「俺の能力があればだな、一発でどかーんとだな」
「そうねそうね。ハジメは何も悪くないわね。私が強すぎたわね」
あれから三時間にわたって繰り広げられたすったもんだの結果は惨憺たるものだった。ちなみにハジメが実際に戦っていたのは僅か半刻のことで、残りの時間は呆然としているか痛みに悶えているかのどちらかだった。
そんなこんなで時間だけが過ぎ、二人は夕暮れのアーケードを歩く。
この時間の小腹にはたまらない揚げ物の匂いに何度も足を止めつつ、ハジメは幽香の後を追う。
「はい、ハジメ。いっこあげるわ」
「どうしたんだよ、これ」
「さっきお肉屋さんでもらったの。サービスだって」
毎日の献立に凝る彼女が足繁く通ったおかげで、すでにこのあたりで幽香はちょっとした有名人だった。そうしている間にも彼女は何件かの店の軒先に人のいい笑顔で手を振り返している。
そうしていると、見る見るうちに彼女の抱える惣菜の山が大きくなっていくのだった。
『鶴見さんちの綺麗なお嬢さん』の数歩後ろでハムカツサンドをかじりながら、ハジメは自分がどう見えるのかと考えてみる。下僕か、追っかけか、それとも単なるオプションに過ぎないのか。
「男なんだから、少しくらい持ってよね」
言われるがままに買い物袋と貰い物を引き受けていると、青年自身でも小間使いになってしまったような気がしてならない。そんな傍目の力関係が嫌で、ハジメは幽香に歩調を合わせる。
「お前どこから来たんだ。どうして半年なんだ。どうして俺があんたを殺さなきゃならないんだ」
ちらりと横目にハジメを見て、幽香は自らの唇に指を這わせた。
「それはご褒美にしましょうよ」
「なんだって?」
「ハジメがしっかり成長してくれたら、答えてあげるわ」
ミステリアスな方が、女って素敵でしょ。嘯いて幽香は上品に笑ったが、自分の命がかかっているハジメとしては全く笑えたものではない。憤然としてついてくる彼を見て、幽香はまた何が嬉しいのか足取りを軽くする。
「でも最後の一つについて答えるなら、嬉しかったからよ」
「わからん。おまえの神経が理解できん」
「だって私の故郷にはふざけても『お前を殺してやる』なんて言ってくれる人はいないのだもの。期待したくなっちゃうじゃない」
うっとりと呟く幽香を見つめて、ハジメはげんなりと肩を落とした。やはり、彼女の思考は常人のそれとはいささかズレた場所にあるような気がしてならない。
言葉は通じているはずなのに、時々異国の人間と話しているような錯覚を覚える。
「うわ」
ぼんやりと思考に浸って歩いていると横からぬうっと犬の顔が現れたので、思わずハジメは飛び退いていた。
「くうん」
ふと気を抜いてしまえば見過ごしてしまいそうなほどの細道から、骨と皮ばかりに細った犬が上半身だけを覗かせているのだった。
「な、なんだ、お前。野良か」
飢えた視線はハジメの持つ惣菜に向いていた。ねだるような視線に耐え切れなくなり、ついつい食べかけのサンドイッチを放ってしまう。よほど腹が減っていたと見えて、野良犬は一心不乱に食いつきはじめた。
「よしよし。よっぽどハラ減ってたんだな」
その言葉をどう受け取ったのか、犬はぺろりと舌を出して首をもたげた。犬がハジメの手に触れる寸前、幽香が鋭くローファーのかかとを鳴らした。
犬も、ハジメも、身を震わせて彼女を見上げる。
「ねぇ、どうせならもっともっと弱い相手と戦ってみるのはどう?」
彼女の双眸はただ静かに、痩せ犬を見据えている。怯えたように鼻を鳴らして、犬は再び暗がりに消えていく。
それだけで、ハジメには彼女が何を考えているのかは察しがついた。
「マジで言ってるのか、お前」
ひたすらに、女は無言だった。
まるで視線が吸引力をもっているように、うっかりと目を合わせてしまったハジメはそこから視線を逸らすことができなくなる。
どれくらいの時間が経ったのか。つい足が竦みそうになった頃、幽香はふっと口元を緩めると、冗談めかして笑った。途端に薄ら寒い空気がゆっくりと解けていくのが分かる。
「なんてね。ちょっと町のゴミ掃除でもしようと思っただけよ」
「ゴミ掃除って」
路地の奥にはうっすらと輪郭が見える。犬は地面にぺったりと腹を付け、小刻みに震え。まるで嵐が過ぎ去るのを待っているかのようだった。
「にしてもエサだなんて、褒められたものじゃないわね」
「野良犬を叩き殺すのは立派なことだってのか?」
トゲのあるハジメの物言いにも幽香は眉一つ動かさない。
「そうは言わないけれどね。でも、変な情けは控えておいたほうがいいわ。こういうのが家までついてきたら、きっと大変なことになるわよ」
