鶴見家のお嬢さんといえば花。
もはやそんな常識が近所にまかり通る中で、最近の幽香のお気に入りは家の基礎に安住の地を見出したノウゼンカズラだった。
「奇麗な橙色ですねぇ」
「えぇ。来月いらしてくだされば、晴れ姿をお見せできると思いますわ」
いつもはにこやかに応対するはずの幽香がこの日に限って背中で返事をした。そんな小さな違いに首を傾げて、散歩中の老婆はまたどこかへと行ってしまう。
「だいたい分かった。ありがとう」
するりと幽香の指からほどけていく蔓。その先は吸気口から家の床下に入り込み、びっちりと根を伸ばしている。
「それにしても侵入を許すなんて、一体どうしちゃったのかしら」
鶴見家のセキュリティ体制はちょっとした警備会社以上に強固に整えられている。一階部分に張り巡らされた天然の感圧センサーはその最たるものだ。そんじょそこらの怪異なら幽香が到着するまで防戦か、撃退くらいはやってのける。
「おさぼり?」
――――仕事はちゃんとしている。それ以上は言えないけど。
幽香の命令には忠実な彼らの返事を言葉に直すと、そんな形になる。
「ちゃんとしている、ねぇ」
家の周囲にほんのり漂うのは獣臭と、一階に詰め込まれた十とも二十ともつかない大量の気配。これで家に何も起こっていないと言い張るのなら、この新顔は守衛を任すにはおおらかすぎるのかもしれない。
いや、そもそも責任の所在は別だ。
「連絡よこさなかったあなたが悪いのよ、ハジメ」
ハジメを迎えに学校へ向かった幽香が目の当たりにしたものはもぬけの殻と化したクラスだった。誰に聞いても行き先は知らぬ存ぜぬ。立ちっぱなしの腹が空いたのでアーケード街でラーメンを食べて帰ってきてみればこの有様だ。
「ただいま」
当然、返事に期待したわけではない。
ここで仕掛けてくるような相手だったら楽でいいな、という希望にちょっと賭けてみたくなっただけだ。
「千晃、帰ったわ」
家の奥に背を向けてやってゆっくり靴をそろえて隙を見せてやっても、相手は一向に動こうとはしない。廊下を軋ませてリビングを目指しながら、幽香は至って平常心だ。しかし、この小賢しい相手にゆっくりと腹の底が煮えはじめている。
家の中にまで例の獣くささを持ち込まれたこともそうだが、万一千晃に何かあったらと思うと、胸がざわつく。
かつて千晃は鶴見ハジメをうまく動かしてやるための付属品くらいにしか考えていなかった。にも関わらず、だ。
――――無事でいてちょうだい。
リビングへと続くドアノブを握る。
この先に何が待ち構えていようと、決して動じることはない。ただいつも通りに殴って、暴れて、壊して。その上で千晃の身に何かがあれば暴力に上乗せをかけるだけだ。
「千晃、出てこないのならこっちからいくわ――――」
意を決してドアを開けた瞬間、暗闇に包まれた室内に断続的なフラッシュと破裂音が鳴り響いた。
「よ?」
攻撃ではない。
幽香は動じないという決意をさっさと覆すことになってしまった。
「おかえりなさい!」
火薬のにおいが獣臭をかき消していく。パチリと照明のスイッチが点けられると、幽香は飾り付けられたリビングの中央でハジメのクラスメートたちに囲まれていた。
テーブルの上には飲み物やオードブルが所狭しと敷き詰められ、幽香同様に紙ひもと金紙銀紙を被っている。
「はいはい。サプライズでーす」
紙ふぶきの中をやる気なさげに歩いてくる小柄な影。
江梨花が幽香めがけてクラッカーをぶっ放すと、改めて拍手が沸いた。
「みんな、恩があるんだってよ」
それでも幽香が状況を呑み込めないでいると、ソファに陣取ったハジメが助け船を差し向けてくれた。
「え、と」
「いやいや寝ぼけるなって。お前だよ、風見幽香」
「わたし?」
ぽかんとする幽香がよほど面白かったのか、あちこちから笑いが巻き起こる。それを手で制して、ハジメはソファの上に投げ出されていた雑誌をくるくる丸めながら幽香に歩み寄った。
