ぱちぱちと木が爆ぜる音がした。
石畳の上に横たえていた体を持ち上げると、あちこち酷く痛む。手かせのついた手で顔を拭うと、べっとりと血がついてきた。
『終わりました』
まるで、秋の早朝に弓の弦を鳴らしたような凛々しい声だった。
山伏めいた戦装束に朱の高下駄。ただでさえ高い身の丈を越える大太刀を携えた女の背中には黒い翼が畳まれている。人間ではない。天狗だ。
そして、彼女の奥。炎に包まれた寺院の前には真っ赤な肌をした鬼が顔面を割られた姿のまま、仰向けに倒れていた。
『とにかく今回も生き抜きましたね。さぁ、立って』
差し伸べられた手と言ったらひどいものだ。皮がはげ、血がぬめり、折れた骨が皮の下でうごめいて再生しつつある。かつて英雄と呼ばれた彼女でも、この戦いは歯ごたえのあるものだったのだろう。
『もういやだ』
お仕着せの巫女装束に身を包んだ少女は体を丸めた。
『いやだ、とは?』
『どうして私ばっかりがこんな目に遭わなきゃならないの』
『それは、あなたには特別な力があるからでしょう』
『他の女の子たちは普通に遊んで、恋をして、自由に泣く権利も笑う権利もある……私には何一つない』
静かに嗚咽した少女を前に、護衛の天狗は腕組みした。
『きっと世の中はそんなものですよ』
そんなことを簡単に認められるほど、少女は大人ではない。しかし口を開いた彼女の口から泣き言が飛び出すよりも早く、怒りに満ちた叫びが大地を揺るがした。本堂から燃える瓦が滑り落ち、石畳がガタガタ鳴る。
『おやおや。それでも動けますか』
不自然に顔を傾けた赤鬼が、燃える柱の一本を金棒代わりに立ち上がる。この廃寺に住まい百年にわたって疫病と死を振りまいてきた業鬼はそう簡単にはくたばってくれない。満身創痍の天狗は太刀を鞘に納めたまま体を浅く沈める奇妙な構えを取った。
『特別な力を持ったばかりに寒村の小娘が守護者に仕立て上げられる。一族の汚名をすすぐために果てない戦いに駆り出される。世界はそんな風に、いつだって理不尽に出来ています』
涎と血を顔面から迸らせながら鬼が迫る。
『ですが』
その巨体は疾走の中でバランスを崩し、前かがみに倒れて石畳を滑った。天狗が刀を抜いていた。あまりに早くて、空中に走った銀の線が太刀筋であることに気付くまで時間が要る。
『ですが歩み続ける限り、こんな残酷な世界とだって渡り合えますよ、江梨花』
ごろりと転げる鬼の首を尻目に、彼女はもう一度少女に手を差し出した。
『あなたの代わりに、その一歩目はボクが踏みましょう。さぁ、立って――――』
「えりちゃん!」
壁にもたれる形で眠りに落ちていた江梨花は、おーちゃんに揺すられて目を醒ました。
「あー、寝てたか。随分懐かしい夢を見ちゃった」
背伸びをしながら立ち上がって、江梨花はおーちゃんの見つめる先へと視線を馳せた。相棒は随分といいタイミングで起こしてくれたようだ。
「ようやくだね、ハジメ」
◆◆◆
商店街の入り口に自転車を乗り捨てて、ひたすら歩く。
蛇のようにのたくる路地を最後に抜けたのはいつだろうと考えた。
無秩序に生えた標識の森と腐りかけの垣根やら廃車を乗り越えるうちに豪雨は嘘のように小降りになり、やがて生ぬるい風の吹き渡る空に黄ばんだ月が現れた。
「つくづくワケわかんねえよな、ここは」
F市の駅前。商店街の路地裏にひっそりと存在するこの小世界を、誰がいつ、なんのために作ったのか。
「だから、とりわけワケのわかんないものばかりがここに集まる。怪異ホイホイとでも言った方がいいかな」
その疑問に、ようやく答えが出そうだった。
「なにはともあれようこそ。忘れられたものたちの終着駅へ」
月下。
