風見幽香の殺し方【完結】   作:おぴゃん

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6『錆びた鯨のはなし(下)』

 紫が、ソースまみれの指をしゃぶりながらテーブルに広げられた園内図へとサンドイッチから引き抜いた爪楊枝を刺していく。その度に霊夢は神妙な面持ちで頷いていた。

 

「罠に関してはこれでいいのではなくて?」

「そうね。ほかの不安要素は――」

 

 そこで言葉を止めると、霊夢は巨大な影を見上げた。

 

「遅かったわね」

「自販機探しだよ。人前で頭脱げないだろ」

 

 のっぺりとした手で器用に掴んだお茶のボトルを二人の前に下ろすと、雪之丞もイスを引く。明らかに体勢的に無理のある恰好で座り込んだモビーくんは窮屈そうに首を巡らせた。

 

「で、罠とやらはオッケーなのか?」

「ぬかりないわ。近くの山に元からあった結界に細工をして、ここら一帯は完全に囲ってある。あとはあいつがエサに食いつくのを待つだけね」

 

 エサはこの遊園地そのものだ。

 怪物から日常を守るために、そこに息づく人々を囮に使う。矛盾は百も承知の霊夢が頬杖ついた口元を余計にいびつな形にする。

 

「万事うまくいくわ」

 

 霊夢の視線から、彼女の浮かべた苦々しい表情の原因が自分にあると気付いた雪之丞は着ぐるみの頭を傾げた。

 

「俺、何も言ってないぜ」

「どうかしらね」

 

 見れば着ぐるみの手がぐっしょりと濡れていた。

 分厚い生地を突き破った雪之丞の鋭い爪が、お茶のペットボトルを本人も預かり知らぬうちにズタズタに引き裂いていたのだ。

 

「あーあー」

 

 ぐしょぬれの着ぐるみを呆れたように見下ろしながら、雪之丞はどこか安堵していた。公園での戦いでハジメに指摘された通り、我が身に起こった変化が心までも怪物にしてしまったのではないかと恐れていたからだ。

 

 まだ、無関係の人間が巻き込まれるかもしれないと知って憤るだけの『らしさ』は彼に残されているのだ。

 

「とにかく信じて。結界の中から私たちの戦いは見えないようにしてある。誰も騒がないし、誰も傷つかない」

 

 そんなもびー君を見つめる霊夢もいつしか穏やかな表情を浮かべていて。

 傍目に見ていた紫だけがニヤニヤと笑っていた。

 

「およ」

 

 その笑みの意味を問いただそうとした雪之丞は、いつの間にか着ぐるみの中に迷い込んだ芳しい匂いに気が付くのであった。

 

「食べる?」

 

 紫が差しだしたものを前に、雪之丞は生唾を飲み込んだ。

 吸血鬼と化した今でも、人間をやめきれてはいないのは味覚もだ。粒マスタードとケチャップを山とのせた熱々のホットドッグなど、我慢すれば夢に出そうだ。

 

 だが同時に、紫の意地悪な笑みにも気が付く。

 

「食えるか」

 

 笑顔のままブチ切れたもびー君がのぞき窓をぼふぼふと叩いて見せた。しかし紫は一層口のはしを深く吊りあげて、手にした包みを近づけてくる。

 

「簡単よ。えいっ」

「おああああっ、ゆ、紫、てめえ!」

 

 着ぐるみの首の隙間から乱暴に突っ込まれたホットドッグが雪之丞の背中を滑り下りていく。慌てて立ちあがった拍子に足元に辿りついたソーセージを踏みつぶして、もびー君は悲鳴を上げてどたばたと踊る。

 

 妖怪は笑う。巫女も救いの手を差し伸べず、ただただ笑っている。

 

「あっ、もびー君だ」

 

 それは正に泣きっ面に蜂。近くで子供の声が聞こえた瞬間、マスタードに濡れた背中に嫌な汗が浮かんだ。

 

「もびー君っ!」

 

 どこからわいて出たのか。すっかり子供たちに包囲された雪之丞を尻目に、霊夢たちは伸びをして腰を上げる。

 

「それじゃ。ご飯も食べたし私たちもちょっと遊びましょうか」

「そうね。それじゃ」

 

 泣きそうになりながら霊夢たちの向かう方向へと視線を馳せて、雪之丞は恋い焦がれた妖怪の小さな後姿を見つける。

 

「ま、待てよ」

 

 このままでは役得が。ラッキースケベが。

 

「ちゅうもーっく!」

 

 調子っぱずれに甲高い声を上げたもびー君を子供たちがぽかんと見上げている。その取り巻きごしに、足を止めた霊夢と紫も怪訝な表情を浮かべていた。

 

