宛先:ハジメ
差出人:ちあき
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あにきのガッコー知りたいって言うからさ、教えといたよ(ニッコリマーク)
宛先:ちあき
差出人:ハジメ
件名:Re:
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誰に?お前のメールすげーイラつく。主語がお留守。
宛先:ハジメ
差出人:ちあき
件名:Re:Re:
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ばかあにきお姉ちゃんにきまってるじゃん(怒りマーク)
宛先:ちあき
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件名:Re:Re:Re:
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授業中に押しかけられたらこま
宛先:ちあき
差出人:ハジメ
件名:クソ
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お前なんか大嫌いだ
◆◆◆
携帯を握る手に嫌な汗がにじみ出てきた。とりあえず妹には辛辣な言葉を送りつけて、ハジメはグラウンドへと視線を戻す。言わずもがなそこに佇むのは『お姉ちゃん』こと風見幽香だ。
突如としてグラウンドに現れた風変わりな女の存在に、静かなどよめきが昼前のクラスに広がっていた。
「あれ、誰だろ」
「フシンシャ?」
「でもさ、ちょっとキレーめじゃない?」
少し途方にくれたように彼女が校舎を見渡しているのを確認して、ハジメは安堵に胸をなでおろす。彼の妹は、クラスの位置までは教えていなかったのだろう。
良くも悪くも目立つ女を見ようと、大勢の生徒が窓際に詰めかけている。いかに彼女の視力がバケモノじみていようとも、見物の生徒に混じって様子を伺うハジメに気付けるはずもない。
そして悲しいことに、ハジメは完全に風見幽香の行動力を見誤っていた。
「……おい、それでどうする気だよ」
幽香が手にとったものを見て嫌な予感がした。今まで当たり前の日常の中に溶け込んでいた物品が、今やまるでジェイソンが持ったナタのごときヤバい代物に見える。
それは何を隠そう、数限前の授業で使われ、どこかのうっかり屋が放置していった通称「白線ひくやつ」であった。
「♪~」
幽香の鼻歌が聞こえてくるようだった。
彼女はライン引きの蓋を開けると、中に何かを仕込んでいたようだった。やがて一直線に歩き始める。しばらくしてUターンすると、一度線を引くことをやめて間隔をあけ、次の何かを描き始めるのだった。
「文字?」
「うお、すげえぞ」
誰かの発した推測は当たっていた。『つ』『る』という不吉な二字が出来上がるにつれ、白線はやがて緑色の何かに包まれ始める。何かの植物が真冬の乾ききったグラウンドに力強く芽吹いているのだった。
先ほど彼女が白墨の中に混ぜ込んでいたのは、植物の種だったのだろう。
いち早くその目論見を察してぞっとした。そして、ハジメはほとんど反射的に大声を上げていた。
「うわあああああ!」
とりあえずはクラス全員の注目を集める。誰も彼も、まるで狂人でも見るような視線を浴びせてくるが気にしてはいられない。今の彼はグラウンドから一人でも多くのクラスメートの目を逸らすことで頭がいっぱいだった。
「ダメだ、みんな! マジメにやろうぜ。時にはおかしな女が生まれるものだが、べつにいいじゃないか。こんな息が詰まるようなクソ授業中に一人くらい校庭で踊り狂う奴がいたっていい。それが自由ってやつなんだ。俺たちも俺たちで、自由を勝ち取るためにマジメに勉強」
「つ、る、み、は?」
無情にも文字は出来上がっていく。
身を呈した作戦も失敗に終わった。もはやクラスメートたちはハジメの存在など忘れてグラウンドに出来上がりつつある大文字に見入っている。
もはやここまでか。慌ただしく机を蹴散らしながらハジメは教室を後にする。長い廊下を駆け抜ける彼の全身で、ようやく塞がりかけた傷がシクシクと痛んでいた。退院後の登校初日からなんたる試練を与えられてしまったのか。
横目に見えるすべての教室では彼のクラスと同じ光景が繰り広げられていた。
誰も彼も授業を中断して窓にかじりついている。当然だろう。誰だって窮屈な教室に押し込まれて眠気と戦うよりも、窓の外の非日常を見つめる方が楽しいに決まっている。
たった一人の青年を除いては。
「クソ、あの女、絶対泣かす!」
家ではイヤでも顔を合わせることになる幽香の存在に青年は辟易していた。
学園生活の中にまで彼女が踏み込んでくるというなら、もはや避難場所は一つ残らず潰されたことになる。何としてでも彼女を阻止して、級友たちに彼女との関係を知られることだけは避けたかった。
