けれど、なんだ。
胸を悪くしそうなほど心臓が高鳴っているのが分かる。テーブルの下でシャツの胸元を握りしめる。
――――落ち着けったらみっともない。ただの演技だろ。
そう己に言い聞かせてみても、やっぱり思春期とは度し難いものだ。
幽香の口から吐かれるものが嘘であると分かっているのに、心のどこかでは期待している。もしかしたら、ひょっとしたら、もしかしてだけど、ワンチャン、メイビー?
「私ね、花が好きなの」
足を組みかえて、幽香はテーブルの面々に赤い視線を走らせた。
「うん。それは知ってる、けど」
「千晃はどうかしら。花、ないなら野菜でもいいわ。何か植物を育てたことはある?」
「小学校で、トマトとかホウセンカとか」
今となっては人間社会に適応できないくらいに空気の読めない千晃だが、信じられないくらい上手くやっていた時期もあるのだ。真夏の太陽の下。半泣きの妹と一緒に彼女の自由研究からアブラムシを一匹一匹つまんでつぶした記憶がよみがえって、テーブルの下のハジメは知らず口元を緩めている。
「いいわね。なんだか千晃らしい」
「でも枯らしちゃったんだ、ぜんぶ」
顔色を窺うように上目遣いの千晃を見て、幽香は声を漏らして笑う。
「当然生き物ですもの。上手くいくときもあれば、そうじゃないこともある。私だって、たまには失敗もするし」
「お姉ちゃんが?」
「もちろんよ。私はだいぶ完璧だけど、神様じゃないもの」
「お前、それマジで言ってるのか」
ツッコミを入れたハジメの顔面に爪先が叩き込まれた。こんな時でも幽香原理主義、ハイルお姉ちゃんの千晃は容赦をしてくれない。
「ごめんね、あにきがドザコのナメクジ野郎で」
静かに悶絶したハジメを見て、杏奈は相変わらず愉快そうにけらけら笑う。
毎日の行動範囲は半径数メートル。運動らしい運動がせいぜい階段昇降のクセに、千晃はいい蹴りを持っていた。
「それで花とあにきと、どんなカンケーがあるの?」
「虫を取ってあげて、毎日水をあげて、土が痩せたら栄養をあげて、日の光を一番気持ちよく浴びられるように工夫して。それだけ頑張ったのに結局最後は枯れちゃって」
父が無言でテーブルの下に放りこんだティッシュを血まみれの鼻に詰めながら、ハジメは幽香の言葉に耳を傾ける。出ていくタイミングは完全に見失っていたが、ここで全てを聞くのが一番正しいような気もした。
「正直言って欲しいのだけど、その時の感想はどうだった?」
千晃はすぐに答えない。ハジメの目の前で、彼女の足がぶらぶらと揺れていた。
「…………めんどくさいって思ったかな」
てっきりお姉ちゃんに嫌われたくない一心で嘘をつくものと思っていただけに、千晃の素直さはハジメを驚かせるのに十分なものだった。
「そうね。花を、というよりも誰かを育てるって、面倒くさいことよね」
テーブルに頬杖ついた杏奈にも思うところがあるのか、涼やかな美貌を苦笑に歪めた。
花々を我が子のように愛してやまない幽香の口から発せられた言葉は、ハジメと千晃の耳を疑わせるようなものだった。
「そんな当たり前に気づくまでとんでもない時間がかかっちゃったわ」
まったくもう嫌になっちゃう。勝手に納得してうんうん頷きながら朗らかな笑みを浮かべた幽香は、もう語ることは語ったとばかりにきゅうりの漬物をぼりぼりと噛んだ。
「えっ、ちょっ、お姉サマが何を言ってるのか、わたし一ミリもわかんないんですけど」
「私ね、面倒が好きみたい。花も、そして、実は人間も」
とりあえず理由もなくテーブルの下の兄の顔をふんづけてから、千晃はおずおずと手を上げる。
「えーと。あれ、ええと。わたし、何を聞こうとしてたんだっけ」
「落ち着いて」
「落ち着く」
言われるがまま、千晃は素直に深呼吸する。