傾いだアパートの屋上にその声の主が佇んでいた。見覚えのある深青のドレスの裾が風と踊る。
「ちゅん」
次いでその背後。一対の黒い翼を携えた怪異が降り立つ。
千晃と遊んでいる時とは打って変わって得体の知れない気配を放ち続けるそいつに内心で慄きつつも、大路に出たハジメは落ち着き払ってビニール製のレインコートを脱ぎ捨て、彼女たちを見上げた。
「幽香を助ける方法を聞きに来た」
「あんまり驚かないんだね」
アパートの屋上から身を躍らせた女を、黒羽の怪異が空中で抱き留める。そうしてぺんぺん草がところどころに頭を出した舗装に降り立った彼女の背丈はハジメと大差ない。
「まあな。江梨花なんだろ?」
そうして女が浮かべた、ぞっとするくらい大人びた微笑。それでも彼女には、幼馴染の面影が残されていた。
「昔から、お前は異常なくらい普通だったな」
ほころびは昔からあった。
遊園地でしこたまどやされた時、三者面談のとき、彼女には迎えに来る親がいなかったこととか。いつも帰る時はこの路地裏に引っ込んでいくこととか。誰も彼女の苗字を知らなかったこととか。
その上で誰も疑問を口にしなかったということ自体が、彼女が普通でないことのなによりの証なのだろう。
「教えてくれ。お前は一体誰なんだ」
「ハジメのトモダチのエリカ。ついでにこのF市の守護者を、かれこれ三百年くらいやってる」
「さん、びゃく?」
スケールが大きい話に思わず立ちくらみを覚えたハジメの前で、エリカは声を上げて笑った。
「最初はこの世界での隠れ蓑代わりに近づいたんだけど。やっぱり友達ってさ、居心地いいよね」
そこでエリカはハジメの視線の糸をたぐった。その向かう先が、自分ではなく背後に控える黒羽の怪異であることに気付いて、彼女は頷いた。
「じゃあ本題に入ろうか。ずっとまえに狂ったこいつを、どうして今の今まで留め置くことができたのか」
エリカは近くのベンチを示した。
古い駄菓子屋の店先にあるような、錆の浮き出た真っ赤なベンチ。コーラのロゴが白抜きで入っている。
「いや。このままでいい」
「そ。オッケー」
首を横に振ったハジメを前に、エリカは気を悪くするでもなく腰をベンチに落ち着けた。
「そもそも妖怪変化が狂って消えていく原因って、ハジメは知ってるかな」
「この世界から忘れられて、いくから?」
とある妖怪の賢者に言われたままを答えると、耳元で彼女の『よくできました』が聞こえたような気がした。
「そう。予習はバッチリみたいだね。本題はここから。そういうわけで狂った怪異はいずれ完全に消えて無くなる。こればっかりは私の能力でもどうしようもない」
「おなかへったよお」
自分の指をしゃぶり始めた相棒の頭をどついて、江梨花はため息をついた。
「要するに失われていく幻想は、よそから調達すればいい。手っ取り早いのが文字通り喰わせることってワケ。そうすれば存在を保つことはできる。あとは」
江梨花が傷だらけの右腕を振るう。じゃらりと音を立てて、この瞬間まで不可視であったそれらが現れた。
「それは鎖、なのか」
月光を受けて冷たく光る鎖の先端は、海中を漂う藻のようにゆらゆらと宙に揺れている。もしくは闇から獲物を狙う毒蛇か。いつしかおーちゃんの体にも同じ鎖が巻き付き、がんじがらめにしていた。
「私が持つのは『惹き留める程度の能力』。たとえ狂気の間際だろうと、関係なく縛り付けて留めることができる」
公園で襲われかけた時におーちゃんを縛ったのも、この鎖なのだろう。手におえない狂犬のように、エリカという杭と、能力という鎖でぐるぐるに繋がれて。
「ハジメが私に協力してくれれば、あの女を助けてやってもいい」
「……俺にできることなんてあるのか?」
「もちろん!」
