問診票を突っ返されてハジメは文字通り我が目を疑った。医者も疑った。健康診断に訪れたほかの生徒たちも疑った。
「視力2ってなんすか」
「知るかよ。どうやりゃそうなるんだ」
昔からハジメの傷を世話してきた年かさの女医はやけっぱちに返して肩をすくめた。数人のクラスメートがハジメから問診票を奪い取る。
「鶴見くん、ズルしたん」
「ちゃんと見えたものを正直に答えただけだっての」
ズルと言われれば思い当たる節はある。能力だ。
『風穴をぶちあける程度の能力』は狙いをつけて撃ち抜くもの。千里先までを見通す眼とまではいかないものの、ある程度までは見たいと思えばそれなりの像を脳裏に結んでくれる。
「じゃあこれ?」
「右か右斜め上」
クラスメートが針で突いたような隙間を指差すなりハジメが即答する。どよめきが走った。
「うわ、こいつホントに見えてるよ!」
「ぼんやりだけどな」
ちょっとした特殊能力じみた視力であっても、持ち主が平凡と平和を尊ぶハジメでは活躍の機会もこんなものである。何をそんなに騒いでいるのかとため息ついていると、シャツの上から腹をつついてくる奴もいる。
「なんかつるみん最近体つき変わったって言うか、ムキムキになったよねぇ」
去年の暮れまでは脂肪貯蔵庫と化していたぽちゃ腹も、今では板チョコのような腹筋がうっすらと浮いている始末だ。面白いので自分で触っていると、女医の握るバインダーの角が頭を直撃した。
「後つかえてるからさっさと帰れ。かぶとむしみたいな腹しやがって」
消毒のにおいの染みついた白い部屋に別れを告げ、シャツの袖を通しながら校舎を出ると陽はもうすこしで真上に至ろうかというところ。さっさと下校を言い渡されたのは、近所で起こったとある事件が原因だった。
指先につっかけた上履きをぶらぶら揺らしながら校門に向けて歩いていると、校庭に芽生え始めた緑が目につく。それは実際ただの雑草だが、どうしてか心が浮かれた。
「まとまって帰れってさ。どーせなら一緒にどう?」
幽香に少し影響されたかもな、なんて我知らず口元を緩めていると、いつの間にか江梨花が傍に立っていた。
「なにさ」
「い、いや」
あの決別にも等しいやり取りを最後に、久しぶりの会話だった。とっさの挨拶を言いあぐねたハジメを、彼女は頭二つ分小さいところから見上げてくる。
「今日はなんの日でしょうか」
「十四日って、何かイベントあったか?」
江梨花は肩をがっくり落とすと、
「まぁ、今まで無縁だったろうから仕方ないっちゃ仕方ないけどさ。もらったものにはちゃんとお返ししないと」
と失望の色もあらわにローファーのつま先で足元の砂利を掘り起こして待つ。それでもハジメの察しが悪いので、彼女はもう一度深々と肩を落とさなければいけなかった。
「ホワイトデー、でしょ」
「……あぁ!」
「ハジメ、たしか幽香さんにお菓子もらってたよね」
実際あれはプレゼントにかこつけた虐待であったが。
たぷたぷに詰まった弁当箱二段分のチョコレートがもたらした激甘地獄を思い出すだけで奥歯が痛んでくる。それでもプレゼントはプレゼントなので恐る恐る財布を取り出して中を覗き込んだハジメの前で江梨花は財布を取り出す。
「貧乏人には恵んであげよう。これでイイモノ買ってあげな」
衆人環境に恥ずかしげもなくマジックテープの音を鳴り響かせた後、彼女がハジメの目前に突き出したのは万札が三枚。とんでもない大金である。
「いやいやいや、こんなに貰えないし。お前そんな羽振りいいやつじゃなかったろ」
「いいから。じゃないと私の気が済まないの」
「気が済まないって?」
既に歩き始めた江梨花に必死に追いすがりながら、ハジメは肩からずり落ちまくるカバンを何度も何度もかけ直した。
「その代わり私と一緒に来ること。私のお金で変なの選んだら許さないんだから」
「で、でも危ないからさっさと帰っとけって言われたじゃんか。それに幽香もうすぐ迎えに来るし」
「ヘーキヘーキ。どうせみんな普通に外出してるのに、私達だけとか不公平じゃん。ね、今日はちょっと離れたところで買い物しようよ。あの女には適当にメールでも打っておけばいいって」
