風見幽香の殺し方【完結】   作:おぴゃん

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2『最悪の敵(下)』

 誰だって腕組みして視線を鋭くした女を見てウキウキしているとは思わないはずだ。

 

 ベッドに座った彼女は足を組み変える。目の前では部屋の主が悪びれのない様子でコーラの大きなボトルをあおっていた。

 

「悪かったよ」

 

 と、ふてぶてしく言ってのけるハジメを前に、幽香は何も言わない。繰り返すが彼女が完全にイラついているのは明白だった。それがいかに稀有なことであるかなど、彼に知りようはないのだが。

 

 かつて彼女の逆鱗に触れた者たちはそうもいかなかったのだ。

 なんだよ、聞いていたのとはだいぶ違うな、と。粗相を働かれたというのにニコニコと愛想のいい笑顔を浮かべて歩み寄る彼女を見て侮ったものも多かっただろう。

 

 そして大抵、それが最後の過ちになる。

 ニュートラルに殺意を抱いてニュートラルに踏み潰す。虫を殺すのにいちいち心を動かしていたら疲れて疲れて仕方ないのと一緒だ。

 

 数少ない例外はしばらく幽香の視線を受け続けたあと、沈黙に折れた。

 

「だって、あのままアンナを帰したら悔しいじゃんか」

 

 ボトルで膝頭をぽこぽこと叩きながらハジメは部屋の中を歩き回った。

 やがて椅子を一つ引き寄せて幽香と向き合うように座る。床を見つめたまま、ハジメは唇を湿らせるようにもう一度だけコーラを口に含んだ。

 

「あいつが出て行ったのが大体今から五ヶ月くらい前。あいつは何も言わなかったし、オヤジだって何も教えちゃくれなかった」

 

 だがハジメは見捨てられたように感じた。という。

 ロクな挑戦もせずにダラダラと青春を消化試合のように過ごすハジメと、人付き合いは面倒だと岩戸に篭ったまま出てこようともしない千晃。そして超絶ハードワークを理由に家庭を放り出したままの父。

 

「俺たちがダメだったのは認めるさ」

 

 ダメもダメ。ダメダメである。

 

「でも俺はもう、あいつの呆れていたヘタレじゃない。だから」

「見返してやろうとして恋人が出来た、なんて言っちゃったってこと」

「だって」

 

 ごにょごにょと語末を濁したまま、具合悪そうにハジメは俯いた。一方の幽香は彼のあまりに子供じみた反抗心に呆れるばかりだ。

 

「私はあなたの家族よ。それは嬉しい。本当に嬉しいわ」

 

 だからこそ忠告はしておく。

 

「だからって下らないウソの片棒を担ぐなんて絶対にイヤよ。お母さんに見直して欲しければ正々堂々戦うことね」

 

 でなければ本当にハジメはヘタレのままだ。

 しかしてベッドから腰を上げた幽香の機先を制したのはハジメであった。彼の瞳には既に日輪が宿っている。だが炎を宿した指先が突きつけられているのは、あろうことか彼自身のこめかみなのである。

 

 息を荒げると、ハジメは一層激しく瞳を燃やした。

 

「全部ウソだったなんてバラしてみろ。その場で頭ぶち抜いて死んでやる」

 

 穏やかじゃない。

 そこまで母親を嫌いになれるものだろうか。記憶を手繰るが母親の記憶どころか子供のころの思い出ですら今となっては曖昧だ。ネットカフェというディストピアの収容施設めいた場所でハジメに過去を語った時でさえ、思い出すのに多大な労力を割いたのだ。

 

「まったく、つくづくお子様ね」

 

 とにかく幽香はベッドに座り直す。最近では浮かべるのも難しくなってきた酷薄さを絞り出してハジメを見据える。目を細め、微笑みを形作って。

 

「少しは落ち着いたら?」

 

 ――あぁ、なんだか違う。調子が狂っちゃう。

 

 正解の風見幽香は『頑張って。最後までちゃんと見ていてあげるから』だ。

 このところ自分がますます甘くなってきたように幽香は感じる。それは悪いことではない。むしろ強力な妖怪が現代での生活に順応するためには避けようのないことなのだろう。

 

 それでも戸惑いがないワケではないが。

 

「いろいろ痛い目を見せられてきた私が言うから聞いておいて欲しいけど。そこはオススメできないわね」

 

 思わず額を覆う。これも不正解だ。

 事実、頭の片隅で意地を張らせっぱなしは可哀想だからそろそろ止めてあげようかしら、と考えているのだ。

 

「お、俺はマジだぜ」

 

 ――やれやれ。頃合かしら。

 

