1『そろそろ喧嘩をしましょうか(上)』
薄暗く湿った路地の壁に反響するのは、ふたり分の悲鳴のような喘ぎだった。
その片割れである鶴見ハジメがこの裏路地の世界に踏み入ったのは忌々しい蝸牛の怪物の件が一度目であり、今回もその例に漏れず絶体絶命のピンチであった。
「ユキ、避けろ!」
幼馴染の背を突き飛ばして、ハジメも体を伏せる。
路地の暗がりから迸った青白い閃光が二人の頭上三寸を駆け抜けていった。彼らを追い越し、曲がり角で爆裂したそれが電撃を撒き散らす。距離を置いても髪が逆立つのを感じながら、ハジメは雪之丞の手を引いて駆け出した。
「くそおおお、一体全体なんなんだよ。あいつ、なんなんだよ!」
「うるさい、さっさと走れよ!」
男二人で足をもつれさせながら振り返ると更に数発の閃光が放たれる瞬間だ。
何の変哲もない紙切れが物騒な電撃に変化する寸前、淡い光がそれを放つものの姿をおぼろに浮かび上がらせる。
まるで人形じみた、凛と整いすぎたきらいのある風貌。そして、洋服とも和服ともつかない不可思議な装束。裾の翻る様は天女にも似て。
「やべえぞ、おい」
そして曲がり角の先には行き止まり。
どうあがいても絶望の状況にさっさと膝を折った雪之丞を背に、ハジメはそいつと向き合う。無数の札を手に、余裕に満ちた足取りで近づきつつある少女は、まるでダメな飼い犬に手を焼く主人のような、呆れの混じった微笑みを浮かべている。
「俺が何をした!」
壁にすがって雪之丞が叫ぶ。
「普通に学生して、さっきまでだって普通に遊んでただけだ。なぁ、そうだろ?」
「あぁ。お前は悪くない」
苦りきった顔を少女に向けて、ハジメは頷いた。むしろ悪いと言うなら、それは彼を巻き込んだハジメだ。それなら彼を救い出す責任もまた、ハジメにあるはずだ。
もはや電撃の塊となりつつあるお札を構えた少女に対峙するハジメの左腕を炎が伝う。折れた腕をかばうように半身になって燃える指先を突きつける姿は、まるで銃を構えているようだ。
「うわわっ」
唐突に吹き上がった炎と級友の変貌に、雪之丞が悲鳴を上げて飛び上がった。一方の少女は落ち着き払った様子で軽く目を細めただけだ。
「なぁアンタ、逃げたいんなら逃げたっていいんだぜ」
すみれ草のような可愛らしい力を手に、それでも一度指先と瞳を燃やすと奇妙な自信が湧いてくる。明らかに少女は強い。だが、流石に幽香のような規格外とは思えなかったこともある。
「お前、それ!」
「チビるなよ、ユキ。俺の超絶パワーを見せてやる」
大物ぶって不敵な笑いを浮かべると、ハジメは得意げに吠えた。
背後の雪之丞が一か月前の自分の姿に重なって見えていた。炎に包まれ、ただただ怯えて逃げ回ることしか出来なかった自分に。だが今は違う。
逃げ回るのはもう終わりだ。汚名はここで返上する。
度重なる攻撃でズタボロに引き裂かれたジャケットさえ、心の中ではヒーローのマントだ。誇らしげに片腕をかざして少女へと歩いていくハジメは色々なものを見落としてしまっていた。
「ふ、ふざけんなよ。どいつもこいつもワケわっかんねえコトしやがって!」
恐怖と困惑と、そしてまた別の感情がないまぜになった友人の顔、そして数秒後に待ち受ける非情すぎる結末にも気づかぬままに、擦り切れたスニーカーでハジメは一歩目を踏み出していく。
助けは期待していない。来て欲しくもない。あんなことを言われた後で泣きべそでもかこうものならそれこそ一生の恥だ。敵は強ければ強いほどいい。あの女のハナを明かしてやるのだ。
◆◆◆
その言葉をハジメは咀嚼していたようだったが、数秒と待たずに汗と埃にまみれた顔を真っ赤にした。下唇をぐっと噛んで、幽香を睨みつける。
「な、なによ」
予想以上の反応に幽香も多少面食らったようだった。
何気ない幽香の一言は十分すぎる効果を奏したのである。それまで地面に伸びていたハジメはさっさと起き上がると脱いだジャージの上着を手に、蹴りつけるような足取りで公園を後にする。
