風見幽香の殺し方【完結】   作:おぴゃん

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4『コーラとドクペと水割り吸血鬼(下)』

 大きくのけぞった幽香をかすめて二本の槍が交錯し、激しく火花を散らす。空中に躍り上がることで続く斬撃と打撃を躱して、幽香はトンネルに立ち込める赤い霧へと目を凝らした。

 

「そういえば霊夢から聞いたことがあったわ。幻想郷にやってきた吸血鬼のはなし」

 

 その間も間断無く攻撃は続く。

 霧の中から迸る無数の殺気に、幽香は面白がるように小首をかしげた。一手前まで頭があった場所を電光が突き抜ける。左右からの斬撃。足首を、眉間を、心臓を。ありとあらゆる急所を狙った攻撃は暴風のごとしだ。

 

「例のいい男ですか」

 

 手数が尋常ではない。

 一息で三方向、四方向からの攻撃をどうやってか同時に行いつつ、涼しげに会話に応じる雪之丞の実力はもはや通常の怪異を逸している。

 

「男? いいえ。私が言っているのは女の子よ。四百年ばかり生きている、ね」

 

 そして、怪異という枠すらぶち壊してしまった最強の怪物。彼女は正面と背後から迫った魔槍を半身ひねって間一髪で避けつつ肩をすくめて見せた。実際二人が言い及ぶところは同じ血族の姉と妹。

 何よりの勘違いは雪之丞は霊夢のイタズラ心のままに、未だ姉の性別を勘違いしたままだということだった。

 

「その子はユキのように燃える剣を持っていたそうよ。しかも度胆を抜かれたことに――――」

 

 霧の中で赤光が爆裂する。数えきれない鉄の槍が豪風のように吹き散って、トンネルの内壁にざくざくと突き刺さっていく。その合間を縫って高速で移動するものは幽香と、そして何かだ。おまけに一人ではない。

 最悪の視界と、ヘタを打てば一瞬でハリネズミになってもおかしくない極地での攻防。

 地面に降り立った幽香がふわりと回る。まき散らされた白い花弁が一足遅れで彼女を包囲した者たちの穂先を狂わせる。莫大な魔力を宿した魔槍と魔剣。干渉する四本の武器が秘めた魔力が小爆発を引き起こす。

 

「なんでも、四人に分身したとか」

 

 そうして立ち込める霧が吹き飛ばされた時。

 非常灯が照らすトンネルに輝くのは心捕らえる赤い瞳。四方から突き出された攻撃を躱しきって、身体を捻ったままの姿。髪間から覗くうなじは妙に艶めいている。

 

「にしても虚を突くためだけに、そんなに人数が要るものかしらね」

 

 額が触れてもおかしくない距離。驚愕の表情を浮かべたままの雪之丞から視線を逸らして問うた先にはまた雪之丞がいた。その隣も、またその隣にも。

 

「ど、どうやって今のを避けたんスか」

 

 総勢四名の雪之丞の声が見事にシンクロする。

 煙幕。一斉射撃からの分身による包囲攻撃。この町に巣食うほとんどの怪異はこれで沈んできた。

 

「気合よ」

 

 入魂のフルコースを平らげて息の一つも上げずに幽香は言い放つ。彼女が視線を注ぐ先は腕時計。夜光塗料の塗られた針はぼんやりと、しかし確かに時間を刻んでいる。残りは二分。

 幽香にみとれていた雪之丞たちが気を取り直す頃には、既に彼女は包囲を脱していた。四人はそれぞれの武器とそれぞれの殺意を手に、彼女へ挑みかかる。

 

「なんだか、大変そうね」

 

 殺陣の向こうに仲良く並んだ必死の形相を見ているうちに、素直な感想が幽香の口を突いて出た。

 

「そりゃ、あなたに失望されたくはないんで」

「どうして?」

「あなたを愛しているから、ですかね」

 

 ひらりひらりと幽香は舞った。追いすがるように雪之丞たちが槍の穂先を差し向ける。

 

「だからあなたを救いたんだ。あなたがあなたを見失う前に、この手で」

 

 それはとことん身勝手で理不尽な愛の形だ。好きになった女にそのままでいてほしいから、殺して永遠に自分のものにする。なんて。

 