「と、突然ですが、もびー君は故郷の星に帰らなくてはいけません」

「何言ってんのさ」

「もびー君の故郷は深海の都アトランティスで、去年お妃さまにちょっかい出して国王のお父さんに追い出されちゃったんでしょ」

 

 こんな適当な顔をしているクセに、なんと生々しいバックストーリーを背負っているのか。そんな設定知るかよと思わず舌打ちをしそうになりながらも、懸命に堪えて次の策を練る。

 

「その、お父さんが危篤でして。キトクってのは要するに死にそうってことで、死にそうってことは息子としては放っておけないわけで。そこ、鼻ほじるな。いいですか、不仲なクソ親父だろうが死に目には会っておきたいのです。世の中そういうものなのです」

 

 途端にブーイングの嵐である。

 くちびるをとがらせる子供たちをなだめながら、雪之丞は口元を緩める。ノッてきたな。

 

「つーわけでもびー君は中座いたしますが、後はそこの霊夢さんが引き継いでくれるそうです。じゃ!」

 

 乱暴にキャラメルポップコーンの容器を霊夢に押しつけて、もびー君はキレのいい敬礼を見せた。

 

「は、はぁ!?」

 

 面倒の香りを敏感にかぎ取った紫はすでに姿を消している。

 颯爽と走り去る雪之丞に追いすがる暇もなく、霊夢に子供たちが殺到した。ポップコーンを奪い合って押しあいへしあいする子供たちにもみくちゃにされる霊夢が悲鳴を上げた。

 

 ◆◆◆

 

 ハジメは列の先頭へと視線を馳せた。パーテーションで仕切られた列はにょろにょろと折れ曲がっていて、彼のもとからはぽっかりと口をあけた入り口のアーチの上半分が見えるのみだ。

 

「これ、一体なんのアトラクションなんだ?」

 

 じわりじわりと進みながら、ハジメは幽香を見つめるが、彼女はキャラメルポップコーンを口いっぱいに頬張ることに夢中だった。

 

「わかんない?」

 

 幽香は頷いて、スムージーを吸い上げる。

 小脇に抱えたポップコーンの容器といい、両手のカップといい。遊びに行こうと誘ったハジメ以上に彼女は遊園地を満喫しているようだった。

 

「ま、みんな並んでるし、さぞや人気なんだろうけどさ」

 

 面倒くさそうに腕組みしたハジメを脇目に見て、幽香は肩をすくめて見せる。

 

「何人か倒して前に並びましょうか?」

「冗談だろ」

「冗談よ」

「お前が言うとさ」

「えぇ。分かってるけど」

 

 切れ切れな会話。どことなく幽香の隣に立っていることが居心地悪かった。前や後ろにぎっちり並んだ男女たちの親しげな様子が、少しだけ腹立たしい。

 

「杏奈とは上手くやれそう?」

 

 グズグズととりとめのないことを考えていると出し抜けにそんなことを言われたので、ハジメの返事までは間が開いた。

 

「どう思う?」

「あまり良くはないわね」

 

 無意識にポケットに突っ込んだ手で五円玉を探していた。

 

「なんとなくだけど、今になって杏奈が戻ってきたのは偶然じゃないような気がするの」

「わかってる」

「今のあなたに必要なのは、こうやってポーズを決めることじゃなくてお母さんと向き合うことでしょ」

「わかってるったら」

 

 どうしてそんな話をするのかと理不尽な怒りを抑え込みつつ、ハジメは納得がいく。幽香にとってこれはデートでもなんでもなく、ただの日常の延長なのだろう。

 だがハジメは違う。これは勝負だった。

 

「ヤメにしようぜ、この話は」

 

 よほど強く押さえつけていたのだろう。五円玉を痛めつけることをやめても爪の根元には違和感がわだかまっていた。このクセとも、ずいぶん長い付き合いだ。

 

「あ、ホラ。いよいよみたいね」

 

 マイペースに顎をもたげた幽香の視線を追って、ハジメは思わず小さく息を呑んでいた。

 流水がたぷたぷと満たされたレールに滑り込んでくるアヒル型の乗り物。しかも恥ずかしいことに年季の入ったボディはショッキングピンクで塗装されている。

 

 ひきつった目でゲートを見上げて、ハジメはひしゃげた悲鳴を上げていた。

 

『愛のトンネル』

 

 男女連れの客が多い理由が、何となく理解できた。

 ジェットコースターとかお化け屋敷とか、そういうドキドキなら構わない。だがこれは予想外だ。デートしようと口にしておいて、実際のところそういうことへの心構えは全くできていなかった。

 

「でっ」

「いかないの?」

「できるワケがない」

「私とはイヤかしら?」

「そういうことじゃねえよ。でもさ」

 

