幽香の体がわずかに前に進んだ瞬間、吸血鬼は空気を揺るがす勢いで加速した。両者の距離は相当に開いていたが、全力を解放された雪之丞の肉体にとって、それは常人の一歩半と言ったところか。
「危ないですよ」
ただし、その一連の行動に殺気は微塵もなかった。
「気を付けてください。ケガしたら大変ですから」
彼のフルパワーは酔いのためにうっかりと足を取られたおっちょこちょいの妖怪を抱き留めるために注がれていったのである。
「ふふ、ありがとう。優しいのね」
その価値は十分にあったと確信する。
腕の中の彼女の華奢な体とたおやかさを確かめていると、張り巡らせた貧弱な槍の檻でも、永遠に彼女を閉じ込めて手元に置くには十分すぎるような気がしてくる。
「どうかしたの?」
彼女が離れるとあからさまに雪之丞は名残惜しげだった。
「あっ、あぁ、いや、なんでもないです。その、結構細いなって」
それは実になんでもある受け答えだったのだが、この日の幽香は軽く肩をすくめるだけで済ませてくれた。
「それで、ハジメはどこへ行ったのかしら」
だが次に飛んできた言葉は、天にも昇る心地の雪之丞を掴んで地の底に叩き付けるようなものだった。
「そんなのどうだっていいじゃないですか。ここにはあなたと俺。それで十分ですよ。これから始めるコトのためには、それで十分です」
「ねぇ、ハジメはどこ?」
返事代わりに突き付けられた赤い稲妻を纏った穂先を前に、幽香はいつもの調子で微笑んだ。何が来ても構うもんか、と雪之丞は身構える。幽香の双眸がすっと細められた。
「とにかく、ここにはいないってことね。よそを当たってみるわ」
だがいつまで待っても、その笑みが妖怪のものに豹変することはなかった。拍子抜けした雪之丞にさっさと背中を見せて、彼女はまた、ふらふらと去っていく。
「今夜は逃がしませんよ」
槍の石突を打ち鳴らす。
「俺はあなたに認めてほしいんだ。だから手合せ願います。殺す気でどうぞ。こちらもその気で、って、幽香さん!? 今イイトコなんですけどー?」
ふらりんふらりん。背後にはいつ放たれてもおかしくない魔槍が控えているというのに、幽香は千鳥足で去っていくだけだ。折角大物ぶったセリフを披露する機会が手に入ったかと思いきや、それは幽香の関心と一緒に雪之丞の手から滑り落ちていくのだった。
「私ねぇ。またあの子のご機嫌を損ねちゃったの」
くすりと笑った幽香の姿は、どうしようもなく魅惑的に雪之丞の網膜に焼き付いた。
「そんな時にまた大暴れしちゃったら。そしてあなたを傷付けたりしたら、今度こそハジメに嫌われちゃうかもしれないでしょう?」
そしてそれは、決して雪之丞の手に入らないものなのだ。頭の中で電球が割れたような音がした。
「ンだよ、それ……!」
――――恋人ってのは見せかけのものに過ぎなかったハズだろ。ハジメとの間にどんな取り決めがあるのかは知らないが、おおかたあいつがムチャを言って、あなたに無理やりそういう関係になるよう言ったんだろ?