「だってハジメが悪いんじゃない。私が良かれと思って教えたことを聞かないから!」
追いかけてどんな言葉を聞かせても、ハジメは一層歩調を強めるだけだ。
「待ちなさいよ。まだまだ時間はあるわよ」
「もう終わりだ。終わり。俺はもう帰るから、お前は好きに腕立てなりジョギングなりしてろよ」
あまりにも捨てばちな言い方に幽香も頭に来るものがあった。彼女が足を止めると、ハジメも自然、それにならって振り返る。
「ならいいわ。やっぱりハジメはその程度なのね。残念だけど見込み違いだったかしら」
「ああそう」
「そういうの、どう言うんだったっけ。この――」
言い終わる前に、激昂したハジメが燃え上がる指を突きつける。すかさず幽香の迎撃が飛ぶ。両者の攻撃の余波が降り積もったばかりの雪を巻き上げ、驚いた小鳥が黎明の朝に飛び散った。
無数の鳥のシルエットに混じってやけに大きな影が煙の尾を引いて空に舞う。言わずもがな、それは鶴見ハジメであった。空中で絶叫し、手足をばたつかせて、それでも彼の怒りは冷めることがないようである。
◆◆◆
「めっずらしい」
朝食の卓にて、千晃が目を丸くした。
「悪いけれどお醤油取ってくれるかしら」
「う、うん」
気圧されるままに、千晃はハジメの前から瓶を取って幽香に手渡す。テーブルに片肘をついた彼の兄はまったくのノーリアクションを貫いてテーブルの上に視線を彷徨わせる。幽香の手元に置かれたリモコンに目が留まる。
「ちっ」
舌打ちして向かった先にはテレビ。
わざわざ本体のスイッチを入れて目当ての新年お笑い番組を見つけ出したところで、唐突にドキュメンタリーチャンネルへと画面が切り替わる。
「あら素敵」
リモコンを手に嬉しそうに食虫植物特集を見つめる幽香とハジメの視線が空中で激しく火花を散らした。
「そんなに鼻息荒くしちゃってどうしたの?」
嫌味ない笑顔で小馬鹿にする幽香と、
「リモコン、そんなところにあったのか」
心底煮えたぎりつつ、あくまで平静を繕うハジメ。
「ずいぶんと視野狭窄ね。心配になっちゃうわ」
「見たくないものは見ないことにしてるだけだ」
幽香の手による豪華なおせちの上を飛び交うのは言葉の弾丸だ。
紛争地帯にいきなり放り込まれてしまった子供のように椅子の上で身を縮こまらせながら、千晃はそれでも珍しそうに応酬を見守っていた。
早朝、二人が家を出て公園へと向かったところを千晃は目にしている。しかしそこで何が行われているのか確かめたくとも、一流の自宅警備員は家を離れるわけにはいかない。
大抵は実兄がボロクソの姿で不機嫌な顔を引っさげて帰ってくるので、なにか危険な事情とか、お姉ちゃんが実は男にだらしない人間なんじゃないかとか心配をすることはなかった。
今日も今日とで同じような朝の光景が繰り広げられると思っていたのだが。
「その、あにき、何かあったの?」
「何が」
兄は確かに生傷だらけの不機嫌であるが、この日はどちらも通常の度合いを超えていた。擦り傷に絆創膏をあてがうでもなく黙々と箸を進めていく。
かたや幽香は一見して通常運転のニコニコ顔。だが、にこやかすぎる。千晃の頭を撫でる手は猫を可愛がるようであったし、言葉の端々から蜂蜜が滴るように感じられる程に声色が甘い。
「なあ千晃」
「ひゃいっ」
それこそ食虫植物のようだなあ、と失礼なことを考えていた矢先だったので、静まりきった食卓に響いた千晃の声は不自然に上ずっていた。兄は手をつけた料理にそれ以上箸を進めることなく、携帯をポケットにねじ込むところであった。
「ユキたちと口直ししてくる。今日は遅くなるから、夕飯はいらん」
「――そ、そうなんだ」
どうして直接お姉ちゃんに言わないんだよと思いつつ頷く千晃が感じるのは無言の圧力。その出処が誰かなどと言うまでもない。それはハジメがパジャマを脱ぎ散らかして着替え、何も言わずに家を後にするまで続いていた。
「やれやれ。お子様なんだから」