 逃げ出そうとして、その肩越しに白いモノがぴょんぴょんと跳ねていることに気付く。

 周囲の目などお構いなしに、必死に一方向を指し示す彼の頬には、汗腺などあろうはずもないのに大粒の冷や汗が伝っているように思えた。

 

「ハジメ、後ろに何か」

「乗ろう」

 

 雑踏越し。こちらにのんびりと向かう紅白模様をいち早く見つけだしたハジメは、幽香の両肩を掴んだ。

 

「聞いてくれ。俺たちは乗らなきゃいけない」

 

 もはやそれは、遊園地を楽しもうとする人間の浮かべる表情ではない。切迫した瞳の奥に金色の炎が踊る。むしろ清々しいまでに怪しいハジメを前に、流石の幽香もたじろいだ。

 

「でもさっきはムリだって」

「いいや俺はこいつに乗りたいんだ。このピンクのアヒルじゃないとダメなんだ。よく見ろよ――ピンク色の、アヒルなんだぜ!?」

 

 言い終わってからハジメですら内心自分の言葉に首を捻っていた。

 同時にがくがくとゆすられつつ、辺り一面から注がれる奇異の視線にだんだん居心地悪くなってくるのは幽香の方である。

 

「ど、どういう風の吹きまわしよ。やっぱり少し疲れてるみたいだし、あっちで」

「いいか。正確にはお前と乗りたいんだ。お前と乗れるんだったら、もう、何だっていい!」

「は」

 

 その場に居合わせた誰もが呆気にとられた。

 

「……あの、乗ります?」

「乗る!」

 

 必死さから鬼のような形相を浮かべたハジメにおずおずと話しかけた係員が小さく退いた。

 

「……そ。そう。じゃあ、えぇ。はい」

 

 いまだ状況を呑み込めない幽香の差しだした手を握って、彼が向かう先にはピンクのアヒル。

 乗り込んだ二人がトンネルに姿を消したのを見送った頃、ようやく我に返った雪之丞は組み敷いたままの霊夢の存在を思い出した。

 彼女が言いたいことは、刺す様に鋭い視線を受けるだけで分かる。

 

「あーその、一応言いワケしていい?」

 

 ◆◆◆

 

 そんなことが数限りなく繰り返された。

 童心に返りきった幽香はあっちへ行こうこっちへ行こうとハジメの手を引き、なぜかその先ではいつも霊夢や紫と出くわすのであった。その度にハジメは肝を冷やし、雪之丞は奔走した。

 

「…………あいつら、磁石でも入ってんじゃないのか」

 

 夕陽が差している。

 背後から聞こえた声に、見えないとは分かりつつもハジメは頷いた。

 背の高い植え込みを挟んで二人の青年はぐったりとベンチに腰掛けている。こうしている間もハジメはクレープの屋台に並んだ幽香の周囲に警戒を張り巡らせていた。

 

「もうお前ら帰れよ。その方がラクだし安全だし」

 

 既に下心などかなぐり捨てた雪之丞がうんざりと呟いた。

 

「もう少し。もう少しだけ付き合ってくれ。どうしても夜までいないといけないんだ」

 

 植込みの向こう側から深いため息が聞こえる。ぐったりとうなだれるもびー君に視線を留めるものは多かったが、その異様な雰囲気に近づこうとはしないようだ。

 

「霊夢から聞いたよ。お前の考え、全部」

 

 学校の屋上で霊夢に語った青臭い決意が思い出されて、ハジメは恥ずかしくなる。

 

「悪いことは言わないから、やめておけよ。そういうの」

 

 熱い頬。ふわふわと頭が浮かされるようなハジメとは対照的に、雪之丞の声は何かを押し殺すようだった。

 

「たしか霊夢もそうだったよ」

 

 彼女の白い手が握りつぶすスカートの皺が脳裏に鮮やかによみがえった。誰もかれも、ハジメを除いては幽香を殺すことにしか活路を見出してはいないようだ。

 

 ――ばかばかしい。救えない。何もわかっちゃいない。ほかに手はない。

 

 散々言われたが、今になってその程度で立ち止まる気はなかった。

 ハジメの誘いをどんな気持ちで幽香が受け入れたかは知らずとも、ハジメ自身はいつまでも彼女と家族でありたいと最近は望むようになっている。

 

「彼女を愛しているなら、なおのこと殺さなくっちゃいけなくなる。紫が言っていた」

「なら俺は、あいつを愛してないんだろうな」

 

 ごつんと硬いもの同士をぶつける音が植込みの向こう側から響いた。

 四つもクレープを抱えた幽香がゆっくりと歩いてくる。話は終わりだ。

 

「今日だけは頼むぜ。ユキ」

 