「うれしいわ」

 

 実際幽香もその形を好ましく思っている。雪之丞にとっての問題は、それを望む相手がどうやら自分ではないらしいということだった。

 

「ねぇユキ。あなたは私を殺した後にどうするの?」

 

 唐突な問いに、束の間雪之丞たちの動きが止まった。

 

「どう、するんでしょう」

 

 その鈍りまくった剣筋が幽香に触れることなどありえない。

 それはかつて、ハジメがぶつけられたものと同じだ。彼は『野望』と答え、なまなかに剣を振りぬいたまま固まる雪之丞は返す術を持たない。

 

「俺はぶっちゃけあなたとの決着の後のこと、何も考えちゃいないんです」

「そう」

「なんつーか、あんまり人生に未練ないんすよね、俺。ひたすら元手を薄め続けるっつーか、あなたがくるまでホント何もない毎日で」

 

 それは奇しくも、人生に失望してから彼がこっそり飲み始めたウイスキーのやり方に似ていた。

 

「ひょっとして本当はもっと早くに死んどく運命だったんじゃないかな、とか思ったりしなかったり」

 

 ほんの一瞬、幽香の足取りが鈍った。その隙を突いた雪之丞の刺突が幽香の髪を数本削って落とす。

 

「いっそ俺と共倒れとかどうです?」

 

 屈託なく、人懐っこく。一抹の期待すら込めて吸血鬼は笑った。幽香も声を潜めて笑う。笑って、その双眸に初めて戦意が宿った。

 

「絶対に負けてやらないわ」

 

 残されたものは腕時計に目をやった幽香の残像だけ。その姿に、すさまじく嫌な予感がした。

 

「うぐふぅ」

 

 防御を固め直そうとした矢先、あさっての方向からくぐもった悲鳴が上がった。

 

「な――――に――――?」

 

 天井。そこにひときわ濃くわだかまった霧の中からおびただしく血の雨が降る。ぽかんと口を開いたまま、四人の吸血鬼はその一点を見上げていた。次第に輪郭が薄れ、赤い霧となって消えゆく彼らの前に、どぐちゃあ、と音を立ててそれは落ちる。

 五人目にして本物の雪之丞が。

 

「のこり一分」

 

 地虫のように這いながら、右手首から先を吹き飛ばされた雪之丞はようやく不可視の攻撃の出所を知った。

 

「こ、こいつがっ!?」

 

 地面の血だまり。そこに映った自分の像。後ろ首からにょっきりと顔を出した小さな小さな怪物の姿。

 

「こんなちっぽけなヤツに俺は、あいてっ! おとなしくしろよ、クソ!」

 

 それは実に、実にかわいらしい向日葵であった。

 しかしそいつを力任せに引き抜いたときの暴れっぷりといったら、とんでもないものだ。飢えた虎のように気性が荒い。振り回す葉は剃刀よりも鋭く、抑えにかかった雪之丞の指を危うく切断するところだった。

 

「こいつがあなたのタネってことですか?」

 

 仕込まれたタイミングは分かり切っている。幽香を助け起こした瞬間だ。鼻の下を伸ばしている間にまんまと準備は進められていたのだ。

 手元で荒れ狂う向日葵に殺意を向けたのは一瞬。雪之丞はそれを路肩に放った。

 

「ま、気付けなかった俺がドアホってことっすよね」

 

 しっかりとした幽香の足取りを見て、もう彼女には酔いが残されていないことを知る。あるいは初めから演技だったのか。胸の炉心から生まれ出た柄を、雪之丞は掴んだ。

 

「行きます」

 

 棄てれば捨てるだけ、身軽になれる。雪之丞が人としての生を捨てた瞬間からの持論だった。

 

 ならば恐れも、ためらいも、ここで捨てていく。

 

 地を蹴った瞬間に彼の姿は完全に消失し、変わってトンネルの中に無数のストロボ光じみた赤い光が灯る。それは、吸血鬼の携える魔槍が爆裂する度に放つ光だ。

 使い捨ての槍を何度も爆破して、その勢いで狭いトンネル内を立体的に跳びまわる。

 光の帯と化した雪之丞は無防備にさらけ出された幽香の背中に槍の穂先を向け――――更に加速する。やるなら正々堂々。正面からザックリ。だ。

 