 肩をすぼめた幽香が何かを言う前に、廊下のわずかなきしみにハジメは気づいていた。長らく耳を離れても忘れようのない、悪びれのない猫のような忍び歩き。これに何度苦汁を舐めさせられてきたことか。

 

 が、今回ばかりはそれを利用してやる。

 

「ねーねーハジメ、聞きたいんだけどさっ!」

 

 困ったことに鶴見杏奈はノックをしない。

 それが原因で思春期のアレもコレもすべて白日のもとに曝け出してきたからこそ、ハジメの反応速度は幽香の予想を超えていた。はじかれるように椅子から立ち上がったハジメは、

 

「や」

 

 幽香の両肩を掴むと、そのままの勢いでベッドに押し倒す。

 普段のハジメからは想像もできない手の速さにただただ呆気にとられる幽香の上に野獣のように覆いかぶさったハジメ。その背後でドアが開け放たれた。

 

「私の貸した――わぉ」

 

 流石の杏奈もこれには驚いたようだった。

 しかしそれも一瞬のこと。すぐさま思い出したようにわたわたと携帯を取り出すと、とりあえず目の前の組んず解れつに向かってシャッターを切る。電子音が気まずい沈黙に響いた。

 

「一応聞くけどそれは同意の上だよね」

「今忙しい」

「スレた高校生の恋愛、見学してっていい?」

「ダメだ。出てけ」

「はいはい。じゃ、後でね」

 

 動画撮影モードに切り替えたらしく、部屋を出るまで彼女は後ろ歩きで携帯の液晶をニヤニヤと見つめていた。ぱたりと閉められたドアの向こうで、彼女の大声が轟く。

 

「うっひょーっ、マジじゃんかよー!」

 

 赤飯赤飯と時代錯誤もいいところな叫びを上げながら階段を下りていく騒々しい足音を確かめると、ハジメは気が抜けたように表情を緩めて幽香の手首を離した。

 

「き、既成事実いっちょあがり、と。これでもう後戻りは出来ねえな」

「ハジメ」

 

 幽香の声は恐ろしく平坦であった。

 

「あぁ、今どくからさ。幽香、本当悪かっ」

 

 幽香のげんこつは痛いなんてものじゃない。

 はじめて怒りを持って叩き込まれた一撃は最低限の手心だけを加えられたものだった。

 横っ面をひっぱたかれてほとんど床と水平に吹き飛んだハジメは騒々しく床を転げ回りながらカーペットを巻き込んで、壁にぶち当たってようやく止まる。

 

 ぎしり。

 

 出来の悪いてるてる坊主のような姿で床に転がるハジメは、布地の出口を手探りで探しながら不気味な音を聞いた。ベッドの軋む音。幽香が立ち上がった音。

 

「もしかして」

 

 嫌なものを感じて焦って立ち上がるなり床に転がったままのコーラのボトルを踏みつけ、後頭部をしたたかに壁にぶつけた彼は再び横倒しになる。

 

「もしかして悪かった。って言おうとしたのかしら?」

 

 ――そういえば目先の杏奈を騙すことに必死で見落としていたが。

 

「ねぇ。悪かったで済むことなのかしら?」

 

 不躾に触れて、勝手極まる恋人宣言をして、ベッドに押し倒して母親の前で醜態を演じさせ、あまつさえテキトーにあしらおうとしていた相手は。

 

「さっきのは私でも結構危機感があったのだけれど。あなたを信頼していたのに、なんだか悲しいわね。ねぇねぇ」

 

 幻想郷と呼ばれる異界で恐れられ続けた最強の大妖怪、風見幽香。相手がハジメであるということを勘定しても、数々の仕打ちに彼女の我慢も限界だ。

 

「危機感も何もお前の馬鹿力なら――げ」

 

 半ばまで言いかけたハジメがやっぱり言うべきじゃなかったなと思っていると、案の定黙らされていた。胸の上にのしかかった重いものの正体は言うまでもない。

 

「でも安心したわ。こういう時の私はまだまだ風見幽香だもの」

 

 自らに起きた変化に戸惑っていた幽香のことなどハジメには知るよしもないが、そんなことに首を傾げる時間など彼女は与えてくれなかった。からからんと軽い音はコーラのボトルのキャップが回る音だ。

 

 ハジメが戦々恐々としていると、さっそく顔を覆うカーペットめがけて恐ろしく甘く、冷たい液体が振りかけられてくるのである。安いカーペットの生地は水分をよく吸った。実によく吸った。

 

 不平など漏らす暇もなく、ぐしょぬれの布地からはハジメの苦しげなぶわぶわという呼吸音だけが聞こえてくるようなる。

 