 ベンチから腰を上げたのはハジメだけだった。

 彼が十分離れたのを感じて、雪之丞はようやく硬く握り締めた拳を解くことができた。危ないところだ。ハジメがもう二、三言余計を口走っていたら、間違いなく手を出していた。

 

「世の中、そんな都合よくできちゃいないんだよ」

 

 ◆◆◆

 

「ユキ、いけそう?」

 

 心配顔の霊夢に肩をたたかれて、ようやく雪之丞は夜の雲海を泳ぐ体を自覚した。

 背中には巨大な蝙蝠の翼。生身で空を飛ぶ紫や霊夢と比べれば、少々大げさに過ぎる代物だった。

 

「もちろん」

 

 槍を握りなおして、雲間に獲物の姿を探す。

 霊夢の張った結界が侵入を感知したのは数分前だ。

 

「ところで紫、あんたにしちゃずいぶん慎重じゃあないか?」

「気がかりがあるの」

 

 境界を操る妖怪は、雲間に今日の獲物とは全く別の何かを探しているようだった。雪之丞には遠い光と薄絹のような雲しか見えない。

 

「巨大な妖怪が金物と血を求めて徘徊して、おまけに外界からやってきたあの暴れん坊も、私たちも野放しのまま。霊夢、幻想郷だったらこうもいかないでしょ?」

「この世界の守護者はいったい何をしているのか、ってことよね」

 

 現代に生きる妖怪は少ない。

 不思議とか超常というものを徹底的に排除する作りになっているこの世界で、彼らが生きていくにはなまなかでない苦労を強いられる。もちろんそんな環境でも適応する妖怪はいるだろうし、中には蝸牛のように身の丈をわきまえない蛮行に及ぶモノもいないわけではない。

 

 そうしたものの手から、雪之丞たちの生活を人知れず守ってきたものは間違いなく存在する。それがどうしたことか、今回は影も形も見せず静観に徹しているのだ。

 それが紫たちの感じる違和感であった。

 

「ま、いいじゃねえか。おかげで俺の経験値稼ぎにもなるし」

 

 そしてその腰の重さが、今回部外者であるはずの霊夢たちを動かした理由でもあった。

 

「あんたはお気楽でいいわね」

「霊夢は考えすぎだ」

 

 あくまでおどける吸血鬼を見ていると、そんなことがバカバカしい杞憂なんじゃないかとも思わせられる。

 だが、霊夢の薄笑いも長くは続かなかった。

 

「おしゃべりはここまでね」

 

 雲海の一点が大きく爆ぜた。

 雲のベールを突き破って頭をもたげたものは、あまりに巨大な鯨だった。気の遠くなるような年月を生き延びてきた彼の皮膚は岩肌のようにひび割れて逆立てられ、ヒレがそよぐだけで風の流れが変わるようだった。

 

「これはこれはこれは。なかなかの大物じゃんかよ!」

 

 好戦的な笑みを浮かべた雪之丞が一息に加速して、紫を追い越す。軽率すぎる接敵を霊夢がたしなめる暇も与えず、彼は胸の『嫉妬の炉心』から長大な槍を引きずり出した。

 赤黒く輝く槍の穂先で瞬く赤い稲光は剣呑すぎる。そして、巨鯨にはそれを気に留める様子もない。彼の赤く血走った瞳は、遥か眼下の遊園地に向いている。

 

「もらったぁッ!」

 

 槍を振りかぶる雪之丞の上腕に浮かび上がる筋肉の形も、もはや人間の肉付きを無視したものだ。そこから投擲された槍は悲鳴のような音を立てて赤い光の帯と化す。模造品とはいえ、いかなる怪物も一撃必殺の槍を受けて無事でいられるはずはなかった。

 鋭い犬歯をむき出しに、雪之丞は勝利を確信する。

 

 が。

 

「なっ」

「へぇ」

 

 驚愕する雪之丞の背後、追いついた霊夢が目を剥いた。

 赤い電光は巨鯨の体を完全に貫いた。あまりにも抵抗なく、あっさりと巨体を突き抜けて、遠くの夜空へと消えていった。

 血の一滴も流さず、鯨は悠々と泳ぎ続けている。まるで、槍が命中したという事実を無視するかのように。

 続く二投目も結果は変わらない。

 

「霊夢、こいつの能力、もしかすると」

「面白いわよね」

 

 紫に答える霊夢は全く面白そうな顔をしていなかった。

 彼女が放った呪符も針も、巨鯨の体を突き抜けて消えていく。物理的に当たってはいるが、意味の上では命中していない。それは霊夢の持つ『主に空を飛ぶ程度の能力』が誇る真価とほとんど同じものだ。

 

「気に食わない。紫、あんたの力でどうにか――あっそ。ならないのね」

 

