『いいな。お前はお兄ちゃんだから、千晃にはお前の口から説明してほしい。実は――』
◆◆◆
あまりにも血なまぐさい鉄と肉の世界で、ハジメは一本の鉄柱に体をひっかけてぶら下がっていた。
「ぐうぇぇぇ」
痛いのは生きている証拠という。今の彼は、ものすごく生きていた。
悲鳴をあげて胸の傷を確かめようとした腕は大蜂に噛みつかれたままの血みどろで、そのまま彼の体は鉄柱から滑り落ちて肉の床に叩きつけられてバウンドする。
汗まみれの背中の下で、床が脈動している。非常に残念なことだが、寝ても覚めてもここは怪物の体内なのだった。
「……あー、あ。穴、開いちゃったじゃん」
身動きもできないくらいにアレやコレやが詰め込まれた胃袋の中、掌からこぼれ出したエラーコインのど真ん中に穴があいていた。
「お前といい、幽香のやつといい、どうして、いつもいつも頼んでもいないのに俺の身代わりになろうとするのかね」
指先も動かす気になれないまま、ハジメは近くに転がったそれを見つめ続けた。
胸の傷はじくじく痛んでいた。それでも、このコインが胸ポケットに入っていなかったらもっともっとひどいことになっていた筈だ。
それが幸運だったとは言い難い。激しく動き回る鯨の腹の中、積み上げられた残骸の間から数え切れない気配が這い出しはじめていた。
「これ、エラーコインっていってさ。あのままだったらウン万するんだぜ。コーコーセーがそれだけ持ってたら、いったい何ができると思う?」
大蜂たちには目もくれず、五円を見つめる。
思えば『ちから』に目覚めたときから、この五円玉はずっとハジメの手のひらにあった。いくつものピンチを共に乗り越えてきた。胸を満たすような、彼にとってのすべての息詰まりの象徴に、今風穴が開いている。
『私をぐしゃぐしゃに叩き潰して、その後は?』
誰かの声が聞こえたような気がした。
『夢や希望を見つけるとか、のぼせたことはもう言わないわよね』
時間は巻き戻る。最初の、業火の記憶に。
『じゃあ、死ぬしかないわね』
明日への夢も希望も語れない口なら、死ぬしかない。生きようとあがけないなら、死ぬしかない。生き残る力がないのなら、大手を振って消えて行け。たまに驚くくらいシビアになる彼女の意見を言葉通り受け取るのは簡単だ。
「きっと、そんなんだから友達いなかったんだろうな」
答えてくれる妖怪はこの場にいない。代わりに傷ついた彼のそでをぐいと引っ張ったのは一匹の大蜂だった。獲物に抵抗の意思がないと見るや、それまで遠巻きにしていた残りの蜂もがさがさと迫ってくる。
鶴見ハジメの野望とはどんなモノだったのだろうか。混濁した意識では思い出せない。
「つー、ことは、だ。俺は」
本当に、今度という今度こそ死ぬべき時が来たのかもしれない。
◆◆◆
万事平々凡々で、波も風もない人生がお好みのルートだ。
日常に身を置きたい置きたいと望む心の強さに気付いたのは、人生のハンドルを大きく切りそこなったことに気付いた後だった。
『いいな。お前はお兄ちゃんだから、千晃にはお前の口から説明してほしい。実は――』
コンクリート打ちっぱなしのフロアに、がさがさと荒っぽくビニール袋をひっくり返す音だけが響く。手のひらをすりぬけて転がり落ちたスプレー缶の音が思いのほか大きく闇に響いて、彼は分厚いジャケットの下で体を強張らせた。
真夜中の建築現場なんて、そうそう誰かが立ち入るものではない。
しばらく待って、音を聞きつけたものがいないことを確かめて、彼は再び動き出した。
「ふざけんな。お前が言えっての」
父への悪態をつく。ハジメが荒々しく吐いた白い息は、母がふかしていた紫煙のように彼の周りにしばらく漂っていた。