「ムチャするわね」

 

 そうでもしなければ勝てない。

 そして目の前にある勝ち目に、雪之丞は賭けることにした。

 

「さようなら、幽香さん」

 

 背後に神経を向けていた幽香が反応するまでの時間は、一拍子雪之丞に劣る。そのわずかな隙に、穂先は吸い込まれるように幽香の胸に突き刺さっていった。

 

「獲っ」

 

 果たして。そのあまりにあっけない幕切れ。あまりに軽い手ごたえ。

 貫いてやったはずの幽香の胸。そこから零れ落ちるものは、真っ赤な、真っ赤な――――

 

「はな、びら?」

 

 ぞわりと総毛立った瞬間には、雪之丞は茫然と自分の胸から生えたそれに魅入っていた。薄暗がりの中、幻惑するような白はべっとりと雪之丞の血に塗れている。

 

「三分」

 

 浴びせられた声の出所は二か所。即ち、

 

「約束通り『私は』何もしなかった」

 

 前と、

 

「虚を突くだけなら四人もいらないって、言ったでしょ?」

 

 後ろ。

 風見幽香は最初から二人。ヒマワリは本物の攻撃を隠すための囮。自分が分身をしておきながら、相手が同じ手を使ってくる可能性を完全に失念するとは。

 

「それじゃ、気は済んだわね?」

 

 腕を引き抜かれると、そのまま雪之丞は前のめりに倒れた。

 もはやほとんど花弁となって崩れてしまった己の分身の横を過ぎ去って、幽香は足早にこの場を後にする。

 

「は、ははっ!」

 

 しばらくして出口に差し掛かった幽香の耳に届いたものは、雪之丞の狂笑だった。大笑いのボリュームが上がるにつれ、トンネルの気温もぐんと上昇していく。

 

「まだだ。まだ、終わっちゃいない!」

 

 背後から漂ったものを見て、思わず幽香は足を止めていた。

 それは金色の火の粉。見間違えようもない、鶴見ハジメの決意が見せた能力の片鱗。

 

「ユキ。あなた一体何をしたの」

 

 振り向いた先では、黄金の太陽が輝く舌で雪之丞の肌を舐め始めたところだった。

 

「クソみたいな嫉妬だって、突き詰めればここまで真に迫れるってことです」

 

 彼の炉心からめりめりと音を立てて生まれてくるのは光り輝く巨大な筒だ。オリジナルより二回りは小さいものの、それは『風穴をぶちあける程度の能力』そのものだった。

 

「ぶっちゃけ三分は結構焦りましたよ。あいつのクソ太陽を複製するには、本当にギリギリの時間だった」

 

 勝利を確信する雪之丞の浮かべたドヤ顔が、音を立てて破裂した。

 

「ぐうっ――――は。そりゃそっか。吸血鬼に太陽なんて、最悪の取り合わせだもんな」

 

 そうやって撒き散らされた血も肉も、体の内側から溢れ出す金色の炎によって灰に変わっていく。

 そんなことはお構いなしだ。一射。たった一射撃てれば、それでいい。更に体の数か所を吹き飛ばしながらも勝利を確信する。光を収束させる砲身の先で、幽香は静かに目を瞑った。

 

「やりなさい。あなたの気が済むように」

 

 ようやくここで、自分はハジメを越える。ヤツの手が届かない場所に、幽香さんを連れ去ってしまうことができる。脳裏にぼんやりと浮かんだ円とトリガーに手を伸ばす。

 

「あなたはなんのために強くなったの?」

 

 そして彼女の口から転がり出たのは紫と同じ問い。

 

「あなたを殺すためです」

 

 その先なんて要らない。夢も希望も捨てて、ようやく狭間雪之丞は究極の身軽さを手に入れることができる。

 

「さようなら」

 

 ここまで長かった。

 トリガーを引いた瞬間、まるで肩の荷が一気に下りたようだった。

 解き放たれたものは昏く煮えたぎる鉄のような奔流。赤黒い電光を禍々しく散らしつつ、模造された太陽の力は突き進む。

 空気すら妬け焦がして暴れ狂う閃光の正面に佇む幽香は僅かに片手を持ち上げ――――まるで薄絹でも裂くかのように、彼女の指先で光線が四方に散った。

 