暫く前から別のグループとツルむようになった彼女が今さら戻ってきた理由も、渡された大金の意味も分からないままに彼女について歩く。知らぬ間に押し付けられた彼女のカバンを背負って、校門を出る。
「風、強くなってきたね」
バスを待っていると江梨花が呟いた。丁度、向かいのコンビニではのぼり旗を片づけている最中だ。風にあおられた店員が何度も何度も旗を取り落としている姿を見ているうちに、ハジメは今朝のニュースを思い出す。
「テレビで見たんだけど、どうやら近いうちに台風くるらしいぜ。直撃だって」
「どうしよう。飛ばされちゃうかも」
自虐気味のジョークにけらけら笑っていた江梨花は、急に声のトーンを落とした。
「…………ねぇ、あのニュース、どう思う?」
「台風?」
「違うよバカ。あの酒屋の角の近くのトンネル、こないだ崩れたって。それで、死体が」
街へ出るバスがゆっくりと停まると、ハジメは江梨花に先に乗るように促した。
「あれが、あれがもしユキだったりしたら私」
報道で遺体の損壊は酷いものだったと聞いた。そしてどうやら、十代の若い男性のものであるらしいとも。にもかかわらず翌日にクラス全員が登校してきたとき、一瞬の安堵の直後に全員が見つめた先には長い間主を失っている席があった。
「江梨花」
彼女の肩を、軽く叩く。
「安心しろ。きっとユキじゃない。ただ見つかった死体の年頃が近かったってだけだろ?」
もちろんかわりに誰が死ねばいいというものではない。ひどくズレた事を言っているのも分かる。
「だいいちあいつは殺したって死ぬようなタマじゃないったら」
それでも雪之丞が死んでいないという自信だけはある。
他でもないハジメの手によって、雪之丞は一度蜂の巣にされている。それでも平然と復活してのけた。例えミンチにしたってあの吸血鬼を倒すことが出来るのかどうか、ハジメには疑問だった。
「励ましてくれるんだ?」
ぎゅうづめの車内。体温が伝わるくらいの距離で幼馴染がそう言って笑ったので、ハジメはバツが悪くて視線を逸らした。
「にしても誰がやったんだろう」
表情を曇らせた江梨花が何気なく漏らした一言。
惨殺体、そしてトンネルの崩落。いろんなことがいっしょくたに起きすぎて捜査は難航しそうだと聞いた。とにかく何にせよ、ハジメが紫に連れ去られてからとんでもないことが引き起こされたのは間違いない。
何、はさして問題ではない。誰、が重要なのだ。
「案外、犯人は身近にいるかも」
「進路指導の平田とか」
「それは死んでほしいヤツでしょ?」
バスが急停止する。すし詰めの車内で押し寄せる人の群れにハジメはとっさに江梨花が潰されないようにかばってやって、未だ癒えぬ腕の傷の痛みに小さく苦悶を漏らした。
「もしかして幽香さんだったり」
ぶつくさとあたりから聞こえる不平に混じって、耳元で吐き出された江梨花の言葉はやけに大きく聞こえた。
「はいはい。お前の幽香嫌いにもいい加減筋金が入ってきたな」
平静をつくろって答えながら、ハジメは驚くほど動揺していた。それは、朝からモヤモヤと頭に立ち込めていた疑念をそのまま固めたような言葉だったからだ。
「だけど、さすがに言っていい事とわるい事が」
「あ、ごめん。聞こえてたんだ」
悪気はなかったんだよね、と江梨花は拝むように手を合わせてみせた。
彼女の顔をまっすぐ見返すこともできずにハジメが思い出すのは、オレンジ色の街灯の下で見えた幽香の風体だ。
『私だって酔って転ぶ時くらいあるわ』
風呂上りに肩のほつれたブラウスを繕いながら彼女が漏らした一言にしても引っかかる。
「あーあ。ハジメったらつまんないオトコになっちゃったね」
そんなハジメの穏やかならぬ心中を知るはずもなく携帯をいじりはじめた江梨花の肩越し。窓の外に流れるのはF市の沿線風景だ。ごくありふれた光景の中に、ぽつぽつと佇む紺色の制服。それを目にするだけで、この寄り道を咎められているような気がしてならない。
「見つかったってどうせ何も言われないよ。ビクビクしない」
「ビクビクなんか」
唇を尖らせたハジメと、どこ吹く風の江梨花。
二人を乗せたバスは強風にあおられながらヨタヨタと市街の中央を目指して走り続ける。ハジメの思考もいつしか蛇行を始めていた。
――――とっくに幽香がおかしくなりかけているとかさ、お前疑ったりしないワケ?