だというのに。
「待てよ!」
だというのに、今の彼女が一瞬見せた表情ときたら。まるで彼女が心の底から。
「待ちやがれ!」
思い切り、彼女めがけて槍をぶん投げていた。吸血鬼の槍は彼女の肩を掠め、わずかにブラウスの袖を切り裂いた。トンネルの入り口近くで槍が起こした爆発に、彼女の髪がそよぐ。それでも、その足取りは淀まず雪之丞から離れていく。
それが唐突に止まった。
「あ? ――あぁ、見つけちゃいましたか」
地面に点々と残る赤い染み。幽香の肩口からも鮮血が滴っている。しかし彼女が頓着するものは、己ではなく他人の流した数敵の血であった。
「ハジメがあまりにうるさいんで軽く噛んでやったんですよ。まぁ、最後は紫に任せちゃいましたけど。今頃はミキサーにでもかけられてるんじゃないですかね」
「そう。なら、尚のこと急がなくっちゃ」
「だからさ」
そうして彼女が背後に感じたものは、数十本か数百本そこらの武器が同時に放たれる気配だった。一部の隙もなく、まるで壁のように押し寄せた槍衾は幽香には一本たりとも触れられない。彼女の周囲に張り巡らせた障壁と槍がせめぎあい、激しく火花を散らす。
「逃がさねえって言いましたよね、俺」
しかし、老朽化激しいトンネルに彼女と同等の防御力を期待するのは間違いだ。出口が音を立てて崩落していった。
「こうやって、あなたの足止めをしてみたらどうなりま――――」
すぐ傍で殺意が迸った。空気を断つような鋭い音とともに何かがしなり、トンネルの地面に新しい血飛沫を散らした。
「――すかっ」
横一文字に唇を裂いたものの正体を見極められぬまま、雪乃丞は反射的に跳び退く。
「ねぇユキ。私が嫌いなものってなんでしょうね?」
おもむろに歩み寄る幽香が身に付けたものは、どこにでもあるような現代の衣服だ。しかし雪乃錠には乾いた音を立てる春物のパンプスが、重厚なブーツめいた威圧感を伴って迫るような錯覚を覚える。
「ははっ、きたきた」
風切り音。
今度は右の視界がブラックアウトした。眼を裂かれた。それでも雪之丞は笑う。ようやく彼女の殺意の切っ先で踊れるのだ。楽しくないはずがない。軽やかにステップを踏んで、魔剣を振るう――はずが、ねじくれた剣を握る腕は胴体から切り離され、すでに天井目指して垂直に跳ね飛んでいた。
「これが、あなたの本気……ッ!」
「まさか。馬鹿にしないでちょうだい」
一方意中の女性はすげない態度で髪をかき上げた。
「まだまだ。俺の本気だって出しちゃいませんよ」
必中の力を持つ槍を胸の炉心から三本片手で引き抜き、投擲。
炉心から滴る血は、彼の執念が染みついたように意志を持っている。空中で紅い螺旋軌道を描いた槍は途中三手に分かれ、別々の方向から同時に幽香を襲う。
「ひとつ。子供の火遊び程度の力を持っただけで舞い上がるような連中」
幽香は一歩も動いていない。
「ふたつ。身の丈知らずに誰にも彼にも吠える駄犬」
どこからか現れた白い花びらが煙のように散った。花弁のヴェールを潜って現れた妖怪は全くの無傷で、彼女の足下には三本の槍が突き立っていた。
「そういうのは大抵相手の力量も計れず、勝手無残に死んでいくから目障りなの。でもユキにそうなって欲しくはない」
まるで目の前でそうした者たちを見てきたかのような口ぶりだった。きゅっと唇を愉快そうに吊り上げて、幽香は腕を組んだ。そうして誇示するのは豊満なバストだけではない。圧倒的な強者としての余裕だ。
「これから三分あげるわ。私は一切手を出さずに、あなたに手ほどきをしてあげる」
雪之丞の肉体が更に裂けた。全く見えない。いや、言葉通り、本当に目の前の幽香は指先ひとつ動かしていない。にも拘わらずの圧倒的な攻勢。揺るがない自信。そして、変わらぬ百合花のような微笑み。
「敗北の手ほどきを、ね」
本当に強いものは、決まって笑顔だ。
◆◆◆
青年は首筋に女物のハンカチをあてがい、妙齢の女性は大きく胸元の裂けたドレスの上から男物のジャケットを羽織っている。揃って雪之丞に痛めつけられた二人は、奇妙なユニフォーム交換のような有様で町はずれの神社に佇んでいる。
「なぁ、俺本当に吸血鬼になったりしないよな」
しきりに首の傷を確かめていたハジメは、隣の女に声を投げかけていた。