「あ、あれ?」

 

 素っ頓狂な声を上げる傍から、彼の右肩から先が丸ごと吹き飛んだ。顔の半分は、既に炎に包まれている。

 

「バカな」

 

 そんな結果は認められない。次々と連射する無駄玉が、彼の肉体の崩壊を爆発的に早める。幽香は物言わず、ひたすらそれを受け止め続けた。

 

「なんだよ。ふざけるなよ!」

 

 ここまで来たというのに、ここまで捨てたというのに結局力不足なんて。

 命を燃やす攻撃は、一撃として幽香の防御を破れずに消えていく。神経まで焼かれ始めた耳が幻聴を拾う。

 

『殺し合いをさせられる俺の気持ちが分かるのか?』

 

 そいつの冷ややかな目の奥に燃えるのは日輪だ。

 

「お前だって俺がどんな気持ちでいろんなものを捨ててきたか分かるのかよ!」

 

 視界が涙に滲むにしたがって代わりに見えてくるものは、あいつの姿だ。この太陽の力に選ばれた男の像が、霞んだ幽香の隣に浮かんでいる。

 

「俺はお前に負けたくないんだ!」

 

 口にしてようやく気付くのは、自分の力の本質。その向かう先。愛する人を救うために嫉妬の力を振るうなんて、よくよく考えればもとからおかしかったのだ。

 

「あぁ、そっか。俺、本当は」

 

 目に見えて勢いの落ちた光線の威力に、幽香はそろそろ雪之丞の限界が近いことを知る。

 

「ユキ、もうそれを捨てなさい。早く」

 

 その言葉に従おうとして、雪之丞は自らの異変に気付いた。

 鶴見ハジメの能力が完全に暴走している。暴れ狂う太陽の血が血管を焼き、思考を白熱させ、肺を焼きつぶす。砲身を切り捨てる余裕なんてない。肉ごと削り落とそうと剣を握るも、それすらすぐに焼けて灰になってしまう。

 

「うおお、止められねバハァッ!?」

 

 その喉笛が弾けて、悲鳴の代わりに黄金の炎が噴き出した。もはや雪之丞に人の形は殆ど残されてはいない。それでも裂けた砲身からあちこちに吐き出される光線がトンネルの構造を致命的に引き裂いていった。不穏な地響きとともに崩れた天井に弾き飛ばされると、ようやく雪之丞は倒れ伏す。

 

「…………あぁ、しぬぅ」

 

 地面を舐める雪之丞に背を向けて、幽香はうず高く積もった瓦礫の山に視線を走らせた。幸いにもそれをすぐ見つけると、彼女は靴と靴下を脱ぎはじめる。素足が霞んだ瞬間、トラックほどもあるコンクリート片が宙を舞った。

 

「ちょっと染みるかも」

 

 しばらくして燃えカスの上に声と共に降り注いだのは、真っ白な消火剤だった。幽香は瓦礫の下から引っ張り出した、ひしゃげた消火器を下ろす。

 

「俺は恥ずかしゴホっ」

 

 まだ収まらぬ黄金の炎がその口から小さく迸る。

 幽香がどうこうする暇もなく雪之丞は消火器のホースを咥えこむと躊躇いなく取っ手を握った。喉に開いた傷口から血と炎と消火剤が噴き出す。

 それが正真正銘ハジメの炎であれば消えはしないだろう。残酷な事実を改めて見せつけられる。

 

「あんまりおいしくないっすね」

 

 穴だらけの体を情けなさそうに見下ろしながら吸血鬼が漏らした呟きが冗談なのか否か、幽香に判断はできなかった。

 

「――――俺は、恥ずかしいやつです」

 

 それは別に、揚げられる寸前のとんかつみたいな姿で道端に転がっていることでも、全裸の上におっぴろげたままの股を閉じる体力も残されていことでもない。

 

「いいえ」

 

 その訳を聞かずに、幽香は首を横に振った。頬を覆った消火剤にラインを描いていく涙のしずくを、彼女はじっと見つめる。

 

「俺はずっと、あなたの幻を追いかけていたんです。ハジメに負けたくないからあなたを」

 

 その先を言葉にすることを邪魔したのは、ごしごしとブラウスの袖で顔を拭う幽香であった。

 