あいまいな表情で佇むハジメの手を、勢いよく立ち上がったエリカが捕まえた。
「そうと決まればこれから忙しくなるよ。でも大丈夫。大変なところは全部私がやるからさ。なんかテンションあがっちゃうよ」
きらきらと目を輝かせて、現代の守護者は外見相応の少女らしいしぐさで喜びをかみしめていた。目の前の青年との温度差にも気づくことなく。
「なにせ私、ずっと一人でやってきたから。おーちゃんはこの通りくるくるパーだしさ。あぁ、ほんと、嬉しいな」
「そうだな」
しかしハジメは冷淡に手を払って踵を返す。
「え、ちょ、ま、待ってよハジメ。あの女を助けたくないの?」
ずっと一緒に幽香と居られる。
それは、本当に、涙が出るほどうれしい。しかしそれだけではダメなのだ。エリカには、ハジメの願いの半分しか見えていない。
「助けたいさ。だけどお前の言う方法と、俺の考える方法はだいぶ違うみたいだ」
取り残されたエリカは正真正銘の必死だ。そして、困惑している。そのモヤモヤがどこか埃くさいこの世界の中で渦巻いて――――やがて、ハジメの背後で恐ろしい敵意として爆発した。
「行かせるか」
ひどく大きなものが風を切る音がした。
「いっ、てぇ!」
攻撃と防御の要である例の日輪を展開しようとしたときには、既に両腕を抑え込まれていた。
「ちゅん」
みしりと音を立てるハジメの腕などお構いなしに、頭上から覗きこんできた黒髪の美女。見覚えがある。江梨花や千晃が『おーちゃん』と呼んでいた怪異だ。
「離せよ。おい、聞こえてんだろ!」
「ダメだよ、絶対に逃がしちゃダメ」
おーちゃん、つまり黒羽の怪異がどちらの要望を聞くかなど、言うまでもない。
「サイアク文字通り手も足も出なくしていいよ。ただし、殺すのはナシだ」
「ちゅん」
「ぐええっ」
喉笛を掴んで持ち上げられたハジメはひどい息苦しさの中で黒羽の怪異を睨み付ける。ばたばたと暴れる足は、次第に勢いを失っていく。
不意にエリカが空を仰いだのはその時だ。
「きたね」
西の空。一つの星が異様にまばゆく輝いた。
それは星なんかじゃない。ハジメには分かる。あの輝きに、何度も救われてきた。すぐそばの地面を熱線が貫き、驚いた黒羽の怪異がハジメを地面に落とす。
咳き込むハジメには猛スピードでこちらへ降りてくる幽香の姿が見えた。
「おーちゃん」
エリカがあごをしゃくった。幽香が降り立つよりも早く、黒羽の怪異が飛び上がった。
その巨大な翼が大妖怪の視界を奪い、鎖骨に叩き込まれた蹴りが彼女をひるませ、鋭い鉤爪が無防備な横顔を斜めに掻き切る。
「ウソだろ」
全て一瞬の出来事だった。
どちゃりと音を立てて血の海に倒れ込む幽香。その頭を鷲掴みにして掲げると、黒羽の怪異は吠え猛る。その美しさからは想像もできない、千羽のカラスが一斉に鳴いたような、不吉な声だった。
「さ、役者が出そろったところで、もう一度話し合おうか」
彼女の言葉に呼応して天が割れた。
数十年か、それ以上の時を隔ててこの隔離された世界の障壁が取り払われた。現れたのは雨風吹きすさぶ外界の姿――――いや、もっとひどい。町中を取り囲む黒雲と豪雨、そして風がこの一点に『惹き寄せられて』いる。
天を差した指先をぐるぐると回すエリカを見れば、ハジメにもここ数日の異様な天気の原因がどこにあるか即座に理解できた。
「遊んであげて」
エリカの言葉が生ぬるい雨粒と共に背筋に流れ込んだ。
ひときわ大きく吠えた黒羽の怪異が、無理やり立たせた幽香の顔面を打った。ぐったりとした幽香は受け身も足らないまま冗談みたいに吹き飛んでいく。まるで、人形のように。そうして、最強の大妖怪はごくごく平凡に圧倒されていったのである。
◆◆◆
「映像、主モニターに出ます」