ある日家に帰ると母がいなくなっていて、彼女におんぶ抱っこだった鶴見家はいともたやすく瓦解した。あっけないものだった。母の不在を千晃にどう説明したらいいものかもわからないままに家を飛び出して、ここに来ていた。
「人生、マジでうまくいかねえ」
学業も思わしくなく、進学は絶望的だ。
みんなの『当たり前』を遂行するにはあまりに追い詰められていた。危うきには絶対に近づかない彼が踏み切った一夜限りの冒険は、そんな鬱屈から染み出た膿のような行動だった。
使ったこともないスプレーでさんざん手元を汚しながら、できるだけ大きくてきれいな円を壁に描きぬいていく。冷たくて硬い壁がきれいにぶち抜かれて、まったく別の世界につながってくれないものかと考えた。
もちろん何時まで経ってもそんなことは起きない。
「あぁ、あぁ、クソ。俺は何やってんだ」
ようやくその愚行ぶりを思い起こして、壁に手をつく。塗料が手を汚すが、そんなものはどうでもいい。もう片手は熱くなった目頭を押さえることで精いっぱいだった。
シンナーのにおいが喉に張り付いていた。吐き気を覚える。そもそも、息なんてできそうもないくらいの嗚咽がせりあがってくる。
壁に描いた穴なんて、一ミリの価値もない。
「そんなことは分かってたさ」
ただ、どうすればいいかわからなくて、息苦しかっただけだ。
さっさと言い訳を考えに家に戻って、この一件は気の迷いだったと思うことにしよう。
「――?」
壁から手を離そうとして、その陽だまりのような温かさにようやく気付いた。
「今、何か」
壁をなぞる。不思議な温かさは移動していた。探るように手を動かすうち、現実感のないままに壁の赤い円はその形を大きく変えていった。ハジメはよろよろと下がって、その様相を見つめる。
彼の前、円の周囲に幾本もの赤い線が描き足されていく。
やがて出来上がるであろうモノを確信したハジメの足は、自然と壁へ向かっていた。恐れなんてない。スプレーを手に取る暇も惜しんで、生乾きの塗料をべったりと手のひらに押し付けると一心不乱に壁に塗りたくり始める。
やがて壁の円をぐるりと線が覆った頃になって、ハジメは背後に大きく反響する足音と、懐中電灯の明かりに気付いた。
「長い間警官やってると、不思議なこともあるもんだ」
顔を照らされて目を細めつつ、もはや彼の存在はそこまでハジメを驚かせなかった。自分でも信じられないくらいに気持ちが落ち着いている。まるで壁の向こうで、彼と同じ理不尽を抱えた誰かが見守っていてくれるような気がしていた。
「真夜中にヘッタクソな落書きする不良少年少女は腐るほど見てきたけど、こんなかわいいお花を見たのはこれが最初だよ」
「花、あぁ。そう言われればそうかも」
顔も見えない警官のシルエットが首を傾げた。
「いや、花だろう?」
「花ですね、きっと」
世界が、宇宙全体が、もうすこしだけこの形に近づけばいいと思った。シンプルで、底抜けに陽気で、もっともっと風通しのいい形になればいいと、心から思った。
「ありがとな」
「さっさとしろ。たっぷり説教してやるから」
警官に背中をどやされつつ、一度振り返って壁へと指を向ける。
「ばん」
見えない弾丸が放たれ、彼の中にある見えない塊を打ち砕いていった。すっと、深い息が喉の奥へと落ちていく。次々と襲い来る理不尽を前に、たとえ『野望』を忘れかけていても、その『かたち』はハジメの脳裏に刻印されている。
「これが、俺の本質なのか」
遠い過去の記憶が呼び起こすのは、抱いた野望と強大な力。
「こんな大それたものを俺が持っちまって、いいのかな」
その大きさに思わず身震いしていた。