額を覆っていた手を取り払って現れた彼女の顔には頼むから勘違いであってくれと言いたげな苦々しさに彩られている。
「つまりお姉ちゃんはあにきが面倒なヤツだから好きになったってこと?」
「おかしいかしら」
「そんなの絶対おかしいよ!」
ハジメは点々と床に飛んだ血を拭く。
「とことん面倒でとことん手が掛かる。おまけに私の言うことは八、九無視。絶対に思い通りにいかないハジメが私は――――大好き。ふふ、困ったことにね」
「うわあ、お姉ちゃんが大変だ」
ハジメが思った通りの感想を千晃が口にした。
ティッシュを鼻に詰め直して、おそるおそるテーブル下から顔を出してみると、千晃たちがまるで別の星からやってきた生き物を見るような目を幽香に向けているのであった。
奇しくも、それは的中している。彼女は幻想郷と呼ばれる異世界に生まれた、妖怪という種族だ。
「とんだ犯罪者め」
驚きの色を顔に残したまま、父がハジメに向き直った。
「いいか絶対幽香さんを逃がすなよ。こんないい人、絶対絶対、巡り巡って来世でも会えない」
「こんなバカ息子に来世があるか心配だけどねえ」
随分と勝手なことを言ってくれる親たちはさておき、千晃は暫く陸に打ち上げられた魚のように口をぱくぱくとさせていた。
「あら、鼻血なんて。どうしたの?」
幽香が首を傾げた。
その原因となった千晃の足が今もテーブルの下でハジメの向こうずねを蹴っ飛ばしている。蹴り続けながら、ハジメを見つめる。
「あにきはヘタレだよ。ここぞという時に裏切られて、傷ついてほしくないよ」
「大丈夫」
その間もべちべちと千晃の足裏がハジメの足を蹴る音が響いていた。痛くは無いが、うっとおしいことこの上ない。少しは冷静に考える時間を与えて欲しかった。
「あなたのお兄ちゃんをずっと見ていた私が請け負うわ。確かに彼はへたれだけど、本当の土壇場で逃げ出したことなんて一度もない。散々弱音は吐いてくれたけどね」
「マジ?」
なんて間抜けなことを口にするのだと思う。
呆然としたままのハジメを意味を計ることが難しい微笑で一瞥してくれただけだ。もはや彼女が演技でこの場にいるのかどうか、彼には見当つかない。
「…………よかったね、あにき」
千晃は一度爪先で小突いて、それきりハジメには何もしようとはしなかった。
「いいじゃん。お姉ちゃんにこんだけ言わせたんだからさ。綺麗に咲かないとダメだよ」
「なんだよ、それ」
「あーあ、もう一度トマトでも育ててみようかなぁ」
千晃がダイニングのイスに体を乱暴に預ける。ぎしりという背もたれの軋む音がそれまで張りつめていた緊張を一気に解きほぐしていくようだ。
「幽香ちゃん、醤油とって。うん。ありがとう」
そんなモノお構いなしの杏奈が真っ先に行動を起こすと、鶴見家の食卓は今度こそ、何事も無かったかのように再起動が掛かる。
濃い味付け派の杏奈がじゃぶじゃぶと湯豆腐に醤油をぶっかけつつ、ハジメの視線を追ってテレビに見入った。
「例の金物泥棒、さっさと捕まらないかねえ」
さっきの今で車を破壊されたばかりだというのに、杏奈はすでに他人事のように話す。その横顔は十代の甘酸っぱい色香を漂わせてみたと思えば、とたんにしっとりとしたオトナの魅力を垣間見せてみたり。
「ん? どーしたよ」
「あんた、本当に人間なのかな」
「失礼な。私が人間じゃなかったら、ハジメだってそうなるんだぞ」
ハジメはそんな変幻自在な怪人が自分の母親だとは信じられない。それでも、この予測不能さであれば、確かに石のような父のハートを射止められたのだろうと納得もする。
唐突にケータイを取り出した杏奈は、ハジメに向けてシャッターを切った。次いで千晃。最後に無理やり父の肩を抱き寄せて、ツーショットを撮る。
「――――うむ。こんなもんかな。ねぇハジメ、母さんからもいっこにこ聞きたいんだけどサ」