F市のとある路地裏に存在する巨大な結界に囲まれた世界。それが数分前に跡形もなく消し去ると、万場はすぐさま衛星を手配し、輸送車に備え付けのモニターに映像を中継させた。
「い号とろ号、そしては号が一同に会するとは。なかなかの壮観ですね」
と、寺田。トレードマークである眼鏡は画面を反射し、その奥の表情は読み難い。
「戦ってるのか」
今井の言葉に万場が頷いた。モノクロームの画面に真っ赤なマーカーが四つ。
『守護者』と鶴見ハジメ。風見幽香。そしてあまりに早すぎるい号が爆発的な加速を行う度にターゲットを見失った四つ目のマーカーは途方に暮れたようにくるくると画面内を彷徨う。
「頭数を減らしてくれるなら好都合です」
「まぁ、そうだが」
い号の爪を受けたろ号が右肘から先を完全に失って、白と黒とのモザイクを映像にまき散らした。完全無欠と思われたろ号をこうまで圧倒するい号とは、やはり最強の怪異なのだろうか。
「残念ながら、あのくらいでは彼女を追い詰めることもできないでしょう。怪異というのはそういうものです」
「へ号はそうもいかなかったみたいですが」
それまで静観に徹していた寺田が口を開いた。
「狭間雪之丞――――番狂わせのへ号ですか。ろ号との対決で大分消耗していましたから。アレは吸血鬼と呼ばれる強靭な生命力を武器とする怪異ですが、さすがにい号との連戦には耐えきれなかったのかと」
モニター越しに繰り広げられる酸鼻を極める残忍な戦いに、今井は無意識に眉間にしわを寄せていた。モニターに目を向けたままの万場が、彼の内心を読み取ったように再び口を開いた。
「それと今井さん、あれらはあくまで人間の形をしているだけで、僕たちとは倫理観も思考様式もまったく異なるものです。変に感情移入すると、明日が大変ですよ」
「…………今さら言われるまでもない」
と受け答えしつつ、今井の脳裏によみがえるのは病院で自動ドアと戯れる彼女の姿だ。血も涙もない怪物には、とてもじゃないが見えなかった。
「あぁそうだ。寺田さん、その花、やはり処分がよろしいかと」
寺田は決まり悪げにグレースーツの胸ポケットに揺れる小さな花を撫でていた。かつて、風見幽香に接触した彼が渡されたもの。ふた月を経て、それは未だみずみずしく咲き誇っている。
「寺田さん。聞いていますか。その花は明らかに普通じゃあない。即刻処分でお願いします」
「あっ、ハイ。分かりました」
針で刺すような鋭さを秘めた万場の声に、寺田は弾かれたように顔を上げた。車内に待機していた防護服姿の隊員が差し出した金属容器にそれを収める彼は、明らかに迷っていた。
「いや、いい。後で自分で持っていきます」
そうして容器を寺田が奪い返すと万場は物言いたげだったが、すぐにモニターへと向き直っていった。
「花の一本にずいぶんと仰々しいんだな」
正確には仰々しいのはそれだけじゃない。
車内にあれやこれやと機材を詰め込んだこの輸送車といい、今しがた去って行った防護服の男たちが下げていた短機関銃といい。怪異同士の戦いを見守るにしては、あまりに装備が大げさすぎる。おまけに万場はこれらの手配をあっという間にやってのけたのだ。
異様だった。
「は号が動きましたね」
突如として『守護者』の面前でいくつもの火花がはじけた。
モノクロームの画面の中で懸命に走り、瓦礫の山を転げ落ちていく青年の姿を見る。一つ間違えば簡単に命を落とす、人知を超越した力のやり取りの中にその体を投げ込んでいくことを決意させたもの。ベテランの刑事でなくとも、それを察することは難しくない。
「きみは変わったな、鶴見くん」
彼の心中を察するうちに、今井は我知らず拳を固く握りしめていた。
◆◆◆