下駄箱にたどり着くも利き腕はギプスの中である。靴を履く暇も惜しんで上履きのサンダルをつっかけたまま校舎の影から出れば、寒々とした空の下に見慣れたグラウンドが広がっているはずだった。
だったのだが。
「な」
絶句する。
せっせと線を引き続ける幽香を追うように緑が生い茂る。グラウンドの端に植えられた桜が、紫陽花が、ツツジが緑を取り戻していく。
冬だというのに穏やかな日差しの中にいるような暖かさがあたりを満たしていた。まるで風見幽香という一人の女の登場を、その場に存在するすべての草木が歓迎しているようだった。
「効果てきめんね。でもちょっとだけ遅かったかしら?」
振り向いた彼女は実に満足げで、実に意地悪な笑みを浮かべていた。
「て、てめえ、風見幽香ァ!」
こみ上げる怒りに青年が我に返って叫ぶ。しかし悲しいかな、そこには情け容赦なく完成した白墨の文字。打って変わって全生徒の注目を浴びるのは、立ち尽くす青年の方だった。
「はい、仕上げ」
ダメ押しとばかりに彼女がぱんぱんと柏手を打つと、膨らんでいた無数のつぼみが一斉に弾けた。嵐のように飛び交う花びらの中、極彩色の花文字が形作るものはもちろん「つるみはじめ」の花文字である。
その中心で、幽香自身も花開くように両手を広げた。
「
やがて校舎からまばらな拍手が起こり始めた。彼らを煽るように、さらに大量の花吹雪が舞う。今や拍手は全生徒を巻き込む大喝采へと変貌しつつあった。
舞台女優のようにやり遂げた顔で花たちと一緒に喝采を受ける幽香、とその傍らで騒々しいのはハジメの携帯だ。
ポケットに押し込んでいた携帯がひっきりなしに着信するのは級友たちからコトの種明かしと校庭の女が何者なのかを問いただされたメールである。その一つ一つに返信する言い訳を考えるだけで頭がかち割れそうだった。
「俺が何をした」
謎の熱気に浮かされた校舎からの歓声と着信音がどこか遠くに感じる。そんな青年の襟首をひょいと掴むと、幽香はようやくグラウンドという大舞台から退場したのだった。
彼女たちが去って暫くするうちにすべての花々は幻のように消え去り、グラウンドはまた紙やすりのような荒々しい地肌をむき出しにした。だがしかし、生徒たちの熱気は時計の針が正午を過ぎても醒めることがない。
「そういえば鶴見、どこ行ったんだろね」
そして、渦中の人物があっさりと誘拐されたことに皆が気づくまでには、彼らの興奮が収まるよりも更に長い時間を要するのだった。
◆◆◆
「はい、お弁当」
幽香が掲げた包みを力なく受け取って、ハジメはするりと紐解き始める。
はじめに目に付いたものはれんこんの肉詰めだった。バランスよく織り込まれた上品な構成。そして、学生のハジメを思ってか量も申し分ない。その上作りたてのお弁当を届けてくれるのは正直嬉しい。
だが。
「お気に召さなかったかしら?」
「それ以前の問題だろ。学校であんな大騒ぎ起こしやがって!」
幽香も思うところがあったのか、口を尖らせて反撃に転じる。
「あなたが意地悪して出てこないのがいけないのよ」
「こちとら授業中だぞ。ホイホイ出ていけるかよ!」
「お弁当、ダメになっちゃうわ」
「知ったことかよ。お前が来たせいで学校まで」
あ、と幽香が声を上げた。
少し離れたベンチの近くに止められたベビーカーの中で子供が泣いていた。この季節でも昼時の公園にはまばらに人がいる。彼らから注がれる視線が、どこか冷ややかな気がしないでもなかった。
「大声出すから」
「ぐう」
子供を持ち出されては勝ち目がない。とりあえずこの場は鉾を収めて、ハジメは幽香に向き直った。正しくは彼女の膝の上の弁当箱に。
「とりあえずこれ、もらっていいか」
「好きにすれば」
口論の尾を引いてか、そっぽを向いてつっけんどんに返す幽香。しかしその視線だけが、落ち着きなくハジメに向いている。感想を求められていることは明白だった。
「……何か、言ったらどう?」
どれもこれも、素直に言えばウマい。ハジメがこれまで口にした彼女の料理で、そうでないものなど何一つ無かった。幽香は家事全般をそつなくこなすし、おしとやかな居候を完璧に演じている。
それに、彼女のおかげで少しだけ家の状態は良くなってはいる。
彼の妹の千晃は部屋から出るようになったし、朝食と夕飯には毎回家族が揃うようになった。
雰囲気で言えば、前とは比べ物にならないくらい改善された。
それでも、ハジメは気に食わない。破天荒で、とても人間とは思えない力と思考を持った女が家に帰れば家族の一員として溶け込んでいる。おまけに彼女は来年の5月には大爆発を起こそうという時限爆弾だ。
その異物感とはとても同居できそうになかった。
「まあまあ、だな。不味くないってだけ」
「そう」
こうして彼女の料理にケチをつけることが、ハジメにとってのささやかな反抗なのだろう。
「なら、もうちょっと頑張ってみようかしら」
しかし芳しくない返事にも、なぜか幽香は楽しげだ。