携帯をいじりながら、至って何気なく杏奈は口火を切った。
「例えばだけど、幽香ちゃんが怪物だったらさ、ハジメはどうする?」
「それでこいつの作る弁当の味が変わるんじゃなきゃ、別にどうでもいいな」
ので。ハジメも特に何も考えずに答える。答えてから、違和感に行き当たった。
「いいねぇ。そういう勢い、すっごく好き」
「どうしてそんなことを聞くわけ?」
「ふふん」
こういうとき、杏奈が答えるような相手でないことくらい分かっている。至ってにこやかに、それでも不気味なプレッシャーを滲ませて彼女は手を組んだ。
目線は今もテーブル上の携帯へと向いている。それでも、彼女の全神経が剣の切っ先のように突きつけられていることを感じた。
「じゃあさじゃあさ。幽香ちゃんがバケモノだったらどうする?」
「だから、そういうのはどうでもいいって」
「バケモノと怪物は違うよ、ハジメ」
母の言葉に、言い知れぬ不安を覚える。指先はいつの間にかポケットの中にあって、温まりきった五円玉を探していた。いつだって、苦境に陥る度にこの感触を頼りに己を律した。
裏を返せば、ハジメは自らの窮地を、この何気ない会話の中に悟っている。
「怪物は生まれついてのものだ。でもバケモノは違う。これは本質だ。ちょっとした間違いで、私も、ハジメだって、バケモノになり得る」
「殺人鬼とか、そういうモノってこと?」
「近いかもね。それのもっともっと、たちの悪いものって考えてくれれば。でさ、幽香ちゃんがそういうものになった時も、キミはちゃんと彼女を守ってあげられるかい?」
「いくらなんでも人殺しなら、大人しく御縄に」
「聞きな、ハジメ」
思い切り液晶画面をフリックして、杏奈の顔は変わらずニコニコしている。声色は窓の外に広がる初春の夜のように穏やかで気だるげだ。それでもハジメは怖いと感じた。
「この際倫理とかどうでもいいよ。キミは地球全体と幽香ちゃんと、天秤にかけてちゃんと重さを量れるかって聞いているんだ」
「なんだよ、それ」
「杏奈」
見るに見かねたのだろう。幽香がずいとハジメの隣から身を乗り出した。
「ハジメが困ってるから、やめて」
珍しく、非難するような物言いだった。
「今、幽香ちゃんと話しているように見えたかな?」
スマイルを維持したままの杏奈が発射した魚雷は見事に幽香の差し向けた助け船を轟沈した。
「すぐ終わるからね。ありがとう」
杏奈は組んだ手の上に顎を載せて、喉を撫でられたネコのような笑みを浮かべる。
「陳腐な物言いをするね。キミは全世界を敵に回しても、幽香ちゃんを守り続けられるかい。引き換えに千晃ちゃんとそこの石頭が惨たらしく殺されるって言われても、彼女のために突っ走り続けられるかい?」
貧弱な爪がへし折れる感覚があった。それほどまでに、ポケットの中の攻防は過熱していた。そんなハジメはうつむいたまま、言葉を練る。
「あにき」
今、顔を上げて妹の顔を見ることが助けを求めるように見えやしないかと不安で仕方なかった。
「私はそういうことをハジメに望んではいないわ」
今日の幽香は少し妙だ。
「黙れってば。ねぇ、これ以上イヤな言葉を使わせないでくれるかい?」
今度こそ泣く子も黙る大妖怪は困り顔のまま言葉を失った。
顔を伏せた幽香を見ていると、ハジメの内にふつふつと怒りがたぎってくる。そう何度も何度も彼女が手ひどくやり込められる姿を見ていると、何故か彼の方が悔しくなっていた。
「勝手なことばっかり上から目線で言いやがって」
ここ数週間、収まりを見せていた杏奈への憎しみが一気に湧き上がりつつある。指先の感覚が無くなるくらいに五円玉の表面を刻む。
「あんただって、オヤジと何一つ上手くいかなかったじゃないか」
「そうだね。ハジメたちにはこうなって欲しくないんだ。で、どうかな?」