いままでの能力は氷山の一角どころではない。指先で風に揺れる小さな小さなともしびは、その実は遠い星の瞬きだったのだ。自らの力で光り輝く、あまりにも大きく、あまりにも熱い星の煌めきが、彼の脳裏から浮かび上がり、目の前で形になる。
「俺は、平凡に生きたいから」
この夜だけは、日常を守るために、束の間の非日常を受け入れてやろうと思う。
「いくぞ」
意識を過去から現実に引き戻す―――――すでに息苦しさは消えていた。
蜂が体にのしかかるのと同時に、残骸の隙間へと伸ばしたハジメの指が、ようやく五円玉へ届いた。黄金色の光を灯す彼の指先で、湿った胃壁がじゅうと音を立てて焦げる。
◆◆◆
「そんな!」
勝ち誇るように夜空へ昇っていく鯨を前に幽香は叫びを上げていた。
あまりにあっけなく、彼女の―――――は、目の前で摘み取られてしまった。その固く閉ざされた花弁が開くと思われた矢先に、あまりに無慈悲で、あまりにあっけなくその機会を奪われてしまった。
「待ちなさい」
のしかかるバイクを軽々と押し上げて、幽香は立ち上がる。ズタボロのライダースーツから覗く素肌に刻まれた傷はとうに再生を終えている。
「降りてきなさいよ、あなた――おい、お前」
彼女自身が驚くほどの怒りにとらわれていた。
ぞわりと髪を逆立てた幽香。赤い瞳が物理的な圧を伴った殺意をほとばしらせる。彼女などおくびにもかけずに去っていく鯨めがけて最大級の攻撃を準備する。例え次元の隙間に逃れようと、
しかし変化は、彼女が手を出すよりも早く訪れた。
憎たらしくでっぷり肥えた鯨の腹がぷうと膨らんだと思うと、ぱんと音を立てて水風船のように割れた。内臓と血と無数のガラクタがばらばらと降り注ぐ。鯨が驚きに身をひねり、彼の脇腹に開いた大穴から赤い塊が滑り落ちた。
「今になって俺は思うんだ」
まとわりついた血と肉は、内側から放たれる莫大な熱によって瞬く間にチリとなって消えていく。数十メートルを落下したにも関わらず、それはふわりと、重さを感じさせない軽やかさで地面に降り立った。
「あれは、太陽だったよ」
彼の足元の舗装が、ぼこぼこと沸騰を始めていた。
ハジメの背中で呼応するようにそれが乾いた音を立てて展開していく。巨大な光の環。そこから放射状に広がり、宙に固定される光で織られた槍。彼の言葉が示す通り、遠目に見えるそれは子供が描くお日様だ。
「くだらない夢と笑えばいい。かなわない夢と嗤えばいい」
つい、と。彼が走らせた指が宙に光の軌跡を描く。
「それが俺の本質なんだ」
じゃり。
彼の足元から吹き上がった炎は星の輝きを秘めている。黄金の焔が立ち込める領域は加速度的に空間を侵食した。
「勉強して、いい学校へいこう」
幽鬼のような彼の足取りは、いつしか確固たる決意を秘めた行進へと変わっていた。煌めく炎に包まれて、彼は空を見上げる。
「もうちょっと千晃が胸を張れるお兄ちゃんになろう。いい学校へ行ったら、いい会社へ行こう。そしたらオヤジがクソみたいな職場で働かなくてもよくなる」
足元にまで波のように黄金の炎が押し寄せてくる。幽香は思わず爪先を退いていた。
彼女の眼には傷つききった体を揺らして歩くハジメが、まるで風に揺れるあの花に見える。日輪を背負った姿が、太陽に焦がれるあの黄金の花に見える。
「…………そうしたら?」
火廻りの向日葵に問うていた。
「そうしたら母さんを迎えに行って、もう一度俺の家族を一つにする」
それこそが、鶴見ハジメが抱いた野望だった。彼の内の小宇宙から引きずり出された力は、彼の夢を叶えるためだけに彼という一存在をどこまでも加速する。それは彼の放つ黄金の弾丸でさえも例外ではない。
大地を揺るがすような咆哮。
どてっぱらを吹き飛ばされたダメージから立ち直った巨鯨が血走った眼をハジメに向ける。痛みと怒りで理性の残りカスをも失った彼は、全身に巣食う大蜂の怪異を総動員しようとしていた。