 肩をすぼめた紫にぞんざいに吐き捨てる。

 その間も巨鯨は雲海に荒波を立てながら悠々と獲物を品定めしていた。ぎこちなく大顎を開くと、だらだらと涎が垂れる。

 まるで洞窟のような口内に無数の光が灯ったのと、雪之丞が霊夢の前に体を躍らせたのとは同時だった。

 

「アンタだって、不死身じゃないのよ」

「理解はしているんだがな」

 

 光の雨を防ぎ切った雪之丞は、ごっそりとそげた上腕の肉が復活していく様を見守りながら霊夢に返す。

 

「でも、礼は言っておく」

 

 今の攻撃は霊夢たちを狙ったものではない。ちょうど射線に彼女たちがいただけということ。絶対に攻撃されない以上、敵というものを認識する必要はない。

 遊園地を覆う結界にぶち当たった光の矢が派手にきのこ雲を噴き上げていた。

 

「あのくらいじゃ問題ないわ。ただ、受け続けるとマズいかも」

「霊夢、私は頭を押さえられるかやってみる」

「任せた。ユキ、一緒に来て」

 

 おう、と返事だけして雪之丞は霊夢の背中を見送っていた。

 欺瞞の空を映し出す結界の中でハジメが幽香とどんなことを話しているのかと考える。

 どこまでもあこがれた相手の傍に控える能天気なヤツは何も知らない。何も知らないで、ただただ幸せを幸せとも思わずに享受している。

 

「やっぱ、気に食わねえな」

 

 その言葉を口にすると、今まで抑え込んでいた衝動に身を任すことがずっとずっと簡単になった。

 

「楽しもうぜ、ハジメ」

 

 くるりと体を翻した雪之丞はそのまま槍を投擲する。今度は巨鯨ではなく、遊園地に向けてだ。

 

「あんた」

 

 霊夢は戦闘の手を休めて、信じられないものでも見るような目を雪之丞に向ける。

 

「――ハ。あぁ、悪ィ」

 

 それまでの奮闘ぶりがウソのように、彼は醒め切っている。

 

「手元が狂ったわ」

 

 遊園地を覆う結界に赤い稲妻が深々と突き刺さっていた。

 そこから放射状に亀裂が広がっていく。星空を偽る結界の表面が激しく波打ち、耳障りな音を立てて何度もノイズが走った。

 

「あんた、どうして」

「言ったろ。ついうっかり、何の悪気もなく」

「退くわよ、霊夢」

 

 雪之丞に掴み掛らんばかりだった霊夢を制したのは、いち早く状況を判断した紫だった。

 そうしている間にも一同を完全に無視して無数の光弾が巨鯨の口内から放たれ、結界へと食い込んでいく。一度ほころびができてしまうと、後は早いものだ。炸裂する光弾によって、結界の崩壊は加速度的に広がっていく。

 

「捕獲のための結界は限界。欺瞞は解ける。敵の実力は未知数。隠れ家に戻って戦略を練り直しましょう」

 

 霊夢が珍しく声を荒げた。

 

「紫、言ったでしょ。私はそう何度も」

「わかっているわ。その上でお願いしているの。あなたもユキも、わざわざこの場で死線をくぐる必要はない」

 

 逃げ帰ることが悔しいのは霊夢だけではない。それを紫の表情から読み取って、霊夢は妖怪が切り開いた空間のポケットに体を滑り込ませる。

 

「地上に送って」

「もう、どうしようもないわよ」

「みんなが逃げるまでの時間稼ぎはできる。そのくらいの責任は取らせてちょうだい」

 

 こうなったら霊夢はもはやテコでも動かない。

 

「ユキ、あんたもよ」

 

 霊夢の言葉を背中で受けて、結界に食らいつく鯨の怪物を見つめる。

 

「行けよ。俺はこいつを引きつける」

 

 霊夢も紫も何か言いたげだったが、ただならぬ気配を漂わせる雪之丞を非難がましく一瞥するにとどめて、姿を消した。

 その間も光の雨のように降り注ぎつづける弾丸が確実に欺瞞の結界を破壊していく。

 

「やって見せろよ、ハジメ。そんで、全部終わったら答え合わせしようぜ。どっちが正しかったのかを、な」

 

 もはや守り手が消えた空の上、月光を浴びる巨鯨はでっぷりとした腹をぶるんと揺らすと、早速地上に血走ったまなざしを走らせて、品定めをはじめる。

 

 ◆◆◆

 

 穏やかな夜空を眺める幽香が、なぜそこまで険しい顔をしているのか。隣に立つハジメが理由を問うまでもなく答えが目の前に降ってきた。

 その威力と衝撃で為すすべなくころがりつつ、ハジメは信じられないものを目にした。空に亀裂が走り、大穴があけられている。

 

