風見幽香の殺し方【完結】   作:おぴゃん

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4『ひとりぼっちの向日葵(下)』

 歩いてくる幽香に気づきつつ、ハジメは顔を上げなかった。

 考えが足りなかった。他でもない彼女自身の口から語られた、故郷を脱するまでの一部始終。ハジメたちの住む世界と、幽香のいた世界を隔てる『常識と非常識の壁』をぶち壊したという事実を、甘く見すぎていた。

 

 そんなものがなくなったとあれば、今頃彼女の世界は大混乱だろう。

 もとより恨みつらみには事欠かなそうな幽香のことである。目の上のたんこぶ女をこの期に潰してしまおうとする者が現れたとしても、何ら不思議はない。

 

「霊夢にはお帰り願ったわ」

 

 あくまでマイペースに足元の雪玉を拾い上げて、幽香は空高く放った。

 無数の針、まるで雷をそのまま封じたような威力を誇る札を操る霊夢という巫女。そんな相手との激戦の直後にあって傷の一つ負っていない幽香は、やはりただものではない。

 

「お前のせいだ」

「どうしたの?」

「何もかも、お前のせいだ。お前が来てからこっち、腕は折れるしダチは離れていくし、よく分からない女にはよくわからない理由で襲われるし!!」

 

 そもそも幽香と遭わなければ一月前にお陀仏だったという事実はこの際棚上げだ。雪之丞にぶつけられた理不尽な憤りを、ハジメも誰かに押し付けなければ気が済まなかった。

 

「おまけにさんざんヘタレ呼ばわりしといて、いざやる気を出してみれば邪魔しに来やがって! ――ぐっ」

 

 体をベンチに押さえつけたのは、背中を真っ二つに引き裂かれるような痛みだった。その激痛すら怒りにくべる薪にして、ハジメは幽香を睨みつける。

 

「隣、座るわね」

 

 突き返されたコートを受け取って、幽香はそっとハジメの肩に触れた。

 

「触るんじゃねえよ」

 

 ハジメが体をよじると、隣に座った幽香が距離を詰める。ハジメはまた、距離を離す。

 やがてベンチの端で半身になってそっぽを向いたハジメにぴったり肩を寄せるようにして、幽香はその横顔をじっと見つめてくる。不平は腐るほどある。だが、なにから叩きつけたらいいのかが分からない。

 

「ね。仲直り、しましょう?」

 

 背後からハジメの前に差し出されたものは、左手である。そこから目を逸らしたくても逸らせない。

 

「ひきょうだ」

 

 ひらりと手を振ってみせる幽香にその言葉は聞こえたのかどうか。

 ハジメはまっさらな包帯を見つめる。今尚その下に眠るはずの醜いケロイドのことも。それはある意味では鎖で、ある意味では絆だ。

 蝸牛の妖怪。そいつが操る強烈な酸を彼女が身を呈してかばったこと。自分を殺してしまうかもしれない女が何故にそんな行動に出たのかがハジメには理解できないが、大きすぎる借りには違いないのだ。

 これ以上憎まれ口を叩く気にもなれず、ハジメは重い体を引きずるようにして振り向いた。

 

「とりあえず、今は仲直りしておいてやる。今だけは」

「ふふ。ありがと」

 

 イヤミの無い笑顔で笑ってみせる幽香を、なぜか直視することができない。再び顔を逸らしたハジメの背後からは楽しそうなくすくす笑いが聞こえていた。今更何が楽しいんだよと食らいつく気にもなれず、彼は白い息を一つ浮かべてヒザの雪を払う。

 

「帰ろうぜ」

「その格好で?」

 

 言われてようやく気づく。

 明滅する外灯の明かりの下で見える彼の体たるや、ひどいものであった。

 一張羅のジャケットはほとんどボロ切れ。白いシャツは引き裂けている上にまだら模様の赤いシミが浮かぶ。何より痛々しいことに、今尚彼の体には夥しい針や破片が突き刺さり、その頭をわずかに覗かせているのだ。

