風見幽香の殺し方【完結】   作:おぴゃん

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9『向日葵の産声(上)』

「お前、警察に捕まったんだって?」

 

 ハジメがグラウンドに視線を馳せていると、背側から雪之丞が寄りかかってきた。

 

「人聞き悪いな。補導だっつの」

「変わらねえよ。何したん」

 

 答えずにハジメは五円玉を指で弾いた。机の上でぐるぐると回るコインは平面だ。平面にも関わらず、高速で回転している間は球にも見える。不思議だよなぁと虚脱感全開でハジメが呟いていると、それを横から雪之丞の手がさらっていく。

 

「教えろよ。どうせ下らない理由なんだろ?」

 

 じとりと睨むハジメに、雪之丞は口笛吹いてコインを投げ返した。

 

「あれだよ、アレ。駅から少し下ったところの建築現場あるじゃん」

「すっげえ長いあいだ工事してるやつな。あれ近所だし、めっちゃうるさいんだわ」

「スプレー持って忍び込んで落書きしてたらめっかった。それだけだよ」

「で、感想は?」

「最高だった」

 

 補導された悪ガキはもう一度だけコインを弾いてポケットに仕舞った。

 後ろでは雪之丞が呆れているが、あそこで起こったコトの仔細を話したくはない。奇跡じみた数十秒は自分だけの物にしておきたかったのだ。

 

 赤い円。壁の花。

 

 うっとりと思い出すハジメをまたまた邪魔したのは雪之丞である。鼻の穴を膨らませて雑多な旅行雑誌をハジメの机にぶちまける。珍しくカバンをもって学校へ来たと思えばその矢先にこれだ。

 苦笑してハジメはその一冊を手に取った。

 

「ところでさ、卒業旅行どこ行くよ?」

 

 思えば高校二年。冬。迫りつつある受験戦争の予感は外を吹き渡る風以上に身を引き締めるものがあったが、まだまだ高校生活の楽しみは残っている。将来のことをあれこれ悩むのは、もっとずっと先でいい。

 

「奈良は学校で行ったからなぁ」

 

 未来は後回し、野望も後回し。人生の大海は広く深いが、自由気ままにゆるゆら漂っていれば、きっとたどり着く岸辺もある。

 

「カネ貯めて南の方とか。あ、江梨花も誘ってさ」

「いいねぇ。じゃあ三人でド短期のバイト先でも――」

 

 ◆◆◆

 

「がっ――げえっ、えほっ、あぁ、クソ。ひでぇ、げっ、マジで」

 

 貯水池の水草だの虫の死骸だの泥だの。そういったものを冬のあいだ思う存分洗ってきた水を鼻と口から吐き出して、ハジメはようやく意識を取り戻した。

 

「死んだかと思ったぜ。心配させんなよな」

 

 とてもじゃないが言葉通りにその意味を受け取るのは難しい。

 

「任せるって言葉はお前の口から聞きたいんだからさ」

 

 口笛でも吹き出しそうなニヤニヤ顔の雪之丞がお手玉するそれ。名も由来も知れぬ、紅蓮の炎を纏う謎めいた武器。それが何倍もの長さに伸びたと思った瞬間に、ハジメの意識はブラックアウトしたのだった。

 

 ハジメの視線に気づいて、雪之丞は形の良いえくぼをよりいっそう濃く刻んだ。

 

「なんつったけな。これの本家本元。たしか紫が教えてくれたんだよ。レ――レヴァ、レーバ? とにかく強い吸血鬼の剣ってのは覚えてんだけどなぁ」

 

 刃も鍔もないが、柄を握って振り回す本人がそう言うのであれば剣なのだろう。そして、いつになく饒舌な雪之丞の口からこぼれたもうひとつの名前が、ハジメの耳に引っかかっていた。

 

「ゆ、かり?」

「幻想郷の大妖怪だとさ。あいつがこっちとあっちを壁で仕切ってるとかなんとか」

 

 風見幽香がぶち壊した現実と非現実の壁。その管理者はユカリという名前の妖怪。好き勝手のツケを払わせに来たのは霊夢だけではなかったということか。

 

「そんなおっかない妖怪が、女みたいな名前なんてな」

 

 最後っ屁のつもりで放ったイヤミに、雪之丞が真顔で首を傾げた。

 

「おいおい、お前何言ってんだよ。紫は女だってば」

「いや、人間じゃなくて妖怪なんだろう」

「だから女で、その上妖怪なんだってば。幽香さんと一緒で――――あぁ」

 