「俺はもう、なりふり構っちゃいられなくなったんだ。だから、今のうちにどけ」
臆さず、指を向ける。
「じゃなきゃ俺がどかす」
当然言葉は通じない。しかし彼の戦意は通じた。
大きく開かれた鯨の口の中に現れた暗い光が一斉に解き放たれる。群青の空を真っ黒に染め上げる大蜂の群れはまさに雲霞と呼ぶにふさわしい。
「ハジメ」
圧倒的な物量差に手を差し伸べかけた幽香は、青年の輝く双眸に見据えられてその手を下げた。
「ちゃんと見てる、からね」
決然と向日葵が揺れた。
あらゆる方角から押し寄せる蜂の大群は幽香など眼中に置いていない。固唾をのんで見守る彼女に対して、ハジメの一歩目はけがを感じさせないほど軽やかだ。
彼の指先から打ち出されるものは、もはや指鉄砲と呼べるようなものではない。空中で軌道を折ることもなく愚直に直進するだけの弾丸は、しかし正確無比に大蜂を射抜いていく。
空中に燦然と輝く銃弾の群れはまさに弾幕だ。
「続けるか」
すでに彼に従う焔の背丈は周囲にそびえる街灯の残骸を超えている。無数の蜂の骸が煙の尾を引いて降り注ぐ中、ハジメは挑戦的に鯨を見据えた。
返答代わりに巨鯨は体表を激しく光らせた。攻撃の予兆を読み取ったように背中の光輪が周囲の炎を巻き込みながら差し伸べた腕の前に現出し、巨大な燃える盾を形作る。
鯨の体表の孔から放たれて豪雨のように降り注いだものは、赤く加熱された鉄杭だ。それが咄嗟に身をひるがえした幽香の防御を破って頬を掠め、生き残りの大蜂たちも容赦なく貫いていく。
無数の展翅標本が出来上がっていく中、平然と立っているのはハジメくらいだった。
「まだ、続けるのか?」
再度問うた声は淡々としている。
もはや彼の目の前で血と臓物を垂れ流す妖怪は大敵などではなく、彼の野望へと至る道に転がる障害物でしかないからだ。
彼が盾を降ろすと、完全に溶かされた金属のしずくが地面にこぼれた。
「やっぱりあなたなのね」
雄たけびで幽香のつぶやきをかき消して、鯨が最後の攻撃に踏み切った。それは超弩級の体躯をそのまま彼にぶつけることだ。それは威力も超弩級。山一つぶつけられるようなものだ。生身の人間には避けようも、耐えようもない。
「幽香、少し近くに来てくれるか」
今いる高架ごと消し飛ばされるかもしれない段になって、ハジメは落ち着き払って片手を幽香に差し出した。
「え」
「そこは危ないと思う」
黄金の領域にいざなうハジメを前に、幽香はわずかに躊躇した。
「大丈夫だから」
おずおずと足を踏み入れた彼女を、黄金の炎は受け入れた。彼女が感じるのはすべてを焼き払う熱ではなく、陽だまりのあたたかさだ。
「俺の能力、ようやく分かったんだ」
二人の見上げる先には徐々に加速しつつある鯨。対するハジメはいつものように、人差し指を持ち上げる。
「今ならもう少しだけ、この世界の風通しをよくできると思う」
群青、茜、赤、黄金。きらきらと輝く朝の海と高架。繰り広げられる壮絶な一騎打ちの様相に、世界が驚くほどの美しさで皮肉を添える。
黎明に吹き渡る風が彼の黒髪を揺らす。幽香の前でハジメの日輪が形を変え、巨大な砲身を形成していく。その先端で徐々に輝きを増し始めるのは究極の閃光だ。
あらゆる物理法則と概念を無視して、彼の放つ弾丸は立ちはだかるすべてを破壊して直進する。それが彼の本質であり、野望を叶えるために必要な手段だからだ。
「あんたが好きだ」
渦巻く巨大な力の唸りにかき消されてしまったのか、青年のささやかな告白に幽香が反応を見せることはなかった。
「何か、言ったかしら」
「いや」
それでもいい。