 

「なんだよ、このくらい」

 

 精一杯に強がって針の一本を力任せに引き抜こうとして、ハジメは悲鳴を上げてうずくまった。どうやら中でもひどくねじれ曲がっているらしい。怪我に対して映画やマンガのようにタフに立ち向かうのは、やはりハジメには難しいことだった。

 

「とにかく場所を変えましょう。ここはあなたには寒すぎるわ」

「家に。家に連れて行ってくれ。そうすれば」

 

 そうして青年が見たものは幽香にしては珍しく、難しい顔だった。静かにかぶりを振ると、改めてコートをハジメにかけてやる。引き際、なだめすかすように頭を撫でていく手。それに抗うだけの体力も、彼には残されていない。

 

「よく聞いて、ハジメ。家には帰れない」

 

 幽香のポケットから取り出され、吹きすさぶ雪混じりの風にそよぐものは焼け焦げた一枚の札であった。さっきの今でそれが何者の手によるものなのか等と問うほど、ハジメも察しの悪い男ではない。

 

「いつもの公園にコレがいくつも仕込まれていた。次に学校、いつものアーケード、そしてあなたの家の玄関先」

「霊夢の、札――」

「札と札の間に渡されたまじないが糸のように伸びていたわ。クモの巣みたいにね」

 

 もはや家ですら霊夢によって網が張られている。

 幽香が言わんとすることはハジメにもよく理解できる。また、あなたの家族に危険が及んでもいいの? と。つまりはそういうことだ。

 

「来て」

 

 やはり身の回りの不幸は彼女のせいではないか。

 再びふつふつと怒りが湧き出した矢先に幽香が踵を返したので咄嗟に立ち上がったハジメは、そのままの勢いで真正面に倒れ込んでいた。思ったよりも体の状態が酷い。片膝をついたままぜいぜいと息を荒げるだけとなったハジメの体が、ふわりと浮いた。

 

「仕方ないわね」

 

 

 凶悪で無慈悲。

 ハジメの知る所ではないが、幻想郷と呼ばれる地で語られる、風見幽香に関する放言はそのようなものだ。その一片についてでも耳にしたことのある者なら、きっとこの光景を前に腰を抜かすに違いない。

 

「やめっ……ろよ!」

 

 見事にお姫様抱っこされたハジメが力なく左腕を振り回すのだが、幽香は涼しげな顔に微かな悦びを浮かべて歩き出す。それはある意味では凶悪で、ある意味では無慈悲な行動であったものの。

 

「必死になっちゃって。かわいいわね」

 

 またまたある意味では純粋な優しさではないのだろうか。

 青年の醜態を晒すように、わざわざ人の多い通りを選ぶように歩いていくあたりも彼女らしいのだが。

 男一人抱えても淀むことのない幽香の足取りは駅前からアーケードへ、そして繁華街へと踏み入る。近くのコンビニの中、雑誌を前に駄弁っていた女子高生が呆気にとられた様子で尋常ならざる美人と、彼女の腕の中の青年を見ていた。

 

「見てろよ、お前。見てろよ」

「うふふ。これ以上どんなに面白いものを見せてくれるのかしら」

 

 ハジメの言葉はうわごとめいている。そこにうっすらと滲む感情に、幽香は目を細めた。

 

「ぜったい、ぜったいブチのめしてやる。覚えてろ」

「ダメよ。そこはぶっ殺す、でしょ?」

 

 わざわざ耳元で甘く囁くと、幽香は赤ン坊をあやすようにハジメを揺り始めるのだ。

 やがて容赦なく浴びせられる奇異の目も、鼻先で微かに沈丁花の香りを振りまく幽香の髪も嫌になってハジメは瞼を閉じる。荒れ狂う心中に反して、眠りは即座に訪れた。

 

 ◆◆◆

 