 そうしてようやくハジメは会話に潜んだ違和感の正体を探り当てた。

 幻想郷は人間と妖怪と神様とが仲良くおてて繋げたり繋げなかったりする、幻想の住人たちにとっての最後の楽園なのだと聞いている。

 幽香は妖怪の、それも雌。口に出してしまえば拍子抜けするほど簡単な理屈だというのに。

 

「ははっ。そうか、お前知らされてないんだ」

 

 この滑稽な勘違いの裏側にはひとえに蝸牛の妖怪の存在がある。

 無慈悲で残忍で意図不明で本能的でとことん醜悪。妖怪とはそうあるべきものなのだということを、ハジメはあの哀れな怪物から学んだ。

 

『あなた、妖怪を甘く見すぎているわ』

 

 実に不可解なのは当の妖怪が発したその一言だ。

 

「かくいう俺も、今じゃ晴れて吸血鬼ってやつになっちまったらしい。ようやくこれで幽香さんと同じ土俵に立てたってワケ」

 

 ハジメはずっと、幽香の馬鹿げた力の源が能力にあると考えていた。だが人間と妖怪ともなればそもそも馬力が違うことは蝸牛の一件で学習済みだ。いくら能力や戦闘技術を磨いたところで、その溝は埋めようがないのではないか。

 

「遊ばれてたんだよ、お前」

 

 幽香が妖怪だと知らされる前でも、ハジメは何度かその可能性を考えてきた。

 

「違う」

 

 だが、今ははっきり否定できる。

 強いて挙げる根拠なんてものは、いつもどこか期待して、どこか不安げに弁当の感想を聞いてくる幽香の顔くらいだが。

 

「あいつはそういう意地悪だけはしない。長いから分かる」

「ちっ」

 

 返答がよほど気に入らなかったと見えて、雪之丞は苛立ち紛れに燃える武器を振るった。炎の刃を纏った姿に、初めてそれが剣であると納得できる。ハジメの意識は再び闇に沈んだ。

 

 怒りのままに振り抜いた刃。その手応えは今までのものとは大きく違った。

 

「ハジ、メ?」

 

 硬いものを砕いた感触だ。

 仰向けにぐったりと倒れて動かないハジメを、雪之丞は固唾を呑んで見守る。今の一撃はどうしようもなく手加減ができていなかった。

 

 もともとはハジメをただ屈服させるためだけの戦い。

 それをここまで本腰の入った殺戮にしてしまったのは、やはり雪之丞の身の内に宿ったものなのだろうか。しばらくして息を吹き返したハジメも、粉砕されたギプスの下の傷を抑えながら同じことを考えているようだった。

 

「どうしちまったんだよ」

 

 ハジメは浅瀬に膝をついたまま問うた。

 

「吸血鬼になった? 能力をゲットした? いったい、いったい何がお前をそこまで」

「知りたいか」

 

 月下に炎の剣を構え、水の上を歩く美しい吸血鬼。ふとすればハジメでも魅入ってしまいそうなほどの妖気を雪之丞は放っている。親友をここまで変えてしまったものとは。

 

「教えてやるよ。耳かっぽじって聞けばいいさ。そして慄きやがれ。てめぇ」

 

 長い付き合いで初めて雪之丞が怖い。その言葉の一つ一つが、まるで決別となって胸に突き刺さるようだ。次に口を開いた瞬間、ハジメは思わず耳を塞ぎたい衝動を殺すので手一杯だった。

 

「幽香さんとイチャイチャしやがって」

 

 どこかでカラスが鳴いていた。

 遠くから県道を走る車のエンジン音が聞こえる。ふと足元に目を落とすとちゃぷちゃぷという快い水音であったり、冬風にそよぐ木の葉のさざめきであったり。

 

「は?」

 

 なにを言いたいかといえば、そのくらい静かだった。

 

「ああだこうだ文句言ってやがったけどよ、お前ぜったい楽しんでんだろ。ぜったい役得がいろいろあったはずだろ。なんだお前今時ガッコーに弁当届けてくれる美人なカノジョっている訳無いだろがそんなもん常識的に考えてそれを平然とやってのけるお前が――ッぴゃっはあ!?」

 

 顔面を直撃した最小火力の弾丸。それに弾かれた雪之丞の頭は、とてもとても軽い響きを奏でて空を仰いだ。

 

「なにしやがる」

 

 額からたらりと一筋の血を流しつつ、怒り心頭の雪之丞が睨む先。

 

「お前がなーんもわかっちゃいねえ。ってことだけは、よくわかったよ」

 

 燃える左手。肩から途方もない怒気を発散させるハジメは、黄金に輝く双眸で雪之丞を睨み返した。ばしゃり。水面に波紋が広がる。

 