へたれと呼ばれ続けた彼の踏み出した小さな小さな一歩が、砲身にさらなる力を与える。反則級の一撃を可能とする力を、『風穴をぶち開ける程度の能力』と、彼は呼んだ。
「
彼を奮い立たせる言葉はそのままトリガーとなり、弾丸となった。明朝の空を焼くのは極大の閃光。
『あ』
鮮烈な痛みに、鯨の理性が束の間揺り戻された。
目の前にはひとりの人間。人間。かつて誰かと交わした約束を思い出す。彼がいたずらに、どこかの少年とひそかに結んだ約束を。
『あぁ』
勢いを失った彼の体は大きく軌道を逸らして落ちる道を選んだ。
一射目は彼の右半身を正面から丸ごとこそげ、遥か彼方で海面に巨大なきのこ雲を噴き上げる。
『こんなザマじゃあオマエとの約束、守れないじゃないか。なぁ』
せめて、最後は威厳だけでも保ってやろうと思ったのかもしれない。鯨は傷ついた体に鞭打って、今まさに第二射を放たんとする黄金の大砲へと頭を向ける。間髪入れず撃ちこまれた圧倒的破壊力が、彼の最後の理性ごと頭を刈り取っていた。
「まだよ」
鯨が落ちる傍から幽香はあたりに視線を巡らせた。
その伏兵たちにはハジメも気付いている。この瞬間まで橋脚にとりついていた残りの蜂たちが最後の一斉攻撃をかけようと路上によじ登ってきていた。
「やれるわよね」
「そっちこそどうなんだ」
視界の端で幽香の色鮮やかな髪が揺れた。どうやら肩をすくめたようだ。
もはやこうして背中を預け合って戦えるだけの強さを手に入れたと考えるだけで、やはりハジメの心は浮き立つ。
大砲に変形した日輪をもとの姿に戻しつつ、彼が迎撃態勢を整えるのと蜂たちが攻撃に出るのとどちらが早いかと計算する。そのチリチリとした焦燥すらも今では心地よい。力に引きずられつつあることは分かるが、今日は特別だ。
「来るわよ」
しかし、いつまで経ってもその瞬間は来なかった。
蜂たちの間を烈風を纏った閃光が駆け抜けたのだ。ジグザグにアスファルトと体液と甲殻をえぐりながら走った閃光は、そのまま東の空へと消えていく。思い出したように蜂たちが体をひきつらせ、粉々に切り裂かれていった。
「どこの、誰かしらね」
黒い羽が舞い降りてくる。
閃光を、幽香の眼は一歩遅れで追っていた。彼女の視力をもってしても、その姿を完全に捉えることができていない。
「ハジメ?」
あたりを漂っていた黄金の焔が掻き消えていく。
遠くの浜へ墜落していく鯨の体を見守るハジメの背中でも、日輪が折りたたまれていくところだった。
「後で考えりゃいいさ。今は時間がない」
あちこち鉄片が突き刺さったバイクを起こして、幽香は頷いた。不機嫌にうなったエンジンは、まだまだ仕事をする気だけはあるようだったからだ。
◆◆◆
「お疲れさま」
鎖を引きずる音がする。
朝日に反射するアスファルトにエンジンを響かせて去っていくバイクを見送って、小柄な少女は制服の襟を正した。
浜辺に突き刺さった鯨の死骸は急速に分解が始まっていて、頑健な骨格と、詰め込まれていたガラクタを砂浜の上にまき散らしている。
江梨香の見上げる先で、全身を鎖に繋がれた全裸の女性は大きな頭骨に腰かけて歌っていた。割れ砕けた頭骨の上で、彼女が手のひらの上で転がすものも頭骨だ。それは、おそらく巨鯨が最近に行った暴食の犠牲者のものだろう。
「でも安心した。相変わらず速いね、これなら相手が誰だって勝てるよね」
全裸の美女の背中には一対の、黒羽を備えた翼が朝風と遊んでいる。人間ではない。
「ねぇ、楽しかった?」
何を言っても、美女は空っぽの微笑みを浮かべて首をかしげるばかりだ。歌は止まず、江梨香もそれ以上彼女に対して働きかけたところで無駄だということは知っている。
「これ以上は看過できないよ、ハジメ。そして幽香――サン」