息苦しい。どうしてこうも鶴見家っていうのは上手くいかないんだ。喉の奥に詰まった石ころを呑み下そうと、青年は唾を飲み込む。
「約束してやるよ。俺は」
「ハジメ、そろそろ頃合いだから言うけどさ。ソレ、母さんじゃないんだぜ」
「何?」
「五円玉は母さんじゃない。私だろ」
皆が首を傾げる中、ハジメにはその意味が分かった。
顔から血がさっと退いていくようだった。まるで、何気なく握手に手を差し出した瞬間に一気に全ての指をへし折られたような気分だった。
「やっぱり、根性無しのままかい」
――――母からもらったお守りを、いつから藁人形の代わりに使い始めたのだったか。
「と言っても、正面衝突するべき私が出て行ったのもあるのかな。ゴメンね」
うつむいたままのハジメを尻目に、杏奈はにわかに明るんだ窓の外へと視線を馳せた。それまでテーブルの上に置いていた携帯をポケットにねじ込んで、彼女は席を立つ。
「さてさて、タクシーも来たみたいだし。それじゃあ一か月、楽しかったよ」
「出て行くって急すぎないか」
「そうかな。元からあんたにはひと月って言ったしね。明日一番の飛行機で帰るからさ、最後のお願い。アレ、廃車にしといてくれるかな」
未だうなだれたままのハジメを一瞥し、杏奈は千晃へと向き直る。小動物のように体を引きつらせて、千晃は小さく唸った。
「千晃ちゃん、どうする。私と一緒に行くかい」
「――――ごめんね。いやだ」
ためらいがちに。それでも強く、首を横に振る。
「そこのそいつ、このままじゃ過労か自殺か。そのうち死ぬよ」
杏奈は父の眉間に指を突き付ける。三白眼が不平に細められた。
「縁起でもないことを言いやがる」
「死ぬよね」
「おい!」
あっさり千晃が同意したので、流石の父も声を上げざるをえない。
「そうならないように自宅警備員が付いてあげていないといけないじゃんか」
ためらいがちに手を伸ばして、杏奈が千晃の頭をくしゃりとなぜる。もっと、と思わず頭を傾ごうとした妹は、ぶんぶんと頭を振った。
「さっ、寂しくなんてねーし」
「うん。そうだね」
ハジメは大人の世界を殆ど理解できない。
きっと父と母の関係はこうして見えるよりもいろいろ複雑な事情とか思惑とか経緯があって、別れざるを得なくなってしまったのだということだけはかろうじて分かる。
正直言えば杏奈が憎い。それでも、ハジメを含めて誰ひとりこの別れを望んだろうか。
「それはあげよう。私からのお詫びってことで」
杏奈の手で五円玉を握り込む手を包まれた時が、一番辛かった。
「じゃあ。アンタ、コレも含めて退屈しない男だったよ」
「次のヤツもそうだといいな」
「安心しな。アンタ以上はきっといないよ」
ドアノブに手をかけて、杏奈は振り返った。幽香の耳元に口を寄せ、彼女にだけ聞こえるように囁く。
「勝負、まだ終わってないよ」
その意味を幽香が問い返す前に、杏奈はさっさと家を出て行ってしまっていた。
「さて、ちょっと泣きいれてくるかな」
最初に立ったのが千晃で、その次が父。最後までテーブルについていたハジメと幽香も、どちらからともなく席を立つと、一言も交わさないままその場を後にした。
◆◆◆
「リフジンだよねぇ」
ベランダ。千晃の短い髪を夜風が揺らしている。
その見つめる先にはF市の夜景がある。住宅街の灯りがぽつぽつときらめき、その先には駅周りの休まぬ光の渦が広がっていた。
杏奈の乗ったタクシーはとうにこの町を離れ、彼女は遠くのホテルで明日の朝を待っているはずだった。
「引きとめられればよかったのにね」
「分かっていても正解を選べないときだってあるわ」
後ろからハーブティーを盆に載せてやってきた幽香の目は、千晃の目尻に時折輝くものを見て取っていた。それについて何も言わずにお茶を注いで彼女に手渡す。
「お姉ちゃんはいつでも優しい」