「厄介者なら一人で十分だもんな」
今度はハジメが先に立つと、家を目指してさっさと歩き始めるのだった。
「ねぇ、ちょっと」
とにかく彼女の話を聞いていると気分が悪くなりそうだった。さっさとその場を後にする青年の後を追う幽香の背後で、あの犬はまた路地から顔を出してハジメを見つめていた。
「くうん」
◆◆◆
「おかえりー」
荷物を抱えてリビングに入ると、すでに風呂に入った千晃がタオルを被って雑誌に目を落としていた。
「あにき、あのメール何かあったの?」
「何も。学校から電話とか、ないか」
「ううん。あ、そういうえばお父さん遅くなるって」
どうやら無断下校はまんまと見過ごされてしまったらしい。
台所に立ったハジメが冷蔵庫を開けてドカドカと無秩序に買い物を突っ込んでいくと、隣から手を伸ばした幽香が、器用に欲しいモノだけを抜き出していくのだった。
「今日の晩メシ、何」
「そうねえ。寒いしお肉あるしで、煮込みハンバーグなんてどうかしら?」
返事の代わりにハジメは幽香に買ったばかりの挽き肉のパックをぶっきらぼうに渡してやる。幽香はそれを受け取って鼻歌混じりに仕度をはじめる。
「すぐ作っちゃうから、待っててね」
と、彼女にぴったりくっついて離れないのは千晃だ。
「危ないわよ」
まとわりつかれて、幽香は包丁を置いた。千晃はそんなのお構いなしとマイペースに甘え続ける。迷惑そうな顔をしつつも決して振り払わないのは幽香の優しさなのか、それともやはり演技なのか。ハジメには判別がつかなかった。
「お姉ちゃん、いい匂いする。花の匂いだ」
背中に鼻面を押し付けられて、幽香は困ったように笑ってハジメを振り返った。その背後から威張るような笑顔で覗き込んでくる千晃。
「あにき、羨ましい?」
「何がだよ」
どことなく居場所の無さを感じて、ハジメはリビングへと戻ってくる。ソファの上に置かれた千晃の携帯やら雑誌やらを邪険に床へと蹴落とすと、テレビのチャンネル廻りを始めるのだった。
「お、やってるやってる」
地方の局では未だに例の建設現場での爆発事故について取り上げていた。必死の原因究明は難航。事故か、はたまたテロなのか。不安を煽るようなテロップとアナウンサーの必死ぶりも、どうしてか今はハジメの心を上滑りしていく。
そうして焦点を合わせずに画面を見つめていると、湯気の立つ皿が次々とテーブルに運ばれてくるのだった。
「む」
一口食べて、ハジメは思わず声を漏らしていた。まるで魔法でも使ったように短時間で出来上がったハンバーグは、信じられないくらい美味かった。
気付けば皿は綺麗になっていて、代わりに向かいから期待の目で見つめてくる幽香がいた。
「どう?」
今までにないハジメのリアクションに、幽香が隠しきれない興奮を滲ませている。答えあぐねる兄へと千晃がちらりと視線を送ると、噛み付くように吐き捨てた。
「ほんとさ、こんな意地っ張りの相手なんてしなくていいんだよ」
「だって悔しいもの。それに、ハジメみたいな意固地を『うん』って言わせたら気持ちいいでしょ?」
「お姉ちゃんって変わってるよね――あ、いいよ、今日はアタシが片付けるからさ」
椅子から腰を浮かせた幽香から、千晃はお盆を奪い取った。
「そう?」
普段の千晃が手伝いを自ら申し出ることは少ない。
それだけに幽香は一瞬不思議がる素振りを見せたが、素直に後始末を任せるとリビングを後にした。
「お姉ちゃんに何か恨みがあるワケ?」
実の妹である。彼女の振る舞いから、こうした話が来るのだろうとハジメは予想していた。
「ある」
だからこそ即答する。大げさに呆れてみせる妹のリアクションもとっくの昔に頭の中で再現済みだ。続く言葉も用意してある。
「あの女のどこがいい?」
どうせきれいだから、とか。飯がウマいから、とか。そんな答えが飛び出してくるのだろうと踏んでいた。
「部屋から連れ出してくれたから」
それだけに、やけに真剣ぶった面持ちで妹が口を開いた瞬間、ハジメは驚きを隠せなかった。そして、その言葉にも。
「お姉ちゃんを好きになった理由なんて、それだけだよ」
馬鹿にした笑いを繕って、テーブルを立つのが精一杯だった。千晃は逃げるようにリビングを後にするハジメを罵倒するでもなく静かに片付けを始めるのだった。
「まいったな」
脱衣所のドアを閉めて、ハジメは思わぬ反撃に跳ねた心臓を落ち着かせていた。もちろん千晃が引きこもった後、彼が手を出さなかったわけではない。
「あいつ、一体何をしたんだか」
父とハジメで手を尽くしてそれでも部屋にこもったままの千晃を、幽香はたった数日のうちに引っ張り出してしまったのだ。