脳裏に走ったツッコミを否定する。
幽香は絶対に嘘をつかない。もちろん根拠はない。が、彼女が半年と言えば半年だし、明日と言えば明日。
だがそこまでまっすぐに向き合ってくれる幽香があの夜のことばかりは黙して語らないというのが気がかりではある。思考の袋小路にあたまをガツガツぶつけていると、不意打ち気味に江梨花が顔を上げた。
「ハジメだって幽香さん疑ってるんでしょー?」
それはある意味図星。
「お前が言い出したんだろうが!!」
車内をつんざいたハジメの大声に、しばらくあたりが静かになった。
「次、終点F駅前に停まります」
場をとりなすようにアナウンスが流れる。わざとらしく耳を押さえて見せた江梨花が目をぱちくりする横で、ハジメはぎこちない動きで小銭を用意した。
「わ。そんな怒らなくたっていいじゃん」
「そもそもお前、そんな幽香が嫌いなのにどうしてあんなこと言い出したんだ。ホワイトデーなんて」
「あぁ、またその話―――――嫌いじゃないよ。大嫌い。あの人が来てから、本当にいろいろ変わっちゃったじゃん。どうせならあんなの」
口をつきかけた物騒なワードを抑え込んで、江梨花は目付き鋭くハジメを睨んだ。
「だからこれは手切れってやつ。最後くらい、盛大にもてなしてやろうと思ったの。ハジメ、カバン返して。で、また持って。はい、手つないで」
バスの速度が緩まるにつれ、江梨花は狭いスペースにもかかわらずごそごそとやり始めた。ごめんごめんごと周りにテキトーに謝りつつ、やけに少女趣味なカーディガンを制服の上から羽織っていく。
「また、アレやるワケ?」
「お金は地面から勝手に生えてくるもんじゃないんだよ。節約しないと」
江梨花の握った小銭はハジメよりずっと少ない。子供料金だ。彼女が無い胸を張って堂々と行うのは立派な犯罪行為である。
「人に三万渡したヤツのすることじゃないって」
「そうだ。手切れって話だけど、アレにはハジメの分も入ってるんだよ」
窮屈なバスの中からカラフルなブロックが敷き詰められた駅前大通りに降り立った江梨花は、何のためらいもなく絶交宣言を放って、実にすがすがしいあくびをした。
◆◆◆
「おわあああ」
いい天気だ。風は強いが晴天だ。
あたしゃ引きこもりだが台風の前にクッキーと紅茶片手に一発お天道様に挨拶こいてやろうじゃあねえかい。そんな気合でとりあえず換気を試みた千晃は窓を開けた勢いのままに尻モチをついていた。
「ちゅん、ちゅん?」
どこから、どんなミラクルを経てそこへ至ったというのか。
「ち――――ち、ちじょだ!?」
鶴見家の瓦屋根の上にはあられもない恰好の女がいた。たぶん自分を日干ししていた。
とりあえず窓をぴしゃりと閉めて鍵をかけ、頭の中の緊急時対応マニュアルをめくる。当然引きこもり生活で培ったうすっぺらいマニュアルのどこに痴女の対策などあろうか。
「最悪だよおぉ。何なの、あいつ」
幽香にもどこか見せたがりなところがあるが、千晃基準ではちゃんと節度を守った健全な露出である。しかし今回の相手は天然モノだ。行き着くところまでイっちゃった人である。
「おっけー仕切りなおそう。しんこきゅー」
頼みの綱のお姉ちゃんは少し前にあにきを迎えに出かけてしまったので、この場はソロプレイで乗り切るしかない。ならばまずは、よく落ち着いて構えるべきだ。ちょっと大きめの鳥か何かの見間違いということもある。
窓を開ける。
「ちゅん」
閉める。
「…………マジでさ」
ちゅんちゅん鳴く痴女が屋根の上にいます。
警察に電話するのがセオリーだろうが、ヘタにオオゴトにはしたくない。千晃には外の出来事なんてどうでもいいが、世間体とかでお姉ちゃんが痛い思いをするのはイヤだ。
カーテンを閉め切って頭を抱えていると、コツコツとガラスを叩く音がした。
ふざけたことにノックだけは控えめでいやがる。
「はい、鶴見です」
変態じきじきのご指名を無視したら一体何をされるかも分からないので、嫌々ながらも千晃は戸を開ける。もう今日という日を平和に終わらせる見込みはなくなった。