幽香が溜めに溜めたような深く長い息を吐いたときになって、ようやく家中に張り詰めていた緊張の糸がほぐれていく。
すっかり冷めてしまったお茶で唇を湿らせて、千晃は口を開く。開いたが、すぐには言葉が出てこなかった。義理の妹があうあうと困る間、幽香は辛抱強く待った。
「その、お姉ちゃんたちはさ」
「えぇ」
「毎朝毎朝出て行って、一体何をしてるの?」
「端的に言うと、殺し合いの練習をしているわ」
テーブルの上に突っ伏して、千晃は頭を抱えた。
彼女はお姉ちゃんが好きだ。どうせドアを出たところで兄のようなちゃらんぽらんな男か雪之丞のように残念な男しかいないのだろうし、できることなら幽香と一生一緒にいたいとさえ思う。
「それ、インユとかアンユってやつ?」
だが、兄や雪之丞に彼女の爪垢を煎じて飲ませたいとまでは思わない。不意打ちのようなタイミングで彼女の口から飛び出る言葉はまるでナゾカケで、四六時中こんなものを浴びせられたのでは兄と同容量の脳みそが爆発四散しかねない。
「ま、そういう謎めいたところも好きなんだケド」
幽香が語る紛れもない真実を何かの例え話と思い込むと、千晃はほうと息をついた。
「どういうこと?」
「ううん、何でもない。でも、ええと、いつもどおり殺し合いの練習だっけ。それにしてはお姉ちゃんもあにきもヘンじゃなかった?」
首をかしげた幽香は、しばらく朝の行動をなぞっていたようだった。
「そんなにあからさまに出ていたかしら」
「出てた。あにきは分かりやすいし、お姉ちゃんってフキゲンだとよく笑うから」
「参ったわね」
と、取り繕うように苦笑しながら二つの湯呑に熱いお茶を注ぐ幽香は、多少なりとも千晃の観察眼に舌を巻いているようでもあった。差し出された湯呑で手を温めながら千晃が窓の外へと視線を馳せれば灰色の空と雪。また寒くなりそうだ。
「大したことじゃあないわ。私の小言にハジメがかんしゃくを起こしただけ。それが言い合いになって、収拾つかなくなって」
「小言って?」
「だから大したことじゃ」
「ある。あります。じゃないとまた部屋に立て篭ってやる」
しばらく黙って千晃を見つめていた幽香は、やがて観念したように目を伏せる。思い出すのは朝方の公園での一部始終だ。
今までぶちのめされすぎたハジメは警戒のあまり攻撃を渋るようになってきた。慎重になるのはいいが、行き過ぎは臆病と同義である。
『攻めなきゃ勝てないわよ』
『出方を伺ってる』
『ふぅん。それじゃあ遠慮なくいくわね』
まず、その戦法が幽香のような強力な相手に対する最悪手であることを体に教え込んでやった。
しかし、起き上がったハジメは不服そうでしかない。やれ手加減しろだのおまえの教え方がヘタなんだのと言われるうちに幽香の頭に一言が浮かぶ。それをそのまま口にして、話がこじれ始めたのだ。その言葉とは。
「…………ヘタレって言った。ような気がするわ」
あからさまに顔をしかめてみせた千晃を、幽香はためらいがちに見つめ返した。
「まずかったかしら」
「ヘタレにヘタレって言ったらさ、そりゃ怒るよね」
◆◆◆
「いいなあ、ハジメたちは」
愚痴を聞いていた江梨花がぽつりと呟いた。ハジメは鼻を鳴らす。
「どこが。お前俺の話聞いてたか?」
「だって今時殴り合いの大ゲンカなんて、親兄弟でもなかなか出来たもんじゃないよ」
ムカつくだけだっての。
そう漏らしてハジメは丼を傾ける。遊ぼうぜとメッセージを送っただけで、誰からとなく『スケキヨ』に集結する。江梨花を連れているだけで、当たり前のように大盛りが運ばれてくるのであった。
「殺し合いってのが何のことかは分からないけれどさ、要するにハジメは幽香さんの前でカッコいいところを見せたかったんでしょ。で、それが認められなくてイライラして、あの人にぶつけちゃった、みたいな?」
「はん。見当違いもいいところだぜ」
ぷいと顔を逸らしてお冷を飲むハジメを見るに、結構図星だったんじゃないかなと江梨花は思う。