「聞け」

 

 ハジメは決断的な足取りで、雪之丞へと距離を詰めていく。

 

「俺は半年以内にあのバカを殺さなきゃ殺される」

 

 右腕を縛るものはもうなくなった。指先がぎこちなく曲がる。手首、肘。二ヶ月近く眠っていた体の一部を手荒く目覚めさせる。油をさされたばかりのライターのように、その指先が小刻みに火花を吐く。

 

「認めたくないがあいつは美人だし、作るメシについては正直依存性なんじゃねえかってくらい気に入ってる。千晃の話はしたよな。オヤジも信じられないくらい気色悪いことに人生の春ってやつを思い出したのかもしれん。ただ」

 

 ただ、約束を果たせなかった暁には。

 

「あいつは一族郎党とことん苦しめて皆殺しにした上で世界を滅ぼし、シメに俺の腸で縄跳びをする」

 

 対峙する青年二人の距離はおおよそ十メートル。

 ハジメの指鉄砲も雪之丞の剣も相手を射程に収めている。

 

「そういう約束だ」

 

 ひと思いに拳同士を叩きつけてみる。問題ない。片腕が十倍にも膨れ上がったような違和感はどうしようもないが、今は開放感が優っている。

 

「わかるか」

「だから知ってるッつーの!」

 

 怒りこらえきれずといったところか。

 

「お前が嫌々送ってるのは、俺が心の底から望んだ青春なんだってことはさ!」

 

 もはや人間のものではない形相を浮かべた雪之丞が振るった剣が悲鳴のような響きを上げて生み出したものは燃える十字架だ。それもひとつやふたつではない。

 

「いいや。無理やり殺し合いをさせられる俺の気持ちなんて、わかるはずがない!」

 

 霊夢の攻撃に心折れかけていたのが嘘のように、今は恐ろしく落ち着いている。

 カエルのシールが貼られたギプスの破片が没する様を視界の端で捉えつつ、ハジメは仁王立ちする。波紋が巨大な円を描く。

 

「バカみたいにお前を待っていたらこのザマだ! お前はずんずん俺の知らない世界に行きやがる!」

 

 芝刈り機の刃のように騒々しく高速で回転する無数の十字架が四方八方から飛来する。

 迎え撃つハジメの両瞳では黄金の日輪が恐れを知らぬ輝きを放っていた。

 

「防ぐか、避けるか、受けるか」

 

 幽香の言葉を反芻し、右腕を一瞥する。先の攻撃に対する反応は正解だ。ギプスの最後の欠片を腕から振り払って日輪の輝きを解き放つと、あとは一瞬だった。

 ハジメの足元から立ち上るぼんやりとした橙色の光。そしてすべてがシンプルに見えた。撃っていいものと撃ってはいけないもの。導きに耳を傾け、指指を向け。

 

「これで連射は二倍。いい勝負くらいはしてみせる」

 

 正確に真芯を撃ち抜かれ爆散する十字架の群れを前に、あたかも二丁拳銃のように両手を交差して爆炎を構えるハジメのシルエットが浮かぶ。鋭い犬歯をむき出しにして、雪之丞は叫んだ。

 

「ピンチにパワーアップってか。そういうの、一番気に食わねえよ!」

「そうか。じゃあ俺はガゼン気に入ったね!」

 

 湖上を所狭しと飛び交う十字架と爆炎。爆発と怒号と水しぶき、そして再び爆発!

 その間を駆け回るのはちっぽけな、本当にちっぽけな二人の青年だ。数倍に膨れ上がった雪之丞の剣が弾幕の間隙を縫ってハジメの喉笛を狙う。それを阻むのはハジメの激烈な砲火だ。至近距離で剣を直撃した爆撃は、目覚めたばかりの吸血鬼の筋力で押さえ込むには余りある。

 

 腱と骨をきしませながら、雪之丞は後退する。力尽くでハジメを押さえ込もうとすれば容易極まると踏んでいたにも関わらず、彼は後退しているのである。

 

「どうして何の覚悟もないお前ばっかりが。俺はここまで捨ててるんだぞ」

「捨てたお前に負けるかよ」

「この体のせいでもう二度と陽の光なんて拝めねえってのに。こいつぁ、あまりにヒドイじゃねえか」

 

 単純なポテンシャルの上でなら雪之丞が大きく優っている。

 それでいてハジメに互角の戦いを許しているものは、たった数度の実戦経験だ。霊夢に幽香、そして蝸牛の怪物に至るまで、この瞬間までただただ彼を痛めつけてきただけの理不尽が急に追い風を起こす。トリガーを羽のように軽くする。