数世紀生きていようとエリカの肉体はごく平凡な人間のものだ。吸血鬼や他の怪異とは違う。長い付き合いでケガをする瞬間はいくらでも見てきた。
「手を抜く余裕があるワケ?」
全力で攻撃すれば文字通り彼女の胴体に風穴をぶち開けることができただろう。だが躊躇いのある弾丸は威力も速度も火遊びのようなもので、エリカが振るう鎖の束によって、それらは次々と叩き落とされていった。
「だッ! クソ、お前はそういうの、どうでもいいらしいな!」
鎖で背中を打たれたハジメは苦痛で足元をおろそかにする。更に彼の脚首を打った鎖が、その体を地面のくぼみにたまった泥沼に叩き落とす。
「強い怪異が必要なんだ。太く長く生きたようなやつ」
喘ぐハジメの背中を踏みつけ、エリカは勝ち誇った。
「その点こないだの鯨は理想的だったよ。ま、あんたらの大活躍で見事に喰い損ねちゃったけどね」
ハジメが黙ったままでいると、彼女は容赦なく彼を水中に沈めた。能力によるものか、それとも彼女自身の力によるものか、いくらもがいても細足は微動だにしない。
「ハジメが頷かなきゃ、あの女はおーちゃんの胃袋行きだ」
泥の中をさまよったハジメの手が、長らく沈んでいたソレを掴み取った。こんなものを幼馴染の足首に叩き付けることには抵抗があったが、手段を選んではいられない。
飛沫をあげて水中から現れたハジメの手には煉瓦のブロックがあった。エリカが目を剥く。しかし鈍い感触はいつになってもやってこなかった。
「サンキュー、おーちゃん」
もはやぼろきれのようになった幽香を放りだして、黒羽の怪異は数百メートルを一瞬にして駆けていた。
「うん」
半ばほどハジメを泥だまりから引き揚げた形で、黒羽の怪異は彼を抑え込んでいた。べっとりと幽香の血に塗れた顔。表情がまったく動かない。瞬きすらしない。
「やる?」
「うーん。残念だけど、そうしよっか」
黒羽の怪異の片足が、ゆっくりとハジメの右ひざに載せられる。濡れたジーンズ越しにゆっくりと圧力が増していくのを感じる。ひざ裏が嫌な予感に汗ばんだ。
「幽香!」
助けに行くはずだった相手にすがるなんて、なんて情けないんだ。
しかしその効果はすぐに現れた。
「いっ」
早いものが飛んできて、黒羽の怪異の横っ面で弾けたのだ。
地面に落ちた欠片で分かったが、それはハジメが握るレンガと同じものだ。威力こそ砲弾のようであったが。
「ったあああああぁぁ」
背後からハジメの襟首をつかんだ幽香の惨状と言ったら筆舌に尽くしがたい。対する黒羽の怪異は血の一滴も流していない。それでも、彼女はあっけなく崩れ落ちるとすんすんと嗚咽を漏らし始める。
「おーちゃん!?」
「ハジメ、潜るわよ」
落ち着いた幽香の声がハジメの耳を打つ。地面の感覚がなくなり、すぐさま浮遊感に襲われる。我に返ったエリカが鎖の網を手当たり次第に振り回す頃には、ぽっかりと地面に穿たれた穴に二人が姿を消した後だった。
「あああああん、ああああん」
理性を失った怪異は、それこそ子供の用になきじゃくった。
「あーはいはい。痛かった痛かった。次は油断しちゃダメだよ」
今のは不意を突かれただけの偶然だ。おーちゃんは最速にして最強なのだから。自分に言い聞かせながら、あやす手を休めて、エリカは地面の穴を見つめた。
「まさかな」
◆◆◆
頭を打ったらしい。音も、視界も霞がかったように遠い。
「ここならしばらくは大丈夫」
暗闇にぽつぽつと明りが灯るにしたがって見えてきたものはごつごつとした岩肌だった。等間隔で通路を補強する梁と、そしてひんやりと湿り気を帯びる、さびたレール。忘れられたものを呼び寄せるこの空間は、どこかの廃坑をまるごと引っ張ってきたらしい。