「トオルはあんたに盗まれたチャリンコ取り返してもらってって言うし、あっちのミヤコは木に登ったままのネコ助けてもらったらしいし。あいつも、あの子も。んで、あそこの連中はよく分からないけど、まぁ、とりあえず幽香さん絡みのイベントならって」
「背中! 背中!」
「ハイヒィーッル!」
壁際に立ち並んだ屈強な男たちが不平の声を上げた。
「ならいっそ、皆で一気にお礼させてもらおうってカンジでさ。ホントお祭り好きな連中だよなぁ」
お前も乗り気だったじゃねぇか、と野次が飛ぶ。
丸めた雑誌をマイクのように突き出したハジメの呆れ顔。それと、うずうずと幽香の反応を見守る皆の顔を見渡して、幽香は口を開いた。
「あ――――ありがとう。みんな」
幽香にしては珍しい、はにかんだ笑み。
幻想郷ですら滅多に見せることのなかったそれは限りなく素に近い彼女の姿だ。誰もがサプライズの成功を確信する。幽香へのプレゼント爆撃が始まる。
「ねぇ、ハジメ。ねぇったら。あなた、恵まれているわよ」
「え、なんで今、俺?」
すっかり人だかりの外にはじき出されたハジメが首を傾げた。
「うふふ。なんででしょう」
教えてやりたいのはやまやまだが、幽香は野暮を嫌う。
ちょっと声をかけただけで丸々一クラス集まってくれる理由なんて、大したものではない。ただただ彼らが底抜けに陽気でイイ奴らだということ。たったそれだけだ。
「なんだよ人の顔見てニヤニヤしやがって。感じ悪ィ」
「これはニコニコのつもりなのに」
だけど『たったそれだけ』でいてくれる友人たちと一緒に居られることが途方もなく得難い幸せであることに、彼ら自身は気付いているのだろうか。
「はん。とにかく江梨花のヤツに礼くらいしとけよな。言いだしっぺはこいつなんだから」
早くも天井を突っつくほどに盛りあがったプレゼントの包みを器用に片手で持ち上げる幽香。そこへと花束を持った江梨花がやってくる。
「派手にやるってハジメに言っちゃいましたからね」
わぁ、と誰かが小さく声を漏らした。
見事なもので、淡くかわいらしい桃色の花束を江梨花が持ち上げる傍から花弁が蝶に変わって飛び立つような錯覚を覚える。
「スイートピーです」
それほどきれいな花だというのに。花好きの手が一瞬宙で迷った。
「私からの気持ち、受け取ってくださいますよね?」
「……えぇ。よく分かったわ」
言い放つ江梨花にはどこか高圧的だった。彼女の前で幽香はただ静かに、きゅっと花束を抱きしめる。
「お前ら、こういう時くらい楽しそうにしろって」
ハジメが微妙な空気が流れてしまった場をとりなそうとするのだが、江梨花はつんとあさっての方向を向いただけだ。
いや、だけではなかった。
「つるみん、上の階って誰かいるの?」
「そういや妹の千晃が」
そうだった。幽香を祝うとなれば真っ先に首を突っ込んできそうな引きこもり娘がここにはいない。
「なんか、暴れてませんか」
「たしかに」
江梨花を筆頭に、全員が天井からの騒音の発生源を追う。リビングの直上、千晃の部屋の扉を勢いよく開け放つ音。階段を下る様子はドラムロールじみて、廊下を駆け抜ける段に至っては人間の足音とは思えないものだった。
「江梨花ちゃあああぁぁん…………」
そして満を持してリビングに突入してきたもの。
「お、お、お、おーちゃん!?」
「えりちゃん!」
「え、あんたら知り合いなの?」
どよめきが走る。
ヨレヨレの千晃をぬいぐるみのように抱きかかえた謎の美女を目にした瞬間、江梨花の高飛車はもろくも崩れ去っていた。
「だ、ダメダメおーちゃん! せめて千晃ちゃんだけでも、ふぎゃっ」
「ふぐぅおぇーっ」
満面の笑みで江梨花にタックルをかますおーちゃん。壁に挟まれた江梨花と、二人にサンドイッチにされた千晃が同時にひしゃげた悲鳴を上げた。
◆◆◆
どこかの誰かがギターを持ち出せば、また別の誰かが実にいい声で歌う。ノッてくると更に別の楽器を持ち込んでくるヤツが現れる。
「ごめんね。こいつすぐ飽きると思うから、もうちょっと我慢して」
