鶴見千晃は実兄が大嫌いである。
正気か否か、千晃を部屋から出そうと『天岩戸作戦』なる珍妙な乱痴気祭りを部屋の前で開催されたこともそうだが、心の底からぶちのめしてやりたくなったのは新しくお姉ちゃんが出来て、新年を迎えてからのことであった。
唐突に二人は喧嘩した。
理由はとんでもなく下らないもので、二人が全面戦争になったら面白いなぁ、なんて考えながら千晃はお姉ちゃんの作ってくれたお雑煮をのんきにすすったものだ。
それがどうしてこうなったのか。
ある夜更けにお姉ちゃんが『胸騒ぎがするから』とふらりと出て行って以来、鶴見家の食事は三食コンビニ弁当へと逆戻り。
あまつさえ兄の電話で彼がお姉ちゃんを連れてそのままどこかに泊りに行ったことを知って――ぐああ、あにきてめえ殺してやるぜヒャッハーッ!
――というわけなので、そんなクソったれな兄貴が帰ってきたときは出迎えがてらに一撃食らわせてやろうと冷蔵庫の中に冷水を入れた洗面器を突っ込んでおいた。
次の日になっても帰って来なかったので千晃は鏡餅の昆布を入れてみる。いい感じにとろみが出て、なんだかぶっ放す瞬間が心待ちになってくる。
次の日も帰らなかったので醤油を入れた。次は鰹節。次はからし。こうなったら余りもののちくわも投入してしまう。
そして千晃は気づいた。
「おでんじゃん、これ」
徐々に洗面器の中はしょうもないカオスへと変貌を遂げていくが、肝心要のターゲットは一週間を過ぎても帰ることがなかった。
「雨降ってなんとか。ってやつかよ。はん」
もはやネタも尽きた洗面器おでんは冷蔵庫の中でゆっくり腐っていくのを待つだけだ。
今では千晃もよれよれのちくわ同様にだらしなくソファに体を横たえるだけ。
父のいびきから避難してやむなくそこを夜の居場所に選んだ彼女だったが、深夜にインターホンが鳴った瞬間の豹変ぶりには凄まじいものがあった。
「はい、お待たせしましたっ」
引きこもり生活で無駄にチャージされたやる気を一気に解き放つとソファから飛び降りる。インターホンの受話器に投げかける口調も、まるで受付嬢のようにはきはきとしていた。
「開けてくれ」
ビンゴ。
疲れにかすれて息切れもひどいが、それは間違えようのない、聴き慣れた声だ。
「はいはい。急かさないでってば」
本当に急いてるのは私だけどな。
そろりそろりと受話器を置いて、千晃は冷蔵庫を開ける。洗面器はそこにあった。
「くらいやがれ、あたしの自信作」
悪い笑顔でそいつを手にして廊下を渡る足は軽い。
ホップ・ステップ・デストロイ。ハジメにたっぷりストレスを食らわせたあとは久しぶりに幽香と一緒に眠って、明日の美味しい朝食をゲットする。完璧な計画だ。
割と真面目に彼女の現状を心配する父が知ればさぞかし悲しむだろうが、千晃はまったく気にしない。ドアはロックの解除だけしてやり、向こうが開けるのを待つ。そして洗面器を構えて――
「千晃」
おでんを抱えたまま、千晃は呆然と兄の惨憺たるさまを見つめた。吸血鬼雪之丞との激戦で貯水池を転げ回った彼は、千晃が洗面器をひっくり返すまでもなくずぶ濡れなのである。
何故か真冬の夜半に薄手のスウェット一枚の彼は、小脇に丸めたジャケットを抱えていた。
「その格好どうしちゃったの!?」
「あいつは?」
一月の夜にそんな格好なんて正気の沙汰ではない。
白い唇で震える彼はちくわぶも昆布も視界に入らないかのようだ。彼はただ玄関先に並べられた靴を一瞥して、鋭く舌打ちした。
「あ、あいつって?」
「だからあい――クソ、幽香だよ」
「お姉ちゃんなら、一緒じゃないの?」
憔悴しきった兄の様子にただならぬものを感じる。
もはや千晃は洗面器をぶちまけることをやめて、今にも出ていこうとする兄を引きとめる。
「ホテルにも家にもいないなら、あいつ、やっぱり」
ねぐらの周りに広がる焼け跡を目にした瞬間からイヤな予感はしていた。真っ先に駆けつけるはずの幽香の不在といい、雪之丞の捨て台詞といい。
慌てて家に引き返したハジメの予感は的中しようとしていた。
「ちょ、ちょっと待ってよ。さっきからまるでお姉ちゃんが出て行ったみたいなこと言っちゃってさ。驚かさないでよね、もう」
冗談めかして千晃が兄を小突く。ハジメは無言で見おろす。もう一度、恐る恐る小突く。やはりハジメの硬い表情が和らぐことはない。
「……マジ?」
「まだそう決まったわけじゃない。もう一度探してくる」
既にハジメは踵を返していた。反射的にサンダルをつっかけて千晃がその後を追う。ぺたぺたという足音は、すぐに止まった。