「つるみ?」
舌ったらずに返す女の横から首を出して、きょろきょろと住宅街の様子をうかがう。幸か不幸か平日の真昼間だというのに人っ子一人見えない。
「とにかく入りなよ。あ、やっぱ待て、おいこら!」
女の真っ黒な足裏を見て、千晃は慌ててタオルを取りに行こうとする。頭のネジがすべてぶっとんだうえにあべこべに再配置されたような痴女にそんな細かい機微が伝わるはずもなく、押し合いへし合いするうち、圧倒的に体格に優れる女がそのまま千晃を押し倒す形になった。
「ぐえーっ!」
見事に潰された千晃の上で、女はくすくす笑う。
「ちょっとお前、どけよ!」
間近で見てはじめて、べらぼうに奇麗な人だと千晃は思った。それでも体重はなかなかのもので、見知らぬ変態とくんずほぐれつしながら割と本気で命の危険を感じるのも事実だった。
「えりかちゃん、しらない」
起死回生の腕ひしぎ十時固めを準備していた千晃は、痴女の口から飛び出た聞き覚えのある名にぴたりと動きを止めた。彼女の狭い世間で、同じ名前の人間は一人しか知らない。
「そいつ、女の子?」
「うん」
「ガクセー?」
「たぶん」
「ちっこい?」
「ちゅん」
なんてこった。知り合いが変態の保護者とは。
女の力が緩んだ隙にその腕からうまく逃れて、千晃は痛む節々をさすった。きっと後でアザになる。
「ねえ、つるみはえりちゃんをしってるひと?」
「うん。マブダチ」
ハジメと不仲になったと聞いてはいたが。
外部に接点の少ない千晃を思ってか、江梨花は下校時や、ハジメと幽香がいないタイミングを狙ってよく顔を見せてくれていた。
「よかった」
イマイチ感情の読めない瞳の奥で、真っ黒な瞳孔が細められていく。人間の目ってそういう作りになっていたっけ、と訝りつつ千晃が口にするのは別の疑問だ。
「よかったって、どうして?」
女は小鳥のように、機敏に首を傾げて見せる。
「わたしのしりあいじゃなかったら喰っちまえって。えりちゃんが」
「何ソレ。すっごいヘンタイくさいね」
黒髪の女に服を着せてやりながら、だんだん千晃は不安になってきた。明らかに尋常の人でない女は、変哲のない壁紙を眺めながらよくわからない歌を上機嫌に鼻歌している。多分一小節か二小節か、同じところを飽きもせずにぐるぐると。
「うわぁ……これ、うわぁ」
千晃の服を着込んだ女は結構マズいかんじにパツパツであった。
こんなことならお姉ちゃんの服を貸してあげればよかったのかもしれないが、時すでに遅し。彼女はすっかり気に入ったようで、短い裾をはためかせて遊んでいる。
「ボク、おーちゃん」
「よろしく。私は千晃。わかる? チ、ア、キ」
「つるみ?」
さっさと会話を切り上げればいいのにな、と。おーちゃんと名乗る女の寝言じみた会話に律儀に付き合ってやりながら千晃は自分にツッコミを入れる。
「それは苗字です。あんただって江梨花ちゃんの親戚なら、えーと」
そう言えば江梨花の苗字はなんだったっけ。今さら過ぎる疑問に千晃が首をひねっていると、『おーちゃん』は早速興味を別のものへと注いでいる。
「おぉ。お目が高いじゃんか!」
クローゼットに吊られた、格子模様のドレスじみた衣装。
それはこの家に唐突に現れた時に幽香が身に着けていたものだ。
彼女は丈の長いスカートを手に取って、縁にあしらわれたレースに鼻先を押し付けてすんすんやっていた。
「あんたみたいなオツムからっぽでも、いいモノはいいってはっきり分かるんだね」
「ボクとにたニオイ、するね」
おーちゃんが信じられないことを言った。
ヒト様の匂いにはちょっとうるさい千晃に確かめずにいるという選択肢はない。恐る恐ると近づいて、彼女の長すぎる黒髪を一房持ち上げた。
「あう」
眩暈を覚えて、千晃は頭をぐらりと揺らした。
野獣の毛皮にでも顔を突っ込んだような気分だ。この女の匂いは強すぎる。夜更けにほんのり遠くから香る花のような幽香のものとは似ても似つかない。
「あんた、本当に人間?」
「ボクはおーちゃん」
「あぁ……そうだったわね」