 ようやく布地から這い出てきた右手が床をタップしているがルール無用の大妖怪はギブアップなど受け入れないしそもそも知らない。

 思い切りカーペットを顔面に押し付けると、幽香はハジメの口を塞いで鼻を探り当てる。

 

 コーラを注ぎ込んでから五秒ほど沈黙があった。

 

「ぶへっ」

 

 くぐもって、むせた悲鳴。

 炭酸に鼻と喉を焼かれて、おまけに息もできず。それからしばらく無表情でコーラを注ぎ続けて、幽香はようやくハジメを解放してやった。

 

「げェーっほ! ぐへっ、なにしやがる」

「馬鹿」

 

 水責めで心がくじけかけていたのもあるが、ハジメの威勢を完全に削いでいったものは別にあった。ぐしょぬれのカーペットを黙々と畳んでいく幽香の伏し目。

 ふと手を止めて、彼女は肩を抱いた。

 

「…………本当に、ああいうのは心臓に悪い」

 

 最強の妖怪である。

 返す返すであるが、風見幽香は幻想郷最強の妖怪のはずである。

 彼女が押し倒されたくらいでそこまで落ち込む理由がハジメには分からないが、マズいことをしてしまったことだけは理解できた。

 

「な、なぁ。お前だってこの前俺の尻を縫うときに、いや、悪か……ごめん」

 

 残りのコーラを一気に飲み干して、髪をぐしゃぐしゃとかき回して。そうしているうちに幽香も多少は落ち着いてきたようだった。ようやく素直に謝ったハジメを前に、はぁっと大きく息をついて、

 

「次はないわよ」

 

 と、顔を覆う。

 

「それにしても既成事実、とはね。私としたことが不覚だったわ」

 

 小さい頃女の子を泣かせてしまった時のような気まずさをハジメは感じていた。沈黙が身に突き刺さる。

 

「それで、どうする?」

 

 指の隙間から幽香はじとりと視線を送る。だいぶ諦めの入った、ささやくような一言も。

 

「やるしかないでしょ。せいぜい後悔するといい」

 

 目の前で次第に明るくなるハジメの表情を見守りつつ、幽香はこれでいいものかと考える。鶴見家を何とかする、というのが彼との約束である。それなら、この妥協はむしろ遠回りになってしまうのではないか。

 

「あぁ――あぁ! マジ助かる、ありがとな!」

 

 だがここに至って何をどう説明したところで杏奈の誤解が解けるとは思えない。

 人間ごっこの次は恋人ごっこ。せいぜいハジメの学園生活を引っ掻き回してやろうと思えば溜飲も下がるし、楽しんでやろうという気にもなる。

 

 幽香は汚れたカーペットを掴んで立ち上がった。

 

「そうと決まれば早速ね。これから勉強してくるから」

 

 何か気になることを言っていたが、浮かれていたハジメがそのことに気づいたのは彼女が部屋を去ってしばらく経ってからのことだった。

 

「べん、きょう?」

 

 千晃の部屋へと向かった足音は答えない。

 

 ◆◆◆

 

 どっすん。

 

 リビングにいた誰もが顔を上げて天井を見つめていた。

 

「激しいねぇ」

 

 運良く騙されたままの杏奈が訳知り顔で呟いた。

 とはいえそれがげんこつ一発で見事に吹き飛んだ人間の立てた音などと、誰が想像するだろうか。

 

 くぐもった悲鳴も一緒に聞こえた気がするが、最近はそういうのが流行りなのだろうと片付けて、杏奈は目の前に立ちはだかる新聞紙の壁を見つめる。

 

 空になった父の湯呑にお茶を注いでやると、下からにゅっと出てきた手がそれを掴んで引っ込んでいく。

 

「独り言なんだけどさ」

 

 茶をすする音が答えた。

 

「あの子、まだ私の五円玉持ってるよね。穴のないやつ」

 

 沈黙。

 

「まぁ、独り言なんだけど」

 

 二階から再び悲鳴が聞こえた。今度は間違いなくハジメのものと分かる。視線を感じて杏奈が天井から目を戻すと、がさがさと慌ただしい音を立てて新聞の壁が再建されていくところであった。杏奈は苦笑する。

 

「あれ調べたらエラーコインってやつでさ。五円玉のクセしてウン十万するんだよ」

「だから返せってワケ?」

 

 ソファの上で不貞腐れていた千晃が顔を上げた。

 

「うんそう」

 

 鬼の首を獲ったとばかりに笑い声を上げて、彼女は杏奈を睨む。

 

「今更私たちを預かりにきたなんてウソっぱちじゃん。本当は金をむしりに来たんだ」

「人聞き悪いね。私はこう見えて千晃ちゃんを心配してるし、あれは貸しただけだよ」

 