「そういうお互い少しづつ悪いのってさ、先に謝る勇気出さないとうやむやになるやつだよ。いつまでも引きずる」
ハジメは聞いていないフリが絶望的にヘタだ。なんだかんだで三人の中で一番大人びている江梨花の言葉である。
「私もちょっと前に似たようなことが」
「お前ら、黙って聞いてりゃさ」
それまで沈黙を保っていた雪之丞が重々しく口を開いたのはその時だった。
ただならぬ敵意を秘めた声色に振り返った二人は思わず言葉を失う。
「ケンカがどうだのと深刻だと思ってさ、心配して来てみたら何だよ。ただのノロケじゃねえか。年始から犬も食わねえような夫婦喧嘩の話をどうもありがとよ!」
こめかみに青筋を浮かべ、刃物のように鋭い目つきでハジメたちを睨みつける雪之丞はもはや氷の美青年などではない。嫉妬に燃える非モテの鬼である。怒りにこわばった指で抱える大盛りのスケキヨの丼が、異様なテイストを足している。
「お、おいおい。どんな耳で聞きゃそうなるんだよ。俺とあいつは」
「むぉんどうむようおぁッ!」
もはや何を言っているのかさっぱりだが、その気迫だけは伝わってきた。残像が残るほどのスピードでカウンターを仰いだ雪之丞がその注文を口にする。
「おっさん、大盛りふたつ。チョイ増しで!」
店内を稲妻が貫いたような衝撃が走った。チョイ増しなんて言葉だけだ。実際に運ばれてきたものはすり鉢いっぱいに盛られた麺と野菜の塊であり、自殺級の注文をした吸血鬼はにやりと笑ってハジメを睨んだ。
「早食いで俺が勝ったら幽香さんをもらう。お前が勝ったら俺の体を好きにしていい」
「いやいやいやいや、色々おかしいだろその条件」
「うるせえっ、お前は黙って馬鹿みたいに勝負を受けやがればいいんだよ。それとも何だ、ヘタレのハジメ君はあっさり負けちゃうのが怖いのかな?」
「ユ、ユキ、それは」
「おい、お前」
禁句を放った雪之丞をたしなめようとした江梨花の背後で、割り箸を割る音が不気味に響く。
「今なんつった」
「ヘタレって言った。ヘタレって」
すっかり戦闘態勢をとったハジメが奇妙な構えで箸を手にする。野獣のような好戦的な笑みで迎え撃つ雪之丞。おかしな緊張感に店の全員が視線を注ぐ中、江梨花の隣に座った見知らぬ少女も興味深そうに決闘の始まりを待っていた。
「こいつら、面白いわねえ」
「私と代わってみればお気楽なことも言えなくなるよ」
思わず口をついて出た毒に江梨花が焦っていると、少女は構わん構わんとでも言うように手を払った。妙に場数を踏んだというか、外見以上に多くの経験を経てきたような所作だった。
「あなた、このあたりの人?」
「いいえ」
里帰りだろうか。彼女の手元の小鉢はすっかり平らげられている。厚手のコートの下には目にも鮮やかな紅白の装束を着込んでいた。
「あのなまっちろいハリガネみたいな男に私は賭ける」
百円玉を弾いて、雪之丞を少女は指さした。
未だヘタレだのぶさいくだのとしょうもない挑発を続ける雪之丞を前に、ハジメは背後から途方もない怒気を含んだオーラを立ち登らせていた。
「じゃあ野良犬みたいな目つきをした方に賭けるわ。ハジメはあれでよく食べるからね」
「でもハリガネの嫉妬心は大したものよ。あれを正しく引き出してあげれば、野良犬なんて秒殺で倒せる」
初対面のくせに、彼女はずいぶんと雪之丞を買っているようだった。江梨花は肩をすぼめて百円玉をカウンターに置くと、にらみ合いを続けるバカ学生たちの間に掌を差し入れる。
「それじゃ、ギャラリーを焦らすのもそろそろ終わりにしましょうか」
両雄は静かに頷く。
こいつらのバカ犬のような素直さが江梨花は好きだ。本気でバカな勝負にすべてを賭けるようなところが。口にはしないが、このメンツでいる時が一番居心地良い。ただ、そのバカ正直さが何かの拍子に三人の関係を粉々に砕いてしまうような気もしている。
「いくわよ。よーい――」
そんな根拠のない不安を断ち切るように、江梨花は手を振り下ろすのだった。