「待って、あたしも」
声にいつもの勢いはない。
ハジメが振り返り見ると、千晃は敷居をじっと見つめたまま、立ちすくんでいた。困り果てて泣きそうな顔を見せまいと彼女は俯く。
「無理しなくていい」
ハジメは妹の前にしゃがみこんだ。顔を背けた妹の頭に手を置くと、ぎこちない手つきで撫でてやる。
「幽香は俺が連れ戻す。その代わりオヤジが起きたら居なかった間のこと、うまく言い訳しておいてくれ」
「あにき」
「ところでそれ、おでんか?」
そこでようやくハジメは千晃が持っている洗面器の中身に気づいたようだった。数日漬け置された具材は水死体のようにぶくぶくに膨れ上がって底にへばりついてはいた。
が、辛うじておでんではある。
「あにきに、くらわせようと思って」
千晃の言葉をその通り受け取ったハジメは、恐る恐るであるが食材の墓場に手を伸ばした。
「ひどいな」
「だろうね」
ちくわぶを噛み締めるハジメの顔といったら、まるで耳元で黒板をかき鳴らされているような渋面だ。それでも最後にはなんとか笑って、もう一度千晃の髪型をぐしゃぐしゃにしてしまう。
「でも、お前にしちゃ立派なもんじゃないか」
安心して待ってろ。
もう一度、自分自身にも言い聞かせるように呟いてハジメは今度こそ夜の町へと駆け戻っていく。
「…………あ、ギプス取れたんだ」
千晃はただただ兄を見送ると手元に目を落とす。
意を決してこんにゃくの死骸を口に運ぶ。ひどいなんてもんじゃない。が、これはあくまで兵器を作ろうとしたのであって食べ物ではない。ならそれは料理の実力ではない。
次はお姉ちゃんに作り方を教わったマジのおでんを作って実兄を唸らせてみせよう。そうしよう。
「お姉ちゃんの気持ち、少しだけ分かったかも」
はっきりマズいと言われれば、不思議とやってやろうという気にはなる。
◆◆◆
何事にも起こりというものは存在する。
迷ったならスタート地点に戻れともいう。その言葉に倣ったかどうかは定かではないが、裸足で走り続けた幽香が落ち着いたのは、ハジメと出会った建設現場の焼け跡だった。
「参ったわね」
一階。無事に工事が終わればロビーになったはずの場所で、彼女はぽつんと座り込んでいた。
そうして始まりに立ち返った彼女が思い出すのは、十二月から今まで、鶴見家で過ごした記憶だ。
正直なところ、ハジメに家のことをなんとかしろと頼まれたときは不安で不安で仕方がなかった。なにせ風見幽香は慕われることよりも、恐れられることの方がずっと得意なのである。
千晃を長い交渉の末に引っ張り出して毎晩の食卓に座ってくれるようにするまで二日。急に量の増えた家事に戸惑って更に四日。ご近所付き合いという言葉がこの世界にあるということを知るまでに更に一週間。
どうにかハジメが帰ってくるまでにある程度の体裁を整え終わって、ようやく彼女は自分がこの現代で上手くやれていることに気づいたのであった。
それはひとえに妖怪の本性を隠し続けたからだ。
どれだけ上手くヒトの生活に馴染んでも、彼女が妖怪であることは絶対に変わらない。思いがけず手に入ってしまった幸福に戸惑っていると、今度はそれをいつものように失ってしまうことが怖くなった。
彼女の力でも守りきれないものが一つだけある。
「本当にどうしようもない怖がり」
紫の言葉は確かに胸をえぐった。
ハジメがどこまで幽香の秘密に迫っているのかは、彼女にはわからない。それでも最悪の事態は考えている。全てが――いや、妖怪であるということだけでもバレたのなら、もはや一緒に暮らしていくことは難しいかもしれない。
「実は人間じゃないの」
ここまで幾度も口にしては破滅的な結果を招いた言葉を呟いてみる。
「そう、人間じゃない。妖怪。ごめんなさい、驚いた? あぁ、あなたもそうなのね。もう来ないから安心して。あなたの気がまた向いたなら、私はいつものところで待ってるから」
そのやり取りを何度繰り返したか。
自嘲気味に一人芝居を演じてみて、幽香は静かに首を振った。
寝巻きの裾を見る。乱暴に引きちぎられた腕の断面は既に再生を始めようと激しく蠢いていた。このペースなら夜明けか、それよりもっと早くに新しい腕が生えてくるだろう。
そうしたら鶴見家に戻る。
戻って結果を受け入れて、ダメだったならその時はその時だ。
「これはお前のだろ」
「っ」
だから、そいつの方からこの場に姿を現した時に幽香は小さく悲鳴を漏らしていた。