 エラーコインとは製造過程で起こったミスで生まれた、通常とは違う成形をされた硬貨のこと。それが有難がられ、高値が付けられる理由は単純だ。現代日本の厳密な検査を穴のない五円玉なんて馬鹿な代物が通過する可能性は限りなくゼロに近い。

 

 それでも恐ろしい偶然の積み重ねの結果、たった一枚の息詰まりするような間違いが生まれ、何のめぐり合わせか鶴見ハジメの手に渡ったのである。

 

「あの子よくケガするからさ。お守りにって渡したんだけど」

 

 確かハジメが七歳の夏であった。

 ついに妹が生まれたぜとはしゃぎすぎたハジメは病院へと急ぐ父の車の窓から体を乗り出して、病室への一番乗りを決めこもうとしていたのだった。

 

『おいおい、落ちちまうぞ』

 

 父には予言の才能があった。

 

 そのまま杏奈と同じ病院に運び込まれたハジメは数週間身動きひとつできないままに過ごす。

 

 もちろんベッドから出るのは千晃の方が早かったわけで、生後間もない妹の目に明らかな軽蔑を見たのは、いずれ彼女にダメあにき呼ばわりされる運命の暗示だったのかもしれない。

 

Yippee-ki-yay, motherfucker(ざまあみろ、クソ野郎)

 

 暇で見ていた映画でダイ・ハードを知る。ジョン・マクレーンという名前のデカがナカトミタワーでガラスと銃弾を浴びながら、妙にキャラの立ったテロリスト達をピストルとジョークでばったばったとなぎ倒す痛快なアクションムービーだ。

 

 マクレーンは一見ただの小汚い中年のくせしてタフで強くてかっこよかったが、とりあえずガラスで足を踏みぬいたのは痛そうだった。

 

 七歳なら現実と非現実の境界が見えてくる年頃だったので、もちろんそれが映画であり、フィクションであることは重々承知していた。人生どれほど曲がり間違っても燃えるビルの中でガラスと格闘するなんて馬鹿な目は見るまい、ということも。

 

『えぴかえー、まざふぁかー』

 

 セリフの響きは気に入った。しかし意味は分からず。

 ぼんやりとマクレーンの決めゼリフを呟きながら二十週目のダイ・ハードを見ているハジメの前に、杏奈は穴のない五円玉を差し出したのだった。

 

『ほれ。持っときなよ』

 

 と。

 

「懐かしいなぁ」

 

 まだハジメが素直だった頃の思い出に杏奈が浸っているうちに二階は静かになっていた。

 

「あにきは絶対に渡さないと思うけどね」

「いや、確かに。ぽんと渡したのは失敗だったなって思うんだ」

 

 それでも何が楽しいのか余裕の表情を浮かべてコーヒーを飲む杏奈。千晃は不快げに鼻を鳴らしてクッションに顎を埋めた。会話は途絶えた。

 

 時々聞こえるのは父が新聞をめくる音。コーヒーメーカーがごぼごぼと鳴る傍から、あんなもん泥水だぜいと言ってはばからない千晃でも思わず心がそよぐような芳香が鼻をくすぐっていく。

 

 胸いっぱいにその香りを吸い込んで千晃は目を閉じる。幸せだ。暖房が効いていて心地よい。もう少ししたら部屋から毛布を持ってきて少し眠ろうと思う。

 

 一見すれば家族が揃った、静かでかなり完璧な午後の情景。

 千晃の頭はいくらかぼんやりしていた。毛布は後回しにしようそうしよう。ちょっと眠ってからに、

 

「あっはああああああぁっ、そうだ!」

 

 いつだって鶴見家の静寂をぶち壊してきたのは杏奈であった。

 千晃が唸るよりも早く怒りを顕にしたのは父だ。新聞をぐしゃりと畳んで傍らに置くと、二人を交互に見て笑う杏奈を忌々しげに睨めつけた。

 

「お前な、いい加減にしろよ」

「いやいやすっかり忘れてたよ。ガレージにアレ、まだあるかな?」

 

 大股にリビングを立ち去った父がしばらくして何かを手に戻ってくる。ぶっきらぼうに放り投げられたキーを危なげなくキャッチして、杏奈はいたずらっぽくにひひと笑った。

 

「ありがとぉー。これで明日からバリバリ騒いでやるもんね」

 

 ここまでもう十分すぎるほど騒ぎを引き起こしてきた女は、それでもまだまだ足りないと見える。ひょっとすると、ここまでの一部始終も準備運動に過ぎなかったのかもしれない。

 

 

 

 第十一話『最悪の敵』おわり

 

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