少なくともカワイソウな人であることだけは確かだ。
騙された仕返しとばかりに千晃が次々と失礼なことを言うのだが、どうやら相手には通じなかったらしい。むしろ名前を呼ばれたことがよっぽどうれしかったと見えて、彼女はにへらと整った顔を崩して立ち上がる。
「あっ!?」
そうして千晃の用意した盆を掴むと、あたかも飲み物のように上に乗っけられたクッキーを喉に流し込んでしまうのだった。
「んまい」
そのすっきりした顔を見て千晃はすっかり気が遠くなった。
マブダチとはいえ容赦はせぬ。江梨花がやってきたらどうしてやろうか。とにかくクッキーとビロビロに伸びきったシャツの分は弁償させてやる。
「あーもう、ありがとね! ちょうどダイエットの時期かなっておもってたんだよ!」
空になったお盆がからりと音を立てて床に落ちる。
半ベソかいた千晃がよっぽど面白かったのか、おーちゃんはへたりこんだ千晃の前にかしずいて、子猫でもかわいがるように彼女の頭を撫ではじめるのだった。
◆◆◆
「そこまでいくとアイツ、絶対に着ないと思う」
「ざーんねん」
信じられないくらい破廉恥な服を江梨花が返しに行く。これでもかと散りばめられたスパンコールが鎖帷子のようだ。そのまま店員に捕まった彼女が笑顔でぺちゃくちゃと応対をはじめると、自然とコトは長くなる。
吹き抜けの傍にしつらえられたベンチに腰掛けていると、江梨花の言葉にも頷ける。三階建てのショッピングモールに詰め込まれた店と店の間を行きかう人々はいつも通りかなりの人出。表情に不安なんてない。当たり前の日常を、当たり前に謳歌している。
自分に関わりのないところで関わりのない人間が死んだところで、大抵の人は動じたりはしないのだ。
「あいつ、何贈ったら喜ぶのかなぁ」
早くも難航するプレゼント選びに途方に暮れるままに頭上に吊られた巨大な横断幕を見上げていると、彼の胸ポケットが震え始めた。
――――
宛先:ハジメ
差出人:ちあき
件名:ちじょ
がウチにいます
マジやば。はやめにゴーホームされたし
おねえちゃんによる癒しも強く希望
――――
「なんだなんだ、あいつ」
いつの間にか着信したメールの返信を考えつつ、江梨花と店員の会話の様子を見つめる。誘われて江梨花が手にしたものは明らかに彼女には似合わないような着丈のワンピース。それでも彼女は瞳を輝かせて深海に差し込む光のような不思議な青色の布地を見つめていた。
「久しぶりだね」
壮年の男が愛想のいい笑いでそれを差し出した。すぐ近くのアイスの屋台から買ってきたであろう容器からひんやりとした冷気が漂う。
「ええっと。あなたと前に会ったこと、ありました?」
面倒そうなヤツに絡まれたもんだと半ばあきらめの境地で男を見返す。ワイシャツの襟を緩める男。しかし確かに、そのごまひげはどこかで見た覚えがあった。
「あの時のリンゴの感想を聞いていなかったじゃないか」
その一言。そして彼がポケットから取り出した小さなリンゴでハジメの中で完璧に男の容姿と記憶とが繋がった。爆発事故の直後、何度も病室に足を運んでは退屈な取り調べを繰り返していった刑事だ。
「今日は相棒の方はお休みですか、ええと」
「ちょっと別行動しなくちゃいけなくてね。それと、俺のことは今井でいい」
「スミマセン。覚えが悪くて」
わざわざ警察の方から、こうやって出向いてくるとは穏やかじゃないことくらいハジメにも分かる。
「落ち着いてくれ。今すぐ君たちをどうこうって話じゃない」
今井はしばらくごまひげをさすっていた。
年代物のドラマから飛び出てきたような壮年のやり手。演技じみた振る舞いが妙に腑に落ちて、ハジメは自然とアイスを口に運び始めていた。今井もそうする。
ブドウか何かだろうか。甘酸っぱい。
「ようやっと、って感じだ」
「どういう意味ですか?」
「お互いサシで話せるタイミングは驚くくらい限られているだろう」
今井はレジで店員と駄弁る江梨花へと目を向ける。
「さっそく時間が無いな」
彼女は結局さっきの服を買うことにしたらしい。釣銭のやり取りをしながら、彼女がちらちらと視線を送っていることにハジメも気付いてはいた。