 

「ダチを捨てようとしてるのはお前だってそうだろ」

 

 光の濁流のように迫る弾丸の嵐を剣で叩き落としながらも、雪之丞の体は次第に削り取られていく。

 

「そんなはず」

 

 そんなはずがない。

 言ってしまえばそこまでになるはずの言葉が形にならない。

 ここまで意地になって幽香との約束にしがみついている理由とは何だったろうか。どうして彼女が他の誰かの手によって命を奪われると思うと、ハジメは心臓が潰れそうなほど悔しくなるのだろうか。

 

「それに、お前は大事なことを知らされていない」

 

 雪之丞はハジメの弾丸を叩き落とすことを止めて、弾幕を自ら被った。

 慌てて射線をずらした時にはすべてが終わっていた。爆炎を纏った雪之丞が水上を跳ねる。剣を杖がわりに立ち上がった彼は、未だ闘志の残る目でハジメを睨む。

 

「どうしてあの人はそこまでしてお前に――誰かに殺し合いをして欲しいんだ?」

「それは俺がうっかり言った言葉が」

「そりゃどうかな」

 

 戸惑うハジメを見つめる雪之丞は、それはそれは楽しそうだった。

 

「俺は知ってる。お前が知らないことを、俺はみんな知ってる」

 

 彼の体がぐらりと倒れ込んだ。

 未だ赤々と焼ける嫉妬の炉心が水を沸騰させ、彼の沈んだ水面から立ち上るものは夥しい泡と湯気。

 

「ユキ!」

 

 我に返ったハジメが深みに踏み込んで、必死に水をかく。ぬめる水草をかき分けるうちに、水中に光が灯った。壮絶に水面が跳ねる。咄嗟に身を引いたハジメの鼻先を掠めて飛んでいったものは、無数の蝙蝠だ。

 

「だから、俺の勝ちだ」

 

 耳元で囁かれたようなユキの声。

 ぐしょぬれのハジメは遠ざかっていくコウモリの群れを見送ることしかできない。ポケットの中で無意識に握り締めるものは、やはり穴のない五円玉であった。

 

 ◆◆◆

 

 二度目の対戦は戦いと呼べるような内容ですらなかった。

 何がどう起こってしまったのかを語るのはあまりに容易い。最後には幽香が立っていて、血だまりに倒れる霊夢を見つめる。それだけだ。

 

「あんたを止めるなら、今しかないのに」

 

 この日初めて霊夢が表情を崩した。

 下唇をちぎらんばかりに噛み締めた彼女の手首で砕けたものは巨大な結界をつないでいた札だ。

 

 ばちん、と。

 まず二人の頭上、大きく傾いだ電灯が明滅する。

 それをきっかけに波が広がるように息を吹き返していく街の灯りが照らし出すものは、月面さながらにクレーターだらけとなったアスファルトと、未だあちこちで燻る大小の炎。

 残骸、燃えかす、そして霊夢の血。

 

「自分の問題は自分で始末をつけられる」

 

 ぐしゃぐしゃにねじ曲がったバス停であったものを投げ捨てて、幽香は目元に飛んだ返り血をぬぐった。げほげほと咳き込んで霊夢は俯く。幽香は思わず手を差し伸べていた。

 

「霊」

 

 音はぶしゅ、だったか。ぼしゅ、だったか。

 黒く大きなものが幽香の眼前をよぎった直後血煙が立ち上った。肘から先を失った幽香の左腕。はらりと包帯の切れ端が舞い落ちるよりも早く、それは霊夢の隣に姿を現していた。

 

「っ。あらあら。二対一なんてずいぶん節操なくなったのね」

 

 痛みに顔をしかめるでもなく、とめどなく血を流す傷口に構うでもなく、幽香は細い顎を持ち上げて挑発的にそれを見下した。

 

「昔のやり方に戻しただけよ。化物が化物に容赦する理由なんてない」

 

 幽香の左腕を引きちぎったものと同じ、真っ黒な大口。

 宙に開いたポケットのような空間の内部には、誰のものとも知れぬ無数の目玉が無秩序に敷き詰められている。

 その淵にぬるりと白い指がかかった。女のドレスもまた白い。あたかも軟体生物のような動きで裂け目から女が這い出てくる様にはひどく名状しがたいものがある。

 

「霊夢、残念だけど私たちの完敗よ。今回はね」

 

 雪之丞とコーラを挟んで談笑していた時の柔らかな雰囲気は失せていた。

 彼女は怪物としてここにいる。彼女の管理する世界のルールに泥を投げつけて去っていった風見幽香を殺すために。

 