 天井に設えられた安っぽいステンドグラスがぼんやりした明かりを投げかけている。

 目を瞬かせるうちに寝ぼけた頭が目覚めてきた。そうして舞い戻ってきた全身の痛みと言ったら酷いもので、ハジメは思わず悲鳴を上げていたほどだ。

 

「お目覚めね。具合はどう?」

「どうもこうもねえよ。良くないことくらい、見たら分かるだろ」

 

 幽香を睨んでハジメは呻いた。

 

「で、ここは?」

「適当に泊まれる場所を探して、部屋を取らせてもらったわ。悪いのだけれど、財布からお小遣いを拝借したわ」

「勝手なことしやがって。つーか、それよりも」

 

 うつぶせのまま背中を調べることは苦労したが、到底立ち上がることも寝返り打つこともできないくらいの痛みである。軽く首を曲げて肩口に突き刺さったままへし折れた木片を見つけて、ハジメは嫌な汗を流す。

 

 それよりもどうして肩が、背中が、そして尻がむき出しなのだろうか。

 

「覚悟してね」

 

 物言いたげなハジメの視線に気づいて、幽香はいつものように不必要なまでに柔らかい笑みを浮かべてみせる。妹を、父を、そしてご近所の皆さんをまるごと懐柔したそれが、今の青年にはどこまでも恐ろしい物に見えて仕方がない。

 

「覚悟って、何をですか」

 

 思わず敬語になっていた。幽香のため息が耳にかかった。

 

「そこまでヘタレだとは思わなかったのだけれど。まだ私に恥をかかせたいなら…………ふぅ、いいわ。仕方のない子ね」

「お、おい、やめろ!」

 

 幽香が指先でくるくると回してみせるものは何を隠そうハジメのパンツである。気を遠くしている間に脱がされたことを考えると悶死ものであるが、まずは全裸を何とかしたい。

 痛みを押して飛び出したハジメであったが、幽香は造作もなくベッドに押し倒すと、その背中につうっと指を這わせたのだった。

 

「うふふふふ、観念なさい」

 

 もはやまな板の上の鯉となったハジメは生娘のようにがたがた怯える他ない。肌を探られるうち、いよいよ脳内では危険信号がけたたましく鳴り始める。

 

「だあっ、待てよ。いくらなんでもお前とそんな関係になんかなりたくないっつーの! あ、やめて、ほんと、ほんとにやめて!」

「え?」

 

 明らかに様子のおかしいハジメに、幽香の指が止まった。

 

「……えっ、て、違うのか?」

 

 目の前のハジメと、指につまんだトランクスを交互に見て。その往復を何度か繰り返すうちに幽香の口元が次第に緩んでいく。

 

「あはっ」

 

 とうとう堪えきれなくなったと見えて、幽香は体をくの字に折って口元を抑えた。目尻に涙すら浮かべて笑う彼女を、やはりハジメは見守るほかない。

 

「な、なるほどね。確かに思わせぶりだったわよね。ごめんなさい」

 

 ベッドから離れて、幽香は既に持ち込まれた荷物の山をごそごそと漁った。そうして取り出したものは、ハジメがもはや見慣れた薬箱である。

 

「手当て、しなきゃでしょう?」

 

 やがてハジメの顔が真っ赤になる。幽香はそんなことを知らんぷりで薬箱からピンセットやら消毒液やらを取り出していくのだが、その横顔に、しばしばこらえきれなくなった笑いが浮かんでは消える。

 

「じゃあ始めましょうか。け、健全なお医者さんごっこを、ね」

「うるせえ!」

 

 最後の慈悲なのか、ハジメの青い尻にタオルをかけてやると、幽香はハジメの背中に消毒液をぶちまけた。途端に恐ろしい痛みがありとあらゆる場所から押し寄せてくる。

 歯を食いしばって耐えるハジメの傍らに幽香は腰を下ろす。ベッドはわずかに沈んで、安いマットレスが軋んだ。

 

「痛い?」

「すごく」

 

 目を閉じると、背中の痛点が星図のように浮かんでくる。

 