幽香の白い背筋には幾本もの赤い切り裂き傷。彼女の手によって放たれた花の夜光に照らされて、生々しい傷が異様なくらい妖艶だ。
「お前大丈夫か」
「静かに」
腹の底を叩くような振動がこの空間を揺るがした。
「探しているわ」
暫くして、揺れが遠のいてから幽香が口を開いた。その足元がふらりと揺れて、壁にもたれる。幽香に寝かされたまま、ハジメは静かに自分の呼吸を数えた。
「またお前に迷惑かけちまった」
「慣れっこよ」
嫌味っぽさもなく幽香は言い放って立ち上がる。はだけた胸元から視線を逸らすことをハジメが考える前に、彼女は彼の両頬に手を添えて、頭の傷の具合を検分した。
「血が出てる」
また、ヘタな冗談を口にしたのかと思った。
幽香が、残り少ない布地を更に切り離してハジメの頭に巻いていく。その指は血に塗れていた。それだけでなく、髪も、顔も、体も。
「久しぶりにここまでやられたわ」
度重なる破壊でついに修復が追い付かなくなったのだろうか。しばらく空っぽの右眼窩を抑えていた幽香は、再生したばかりの瞼を何度かしばたたかせた。
「どう?」
「あぁ。ちゃんと治ってるけど」
気持ちは重い。
不屈で最強の大妖怪、風見幽香。激動の四か月で揺るがなかった唯一のルールが、今崩れ去ろうとしている。
「あれは強い」
「でもお前の方がずっとずっと、何千倍も何万倍も強い。そうだろ?」
「どうかしらね」
まるで他人事のように幽香が肩をすくめた。
「なぁ。いつもいつも気になってたんだ。何でお前は、俺のためにここまでしてくれるんだ」
「あなたとは約束があるから」
「本当にそれだけ?」
そこで幽香は顔を反らすと、こほこほ血の絡んだ咳をする。それで、この話題は終わりになった。
「あなたは優しいから。優しすぎるから私を助ける方法があるとか、そういうことを言われて誘い出されたのでしょうね」
返す言葉がなかった。
「……ハジメは私のこと、やっぱり殺せないの?」
「俺は」
しかし口ごもったハジメにも、幽香は穏やかに微笑んだだけだった。頬に伸ばした手をゆっくりと下ろし、体を離す。この段になって、ようやくハジメの鼻が彼女の血の臭いを拾った。
「俺は、あんたを心の底から大事に思ってるんだ」
「そう。ありがとう」
と、天井を仰いだ幽香の様子はあまりに儚げだった。
「できることならあなたに殺されたかったのだけれど――――じゃあ、さようなら」
その言葉の意味が、うまく理解できなかった。
謎めいた幽香の微笑をただただ見つめることしかできない。
坑道の揺れが収まった直後、二人の頭上で天井が割れた。降り注ぐ岩塊と共に白い腕が現れ、カギ爪を伴った指が幽香を鷲掴みにする。
「やめろ」
瞬時に幽香を連れ去ったそいつに燃える指を向ける。瓦礫と共に顔面に降り注いだのは幽香のものであった肉片と血飛沫だ。彼がひるんだ隙を逃さず忍び寄った鎖がその腕をからめ、無理やり地上に引き摺り出す。
雨でぐしょぐしょになった上に無数の瓦礫が敷き詰められた地面に叩き下ろされて、ハジメは息を詰まらせた。
「ハジメ、もう一度。もう一度だけ聞く。私と手を組もう」
すぐ横にしゃがみこんだエリカが無感情に告げる。
念押しするように、ハジメをがんじがらめにする鎖の圧力が強まった。
「…………その前に教えろ。どうして今になってお前はそんなに焦ってるんだ」
「焦る? ,私が?」
視界の端。遠くで血飛沫が舞うのが見える。この瞬間も幽香がなぶり殺しにされていることを考えると気が気でないが、今のハジメには少しでも時間を稼ぐ必要があった。
「そうさ。なんでいきなり強い怪物が必要なんだ。俺たちと手を組みたいって提案にしても、お前にどんなメリットがあるのかサッパリだぜ」