「単刀直入にいく。君とあの幽香ってコは派手にやりすぎた。にも関わらずここまで騒ぎにならないのはどうしてだ? キミの能力、彼女の能力。そうした『ありえないもの』を目の当たりにした人たちが今までいったい何人いたと思う?」
町中をはいずりまわる蝸牛。夜空に浮かぶ無数の光球。繁華街での決闘。遊園地での迎撃戦。ハジメと幽香の戦いの最中に存在した人目を数え始めればきりがない。
「この世界は驚くほど冷静だとは思わないか」
「だって、イマドキ誰も信じないでしょ。テロだの火事だの集団ヒスだの。そういうありそうな話題じゃないと、誰もついていきませんよ」
実際、幽香と霊夢の空中戦を撮影した動画や画像にも、そんな推測をするコメントがごまんと寄せられていた。
「俺が言いたいことはまさにそれだ。気付け、鶴見くん。オトナたちの悪意に」
今井の咳払いと共にぎしりとベンチが軋んだ。
「誰、このおっさん」
振り向きざまに江梨花の紙袋に当たって、ハジメの持っていたアイスが彼女のスカートに飛沫を飛ばす。
「あっ、悪ぃ」
「いいよ別に。で、この人は、一体、誰?」
今井の振る舞いに当てられたにしても、ここまで江梨花に対してビクビクする理由が、ハジメにもよく分からない。
「見ての通り、ただのサエないおっさんだよ」
と、疲れた笑いを浮かべて今井はカップの結露に濡れた指をベンチでぬぐった。
「それとハジメ君。さっきのアレ、半分正解だ」
「半分?」
「こんなところに居たんですね」
意味のよく分からない答え合わせついて問いただそうとして、ハジメは見てはいけないモノを目の当たりにしてしまった。
「探しましたよ」
ベンチの背後にぬるっと現れた大男が、今井の傍らにあったリンゴを手に取った。
まるで大理石のような皮のひきつりに半分覆われたその顔。慇懃な喋り方と隙なく着込まれた上品なスーツが、かえって男の容貌の異質さを引き立ててしまっていた。
「おや。学生さんですか。はじめまして」
深々と頭を下げた男の輪郭を不自然な陰りが高速で滑ったような気がしたのは錯覚だったのだろうか。
「にしてもこんな時に僕ら警察と鉢合わせとはずいぶん間が悪いのでは。さっさと帰れとか、学校の先生方は言いませんでしたか?」
「ええっと。それはちょっと事情がありまして」
「だからって遠出すれば問題ないと? 僕たちはとんちで遊ぶほどヒマじゃない。帰ってくださいと丁寧にお願いされたのなら、きっと理由があるはずですよ」
男が軽く上体を倒しただけで天井が降ってくるような圧迫感を覚える。加えて異形に気圧されて、ハジメは完全に言いよどんだ。
「…………なんて。僕たちだって学生時代はあったんです。折角早く帰れたんでしょう。こんな時に少し遊んでくれたって目こぼしくらいはしますよ。おっと」
彼が弄ぶリンゴが滑り落ちて、江梨花の足下に転がった。
「いけないいけない。折角のリンゴが痛んでしまいます」
全く慌てるそぶりもなく屈みながら、万場は決してハジメには聞き取れない声の大きさで江梨花に耳打った。
「それと、あなたには随分面倒を解決してもらいましたからね」
江梨花が眉根を寄せただけで沈黙を保っても、この男は一向気にする様子もなく笑って今井に手招きする。
「行きましょう。ただでさえ僕たちのタスクは山積みなのです」
大男の後に続く今井の顔といえばひどいものだった。
朝起きたら口の中にありとあらゆる臭味が押し込まれていることに気付いたような。
「なぁ、あのでっかいおっさんだけど。自分のコト、僕たちって言わなかったか?」
「知らない。よくそんな細かいことまで覚えてるね」
小さな違和感に首をひねるハジメの隣で江梨花は紙袋を覗き込み、こそばゆそうに笑う。一体誰に贈るのか。
「そういやハジメはプレゼント決めたの」
とある店先のショーケースを指差すハジメの不安そうな様子といったらなかったが、意外にもガラス越しに鈍い光沢を放つそれを確かめて、江梨花はそれなりに感心したようだった。