「これで終わったのか?」

「そんなわけないでしょ」

 

 いったいこれ以上どうやって痛めつけられるというのか。

 

「まずは針とガラスを引き抜いてあげなくちゃ。それでね、ハジメ」

 

 幽香の指が再び背中を滑る。鳥肌だらけの尻の横っ面に幽香が示したものは、途方もなく大きな異物であった。そいつを認識した直後に激痛が走る。まるでどこかの家の大黒柱を引っこ抜いて、そのまま埋め込んだような違和感である。

 ハジメはごくりと唾を飲み込んだ。

 

「い……いったいコレ……何が刺さって」

「不安になるだろうから、あんまり言いたくはないのだけれど」

 

 そんな言い方をされては気になって仕方がない。精一杯強がって構うかよ、とハジメが呟くと幽香はしげしげとそれを観察した。

 

「たぶんね、お魚じゃないかしら」

「さかなっ!?」

「えぇ。私も信じられないのだけれど。これが、尾ひれで……うろこが……これ」

 

 麻酔なしで体中に埋まった異物を取り出す。おまけにそれがどういう訳か、ナマモノであるらしい。想像するだけで気が遠くなりそうだった。むしろ気を失うことができたらどれだけ幸運か。

 

「な、なぁ。病院、行かないか。やっぱり」

「入院して、それを知ったお父さんが着替えやらお金やらを持ってきて。そうして霊夢の網に引っかかるのでしょうね。それでもいいなら、連れて行ってあげるわ」

 

 そうだった。

 差し出された札を前に、眉間に皺を寄せてハジメが思い出すのはちょうど一月前のこと。蝸牛の怪物との一件である。千晃や家族をそう何度も危険に晒していては兄の沽券に関わる。

 

「ええい、好きにしろ!」

「えらいわね」

 

 深呼吸して、幽香から受け取った札をグシャグシャにするとゴミ箱に放り込む。しかしうつ伏せになって幽香の準備が整うのを待っていると、にわかに沸いた勇気が音を立てて萎んでいくのが分かるようだった。

 

「気が紛れるなら、おしゃべりでもしましょうか」

 

 悪くない提案だ。青年が頷きを返そうとしていると、唐突に湿った音を立てて背中から何かが抜き取られていくのであった。

 

「だっ!? ……っ……前に、言ったよな。こういうことをやる時には」

「前もって教えろって? でも、おかげで度胸がついたでしょう?」

 

 ピンセットをかちかちと鳴らしながら、幽香が枕元に置いたものはフックのように折れ曲がった針である。それが体の中でどんな状態にあったのだろうかと考える矢先、またまた不意打ち気味に背中からガラスの小片が引っこ抜かれ、「あひぃ」と情けなく鳴いていた。

 

「うふふ」

「お前、今笑ったろ」

「なんのことかしら」

 

 もう一度走った鋭痛にハジメが喘いでいる間、幽香はくすくすと笑い続けていた。それで確信がいく。間違いなく彼女は誰かを痛めつけることに悦びを覚えているのであった。

 

「前々からそうなんじゃないかなとは思っていたさ。やっぱりお前はサディストだ。間違いない」

「それの何が悪いのかしら。大の男や普段気丈な子がひんひん泣いてる姿って、結構ときめいちゃうでしょ?」

「でしょ、じゃねえよ。どっちにしろ大したヘンタイだな――あっだだだだだ!」

 

 恍惚の表情を浮かべた幽香が操るピンセットの先端が一番痛いところをえぐっていく。やけにそれは長く続いて、あちこちぐちぐちと弄り回されるあいだ、ハジメは死にかけの海老のような動きで幽香の笑いを誘っていた。

 

 激戦の果て、からりと音を立てて薬箱の上に置かれたのは血まみれの鮭である。

 

「そ、そういうことかよ」

 

 とはいえ、もちろん本物ではない。

 正確には古い家の居間には必ず置いてあるような木彫り熊の一部である。霊夢に廃屋へと叩き込まれた拍子に突き刺さったはずのそれにはもげた熊の首だけがくっついていて、恨めしげな視線をハジメへと送っている。