「なんかもう、慣れたよ」
瞬く間にライブハウスと化したリビングで、VIPシートめいた千晃のソファに四人は仲良く腰掛けている。
お気に入りのおもちゃを見つけたおーちゃんは千晃ずっと膝の上に置いて離そうとしない。そこはそこで座り心地は悪くないらしく、心底申し訳なさそうに頭を下げる江梨花の前で千晃はジュース片手にふんぞり返った。
「おなかへった」
大分雲行きが怪しくなった外から、湿った風に混じって炭と肉の焼けるにおいが室内に舞い込んでくる。
「へったね?」
千晃が鼻先をヒクつかせていると、その頭にピザ生地の破片がバラバラと降り注いだ。膝の上からどうして彼女が睨み付けてくるのかも分からないようで、おーちゃんは困ったように首を傾げてかじりかけのピザを差し出す。
「あにき、外からお肉もらってきてよ」
それを邪険に押しのけて、千晃は兄を心底軽蔑するかのように鼻を鳴らした。さっきから彼が苦い顔で飲んでいる杏仁豆腐味のジュースにはイライラさせられていたのだ。
「やだよ。自分で行ってこい」
「引きこもりになんて無茶言いやがる。こないだのこと悪く思うんなら行けって」
「ピザあるじゃん。俺の金で買ったピザ食えばいいじゃん」
「それ飽きた。私はバーベキューが食べたくなったんだい」
ハジメのつま先に誰かが躓きかけた。
この宴が始まってからも、参加者はどんどん鶴見家に集まってきている。今では人口過密状態の屋内からまけ出た連中が外の通りで場外乱闘じみたバーベキューパーティを敢行している有様だ。
「いい感じに肉が焼けたみたいなんで、一緒に行きませんか」
「あら、そうなの。それじゃあ私もおこぼれにあずかろうかしら」
「幽香さんに我慢なんてさせやしませんよ。とりわけデカいヤツを――――」
男衆にさりげなく手を引かれて出ていく幽香の後ろ姿。
知らずハジメはソファから腰を上げていた。そんな彼を我に返すのは半笑い交じりの千晃の言葉と、妹の代わりに袖を引くおーちゃんだ。
「気になるなら行って来ればいいじゃん」
「な、なんだよ。急に知ったような口聞きやがって」
「ほらさっさと行け。肉忘れないでよ」
千晃に蹴り出されたハジメはすぐに人垣に分け入った。その動作にはやはりというか、必死さがにじみ出ている。
「あにき、そんなに心配しなくていいのにな」
江梨花が申し訳なさそうに千晃とおーちゃんを覗き込んでくる。
「私いない間、こいつが迷惑かけなかった?」
「むしろかかってないように見える?」
ピザまみれ千晃の頭をうまいうまいと舐めはじめたおーちゃんを中指で指して、千晃はじとりと江梨花を見返した。
「ごめん」
「おーちゃんって江梨花ちゃんの、なに?」
それはきっと、このパツパツのTシャツを着こんだ異様な美人についてこの場の誰もが抱いた疑問に違いない。陽気なサンバが流れ始め、皆が柏手を打つ間も江梨花だけが難しい顔で眉間を抑えていた。
「なんだろ」
そこらに転がっていたボンゴをぺんぺんやって全く合わない合いの手を入れながら、千晃はおーちゃんを見上げる。
「なんなの?」
「わかんないね?」
結局演奏に一区切りつくまで黙り続けた江梨花は、なんだかんだで仲良しこよしやりつつある千晃たちの様子に目を細めた。
「私はさ、おーちゃんとは血の繋がりもないし、ましてや恋人でも友達でもないんだ」
そんな心外な語り口にも、おーちゃんはいつもの底が抜けきった笑い顔を傾げるだけだ。
「それでもこの子が大事。この子のためなら、何だってできるよ」
「そなんだ。あ、そこのおねーさん、お寿司とってお寿司。まぐろ!」
やはり空気の読めない振る舞いにズッコケそうになりつつ、やっぱり千晃は千晃かと江梨花は苦笑いした。むぐむぐと宅配ずしをほおばるその口から、意外な答えが飛び出るとも知らずに。
「それって、家族ってやつじゃないかな」
たった一言で、江梨花は憑き物が落ちたようだった。うんうんと頷くさまは、家族ということばの重みを確認しているようでもある。