「きれいになったわ」

 

 拭いてもらったそばから新しい涙が伝った。

 

「あらあら」

「すっ、すみません」

 

 雪之丞が成すがままの間、崩れ落ちた天井からは月光が静かに降り注いでいた。

 

「もっと、自分を誇っていいんじゃないかしら」

 

 しょげた花にそうしてやるように、幽香は優しく語りかけた。

 

「無理して誰かの血を吸う必要なんてない。あなたは、あなたのままで十分」

 

 満身創痍の吸血鬼に去っていく彼女を引き留める方法は無い。だが最後に、どうしても聞いておきたいことがあった。

 

「あの、もしも俺がまたあなたと戦って勝ったら、俺に惚れる可能性ってあります?」

「私は誰の気持ちにも応えるつもりはないわ」

 

 一転して幽香は物憂げな視線を肩越しに送り付けた。

 

「それと、この子を殺さないでいてくれてありがとう」

 

 去っていく幽香の手に絡みついていた例の向日葵が威嚇してきた。

 

「…………そんなこと言われたら、イジになるだけですってば」

 

 サイレンの音が遠くから聞こえてくる。このままぼんやりしていれば、じきに誰かが来て保護してくれるだろう。最後の涙を振り切って、雪之丞は大声を上げて笑ってみた。

 

「トンネル崩落の現場から失踪中の高校生が全裸で、粉まみれで発見?」

 

 明日の新聞記事はそうとう愉快な見出しに飾られそうだ。

 事情聴取だのなんだのとしばらくは面倒なことが続くだろうが、それが終わったら幽香さんのところへ行って、謝る。

 そうしたら改めてハジメの恋敵として存在感をまき散らしてやるとしよう。

 

「おや」

 

 目の前に舞い降りた大きな黒羽を何気なく手に取って、雪之丞はさっと陰った月を見上げた。

 

 ◆◆◆

 

 石段を降りきると、サイレンの音が聞こえた。この夜はいつもよりにぎやかだ。

 

「火事かな」

 

 赤く染まった遠くの空を見上げながら、ハジメはズボンを探った。

 空港で杏奈に渡そうと思ってそのままだったタバコを取り出して、ヨレヨレの一本を不器用に口にくわえる。いっしょにねじ込んだはずのライターをしばらく探して、ハジメはそれがいかに馬鹿馬鹿しいことか気付いた。

 

「クソ」

 

 吐き捨てて指先に火を熾す。落ち着き払ってタバコに火を灯して。

 

「げぶふぅ」

 

 カッコつけて深呼吸して派手にむせた。

 

「だっ、ダメだ。俺、タバコ下手糞だ」

 

 背伸びなんてするもんじゃない。

 煙のしみた目で緑色のパッケージを見つめつつ、沸いて出るのは母親のような前向きさではなく、後悔だけだ。

 続いてハジメの肝を完全に潰したのは路地のアスファルトを踏む音だった。慌てて火を消そうとしても灰皿もクソもない状況で、おまけに排水溝に突っ込んで消せるほど腐った性根も持ち合わせていなかったのがさらに悪い。

 昨日からの着の身着のまま。最後の砦のジャケットは紫に渡して、血まみれのシャツ一枚で夜更けにタバコをふかす高校生なんて、そうそうお目にかかれない要補導案件である。

 

「ここにいたのね」

 

 火種をなんとかもみ消そうと火傷しながらお手玉していたハジメからタバコを奪い取ったのは、今一番話し合うべき相手で、今一番会いたくない相手だった。

 

「…………幽香、どうしてこんなところに」

「ちょっと散歩していたらあなたを見つけたの。偶然」

 

 彼女の行動に迷いはなかった。燃えるタバコを自分の掌に押し込んで消すと、ハジメのポケットからはみ出ていたハンカチを抜き去る。

 

「いやなヤツ」

 

 眠たげな光をちらつかせる街灯の下に、彼女が少しだけ顔をしかめたのが分かる。紫の香りが染みついたハンカチでタバコを包んでいく姿を、ハジメはただ見詰めることしかできない。

 

「体はおかしくない? 痛いところとか、具合が悪いとか」

「ない」

 