「くどいわね。安心って何度も言ったでしょ。あなた吸血鬼をゾンビか何かと勘違いしてるんじゃない」
「でもなぁ。やっぱりそういう映画を見た気がするんだよなぁ」
お気に入りのダイ・ハードを除けば、ハジメはもう映画を見ていない。おそらく彼の記憶におぼろげにある血と内臓とドッキリだらけのチープな一作は、千晃の出産直後、母よりも重体で病室に担ぎ込まれた後の入院生活に見たものだったのだろう。
「もっとちゃんと抑えないとダメ。そう簡単に血って止まらないものよ」
ハンカチはぐっしょりと血で濡れていた。体調に変わりはないが、ここまでダラダラ血が流れていると不安になってくる。
「抑えなくても、こういうのって強く縛ったらいいんじゃないのか」
「あのね、それ本気で言ってる?」
首を抑えるハジメは、紫の呆れ笑いを引き出した理由に思い至らなかった。
傷口はまるで巨大な蚊に刺されたようで熱感と腫れが収まらない。境内に自販機の明りを見つけて、ハジメは腰を上げた。
「紅茶とかでいいかな」
「えぇ。ありがとう――あ、やっぱりコーラで」
「コーラ?」
なんともイメージにそぐわぬものを選ぶものだ。
「気に入っちゃったのよ」
きょとんとするハジメに、紫はただ頷いた。軽口の叩き甲斐もないので、彼は素直に腰を上げると自販機の明かりに群がる羽虫を払いながらボタンを押して、つり銭が落ちる間紫の背中を見つめた。
「どうして助けたのかって思ってるかもしれないけれど、私はユキに無駄な殺生をさせたくなかっただけ」
紫が先回りしてハジメの疑問に答えを出す。
「なら、なおのこと礼を言わなくっちゃな」
「ハジメってヘンな子なのねぇ。とはいえ、そうでもなきゃあの変わり者と一緒にいられるはずもないか」
紫は肩をすくめる。一方お似合いと言われたようで、ハジメは少しだけ面映ゆかった。
「いや褒めてないし」
自然と浮かべたにやけた笑いに大妖怪は釘を刺しておく。
紫の視線の先では駅前を彩るきらびやかな電飾が、ぼんやりと霧がかった光で夜空を染め上げている。その無防備な後ろ姿に、いつしかハジメも無防備な願いを投げかけようと口を開きかけていた。
「お前の力で幽香を助けてやれって頼みならお断りよ」
またしても先手を打たれた。
しかし断られてハイそうですかと引き下がれるようなことではない。首筋の傷を缶で冷やしながら、ハジメは音もなく片手を持ち上げる。家族のためには、なりふりなんて構っちゃいられない。
「これは頼みなんかじゃない」
紫の背後から突き付けられたものは、すべてを撃ち抜く弾丸を装填された指先だ。ハジメはマジだ。
「ずいぶん面白いことをするのね」
霊夢がそうだったように、紫もこんな安っぽい脅迫には動じない。唯一の差異を上げるとするならば、彼女の瞳の奥にはハジメの豹変ぶりを面白がるような気配があるということだ。
その視線の数が等比級数的に増加する。彼女と、彼女に指先を突き付けたハジメの周囲で開いていく幾つもの穴。闇夜の中でうすぼんやりした光を放つ穴の中に渦巻くのは、誰のものともしれぬ血走った無数の目玉と濁り切った混沌だった。
「別にここであなたをバッスバスに切り刻んでも構わないんだけど。やる?」
「もちろん。あんただってハチノスにされても文句は言わないよな」
ここまで肝の据わったところを見せられて、ハジメも後には引けない。
彼の背中で、花が開くように光の日輪が浮かび上がる。フル装填、フル火力。
「あんたにとっちゃ朝飯前だろ。霊夢と違ってずいぶんくだらない意地を張るじゃないか」
得物を追い詰める肉食獣じみて、ハジメは紫のまわりに円を描くように歩む。もう指先は迷わない。身内のためならどこまでもナリとフリとを捨てられるのが彼だ。紫がうんと言わないなら、あたりを焦土にしてでも言うことを聞かせてやる。
「そんな心優しいあの子をいじめたのはどこのどいつだったかしらね」
ケガする前にさっさと頷けよ、とハジメは思う。少しくらいビビりなさいよと紫は思う。
闇夜に響く木のさざめきはなりを潜め、得体の知れない鳥が高く鋭く鳴くと夜空へ飛びあがっていく。
それぞれに、それぞれの小さな苛立ちを覚えながらの一触即発はずいぶんと長い間続いたような気がした。
「…………なーんて」
先に根負けしたのは紫の方だった。