薄く笑って、幽香は口にお茶を含む。茶葉が宵闇の中に強く香った。そんなことに一抹のゆかしさを覚えていると、横顔を盗み見る千晃の視線に気づくのだった。
「ねぇ、もしも、もしもだよ。私がもっとずっとダメで、ヘタレだったら、お姉ちゃんは私のこともっと好きになってくれる?」
「あのね、千晃……」
「分かってるよ。あにきじゃなきゃダメなんでしょ」
微かな声で笑ってから、千晃は欄干にもたれて肩を震わせ始めた。
「いいなぁ。あにき、いいなぁ」
すすり泣く千晃を抱き寄せてやりながら、幽香はぽつぽつと言葉を吐きだす。到底語るつもりは無かったことも、義理の妹を自称する少女の涙に後押しされるように、とぎれとぎれに連ねる。
「正直言ってね、私、そんなに人間っていうものが好きじゃなかったの。弱くてちっぽけで、そのくせ獲物を見つけると容赦しない。何を考えているか分からないから、私が弱いころはいつも怯えてたし」
「お姉ちゃんが?」
「えぇ」
幽香が眉間にしわを寄せた。
「そう何度も思い出すものじゃないわね」
不意に漂わせてしまった殺気に千晃が慄きはしないものかと不安になるが、彼女は悲痛そうに目を伏せただけだ。
「それを変えてくれたのが、あいつなんだね」
「あの子は多分、自分が何をしたのかも分かっていないのでしょうけれど」
千晃はブラウスの袖で思い切り鼻をすすった。場違いに下品な音が響く中、幽香は堪え切れず小さく吹きだす。
「花たちの美しさを語るのは簡単だと思う。でも、花であることの美しさを私の目に焼き付けてくれたのは、ハジメが最初よ」
「よくわかんないけどあいつ、すごいね。うっかり尊敬しちゃうかも」
「遠慮しないで誇りなさい。あなたのお兄ちゃんよ」
「やだよ。兄妹の確執は海より深いのだ」
その代わり、今晩だけは、ばかあにきの味方でいてやるのも悪くないと思った。こういう時に兄が大人しく不貞寝したりしないことは、よく知っている。
「あにきの傍にいてやって」
付き合いで言えば幽香も長い。千晃の言葉を待っていたように、彼女は頷いた。
◆◆◆
眠った草木も飛び起きるほど騒々しくなることは明らかだった。
ガレージの扉をそろそろと開けて、ハジメは銀の車体を前に携帯を取り出す。幽香が運転するところは散々間近で見てきた。
「こんなん、簡単だ。簡単――かん、たん――かん――えー、っと」
『バイク エンジン かけ方』なんて打ち込むだけで赤面しそうな恥ずかしい検索を掛けながら、ハジメは暗闇の中で頭をかく。
「大人しく教習所に通いなさい。それに免許、持ってないんでしょ」
カギを抜きつ差しつ無駄な努力をしているところにさっさとやってきた幽香がさっさと車体に跨るとエンジンを始動させてしまう。
「お前だって無免じゃねえか」
ライダースーツに身を包んだ幽香の差しだしたヘルメットを受け取って、ハジメはぼやいた。
「杏奈を追いかけるんでしょ。行先は分かる?」
「あぁ。空港で待ち伏せる。高速に乗っかって、海沿いを走る方、分かる?」
返事代わりに幽香はエンジンを吹かす。
残されたバイクといい、いつかの練習で通ったルートといい。何もかも杏奈の掌の上なんじゃないかという考えを馬鹿馬鹿しく思いつつ、簡単に笑い飛ばす気にはなれない。
「それと幽香、その、ありがとな」
「お礼なら行動で示してくれるかしら」
「こ、行動?」
エンジン音がまるでせかすようだ。
それでもやるべきことは見つかった。
「全部上手く行ったら、あんたに言いたいことがある。それでいいか」
「それがお礼? ――まぁ、いいけど」
重い音を響かせて、バイクはその巨体を夜の町へと滑り込ませていく。二人の頭上には満月と、薄絹のような群雲。その狭間でしぶきがあがり、ヒレと尾を持った大きな何かの影がよぎった。
第十四話『鶴見家、最後の晩餐』おわり