 

「ともかくお疲れ様。よく頑張ったわね」

 

 うずたかく積み上がった針とガラスと木片を見ていると、我ながら丈夫なもんだと関心するばかりだ。とにかくラスボスは無事に摘出された。ハジメは枕に顎を埋めて、激痛を堪えきった自分を慰めてやる。

 

「こ、これで、流石に終わりだよな」

「いいえ。今度は縫わなきゃ。もういちど傷を洗うわね」

 

 とんだ折り返し地点である。

 ハジメは嗚咽を噛み締めて、ふたたび押し寄せた激痛の荒波に耐える。

 そんな調子で幽香の様子を伺う余裕などない。彼女がとんでもないドSであることはこの際忘れて、念入りな処置も決して彼女の欲望を満足させるためのものではなく、必要なことなのだと自分に言い聞かせ続けた。

 

「なんとか郷の話、してくれよ」

 

 拷問めいた消毒もやがては終わる。次いでやってきた疼痛と、縫合の痛みをごまかせるようなものが、ハジメは欲しかった。

 

「幻想郷だってば。それに、それはこの前にしたでしょう?」

「もっと詳しく。あんたがどんな暮らしをしていたのか、とかさ」

「それは構わないけれど」

 

 針と糸のお世話になるのはこれが最初ではない。もちろん事故の直後には麻酔を効かされて縫われたワケだが。身構えたハジメが肩透かしを食らったことに、ここまでの激痛ですっかり痺れきった神経が伝えてくるのは、ずずずと糸が肉を通っていく感触だけであった。

 

「外れにあるひまわり畑に私のおうちがあってね」

 

 どことなく、幽香の言葉は歯切れが悪い。

 

「ほとんどの時間はそこで過ごしていたわ。妖怪たちのもとへ出向いたり、人里に遊びに行くこともあったけど、あまり歓迎はされなかった」

「はは、そりゃそうだろうな」

 

 話の間も糸と針は滞りなく動いていた。長らくうつぶせの上に疲労困憊である。その一定で短調なリズムが、むしろ眠気を誘ってくる。

 

「なによ、そうだろうなって」

 

 ずずず、ずずず。糸は動き続ける。

 

「そんなデタラメな力を持ってたら、近づくやつなんていないだろ」

 

 実際、雪之丞もそうだった。ハジメがいくら考えても彼の怒りが理解できないが、その原因の一つに能力があるのは間違いない。ハジメですらその有様なのだ。幽香ほどの力を持った時、いったいどれだけの知人が傍に残るのだろうか。

 

「ひどいわ」

「お前にだけは言われたくない。で、実際のところ、ぼっちだったのか?」

「失礼しちゃう。友達くらい」

 

 もう一度、失礼しちゃう、と呟いたきり幽香は静かになった。ハジメからでは、幽香が不安げに指折り数える様など知りようもない。その沈黙を気まずいものと受け取って、ふとした疑問を口にしていた。

 

「それじゃ話、変わるけどさ…………能力って、一体なんなんだ」

「漠然としたことを聞くわね。自分で使っていても分からない?」

 

 背中の感覚で、木彫り熊がめり込んでいた傷口に幽香の手がかかったことが分かる。ようやく終わると安堵した瞬間、眠気が押し寄せてきた。まるで疲労がそのまま毛布にでもなったかのようだ。

 

「わかんね」

 

 眠気に飲まれはじめたハジメの声はもはや途絶え途絶えだ。

 

「花は咲きたいから咲く。花であるから咲くんじゃないわよね。咲こうとする意思こそが能力であって、開いた花びらは結果でしかない」

 

 小難しい例え。

 やや空白の時間を置いて、ハジメは同じことを繰り返す。

 

「飾り気のない言い方をするならば願望を叶えるための手段かしら。もしくは本質のあらわれ、よ」

「願望を……叶える……本質……」

 