 ドミノを突き崩すように、目の前で次々と日常が裏返っていく。トドメを刺したのは、空の穴から入り込んできた無数の光弾だった。

 空飛ぶ鯨の妖怪がばらまくそれは、ただの弾丸ではない。その速度が落ちるに従い光は失せていき、彼の腹の中に幾重にも折りたたまれ、詰め込まれていた寄生者たちの姿が明らかになる。

 

「ハチ、だ」

 

 それはやはり大きい。胴だけで人間の子供ほどもある。

 真っ先に地面に降り立った一匹が、強靭な顎でもって手近な鉄製の電灯の一つをまるごと根元から嚙み切った。

 

「なんだ、アレ」

 

 誰かのつぶやき。

 混乱の前の不気味な静けさに、その声はよく通った。

 

「ハジメ」

 

 幽香の視線はハチなどではなく、風雅な月を浮かべる初春の空へと向いていた。そこに広がりつつある亀裂をハジメは信じられない気持ちで見つめる。

 ノイズを走らせる作り物の空でうごめく無数の影と、巨大な何か。それを認識した瞬間、この日の平和はあまりに脆く崩れ去った。

 まるで数万枚のガラスを粉々にしたような音を立てて空が割れる。そうして空に開かれた穴から無数の巨大蜂が侵入を始める。

 それが冗談でないことが分かるや否や、鋭い悲鳴が日常に幕を引いた。

 

「幽――」

 

 歴戦の妖怪は、ハジメの言葉を待たずに行動を開始していた。

 彼女を中心に爆発するようにしておびただしい花びらがまき散らされる。分厚く煙のように立ち込める桃色の花弁がやがて渦巻き、園内を分厚く覆ったベールの中に、ハジメと幽香の姿だけがあらわになる。

 

「標的を私たちに絞るわ」

 

 いいわよね、と紅い瞳が問うている。

 

「背中、あなたに預けるから」

 

 熱いものがこみ上げて来て、喉が詰まった。

 幽香はその一言を、特別な感情抜きに放ったのだろう。それでもハジメには、彼女が自分の力をほんの一片でも認めてくれたような気がしたのだ。

 

「あぁ、任せろよ」

 

 さっそく三体の妖怪を撃ち落とした幽香へと歩みつつ、ハジメは嫌な予感を隠しきれない。立ち込めた花の渦の中ではそれなりに修羅場が繰り広げられているようだったが、矢面に立ったハジメたちにこれ以上してやれることはなかった。

 

「寺田!」

 

 花の嵐の中で大声を張り上げる老刑事が相棒の名を呼んだ。

 いつもいつもここぞという時に居合わせてくれない寺田は、今日も絶好調だった。

 出口へと殺到する人の流れに翻弄されつつ、彼の目はその少女に吸い寄せられた。

 

「……やぁ、相変わらずヘンな時に会うな!」

 

 流れに取り残されて、一人渦巻く花の中心を見つめていた霊夢は僅かに顔を逸らし、困ったように笑った。

 

「ほら。また会えた」

 

 見る見る間に彼女が遠ざかっていく。

 

「君たちはいったい、何をしようとしているんだい!」

「私たちの世界と、この世界と、友達を救いに来た。はずだったんだけど」

 

 大声を張り上げると、かろうじて霊夢の返事が聞こえた。

 

「それじゃあ、またね」

 

 短すぎる再会に終わりを告げるように赤い稲妻が幾筋も降り注ぎ、ついに空が砕けた。花弁の隙間から見える空には異様なモノが泳いでいる。

 巨大なクジラが勢いよく体を滑り込ませると、早速ジェットコースターのレールを粉々に噛み砕いていった。

 

 地響きを立てて倒れ込むレールを尻目に、ハジメは狙い澄まして妖怪を叩き落としていく。強靭な顎は脅威だが、一体一体はそこまで恐ろしい相手ではない。

 そんなことより、つい今しがた目の前に新しくクレーターを形作り、ありふれた日常を混乱の中に沈めるきっかけとなったモノの正体を目にしてしまった。

 

 迎撃の手を休めてそれに触れる。力を使い捨てられた槍は未だに熱をもってくすぶっていた。

 赤く焼けた槍が冷えて崩れていくのとは対照的に、ハジメの怒りが徐々に燃え上がりはじめていた。

 

「ふざけるなよ!」

 

 それを振るう男には覚えがある。親友が信じられなくなった。

 彼を信頼して、すべてを任せた結果がこれだ。

 焼けただれた金属の槍を乱暴に蹴倒す。乱舞する怪異たちの向こうを悠々と泳ぎ、きまぐれに暴食を繰り返す不可触の鯨へとハジメは指先を向けた。

 

「ハジメ、危ないわ」

 