その心理がやはり掴めない。機嫌を取り戻した幽香に見つめられたまま食べる弁当は味がしなかった。
「お粗末さま。さてハジメ」
さっさと食事を終え、学校へと踵を返した青年の頭を幽香は鷲掴みにして、無理やり後ろを向かせる。彼はあからさまにイヤそうな顔をするが、おかまいなしと彼女は続ける。
「さっきの全力疾走を見る限り、体はだいぶ良さそうね」
「いやまだ」
「というわけで今日から本格的に私をブチ殺すために特訓してもらうわ」
「おい俺の話」
「といってもはじめからキツいことをしてもらおうってワケじゃないの。まずは毎日」
「はいはいはい、ちょっと待ちやがれよ」
そこでようやく幽香は話を中断した。不満そうに鼻を鳴らしながらも、視線でハジメに二の句を促してくれる。
「俺は学生で日中は授業がある。その次はダチだ。だからどう頑張っても日暮れまでは忙しいんだ。それに毎日こんな堂々と連れ出されたんじゃ、落第しちまう」
「いいじゃない。れっつ落第」
「よかねえよ。あのな、高校生の分際で留年するのがどんだけ恥ずかしいか、お前でもわかるだろ」
幽香は首をかしげる。腕組みする。考え込む。
うんうんと唸る彼女を見ていると、だんだんハジメの威勢もくじけはじめる。
「もしかしてお前、学校ってモノを知らないのか?」
「知ってるわよ。新型の寺子屋でしょ」
それは何も知りません、と同意義ではないのか。
そういえば、と。ハジメはこちらで生活を始めてからの幽香がちょっとした電化製品ひとつにもいちいち感動していたことを思い出す。彼女はこの町に現れるまでどんな場所でどんな生活をしていたのか。
「色々違う。つーか寺子屋って」
「寺子屋も学校も、行ったことないから。ほとんど一人だったし」
ハジメが動きを止めた。
「そ、そういう重いこと、さらっと言うなよな」
寒風に髪をかきあげる幽香を見るうちに、だんだんとハジメは居心地の悪さを感じてくる。ひょっとしたら思わず地雷を踏んでしまったかもしれない、という罪悪感から、ちょっとだけ彼女に負い目を感じてしまう。
それが本日二度目の大間違いだった。
「――仕方ない。今日のところは、いいぜ。特訓」
「いいのねっ! ありがとう!!」
たったそれだけのことが、そんなに嬉しいのだろうか。
彼女はベンチを軋ませて勢いよく立ち上がると、さっそく体をほぐし始める。つられて立ち上がったハジメも、かじかんだ指先を揉んでみた。
「で、何するんだ」
「まずはあなたの実力がどれほどかを見極めたいの。できればあの力を使って欲しいんだけど、今出来るかしら?」
あの力。まさしく火事場で見せた馬鹿力を思い出す。
しかし青年の気力を振り絞って発揮できた能力はコンクリートの塊に小さな穴を穿つくらいが関の山。馬鹿力も、超能力も、いささか名前負けだ。
ハジメは業火の記憶を思い出しながら指を構えてみる。子供がふざけてそうするように、銃の形をとった左腕。指先の炎と、燃えるように熱い左目の感覚を引き出そうとする。
「いや、ダメだ」
しかし、今の彼にあの力は再現できそうになかった。頭の中から伸びた糸が、伸ばした指先に繋がっている感覚はある。しかし決定的な何かが今の彼には欠けているような気がしてならない。
彼がいくら集中しても、指先からは煙の一筋も上がらなかった。
いささか残念そうに、幽香は肩をすくめる。
「となれば実地であなたの力を見るしかないわね」
「というと?」
「肉弾戦ってことよ」
それまで羽織っていたハジメの妹――
「いらっしゃい。とりあえず、実力の千分の一くらいで相手してあげる」
「バカにしてんのかよ」
「まさか。あなたにこれ以上ケガしてほしくないだけよ」
呆れてハジメは幽香の様子を観察した。
千分の一なんてものが厳密な数字なのかどうかはさておき、彼女は相当力を抜いているように見えた。それは、構えることなくだらりと垂らされたままの両腕が証明している。
いくら悪魔のような女だからとはいえ、無抵抗の幽香を殴ってもいいものかと青年は考える。だが彼女に申し訳なく思うより先に、リンゴの思い出が、グラウンドの花文字が、拳を固めさせていた。
「何があっても文句言うなよな」
「いいわ。殺す気でかかってらっしゃい」
せっかくの恨みを晴らすチャンス。ここで逃さでおくべきか、と拳を振りかぶったハジメが突撃する。やはり幽香は構えない。殴られるというのに、むしろ彼女はハジメを慮っているようにも見える。その様子がますますハジメに勢いをつけた。
「その余裕もここま”っ」
空気が破裂した。
ハジメの目に見えたものは幽香の周囲の空間が衝撃で歪む瞬間。そして、直後に自分の顔面をぶん殴った重い一撃。
青年が放物線を描いて飛んでいく。美しい鼻血のアーチを描きつつ落ちる先はぎゅう詰めのゴミかごだ。
呆れ顔の幽香がそれを見送る。
「次は一万分の一かしらねえ」
見事なロングシュートが決まった瞬間、それまで泣いていた子供が上機嫌に笑い始めたのだった。