「あぁ、そうかも。千晃ちゃん、ありがとう」
「ぎゃっ」
隣に目を向けて、江梨花は顔色を変えた。
「おなか、へったね」
黒髪を振り乱す女の虚ろな目。そして尋常ではない痛がり方をする千晃と、その頭に突き立った牙。
「おーちゃん、だめだよ!」
「いったたたた。ちょ、ちょっと、やめろよ!」
江梨花がばしばしとおーちゃんを叩くが、彼女は意に介さずだ。皮膚が裂けたのか、暴れる千晃の額から血が一筋垂れる。
「いうこと聞けよ、お願いだから。じゃないと!」
勢いよく江梨花がまくり上げた右袖。素肌に無数の傷と一緒に刻まれたそれが蠢きだす前に、いち早く動いたものがいた。
「犬なら犬らしく、ちゃんと鎖につないでおきなさい」
その位置はリビングの正反対側だというのに、彼女の声は江梨花の耳元でささやかれたように届いた。
彼女がドアを開けざまに放ったそれがおーちゃんの頬を掠め、
「うえっ」
千晃は床に投げ出される。
「ちゅん」
驚いて大きく飛び上がったおーちゃんは、騒ぎに目を注いでいたクラスメートたちの頭上を飛び越え、料理とジュースが乗ったテーブルの上に軽やかに着地――――できなかった。
「ちゅ」
体重をかけられた瞬間にテーブルは大きくかしぎ、そのままおーちゃんごと無様に潰れる道を辿ったのだ。ジュースがしぶき、料理がばらまかれ、驚きと悲鳴にバンドの演奏も止まる。
「あぁ、なんてこと。手が滑っちゃったわ」
壁に垂直に突き刺さったバーベキュー用の鉄ぐしが、びいいいいぃぃぃんと音を立てて震えている。そんな大暴投を
「おねえちゃん、アタマ、どうなってる」
うずくまった千晃を助け起こして、幽香は彼女の髪の毛を掻き分けた。
「大丈夫よ。ちょっと切れてるだけ」
不気味な静寂の中、おーちゃんは床の水たまりの中で目を白黒させた。どうして自分がこんな事態に陥っているのかすら、理解できない風だった。
「びっくりしたわよね。ごめんなさい」
おーちゃんにも幽香は手を差し伸べて、わずかに目元が歪んだ。
「あぁ、この臭いはあなたの」
「お騒がせしました。ごめんなさい。すぐ帰りますから」
奪い去るように、江梨花がおーちゃんを幽香から引き離した。
「気にしていないわ。もっとゆっくりしていけばいいのに」
「そういうワケにもいきません。それでは」
「そう。それはとても残念ね」
そこに、致命的に気に食わないことがそこにあったのだろう。言葉はともあれ幽香は最後まで江梨花と視線をあわせようとはしなかった。皆が固唾を呑んで見守る中、江梨花はおーちゃんの手を引いて帰っていく。
「おーちゃん!」
ハジメが幼馴染にどう声をかけていいものか弱り切っていると、千晃が声を張った。相変わらず寝ぼけたような顔でおーちゃんが振り返る。
「そのシャツ、気に入ってんだからさ。返しに来いよな」
「ん」
びろびろのシャツを引っ張って見せて、おーちゃんは頷く。
「行くよ、おーちゃん」
そうして江梨花は、ドアを閉め様に千晃に軽く会釈した。
「さてと」
千晃の成長と、相変わらずの空気の読めなさを頼もしく思いながらハジメはぱんぱんと手を打った。
「飲み物も食べ物もダメになっちまったし、ちょっと買い足さないとな!」
テーブルの脚を一瞥する。
折れたなんてもんじゃない。あまりに鋭い切り口だった。あの瞬間、床下からにゅるりと這い出てきた緑色の何かがそれを一刀両断する姿をハジメの目は捕らえていた。
仕事の証とばかりに、橙色の花弁が一枚置いてある。
「俺がいくから、幽香も付き合え」
ぶっきらぼうな言葉に幽香が素直に頷くと、ひどいブーイングが巻き起こった。
「うるせえ、俺の家と俺のカノジョだ。文句言うなら出ていきやがれ!」
ヒールレスラーばりの見栄を切るハジメの元に苦笑した幽香がやってきて、手を差し出す。
「そんなに見せびらかしたいなら手でも握ってくれるのよね」
あらゆる方向から悲鳴と憎まれ口を投げかけられて、ハジメは尚もガハハと高らかに笑う。