 というかどうしてお前の手はそんなにススまみれなんだとか、その傷はどうしたんだとか。謝るべきなのに、大事な言葉がほかの言葉でどんどん埋もれていく。

 

「また散々な目に遭ったんだぜ」

「そう。どんな?」

「お前とケンカした後霊夢の前で居眠りこいて、辻斬りに来た吸血鬼に噛まれて串刺しにされかけた後に紫とコーラ飲んで呑気して。やることなくなったからタバコ吸おうとしたらあんたが来た」

 

 一息に言ってやると、幽香はくすくす笑った。

 

「あなたってそんなに冗談が上手だったかしら」

「ここのところ冗談みたいな生活送ってたから。上達するのも仕方ないな」

 

 おどけて見せれば、彼女との間に感じていた隔たりは、もう感じなくなっていた。幽香も同じようで、ひとつ安堵の息を漏らした。

 

「ごめん」

 

 断った半日がひと月にも二月にも感じられたのは、きっとこの一言をもっと早くに言い出せなかったからなのだろうと、ハジメは考えた。

 

「心配したの」

「ごめんな」

「本当、不安だったんだから」

 

 完全に気が抜けた幽香は膝から崩れるようにへたりこんだ。

 彼女を抱き留めるに手負いのハジメは遅すぎる。鉛のような体を動かす前に彼女は地面に腰を下ろしてしまう。

 

「ハジメはこういうの、へたくそね」

 

 どこの誰と比較してかは分からないが、謎の敗北感に駆られつつ幽香に肩を貸して立ち上がらせる。

 

「お前、酔ってるの?」

「えぇ。家を出てからずっとクラクラしてて」

 

 目反らし気味に幽香が答えた。

 そうして間近に感じるのは、どこからあんな馬鹿げた光線やら怪力やらを絞り出しているのか見当もつかない。どうしようもないくらいの、女の子の体。

 

「ワガママ言ってもいい?」

 

 耳元でささやかれて、ハジメはどきりとした。

 

「な、なんだよ」

 

 思わず声が上ずる。

 

「あのね。おぶってくれないかしら…………ふふ、ありがとう。ダメね、酔うと甘えちゃう」

 

 背負いあげてから、ハジメの頬はゆっくりと赤らんでいった。

 

「脚、触っちまってるけど」

「気にしないわ」

 

 その意図を汲み取ろうと必死になっていると、冷や汗まみれの首筋にひんやりとした鼻先が触れる。

 

「おひさまのにおい」

「タバコくさいだけなんじゃないか」

 

 意識しないようにしよう。暗い街灯の明りを頼りに、ハジメは家を目指す。肩口を何度か嗅いでみたが、やはり着たままのシャツから漂うのはタバコと汗のにおいだけだ。

 

「いいえ。とっても落ち着くにおいよ」

 

 それは、幽香にしか感じることができないモノなのかもしれない。まどろんだような声で、彼女は尚も囁く。

 

「あなたが私に取りつけた約束、私はちゃんと果たせているかしら」

 

 忘れようもない。事故の直後、半ばヤケクソで頼んだムチャは信じられないことに着々と叶いつつある。

 

「私はあなたの家族を幸せにする」

 

 それは、彼女と交わした交換条件だ。

 

「…………うん」

 

 ネットだったか雑誌だったか。よく干した布団のいい匂いは、ダニの死臭だと読んだような記憶がある。太陽と花。花を咲かせるのが太陽ならば、カラカラに干からびた死骸を晒させるのも太陽なのだ。ハジメにとって、この関係にはそういう不愉快な裏側がへばりついているような気がしてならなかった。

 

「私と出会って、あなたは幸せになれた?」

 

 当たり前だ。

 

 その一言はどうしても出なかった。それを認めてしまえば、ハジメは義務を果たさなければいけなくなる。

 

「もしそうでないなら、私もっと頑張るわ。だからあなたも」

 

 視界の中に救いを探して、ハジメは暗闇に光を投げかけるそれを見つけ出した。

 

「あ、ジュースある。ちょっと一息入れようぜ。おごってやるからさ」

 

 調子はずれな大声で彼女の言葉の続きをかき消して、ベンチに押し付けるように幽香を下ろす。ポケットから小銭を引っ張り出して自販機に向かいながら、幽香の差し伸べた指が背中を掠めたのが分かった。