とにかく波乱の一日をなんとかやり過ごしたという安堵感が警戒心を完全にオフにしていた。ろくに脱衣所のカゴも確認せずにすっぽんぽんになると、風呂場の扉を開け放つ。
「お」
「あ」
それが三度目の間違いだった。
◆◆◆
「反省なさい」
リビングにて。ソファの上、ぱんぱんに頬を腫らしたハジメに、寝巻きに着替えた幽香が氷のうをあてがっている。彼女が咄嗟に繰り出した一撃の威力は尋常ではない。唇の端は切れて、固まりかけた血がこびりついている。
「首がすっとんでないだけありがたく思うことね」
「悪いのは俺じゃない。お前が無用心だからだ」
敢えて言うなら湯けむりが邪魔だった。そうでなければせめて地獄から鬼の首一つ持って帰れたものを。今回ハジメはただの見せ損であり、殴られ損であった。
「あなたが悪い」
「お前が悪い」
「あなた」
「お前」
「……ふん、だ」
ぐいと氷のうを押し付けられて、ハジメは呻いた。
肩をいからせてリビングから去っていく幽香の後を追いかけていくのは千晃だ。実兄よりも義理の姉にべったりの彼女は、ここのところよく幽香と同じベッドで寝起きしている。
「ばかあにき」
言い返そうにも、ハジメが風呂覗き犯であり、露出魔であることに変わり無い。
「けだもの」
ここぞとばかりに追い打ちをかけると、彼女は騒々しくドアを閉めて出て行ってしまう。リビングにはしんとした静寂が訪れた。
「お前が、悪い、間違い、なく!」
足音が遠ざかるのを確認してからドアに向かって無意味に凄んでみるが、当然答えなど期待できない。
すぐさま二階の自室へ向かおうにも途中で幽香と千晃に出くわすのはどうにも具合が悪いように思えて、仕方なしにソファに体を沈めた。妹が使ってそのままだったひざ掛けを引き寄せ、布団がわりに被る。
「死ね」
天井を見つめ、そこに殺すべき相手の姿を描き、指を伸べる。
やはり『能力』が現れることは無い。幽香の前では強がってみせていたが、正直なところ、ハジメの心は早々に折れそうだった。
彼の能力は眠ったままで、おまけに風見幽香には指一本触れることができない。
仮に何かの奇跡がもう一度起きて例の指鉄砲が使えたとしても、風見幽香を打ち倒す想像すらできなかった。
「あんなバケモノ、俺に殺せるのか?」
壁にかけられたカレンダーへ視線を移す。
数日後についた大きな赤マルに、三者面談の文字。今までのハジメは父の仕事が忙しいことを理由にこうしたイベントからは逃げてこられたが、今度ばかりはそうもいくまい。
担任の老教師からは『例え一人でもいいから来い』と、言われていた。
進学か就職か。それ以前に、翌年五月に立ちはだかる巨大すぎる壁。その影に隠れて、将来像なんて、とてもじゃないが見通しがつかない。
「あいつを連れてって『コレが俺の進路です』って言ったら、センセー笑うかな」
やけっぱちな笑いを漏らして、ハジメは目を閉じた。幽香たちが寝静まるまで少し休むだけ。そう決めて呼吸を落ち着けるうち、すとんと眠りの中に落ちてしまうのだった。
深い寝息を青年が立てはじめた頃合を待って、リビングに現れたのは幽香だった。
「風邪引くわよ」
彼女は持ってきた毛布を広げると、ハジメを起こさないようにそっと掛ける。首元まで毛布を引き上げた瞬間、ハジメは小さく呻いて寝返りを打つ。肩を震わせた幽香はしばらく動きを止めると、彼の様子を伺った。
ハジメはやがて、元通りの寝息を立て始める。
「び、びっくりさせないでよね、もう」
ほっと一息ついて、幽香はハジメの枕元に腰を下ろした。
まじまじと、その顔を見つめる。
彼女の面持ちからではまったくその意図を読み取ることはできない。ハジメが思うように、やはり彼女は血も涙もない、人の皮をかぶっただけの怪物なのかもしれない。ただ、
「おやすみなさい」
リビングの明かりを消して去ろうとして、彼女は一度振り返った。
その目はどこまでも優しい。
◆◆◆
それは長らく鶴見家の前で、すべての部屋の明かりが消えるのを辛抱強く待っていた。そして、ようやく訪れた沈黙の中でゆらりと立ち上がる。
「くうん」
街灯の下に現れた、まるで骨と皮しか無いようにやせ細った犬。その体がふわりと不自然に浮いた。ぶらぶらと揺れる前足の向こうには何もない。まるで、下半身をまるごとどこかに置き忘れてきてしまったように。
「くうん」
結局、この日一番の間違いは何だったのだろうか。
それを知る者はこの場にはいない。どこまでも犬のようで、決定的に犬とは言えないソレが去った後には黒々とした闇が立ち込めているのみであった。
第二話 『あなたのことが知りたいの』 おわり