 幽香の言葉は彼には届かなかった。怒り任せの弾丸を装填する彼が構ったことではない。

 

 仕方なく彼の襟首を捉えようとした幽香の手が、止まった。

 怒りを燃やす彼の背中。そこにぼんやりと形作られつつあるおぼろげな光の輪郭に、一瞬心を奪われていた。彼女にとって、今はあまりにも遠い輝き。

 

 巨大な光の輪郭が一層激しく輝くや否や、ハジメの指先からほとばしったものはあまりに速く、あまりに鮮烈だった。真夜中の太陽のような爆裂する閃光の筋が夜空を切り裂く。弾丸が発射される度にハジメの足元の舗装が沈みこみ、見えない巨人に殴りつけられたような衝撃が幽香を引っ叩く。

 

「裏切ったな、ユキ。俺を――俺を、裏切ったんだなッ!」

 

 二人の間に大きな溝ができたことなど、とうの昔に承知していた。

 それでも、ハジメの頭の中には新しい怒りがぐるぐると渦巻いている。彼の憤怒を受けて、その指先が激しく火を噴く。新しい流星がいくつも夜空に打ち上げられる。

 

「なんだ」

 

 それまで無駄と知りつつ攻撃を続けていた雪之丞が、翼の先端を焦がしていったものを見定めきれずにいると、彼の体を怒りと痛みに染まった唸りが揺さぶった。

 

 見上げた視線の先で巨鯨が体をよじっている。信じられないことに、霊夢や紫の能力でもってしても傷つけることのできなかった怪物が腹に大穴を開けて悶えているのだ。

 そうしている間にも地上から打ち上げられる弾丸がその体を次々と貫いていく。

 

「つっ」

 

 地上に見つけた、その姿。

 光を背負って立つ彼は、まるで堂々と天を突くように咲き誇る、大きな大きな花のように見えて。それが、太陽のようなあの人の愛を受けることが当然だと主張するようで。

 

「認めねえ!」

 

 叫んでいた。

 

「認めねえ。絶対に俺は認めねえ。ヘラヘラしてるだけのお前が報われるなんて!」

 

 生々しい感情を隠そうともしない吸血鬼の手中で槍が信じられないほど邪悪な形状へと変形する。咆哮と共に放たれたそれが空中で幾何学的な軌道を描きつつ迫る先に何があるかなど、愚問だ。

 

 ハジメの燃える瞳と、雪乃丞の怜悧な視線が交錯する。一瞬後に巻き起こった大爆発に唾を吐きかけて、吸血鬼は翼を翻した。

 

 ◆◆◆

 

「目が覚めた?」

 

 びゅうびゅうと煙臭い風が吹いていた。

 どこか心配げに見下ろしてくる幽香の顔。慣れない距離感の正体は、頭の下にある幽香の両腿だった。膝枕だ。そんなものに心を揺らす余裕が無いくらい、今の彼は打ちのめされていた。

 

「俺」

「大丈夫。あの妖怪なら逃げたわよ」

 

 いつも通り考えなしに能力を乱射して、いつも通りぼこぼこにやられて、幽香に救われたのだろう。

 すべてを察する。要するにハジメは勝負に負けたのだ。

 そんな姿を幽香に晒し続けるのが耐えられなくて、間を持たせようと口を開いていた。

 

「ずっとずっと前にユキと江梨香と、千晃とここに来たんだ。んで、花火を見てさ」

 

 確か小学校の遠足だった。

 千晃が引きこもる前の、遠い過去の話だ。

 見事に親たちとはぐれたのは四人だった。ぐずる千晃をなだめる江梨香。ハジメと雪之丞の間に漂ういやに張り詰めた空気。誰が悪いかと押し付け合いになる寸前、大輪の花火が空に咲き乱れたのだ。

 

 途端に責任の所在なんてどうでもよくなった。

 千晃までもが泣き止んで、ハジメのシャツをつかんだままぽかんと空を見上げていた。

 空が静かになってからも醒めやらぬ熱気が胸の中に留まっていた。

 

『いってえ』

 

 ぶん殴られた頭をさすりさすり、半べそをかいたハジメ。無言の父が運転する車の後部座席に並んで座った雪之丞も目尻に涙をためながら、必死に泣くまいと堪えていた。

 

『でもさ、楽しかったよな』

 

 いたずらっぽく笑って見せる雪之丞の顔が、今でもありありと浮かぶようだった。

 それからだ。接点なんてものが学校くらいしかなかった彼らが友達になり、やがては親友と呼び合ってはばからなくなったのは。

 

「今年はあんたと見たかったんだけれど」

 