 

「コーラが好きじゃなかったの?」

 

 プルタブ。炭酸の弾ける音。ハジメの手元から立ち上ったのは、杏仁豆腐じみた独特のにおいだった。またしても彼の額に深々と皺が刻まれる。

 

「改宗した。今日から」

「ふうん。じゃあ私も」

 

 ハジメの横から手を伸ばして幽香が押したのも、同じボタンだった。仲良く二人そろってベンチに腰掛け、ドクターペッパーを傾ける。とはいえハジメのペースは蝸牛が如しで、幽香は訝るように彼を見つめた。

 

「マジだって。今はこんなだけど、これからもっともっと好きになるから」

 

 うまいうまいと、半ば自分に言い聞かせるようにジュースをがぶ飲みするハジメの隣で幽香もプルタブを押し開ける。

 

「うん。おいし」

 

 ハジメから顔をそむけた彼女は、困っているようでもあった。

 

 ◆◆◆

 

 トンネルにちゃりちゃりと鎖の擦れる音が響いている。

 

「で、どこまで話したっけ?」

 

 崩落した天井から差し込む月光があたりを真っ白く切り取っている。

 瓦礫に腰掛けた江梨花は軽く顎をしゃくって傍らの雪之丞に促したようだった。しかし返事はなく、ねばつく飛沫が何度か飛んだだけだ。

 

「…………あぁ、そうだ。あんたがこの町で怪異狩りをしてるって聞いたときはね、正直私ブチ切れだったんだ。最近妙にエサが減って、この子の機嫌がむちゃくちゃ悪かったからさ」

 

 それまで雪之丞の上に屈みこんでいた女が顔を上げた。

 彼女が江梨花の差し出した手にじゃれ付く姿は小動物じみてかわいらしい。一方その体を戒める無数の鎖と血に塗れた口元は、猛獣を思い起こさせるものでもあるが。

 

「ユキもハジメも兄弟みたいに思ってた。だから、心配してやった二人から裏切られたのはちょっとショックだったよ。ちょっとどころじゃないかな」

 

 未だに子供料金でバスを乗り回せるほどに小柄で童顔の江梨花は立ち上がって伸びをひとつ。今は月光の下で信じられないくらい大人っぽく見える。身長も、一回り以上伸びているように思われた。

 

「ここ半世紀で二番目のサイアクだ」

 

 だけど許してあげる、と江梨花は微笑んだ。

 

「あんたが狂犬みたいにケンカしまくってくれたおかげで、あの妖怪女の実力は大体分かった。正直、私達の敵じゃない――――んでこっからは私があんたを裏切る時間」

 

 黒い翼を持つ現代最強の怪異を率いて、F市の守護者は静かに雪之丞を見据えた。その全く感情のこもらない、ガラス玉のような眼は、とある妖怪がこの世界に来て失いつつあるものだ。

 

「捨てて棄てて、だよね。あんたの考え結構気に入った。同じようなこと、私達もずっとやってきたから」

 

 江梨花は立ち去り様に一度だけ雪之丞を振り返ると、まるでテストの範囲でも聞くような気軽さで口を開いた。

 

「てことはさ。あんたが捨てられる側になる覚悟も、ちゃんとあったんだよね?」

「えりちゃん」

 

 黒髪の美女は自分の首に巻きついた鎖を手繰って、江梨花を呼ぶ。

 

「んっ」

 

 美女の差し出したひときわ大きな肉塊を手に取ってまじまじと見つめてから、江梨花はため息ついた。

 

「いや、いらんし」

 

 それを無造作に近くの草むらに放って、江梨花は歩き出す。名残惜しげに何度も振り返りながら、騒々しく鎖を引き摺る音を立てて美女も後に続く。

 確かに明日の見出しはこの崩落事故と、そこで見つかったものについて語ることは間違いない。しかし内容がもっともありふれた、どこにでもあるような惨劇についてのものになることも間違いないのであろうが。

 食い散らかされた残骸は何も語らず、語るための部位も持たず。駆けつけた消防も警察も、現場のあまりの悲惨さに言葉を失うことしかできなかったという。

 

 

 

 第十七話『コーラとドクペと水割り吸血鬼』おわり

 

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