「残念。私はあなたのお願い、意地悪で叶えないんじゃなくて、叶えられないの」
ぶらぶらと諸手を振って見せて、全能のはずの妖怪はあっさりと匙を投げたのだった。
「そんな」
「第一、やれるんならとっくの昔にあいつを殺すか生かすかしてるでしょ?」
「でもあんたの力はなんだってできるんだろ」
尚も食い下がろうとするハジメだったが、飄々とした紫の振る舞いの中に真実を読み取っていた。彼女はウソをついていない。
「どういうワケか、今のあいつには私の力も霊夢の力も通用しないの。唯一の例外があるとすれば」
しょげてしまったハジメの横に腰を下ろした紫は、慰めるようにその頭をなでる。彼女は先を続けなかったが、その瞳は彼の背中で萎んでいく光の輪を見ていた。
「ええと、ごめんなさいねぇ」
「いいさ。もとから期待なんてしてなかったし」
大嘘だ。
振り払う気力もないくらい、彼女の手に負えま宣言は効いた。
正直なところ、霊夢の一件以来、姿も知らぬ大妖怪ユカリを悪夢に見るほどハジメは警戒していた。だが幽香の秘密を知ってから紫の存在は同時に最後の希望でもあったのだ。
「ほらほら暗い顔しない。これ以上ぶさいくになってもいいことないわよ」
あまりの気落ちっぷりにさすがの紫も珍しく気を使ってあれこれ励ましの言葉をかけてくるのだが、ハジメはがっくりうなだれたままだ。やがて紫はハジメに渡されたジュースを手に、しげしげとパッケージを眺め始める。
「ねぇ。この缶、というかこのラベルが私達妖怪だとしましょう」
「は?」
その突拍子もない発言に、やはりこいつはよく分からないと素直に思う。
「赤い缶に白のラインとこのロゴが入っていたら、あなた、それはなんの飲み物だと思う?」
「コカ・コーラだろ」
例えそれが地球の反対側の自販機から吐き出されてきたものであっても、瞬時に判別がつくはずだ。この赤ラベルは言語を超越している。
「本当にそうかしら。飲んでみて」
半ば口をつけたものを薦められてぎょっとしたが、これしきで動じるところを見られたくなかったので、ハジメは平静をつくろって缶を傾ける。そんな青臭い心境などお見通しの紫はひそやかにくすくす笑っていた。
びきりと音を立ててハジメの眉間に深い皺が刻まれる。間髪入れずに勢いよく吹き出した液体からは独特のにおいがした。
「まずぅ」
例えるなら、杏仁豆腐をミキサーで砕いて炭酸をブチ込んだような味。
これには覚えがある。確か遠い昔に雪之丞がどこかの雑貨屋から箱で買ってきて、ひと夏の間同じにおいのげっぷを吐きかけてきたものだった。
「何の嫌がらせだ。俺、ドクペは嫌いなんだよ」
鶴見家は全員がコーラ派だ。朝食の席でドクターペッパーを取り出そうものなら一瞬で全員の不興を買うことができるだろう。父は咳払い連射機と化しハジメはテーブルを打ち鳴らし千晃は唸って威嚇する。
それほど毛嫌いするこのジュースを飲んでしまったのは、ひとえに彼が赤いラベルが説明する中身を信頼したからだ。
「事実はラベルの無い缶。時に中身が飛び出して、ヒトには到底理解できないようなことを次々と引き起こしてしまう」
それは夜に見える灯であったり、深山の川面に佇む人影であったり。そうした得体の知れないものを説明しようとして、かつてヒトは怪異というラベルを作ったのだ。
「もちろん事実はコーラかもしれない。ドクターペッパーかもしれない。でも大事なのはラベルで、中身が一応説明されていれば人は安心した。理解できればとりあえず、恐れることはできる」
正体の分からない脅威より、分かる恐怖を。奇妙な話だが、ヒトはそれで安心する。
「世界は次のラベルに科学を選んだ。あなたにとって口当たりのいい味があるように、時代にとっても受け入れやすいラベルがあるの。おわかり?」
ハジメだって幽香に初めて出会ったとき、ついに自分の神経に限界が来たのかと考えたものだ。あんな修羅場で突拍子もなく女が目の前に現れるなんて、『そんなことは幻覚だ』と割り切った方が遥かに簡単に納得できた。
「そう遠くない未来、すべてのラベルは貼りかえられるわ。今はその過渡期。幽香は――まぁ、順番の問題でしょうけど、運が無かったわね」
「それって!」
思わず身を乗り出したハジメを前に、紫はすっかり諦めきった笑いを見せた。