この後に控えているイベントのことを考えれば大したことない。ハジメにとって、ホワイトデーの本番はこれからなのだから。
「もう。あなたのせいでウソつきっぱなしじゃない」
ハジメが玄関で靴をつっかけていると幽香が囁いた。
「気にするこたないさ」
帰ってくる頃にはその憂鬱もなくなるはずだ。
◆◆◆
「な、なんでもないってなんだよ?」
予想通りサービス品の大荷物を抱えるハメになったハジメは、いつぞや雪之丞と幽香を巡って殴り合いと殺し合いを演じた公園の遊歩道をヨタヨタと歩いていた。
「妖怪未満の人間以下。あんなの語るに値しないわ。強いて言うならクサいだけの女ね」
「クサいだけって。あの動き、どう考えてもタダモノじゃなかったろ」
おーちゃんなる人物についてコメントを求められると幽香は目に見えて不機嫌になった。あれにしましょうこれも欲しいわとにこやかに買い物を済ませていた時とは大違いだ。
「とにかくあれの話は終わりにしましょう」
「なにもしなくていいのか。千晃ヤバそうだったし。それにどうしてあんなのが江梨花と一緒にいるんだ」
「ウチに近づけなければいいだけよ」
どうにも幽香の様子がおかしい。なんて立ち止まったハジメが考えていると、幽香はじろりと視線を送ってくる。
「それよりも私が聞きたいのは、この大回りの理由」
気になることはあれど、確かに現在の最優先事項は別のものだ。
「……あぁ。実は、ちょっとあって」
「ちょっと、ですって?」
幽香が怪しむのも何ら不思議なことではない。
コトを起こす前にちょっと一呼吸入れるつもりが、気付けば小一時間近所をぐるぐる回り続けていた。その間にあたりに吹き渡る風は大分湿り気を帯び、遠くの空にはいくつも黒雲が流れてきていた。
「そこ、ちょっと座っていこうぜ」
これまた見覚えのある貯水池のほとりのベンチをハジメは示した。
「今度のちょっとは短く済むといいのだけれど」
「俺と二人っきりがそんなにイヤかよ」
「ふふ。意地悪言ってごめんなさい」
荷物を下ろすのを手伝ってくれながら、
「本当は嬉しかったの」
何気なく本心をさらけ出されるとかえってハジメは困る。嵐の予感に波立つ銀色の水面を二人で眺める。
「この分じゃ台風、やっぱり直撃かな」
「庭の畑が心配なのよ」
どれそれの苗がこのくらい伸びたのよ、と我が子の成長のように幽香は語る。彼女の頑張りを毎朝こっそり確認していたハジメも内心では庭の変遷がここのところの楽しみであった。
「あの荒れ地が今やご近所あこがれの園芸博覧会だからな。ホント、植物に対するお前の情熱ってつくづく底が知れないっていうか」
「困ったものよねぇ」
遠回しに褒められると、くすぐったそうに両肩を抱いて幽香はくすくすと笑い声を漏らした。こういう時の幽香は実に女の子らしい笑顔を見せる。
「ありがとな」
「別に好きでやっていることだから」
「本当、お前にいろいろ世話焼いてもらっているのは分かってんだけどさ。ついつい礼を言いそびれちゃって」
そろそろか。
ハジメはポケットの中でそれを握りしめた。これまで相棒だった五円玉とはまったく違う。穴の開いた、というよりも穴そのもの。
「バレンタインデーも結局言わずじまいだったしさ」
「あ、あれはただの意地悪だったのよ?」
焦ったように身振りで否定して、幽香はハジメの顔を覗き込んだ。
「知ってるよ。まぁ量はともかくおいしかった。鮭はいただけなかったけど」
おかげで未だに食事に鮭が出る度、何もなくとも恐る恐る幽香の顔色をうかがうようになってしまった。
「そんなに素直にお礼を言われちゃうと。なんか、毒気を抜かれちゃうわね」
そこまで口にしておいて、実際のところ幽香は毒気マックスだ。
ここまでの不意打ちの連続のお返しに、もう一つハジメを困らせてやろうと思ったのかもしれない。
「それじゃ、こうして絶好のタイミングを前に、ハジメからもそろそろお返しのプレゼントがあるって考えてもいいのかしら」
「俺がそんな上手な気の遣い方できたためしなんて一度も無かったろ」