佇む江梨香も残骸に体を預けて、美女の歌声に耳を澄ませる。彼女の右腕にも、鎖の束が深々と食い込んで巻き付いていた。
◆◆◆
自然、そこに足が向かっていた。
さわやかに差し込む朝日の下、ごちゃごちゃと人が行き交う朝の空港のロビーで、あからさまに周囲に距離を取られて座る二人を見つけるのは簡単だった。
「やぁ。見送りかな。ご苦労さん」
キャリーケースを引っ張ってきた杏奈はハジメと幽香に声をかけつつ、彼らがそんなに簡単な理由でこの場にいるはずがないことも知っている。息子の顔つきは一晩で大分違っていた。
「違う」
というか、それは彼らが全身傷だらけだったこともあるのだが。ハジメに至っては手や首がミイラ男のように包帯でぐるぐる巻きだ。近くに寄ると消毒のにおいがぷんとした。
「つーか大丈夫?」
「世界と、こいつとを、天秤にかけただけだ」
腕まくりしてハジメは傷を見せる。上腕に巻かれた包帯には血がうっすらと滲んでいて、そこに刻まれた傷の重さを物語っている。
「おバカのハジメが勝手に私をかばったってだけよ」
呆れ切った様子で幽香が付け加えた。
「ケンカとか事故とか?」
「ま、そんなところね」
「ふーん。やるじゃん。それで、私と一緒に行くことにしたのかい?」
それが彼の決断なら残念であり、少しだけ嬉しくもある。
「それも違う」
包帯に包まれた拳が突き出された。
「こいつを渡しに来た」
彼の隣で幽香が笑っている。渡されたモノを見つめて、杏奈は吹きだしていた。
「わお。こんなの返すためにここまで?」
「アンタに貸すだけだ」
視線の先には穴の開いてしまった五円玉。
それは客観的に見れば、もはや五円の価値しかない五円玉をひとりの青年が母親に渡したというだけのことにすぎないのかもしれない。
「これからはちゃんと、あんたに向き合おうと思う。でも実際この場に至っても杏奈の言う通り俺はダメダメのまんまだ。だからいつか、それを持つのにふさわしくなったら返してもらいに行く。その時は」
先を続けることができなくなって、俯いたハジメは上目づかいに杏奈を見た。
「ま、穴は本当悪かったけど。俺はそんなつもりなかったんだけどさ」
「いいさ」
磨きこまれていた誰かの宝物は、すっかり煤と赤茶けた汚れと無数の傷によって様相を変えている。非常にこきたない。その変化が、たった一晩で息子に決意をさせた何かに関係していることは明白だった。
「このほうが、ずっとずっと価値があるじゃないか」
それを言葉以上の愛情でもって一度両手で握りこむと、杏奈はインフォメーションボードに視線を走らせた。彼女の実家へと飛ぶ便は、もう少しでこの場を離れる。
「触っていい?」
既に、杏奈の手はハジメの頭に伸びている。
「だめだ。待て。俺にその決心ができて、うわ、やめ、おい!」
犬にそうするように息子の頭をわきに抱えてわしわしと心行くまで撫でる。しばらく杏奈はそうしていて、唐突にハジメを解放してやった。
「よしよし、行っていいよん」
低くうなって大股に去っていくハジメは、やはり犬に似ている。後ろ手を組んでうふふと笑っていた幽香へと、杏奈はわずかな困惑を顔に浮かべて向き直る。
「で、結局キミの立ち位置はよくわかんないままだったな。恋人って話はウソだったのか、それともウソっていうのがウソだったのか」
やることをやったら腹が減ったらしい。二人の視線の先でハジメはロビーを出て、手近なコーヒーショップの列に並ぶとしげしげメニューを眺めた。
「ゲームはキミの勝ちだ」
「そうなの?」
「ハジメはとっくの昔に私なんて必要としちゃいなかった。全く、なんて負け戦なんだか」
勝手に勝負を挑んでおいてだが、言い出しっぺの杏奈が負けというなら負けなのだろう。幽香はしばし考えこんだ様子だったが、踵を返しかけた杏奈を呼び止めていた。