「ユキのやつは?」

「なんとか戻ってきたわ。今頃クサってるはずだから、元気づけてあげて」

「はは。励ましなら私が欲しいくらいだわ」

 

 猫でも扱うように霊夢をひょいと掴んで裂け目へ放り込むと、女――八雲紫はようやく幽香に向き直った。その手には血の気の失せた幽香の左腕が握られており、煙臭い空気の中に解けかけの包帯がゆらゆら遊んでいた。

 

「その余裕はどこから来るのかしら?」

 

 紫の手元で幽香の左腕がみちりと音を立てた。腕を失って尚、幽香はむしろ微笑んで口を開く。

 

「可愛がった向日葵が、咲いてくれたみたいだから」

「鶴見ハジメのこと?」

「そう。彼がきっちり私を殺してくれる。とんだ無駄足だったわね」

 

 八雲紫は塵芥を見るような目で幽香を見据えた。

 

「無駄じゃないわ」

 

 それはかつて幽香をとことんまで追い詰め、幻想郷の負債だと言い放った時と同じものだ。睨み返す幽香の瞳にも同質の侮蔑が宿っている。

 

「私は絶対にあなたを許しはしないもの。霊夢を痛めつけたあなたも、あなたの大事なお友達も、つま先からゆっくり一寸刻みにして掃き溜めのカスみたいにバラ撒いてあげる」

 

 張り詰めた殺意を放ちながらも、紫はその背中を向けた。

 

「でもそれはいつだって出来る。私はあなたなんかより霊夢たちが心配なの。今日は尻尾を巻かせてもらうわ」

 

 これが単なる世間話に終始しないことが幽香にはわかりきっている。帰る前に、何かひとつ爆弾でも落としてやろうという魂胆なのだろう。

 

「私、これでもあなたを見直したのよ」

 

 幽香は視線だけでその続きを促した。

 

「機嫌を損ねれば誰も彼も苛め殺していたころとは大違い。特にあのひきこもりのコを部屋の外に出すまでの一部始終とか。年甲斐もなくウルっときちゃった」

「のぞき見なんてあなたは相変わらずね。よければ私の爪垢、そこにあるけど?」

 

 妖怪はいずれも満面の笑みで対峙する。しかしてその間に張り巡らされるものは傍で燻る煙よりも黒い何かだ。

 

「土いじりばっかりしてる小娘の爪なんて、見るだけで破傷風になりそうね」

 

 紫は幽香の腕から包帯をゆっくり解いていく。あくまで表情を崩さない幽香であったが、残された彼女の右腕は寝巻きの裾を後ろ手に強く掴んでいた。

 

「今頃ハジメはあなたのことを知ったと思うわ」

 

 この場で紫をひねり潰す気になれば、おそらくそれは可能だ。問題は幽香の心中にさっと立ち込めた暗雲であった。

 

「――お生憎様。ハジメは散々脅かしてあるの。それくらいで今更何が変わるというのかしら」

「あなたがそう思うのなら胸を張ってあの家に帰ればいい」

 

 妖怪風見幽香の長すぎる生涯で、つい今しがたまで談笑していた人間の顔が恐怖に引きつる瞬間は幾度となく目にしてきた。本能が恐れるものを、そう簡単にぬぐい去ることはできない。

 幽香の瞳によぎった影を読み取って、紫はようやく溜飲が下ったとばかりに声を上げて笑った。

 

「人里に下りてきたあなたはいっつも滑稽だったわよね。花の妖怪さん」

 

 ようやくちぎれた腕を弄ぶのをやめて、紫はそれを幽香の前に放った。湿った音を立ててアスファルトに赤い帯を描きつつ、包帯がほどけていく。

 中から現れた素肌は。

 

「あの子くらいはあなたを受け入れてくれるといいけど」

「ッ!」

 

 鋭い音を立てた弾丸が閉じつつある裂け目を射抜いた。

 薄く頬を切り裂かれた紫は怒るでもなく、浮遊する目玉を気まぐれにぶじゅっと潰してただ笑う。

 

「やっぱり。あれだけ彼を怖がらせておいて、今更あなたが怖くなっちゃったんだ」

 

 地面に放り捨てられた我が腕を見つめて、幽香はひたすら立ち尽くす。包帯の残骸がはらりと解けて夜風に舞う。現れた彼女の肌は白磁のような美しさだ。焼かれたことも貫かれたことも忘れたように、ただただ月明かりに輝くそれは、彼女がどうしようもなく人間でないことの証明だ。

 

「人間ごっこはもうおしまい、ね」

 

 迫るサイレンの音から逃げるように、幽香は足早にその場を去った。

 

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