「えぇ。私達幻想はいずれすべて狂って、共喰らいの末に果てるのでしょう」
そうしてあまねく幻想が消え失せた果ての、新世界。
朝起きたら金槌で頭をぶんなぐられるようなひどい味のトーストをかじって、それで満員のしめった匂いに我慢しながらバスに揺られて学校へ。そこで全く忘れていた午後の小テストの存在を思い出して冷や汗をかきつつ、そんなミニマムな危機をまるで差し迫った世界の滅亡のように友人たちと小声に囁き合いながら昼飯を食べる。
それはつまり果てしなき日常だ。
「もうちょっと喜びなさいよ。ねえったら。波風立たずの平凡な人生。それがあなたの望みだったんでしょ?」
「…………そうだったけど」
下校。夕暮れのアーケード。いくら小路を曲がってもそこにはありふれた日常と次の路地が待っているだけで、路地裏の異世界なんてない。巫女といえば神社のバイトで当然空は飛ばないし、小山のような鯨なんてもっての他だ。燃えるビルに放り込まれたら、おとなしく焼け死ぬのを待っていればいいから楽だ。
ジュースのラベルはすべて同じ。特別な名前なんて花にはなく、向日葵も薔薇もすみれもすべていっしょくたに花だ。
それは本当の意味で何も起こりえない世界なのだろう。確かに、かつては喉の奥から手が出るほど望んだ現実だったはずなのだが。
「でも、その世界に幽香はいないんだ。そんなのお断りだ」
今は、その平穏を心の底から拒絶する。
「あなたを助けたのは本当の本当に些細な気まぐれだったけれど。少しでも恩を感じるならひとつだけお願いがあるの」
どこか満足した様子で紫は腰をあげると、体を大きく弓なりに伸びをした。
視線の先にはヒトの営みの光。幻想を放逐する科学の灯がある。そこに向かう彼女の顔は日光を目にした吸血鬼のように忌々しげなものではなく、とても買えたもんじゃない高価なおもちゃを前に顔を輝かせる子供のようだった。
「あいつがどんな手段で結界を抜けたにせよ、私はもう二度と同じことを繰り返させない。だからこれが、幻想郷が外の世界に直接関わる最後の異変になるわ」
押し付けられた缶は、いつの間にか見事に飲み干されていた。かわいらしいげっぷを一つしてみせて、紫は慌てて口元を扇子で覆った。
「失礼――――だから、消えていく私たちを憐れんでくれるハジメには覚えていて欲しいの。私達は確かにこの世界にいたってことを。かつてあなたたちの隣を、幻想がともに歩んでいたってことを」
否応もなく、この小さな会談が終わりを迎えたことをハジメは理解させられた。
「お、おい。まだ俺には言いたいことが山ほどあるんだぜ」
石段を降りていく紫の袖を捕まえようとして、ハジメの手は宙を掻く。すでにその背中は遠い。その気になれば一瞬で姿を消すこともできる筈なのに、焼き付けるように悠々と彼女は去っていく
「諦めんなよ。まだまだ時間はあるんだ。幽香とか霊夢とかユキとか集めてさ、俺たちの能力を合わせればきっと何とかなるはずだって」
はっきりと理解する。幽香と紫。二人の共通点。その、イヤな割り切りかた。その気になれば世界をむちゃくちゃにできるくせに、運命という単語が出てくると尻尾を巻くところが。
「あなたが一番よく分かってるんでしょうに」
いきり立ったハジメも、そんな悲しげな眼差しを向けられて一瞬立ちすくんだ。
「それでもあなたは私を怒ってくれるのね」
その背中が敬意の表れであることに気付けるくらい、ハジメは大人ではなかった。石段を転げる勢いで下りつつ、やはり紫には追いつけない。
「困ってるなら素直に助けろってお願いできないのかよ! いっつも殺すだ死ぬだ消えるだって達観したふうで物騒なことばかり言いやがっ――――どわぁっ!?」
実際転げた。
加速はどうあがいても止まらない。
見事な人間玉となった彼の視界が何度も空と地面を交互に映す中で、福笑いのように頬を膨らませた紫が、次の周回では一層顔をひしゃげさせると腹を抱えて笑っていた。
「ありがとう。少し気が楽になったわ」
次に彼女を見つけることはなかった。
「いってぇ!」
中腹、ようやくコースアウトしたハジメは雑木に突っ込んで、しばらくそのままだった。尻だけを石段へとマヌケに突き出したままの恰好で、なんだかすぐに立ち直る気力もなくて。