「じゃあ、ご褒美をちょうだい」
「はは。何それ」
「成長にはご褒美がつきものよ。あなたを負かしたのはハジメ。なら、彼はあなたからご褒美を受け取るべき。彼はここにいないなら、彼に賭けた私にその権利があるわ」
「やっぱりキミは面白いねえ」
あ、手持ちはないからお金系は勘弁ね、と杏奈が苦笑した。
その割に彼女は差し迫った飛行機の離陸を気にするでもなく、幽香が言葉を選ぶ間ぶらぶらと両手を振って、考えの読めない彼女の美貌を見つめていた。
「ハジメの生まれた日を、教えてちょうだい」
一瞬あっけにとられた杏奈の顔が、徐々にほころんだ。まるで少女同士の秘め事のように、彼女は幽香の耳元に口を寄せると息子の誕生日を教えてやった。
「よかった。それなら間に合いそう」
「なんだよキミ。やっぱりあの子のこと、好きだったんじゃないか」
耳元から離れながら、杏奈は幽香の手を取った。半ば強引に押し付けられたものが例の五円玉であることを見て取って、幽香は目を見開く。
「渡すタイミングは任せるよ」
「私が持っていていいのかしら」
「むしろ君が適役。それに、あぁ、なんだよ」
その先を携帯の着信音に邪魔されて、杏奈はぶつくさ言いながら携帯を取り出した。液晶に表示された名前は、幽香の知らないものだ。
「はいはい鶴見スよ――――えぇ。そうですね。悪いんですが、もう少しこの苗字でいることにしましたから。はい、話はありがたいんですがねぇ。ウチの息子が存外やってくれまして――――ははは、相変わらず他人には手厳しいですね。じゃあ、そういうことで――――えぇ、そういうことです。じゃ」
杏奈はいつも一方的に通話を切ってしまう。携帯目がけて中指を立てて、杏奈は吹き抜けのロビーを見渡した。もう、ハジメも幽香もどこかへと姿を消していた。
おかしなことばかりだったが、束の間の鶴見家は悪くなかった。
「キミを待つよ。いつまでも待つよ。こんなでも、母ちゃんだからね」
その時は、あの不思議な子も一緒に連れておいで。
◆◆◆
「やっぱり追いかける?」
遠くの空港から飛び立った飛行機がバイバイを言うように一度機体を輝かせて、雲がちな空に溶け込むように消えていく。
「お前が言うと冗談に聞こえない」
いい加減眠いのでどこかで仮眠を取ろうと主張したハジメだったが、幽香の『近くで海が見たいわ』に付き合ってこの場にいる。春先、それも朝方となれば浜に人は少ない。数人のサーファーが遠くに見えるくらいだ。
あくびをかみ殺して、ハジメは遠ざかる県道を振り向いた。あまりバイクから離れるのもどうかと思ったが、鉄片まみれの世紀末仕様車を誰かが盗んでいくはずもない。
「あれはあれでよかったんだよ」
そして訪れる穏やかな沈黙の時間。
ハジメは幽香が砂浜に刻む足跡を数えて過ごした。
『殺し合いなんてばかばかしいじゃないか』
いろいろあった夜だったが、用意した言葉は忘れてはいない。そろそろ、この戦いを終わらせる時が来たのだ。惚れっぽいと幽香はまた呆れるのかもしれない。怒るかもしれない。
だが今のハジメには、出会ったばかりの殺意の塊のような幽香ですら愛せるような気がした。
「なぁ幽」
不意打ちでふわりと彼を包んだ花の香りに、めまいがした。
甘酸っぱさが胸の内を満たす。彼の吐きだそうとした停戦交渉はドロドロに溶けて、どこかへと流れて行ってしまう。
「ねぇ、そろそろ聞いてくれるかしら」
彼女の手が、頭の上に置かれているのを感じる。
ハジメはただただ、唐突な幽香の抱擁に立ちすくんだ。どうしてだろうか。この半年で味わったどんな攻撃よりも恐ろしいものが、彼女の形のいい唇の奥に渦巻いているような気がした。
第十五話『黄金の花』おわり