ま、そりゃそうよね、と。
水面から飛び立った数羽の鴨に目をやりながらの呟きは少しだけ残念そうな響きがあった。そんな風に肩をすぼめられたことはハジメにとって確かに癪であるが、この後最後のサプライズをかましてやることを考えると、溜飲は自然下がった。
「だからこれが最初になる。見ろよ!」
ざまあ見ろとばかりの不敵なほそ笑みを浮かべてハジメがベンチから立ち上がる。そこでポケットをごそごそやるうちに、だんだんと彼の表情から余裕は失せて行った。
「あ、あれ。ちょっと待って、なんかどっかで引っかかって」
「うふふ。一体何かしら」
この長い買い出しの間中、きっとハジメはいいロケーションとか、いいセリフとかを考えていたはずで。その準備もいざ本番になるとご覧の有様。
そういうところが彼らしくて、悪いと思いつつも幽香は笑ってしまう。
「大きいものかしら?」
「違う。むしろ結構小さいと思う」
「食べられる?」
「あんたならできそうだな。でも、一般的にはノーだ」
「もう。何よそれ」
唇をとがらせつつ、なんだかんだで幽香も自然胸を高鳴らせて待つ。
この最高の日の締めくくり。それをもたらしてくれるのがハジメであることに、不思議な安堵を覚えていた。
「それじゃあこのくらいで間に合うかしら」
水を受ける様に、幽香が両掌を差し出す。
「あぁ。大丈夫」
そこにハジメも拳を重ねる。
やがてそこからこぼれ出した鈍い銀の輝きに、幽香は束の間目を奪われた。幅広の指輪に施された優美な刻印。地上の太陽に例えられるあの花。
「あんたがいてくれて、本当に助かってる。もう一度ありがとうを言わせてくれ」
子供の誕生日に本物のロケットだかスポーツカーだかを枕元においてやれば、似たような顔を拝めるだろう。しかしハジメの満足気も長くは続かなかった。
「教えて。これは、一体どういう意図の贈り物なのかしら」
彼女の問いかけの真意をはかりあぐねてその顔を見たハジメはぶん殴られるような衝撃を覚えた。眼前の水面のように揺れ動く彼女の赤い瞳。その中に淀む感情は、決して風見幽香には存在しえないと考えていたものだったからだ。
「どうもこうも、ただのプレゼントだよ」
冷や汗タラタラで言うそばから、あぁこれやっちまったなという冷静な分析が脳裏をかすめていく。
「本当に? 男の人は、こういうものをいずれ殺す相手に贈ったりするものなの?」
「それは」
「教えて。これを受け取ったら私は。というか私達は一体どうなってしまうの?」
信じられないことだが幽香は恐れていた。鶴見ハジメがこれから下そうとしている決断を、心底から恐怖して、遠ざけようとしていた。
「か」
口の中がカラカラだ。
上あごに張り付く舌をひっぺがそうと苦心していると、通りすがりのマラソンマンが舌打ちをかまして去っていく。確かに傍目には幸せ極まり切った二人のやり取りにも見えるのかもしれないが。
「か、か――――」
もう一度。
「勘違い、するなよな」
確かな敗北を覚えつつ、ハジメの口はマシンガンのように嘘を吐き連ねていく。ポケットの中に残していた、かたわれの指輪から静かに指を引き抜く。
「そんなことくらいちゃんとわきまえてるって。これはその、本当、ただの気持ち、なんだけど……」
「そう。それじゃあ、気持ちだけ」
柔らかに笑って幽香は指輪をハジメに返した。彼が何か言い出す前に山のような荷物を軽々持ち上げて背中を向ける。
「こういうのは、大事な人にあげなさい」
そして大事な人は殺せないものだ。
「主役がこんなに席を立っていたんじゃ失礼よね。先に帰るから」
そうやってさっさと行ってしまう彼女を見送るのはこれが二度目だ。
高架上で太陽の力を呼び覚ましたとき、確かにハジメは生まれ変わった。ヘタレの殻に風穴を開けてやった。しかしこうして思い出されるのがあの時の決意ではなく、浜辺の波音と砂の味だというのは、どうしたことやら。
「…………ええい、クソっ。結局このヘタレは何も変わっちゃいないじゃないかよ!!」