幸いにも彼の足音がコンクリート打ちっぱなしの部屋に大きく響いたおかげで、彼女の小さな弱みはかき消されていく。
「お前が大暴れした跡から拾うのはマジで大変だったんだからな。感謝しろよ」
頭からつま先までぐしょぬれでは、足音まで湿りきっている。そうしてハジメが差し出したのは、やはり水浸しのジャケットだ。
「どう、して?」
「なんとなくここだとは思った」
話す間にジャケットを縛る紐は解かれていた。
中身は幽香の腕だ。跡形もなく傷が癒えても包帯を巻き続けた理由も、彼女が正体をひた隠しにした理由も聞かずに、ハジメはガラス細工を扱うように腕を取った。
「なぁ、くっつくか?」
幽香はおずおずと受け取って、むき出しの断面にそれをあてがう。
ゆっくりと肉の筋が這い出して彼女の体をつないでいく間、言葉を忘れた興味津々でその様子を観察するハジメの視線が居心地悪くて仕方なかった。
「これで分かったでしょ。私は人間じゃなくて妖怪だって」
「知ってる」
再びの静寂。意を決して、幽香は問うた。
「怖くないの?」
「――ぶっ」
幽香は目を白黒させた。
床を転げまわる勢いで爆笑するハジメは。次第に激しくえづいてよろよろと立ち上がる。きょとんとしたままの幽香の顔を見るなり、また笑いの発作に襲われたようだった。
「今更かよ!」
それはどこまでも、幽香が予想していたハジメの反応だ。
当たり前だろう。今まで散々殺すと言われた後に実は妖怪だとバラされたところで何の驚きがあろうか。紫によって心に打ち込まれた楔が引き抜かれていくようだった。
「千晃を攫ったのも私と同じ妖怪なのよ」
「俺を散々ぶん殴りやがった霊夢は人間だぜ。信じられないことにな」
「私の友達を悪く言わないで」
「お前こそ――あぁ、あいつは別にどうでもいいか」
いつしか幽香は自分が恐ろしい妖怪であると認めさせようと躍起になっていた。対してのらりくらりと言葉を弄するハジメ。普段とはまるで立場が逆である。
「冗談言ってる場合じゃないでしょ。私のせいでユキまでいなくなって」
「霊夢から聞いたのか?」
幽香は首肯する。
「いいって。別に今まで一度も喧嘩がなかったワケでもないし」
頭上の広大な吹き抜けをハジメは仰いだ。
地下三階地上二十階。どこにでもあるような高層ビルの設計図を持ち出した市長が完成の暁には市のシンボルにうんたらかんたらと言った時は皆が首をひねったものだ。
彼の浅すぎる目論見は一か月前に爆散し、見上げる先は漆黒から群青に変わりつつある星空が覗いていた。
「それに、千晃と俺を助けたのも妖怪じゃないか」
夜明けの空に吐き出された言葉は、幽香の胸にすっと入り込むようだった。冷気がよほど堪えたのか、そこでハジメは数回くしゃみをした。
「あんたの正体なんて俺は割とどうでもいい。あんたが俺の家に来てくれたことには、それ以上の意味があるんだと思う」
それはつまりなんだろうか。
雪之丞との戦いで必死になっていく自分と自問し続けて出した答えは、どうしても飛び出なければ気が済まないらしい。
ハジメは幽香を見据える。一度、息を整えて彼女の瞳を真っ直ぐに。
夜明けを待ちきれない小鳥の鳴き声に急かされるように、口を開いた。
「こんな恥ずかしいことは言いたくないけど、もうあんたは、かぞ――くの――だっ、しょい!」
後半は殆どくしゃみに取って代わられていたが、幽香にはおおよそ彼が何を言わんとするのか見当がつく。
「あー畜生。家族の一員ってやつなんだと思う」
ついに言ってしまったとハジメは思う。
家族。彼女を家に迎えてからあえて避け続けていた言葉。いずれ殺し合う運命にある相手にそれを使うことがどれだけの危険を抱えているかは十分に把握している。
「へんなの」
それでも彼女がいつも通りの微笑みを返してくれて安堵するのは、やはりそういうことなのだろう。
「なんだか今のハジメ、私よりもオトナね」
「あんたが何歳か知らないけど、とりあえず褒めてはいるんだよな」
廃墟の窓には朝日が差しはじめていた。どちらからともなく光を見据えて目を細める。
鶴見家の一員。ハジメの危惧は幽香も感じるところだ。それでも、もう少しだけ人間ごっこを続けるのも悪いことではないと思う。
「家族っていう話、少し考えさせてちょうだい」
「いいとも」
鼻をすすり上げるハジメは相変わらずサマにならない。
幽香が何者かを知った今でも、そうやって何も変わらず受け入れてくれる。
ハジメの差し出した手を、すっかり元通りになった幽香の手が捕まえた。
第十話『向日葵の産声』おわり