからないが、とにかくよし。

 床の上でガッツポーズを作る青年に向かって、微笑みを浮かべた女は壁を顎でしゃくった。自らの勝利を確信しつつ、青年は上体を起こす。そして、

 

「え?」

 

 そこには壁。

 

 何も変わらず、分厚いコンクリートがあざ笑うように佇んでいる。

 何も変わらずとは言葉を違えたかもしれない。青年の『ちから』は間違いなく作用していた。彼の指先に浮いていた直径一センチにも満たない輪。それを忠実になぞるように、小さな小さな穴がそこには刻まれていたのだから。

 

「そんな」

 

 むろん、そんな細道を人体がすり抜けるようなことはない。

 壁にすがりついて穴を覗き込む。夜景が遠くに見える。だが、ここでいい眺めが手に入ったところで何の意味があるというのか。奇跡がいつも、自分に都合のいい形で起こってくれるとは限らない。

 

「畜生、畜生。もう一度だ。もういちど――あああ!」

 

 こんな小さな穴をぶち開け続けたところで何が変わるといるのか。青年の落胆を表すように指先の輪は収縮し、消えた。

 

 まるで壁の小穴に残りの生気を吸い取られていくようだった。がっくりと膝をついた青年の後ろで女が腰を上げる。火照りに照らされた頬が、わずかに上気しているようにも見えた。

 

「面白いわ」

 

 もはや抵抗もしない青年を無理やり立たせると、彼女は小さな穴を前に瞳を輝かせた。まるで長らく待ちわびたクリスマスに、最高のおもちゃを手に入れた子供のようだった。

 

「あぁ、最悪のジョークだな」

「そうね。でもあなたは本当に面白い。だから、わたしはあなたに決めたわ」

 

 女は片手を穴へと向ける。わずかに上体を反らせると、青年を壁から隠すように下がらせる。

 

 彼女の手のひらから熱く、眩いものが迸る。

 

 先とは比べ物にならない威力の衝撃が部屋は愚か、建築中のビル全体を揺るがした。破片も爆風も不思議と女を避けて飛ぶ。そうすると現れるのは炎の掻き消えた部屋と、大きく広がる夜景だ。

 

「一体、どうやったんだ?」

 

 ひんやりと冷え切った冬の風が焼かれた体を冷やしていく。

 

「ハジメのマネをしてみただけよ」

 

 大きな月の浮いた夜空を背負って、彼女は心底嬉しそうに笑った。広げられた両腕が、ハジメを抱き寄せる。そのまま彼女はビルの外へと身を投げ出していた。

 

「うふふ。やっと見つけた。わたしの」

 

 胃袋を浮かせるような落下感はたった一瞬のこと。

 気付けば花の香りに抱かれて空を舞っていた。あたりを真っ白な椿の花びらが飛び交っている。それに見とれていると、何の前触れもなく女が手を離した。

 

「わあああっ――あ?」

 

 青年は支えなしで空を飛んでいた。どうやら女の浮かせた花びら自体がどうにかして浮力を保っているらしい。女は慌てふためいた青年の様子がよほどおかしかったのか、くすくすと笑っていた。彼女は青年の無事な腕を引く。

 

 ふわり。まるでテレビでみた宇宙飛行士のように頼りなく青年の体が漂った。女はあくまで優雅に無重力の中を舞う。女になされるがままの青年でさえ、束の間彼女とダンスを踊っているような気分になる。遥か下を流れる夜の町並み、高所の恐怖は消えつつあった。

 

「なあ、アンタ何者なんだ?」

 

 ふと、疑問を口にする。女は笑った。

 

「わたしの名前は風見幽香。空を飛べる。ちょっとだけ強い。自己紹介はそれだけよ」

 

 ありえないような言の葉を次々浮かべるのは、ただただひたすらに美しい女。おおよそ常人では持ち得ない美貌を彩る、不可思議な髪色と真紅の瞳。そして幽かな花の香り。

 

「約束、ちゃんと守りなさいよね。じゃないと暴れちゃうんだから」

 

 

 

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