自分への怒りをぶつけるために選んだものはそれまで尻を預けていたベンチだった。
ヘナチョコ蹴りをくらわしてもそいつは幽香同様にハジメが望むような反応はしてくれなかったし、かわりに爪先からぺきょんという情けない音が響く。
「があぁ。畜生め!」
激痛を走らせる爪先を抱えて飛び跳ねながら、次にハジメが目をやったものは貯水池。そこへ指輪を二つとも振りかぶって。
「クソ」
振りかぶったままの姿勢でよろよろと後ずさって、ハジメはベンチに腰を下ろした。
「霊夢、好きなようにやるのって、意外と大変なんだな」
彼女は幽香と違って出来ない子にはとことん厳しく出るタイプだろう。
じんじんという足の痛みにかつて彼女から食らわされた電撃を思い出して力なく笑う。ベンチの背もたれに首を預けて空を仰いだハジメは、そこに見慣れた姿を見出した。
「まっすぐ帰ろうと思ったんだけど」
同時に、そこに絶対あってはいけないはずの姿だった。
「ハジメもあの女も、見ていてヤキモキしちゃったよ。頭かったいんだから」
「お前。どうして」
彼女とは小さいころから一緒だった。
ヘタするとすぐ不幸に巻き込まれてしまうハジメと、まっすぐゆえにすぐ暴走する雪之丞。二人の手綱を取るのは、一番マトモな彼女を置いて他にはなかった。
「おーちゃん、ここでおろして」
歳と見た目の割には落ち着きがあり、たまに老獪なまでに頭がキレる。
抱えて空から舞い降りた従者が地面にそっと彼女を下ろす。一番マトモで、一番賢くて。おおよそ非日常なんてものとは一番縁遠いはずだった、友人を。
「江梨花」
「プレゼント、ちょっともったいなかったね」
返す言葉すら失って立ちすくむハジメ。
腕組みした江梨花の背後に控えるのはおーちゃんだ。吹きすさぶ風に黒髪と、そして背中からせり出した一対の翼がたなびいている。感情の読めない目でひたすらハジメの動きを追う様には、猛禽を思い起こさせるものがあった。
「へった」
その瞳が輝いた瞬間、江梨花が勢いよく右腕を引いた。がしゃりと金属音を立てて見えない何かが宙で張りつめるのと同時に、不満そうに唸りをあげておーちゃんが地面にしりもちをつく。
「あんたが食べていいのは怪異だけ。とはいえ、こんなん間違えても仕方ないっちゃ仕方ないかなぁ」
背中に光の環を背負った人間なんてそうそういたもんじゃない。
一呼吸に十とも百ともつかぬ標的を正確無比に撃ち抜く弾丸をすべて向けられても、江梨花はまったく動じなかった。
「えりちゃん」
おーちゃんが身を乗り出した。
「大丈夫だよ。こいつ人は撃てないだろうから」
その間も江梨花は右腕の調子を見ている。まくり上げた腕に刻まれた大小の傷に混じってうっすら浮かぶものは刺青ともアザともとれない、絡みつく蛇のような影だ。
彼女のただならぬ様子と相まって、ハジメは手を出しあぐねていた。
「今日のあんたの様子でよく分かったよ。あの妖怪、限界が近いんでしょ?」
「それを教えてどうなる」
「助けてあげるよ」
思いがけず江梨花の口から飛び出した言葉。
「おーちゃんは数えて四十年前に正気を失ってる。でも今この子を見てどう思う?」
彼女の差し出した手に甘えるソレ。幽香の言葉を借りるなら妖怪未満の何者かは多少頭に問題はあれど、これまでハジメが組してきた怪異のなれの果てに比べれば驚くほど『正常』だ。
「気になるよね」
一体自分がどんな表情で江梨花を見ていたのか、ハジメには分からない。江梨花は未だ身構えたままのハジメに一言、
「わかるよ」
とだけ残しておーちゃんに手招きする。
「この町で忘れられたものたちが行き着く場所。私はそこで待ってるよ。いつまでもね」
再び江梨花を抱き上げたおーちゃんが夜空のように巨大な翼を広げるのと、ハジメの思考能力が再起動するのは同時だった。
「四十年前、だって?」
胸騒ぎがする。
大きな大きな黒い鳥は、アーケード街の方へと飛んで行ったようだった。
第十八話『あなたは私とどうなりたいの?』おわり