 光線で空を焼き払い、目にも止まらぬ速度で飛び回り、素手で怪物を叩き潰す。本人の性格は言わずもがな。そんな女がいて、そいつが能力を持っていたとすれば、それは。

 

「ならアンタの能力、よっぽど恐ろしいものなんだろ」

「えぇ。口に出すのもはばかられるくらい、おぞましい力よ 」

 

 意味ありげな幽香の笑い声に、ハジメはふんと鼻を鳴らした。

 こちとら弾を指先から発射するだけの単純極まりない能力である。それが一体どんな意味を持っていて、一体どんな願望の発現なのか、未だに手がかりもないのだ。

 

「俺のもきっとそうだろうな。誰にも言えないくらい、下らないとかでさ」

 

 目を瞑る。星はもうほとんど見えない。

 

「俺、こんなんで勝てるのかな。霊夢にも、あんたにも」

「あらあら、弱音?」

 

 ハジメの語尾はほとんど消えかかっていた。

 やがて顔と枕の隙間から穏やかな寝息が聞こえてきて、幽香はふふふと笑った。ぷちんと最後の糸を切って、彼女はおもむろに服を脱いでいく。その白絹のような肌には傷一つない。

 唯一の例外は左腕に巻いた包帯。それをいとおしげに眺めたあと、幽香はハジメの頭を撫ぜた。

 

「あなたが私を殺してくれるかはまだ分からないけれど、楽しみにはしているのよ。あなたが殺してやるって言ってくれたとき、本当に嬉しかったんだから」

 

 そのままタオル一枚手に鼻歌を歌いつつ、バスルームへと彼女は姿を消したのだった。

 

 ◆◆◆

 

 赤い円の夢を見る。

 右を向いても左を向いても暗闇が広がる中、それはぼんやりと輝きを放って浮遊していた。

 コインを手にそいつに手を伸ばす。

 輝きが一層増して、息が詰まるような闇が煙のように揺らいだ。

 

 赤い円。ハジメには見覚えがある。

 コインはいつしか冷たく、大きな別のものに変わっていた。それは赤いスプレー缶で、遠い喧騒を聞きながら、ハジメは長いことコンクリートの壁と対峙していた。

 

 缶を振るカラカラという音が建設現場の壁を打って反響した。

 意を決したように壁を睨みつけ、スプレーを吹く。

 絵心はないが、別に凝ったグラフィティをそこに残しにきたわけではないのだ。

 

 何もかもにも息が詰まるような気がしていて、半ば夢遊病のようにその場所へと向かったというだけのこと。

 

 出来上がったものも単純極まりない丸い大きな円で。

 喉の奥のつかえは、そんなイタズラをかましたくらいで和らぐことはなかった。

 

 そんなことはわかっていたさと踵を返そうとした時だ。

 すべてを目にした彼ですら信じられないことに、壁に描いた円が『花開いた』のだ。

 不思議と、その超常の光景は薄暗い中で目にしても恐怖に取って変わられることはない。

 むしろハジメは快さを感じていた。

 

 どうしようもない窒息感が薄らいでいった。

 まるで隣に、彼の息苦しさを分かち合ってくれる誰かが居てくれるような気がしたのだ。

 壁の大輪の花に手を伸ばす。コンクリートの壁が、不思議な温もりを帯びているように思えた。

 

 やがてその輪郭が赤く輝き始め、再び暗闇の中にハジメは取り残される。

 死にそうなほど苦しかった。

 

 ◆◆◆

 

 息苦しさは顔面に押し付けた枕のせいだった。

 汗だくのハジメが時計を拾おうと腕を伸ばして、縫われたばかりの傷の痛みに顔をしかめる。外はまだ暗い。

 

 丸一日寝たのかとも思いつつ、枕元には未だ血に濡れた鮭が転がっている。どうやら眠りは相当に浅かったようだ。なにか夢を見ていたような気もするが、寝起きのぼやけた頭ではどうあっても思い出すことはできない。