 そうして、幽香との距離ももっともっと縮まればいいな、なんて。

 こうしてすべてが失敗に終わって考え直してみると、その子供っぽい考えがあまりにバカバカしかった。

 悔しさに突き動かされるように立ち上がって雄たけびをあげて、そしてようやく、自分の立つ場所が観覧車のゴンドラの屋根の上であることに気付いたのだった。

 

「高っ、怖っ!!」

 

 ペタンと尻もちをつくと頂上近くのゴンドラは一層激しく揺れて、ハジメの喉から情けない悲鳴を絞り出すのに一役買った。幽香がくすくす笑って、腰を上げる。

 

「失礼しちゃう」

 

 そんなちぐはぐな言葉を吐かれて、ハジメは頭上に疑問符を浮かべる他ない。

 

「今日はとっても楽しかった。クレープも、愛のトンネルとやらも、悪名高い行列ってやつも体験できたし。私はこの期に及んで文句を言うほどわがままな女だと思われていたのかしら」

 

 霊夢たちの姿も目にしているはずの彼女は、何も聞こうとしなかった。

 ただハジメの頭を穏やかな微笑みと共に撫でて、彼女は両の握りこぶしをまっすぐに突き出す。指の隙間からとめどなく流れ出すものは宝石のように輝く植物の種子だった。

 

「私をここまで楽しませてくれたあなたには、ご褒美をあげなきゃ」

 

 小声で歌う彼女が、次にどんな言葉を口にするのか。ハジメには何となく分かっていた。校庭で花文字を書いたときにしたって、彼女はわくわくすることがあると、決まって口にするのだ。

 

「産子這う子に至るまで、とくと御覧じよ」

 

 両手を広げた彼女と、遥か下で芽吹き始めた無数の種子が、瞬く間に無人の遊園地を覆い尽くしていく。既にここから離れた人たちはどんな気分でこれを見ているのだろうか、とハジメが思う間にびっしりと蔓延った緑のじゅうたんにぽつぽつと七色の光が灯る。

 息をすると、花の香りが強かった。

 

「それで、感想は?」

 

 美しかった。

 ただただ、初めて風見幽香という女に出会ったときのように、その美しさの前に何もかもを忘れそうになっていた。

 

「あっ」

 

 だからだろう。ふらふらと一歩踏み出したハジメが、そのままゴンドラの上からまっさかさまに落下したのは。

 

「もう。危なっかしいんだから」

 

 ふわりと、着地はとことん優しく済んだ。

 空中で幽香に抱きかかえられたハジメが花の絨毯に下ろされる。幽香の顔が近い。

 

「すごいな」

 

 それは本心からの言葉だ。幽香が改めて彼を膝枕することに気づかなかったくらいには、素直に見惚れていた。

 

「少しは元気になった?」

 

 自然にほころんだハジメの顔を見下ろして、幽香が問うた。

 

「あぁ。うん」

 

 彼女をあっと言わせるつもりが、いつの間にか自分が驚かされていた。おまけに気落ちしたところを彼女なりに励ましてもらったことに思い至ると、やはり幽香には勝てる気がしない。

 

「また、助けてもらっちゃったな」

 

 長い長い三カ月、ずっと彼女はハジメに手を差し伸べてくれた。

 その方法は校庭の花文字だったり面談の教師をボロクソにこきおろすことだったり。破天荒極まるものだったが、ハジメが理不尽で息詰まりしそうな現実を前に膝を折りそうになるたびに、いつでも彼女が肩を貸してくれた。

 

「手が掛かる子は嫌いじゃないの」

 

 幽香はふふんと得意げに笑って目を細める。

 

「ありがとな」

 

 ようやく言うべきことが言えると、その奥に隠れていた気持ちの輪郭がくっきりと浮き出てくる。

 二月の夜風の中にあって、全身が燃えるように熱い。その感情に焦がれるだとか、焼けるとか、不釣り合いに物騒な言葉を当てはめる理由がよく分かる。

 呻いて、ハジメは顔を覆っていた。

 

「あらあら。どうしちゃったの?」

 

 その心中を知らずに覗き込んでくる幽香がたまらなくうっとおしく、そして愛おしい。

 

「うるせえよ」

 

 つまるところ、ハジメは幽香にぞっこんだった。

 最強の妖怪だろうが暴れん坊だろうがなんだろうが、構った事ではない。とことんダメダメな彼を見捨てずに付き合ってくれる幽香を、妖怪ではなく一人の女の子として好きになってしまったのだ。

 

「ヘンなハジメ」

「黙れ黙れ。バカ」

 

 その恋心は歳相応に、とことん青臭い。

 やはり勝てないと悔しげに唸るハジメと、くすくす笑う幽香。花盛りの遊園地の上空、雲間にのぞく月の傍らに青い星が数度瞬いて、消えた。

 

 

 

 第十三話『錆びたくじらの話』おわり

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