 ただ、妙に快かったことと、物悲しかったことだけは覚えている。

 

 遠い雨の音に耳を傾ける。

 幽香はどこかへ行ってしまったようで、痛む体を引きずってハジメは立ち上がった。ちょっとだけ顔を洗って、また寝よう。

 

 バスルームの扉を開け放った瞬間雨音が一層強くなった。いや、それは雨などではない。単なるシャワーの水音だ。立ち込める湯気を前に、ハジメは強烈なデジャヴに襲われる。

 

「このっ、ば、ばか!」

 

 ここに来て疲労が味方した。ふっとよろめいたおかげて幽香の張り手は鼻先をかすめるに留まる。そのまま危なっかしくたたらを踏んで体勢を立て直すと、ハジメは慌ててドアを閉めた。

 

「わざとじゃない!」

「これ、二度目よ……っ! 学ばないわね、ハジメ!」

 

 戸板一枚越しに放たれる凄まじい殺気。

 このまま部屋に居たのでは殺される。急いで財布とバスローブ一枚引っつかむと、ハジメはカビ臭い廊下へと躍り出た。

 

 あの様子では当分部屋には戻らない方がいいだろう。

 

 仕方なく自販機で馴染みのエネルギードリンクを一本買って、廊下の端にひっそりと佇む公衆電話に十円玉を放り込んだ。長い待ち時間。どこかの部屋で繰り広げられる言い合いと、自販機のうなりを聞く。

 

『はい、鶴見です』

 

 電話に出たのは聴き慣れた、甲高い声だ。

 

「千晃か」

 

 げー。

 とっさに電話口を覆ったのか、その声はやけに遠くから聞こえた。実妹に嫌われていることは百も承知なので、ハジメは気にせずローブの帯を巻き直しながら妹の返事を待つ。

 

『…………何の用さ、ばかあにき』

「しばらく家を空けることになりそうだから、一応連絡した」

『お姉ちゃんもいっしょ?』

「そう」

『いったい二人して、どこにいるワケ?』

「駅前のやっすいホテル。いろいろ事情があって詳しい場所は言えないんだけどさ」

 

 息を呑む音。次いでどがちゃあ、という騒音が響いた。おおかた受話器を取り落としたのだろう。わちゃわちゃと何事かまくし立てる妹が落ち着くまで時間を要する。彼女の暴走があまりにも長いので、小指で受話器のコードを巻いていたくらいだ。

 

『ばかあにき! サイテー!』

「お、落ち着けったら」

『できるわけないでしょ。あたし、確かに仲直りしろってメールしたけどさ!』

 

 散々な言われようである。

 もちろん過去に江梨花や雪之丞とともに外泊したことは幾度となくある。しょせんは学生の貧乏旅行なので全員が同室、もしくは同じベッドに詰め込まれることもあった。

 それでも何も言わなかった千晃がここまで取り乱すのは、やはり親愛なるお姉ちゃんのことだから、なのだろうか。

 

『そこまで仲良くなれ、なんて言ってないっつーの!』

 

 結局ロクに話もできず、乱暴に切られた通話。

 受話器にため息を吹いて、ハジメは傷の具合を確かめるように肩口をぐるぐると回してみる。即座に突き刺すような痛みが背筋を這い上がり、思わずその場で飛び上がっていた。

 

「いってええええぇぇ」

 

 ひいひいと息を荒げて、ハジメは廊下の椅子に尻を気遣いながら恐る恐る座り込む。夜中の廊下は薄暗く、ただ非常口を示す緑色の光が雨中の車のライトのようにおぼろな輝きを放っている。

 

 中身を一気に飲み干して、缶を放る。ゴミ箱の縁にはじかれて、それはからからと乾いた音を立てて廊下を転がった。

 数日前までは確かに見えていたはずのものが、急に見えなくなってしまったようだった。

 

 

 

 第七話『ひとりぼっちの向日葵』おわり

 

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