「別に深い理由があるわけじゃない。エサは多いほどいいし、あんた達を引き込むことを考えたのはただ寂しかったから」
「へぇ。本当に?」
「クドいよ」
どどん、と遠い花火のような音が雨中に響く。にわかにあたりを真昼のように染めあげた閃光。立ち上る巨大な火柱と、紙屑のように吹き飛ばされる満身創痍の幽香が見える。遠く離れたハジメにも、その熱がじわりと伝わった。
「あれは――――そうか」
業火を纏った黒羽の怪異が咆哮した。
忘れようはずもない。己の身を焼き、秘めた力に覚醒するきっかけとなった炎の色を。四か月前。原因不明の爆発事故。飛び散るガラスと熱風の渦。風見幽香との出会い。ようやくすべての糸が一本に繋がり始めていた。
「お前の能力でもあいつを縛れなくなり始めているんだな」
青いドレス。大胆にのぞいた背中がこわばったのが分かった。
「だからお前はあいつが満足する、もっと大きなエサを探してやる必要があった。そうなんじゃないか?」
「驚いたな。ハジメってそんなに頭回るヤツだったっけ」
地平を走っていく炎の渦が小爆発する度に衝撃波がエリカとハジメをぶん殴る。束の間降り注ぐべき方向を見失った雨が、また思い出したように二人の髪を濡らし始めた。
「ご明察」
エリカは大きく肩を落として、ぽつぽつ話し始めた。
「アレは本当に間が悪かった。謝ってどうこうなる問題じゃないけどね。あの日私は完全に後手に回っていた。逃げ出したおーちゃんと、そして炎の中のあんたと。なにぶん予期せぬことで気が動転しててさ」
「強い妖怪の幽香がいることを嗅ぎつけてあいつが現れた、ってことか」
「あの時は分からなかったけどね。あいつが妖怪だってことすら」
ごめん。そういってもう一度エリカは頭を下げた。
「それは俺を見捨てて丸焼きにしたことか? それともこないだ、お前の相棒が千晃の頭を食い千切りそうになったことか?」
「ハハ。意地悪だね」
束の間よぎったあいまいな表情は間違いなく、十年来の友人である江梨花のものであった。だから、賭けてみることにした。ハジメは体を揺すった。節々が痛む。だが。
「エリカ、諦めろ」
「え?」
「この結界を見ろよ。もう、ここに寄りつく怪物なんていない。それどころか――――お前の言う怪異じたい、この世界では絶滅危惧種なんだぜ。たとえ幽香を喰おうが、それでおしまいだ。いずれお前の相棒は手に負えなくなる」
ハジメは辛抱強く語り続けた。
「本当はお前だって分かってるはずだ。それよりも俺とお前で力を合わせれば、きっともっとマシなことができる。請け負うよ」
そこから長い沈黙があった。
二人の間の静けさを埋める様に雨が地面を打ち、風が吹きすさぶ。凄絶な幽香の解体ショーは続く。小刻みに地面が震える。
――――早くしろよ!
気が狂いそうだった。
くつくつと、絶望的なBGMのなかに哄笑が混じり始めたのは、ハジメが一か八かで暴れはじめる寸前のことだった。
「分かってるじゃん。ハジメも人が悪いなぁ!」
エリカは笑っていた。
「安心してほしいけど、既に怪異をいくらでも調達するメドは立ってる。後は、どうやってそこへ行くかってだけの問題だったんだ」
そこに絶望も諦めも無い。むしろ彼女は、ハジメが自分と同じ結論に至ったということに喜んでいるようであった。
「もともとこの小さな異世界は、あの世界をマネして作ったもの。結界によって外界から隔絶され、忘れられたものたちが集う。入るのはたやすく、出ることは難しい」
「お前、さっきから一体何を言ってるんだ」
「いろいろ話を聞いたんなら、心当たりくらいあるんじゃない?」
確かに、伝え聞く限り、この世界に酷似したモノをハジメは知っている。宙を裂いた稲光が、エリカの喜色を悪魔的におぞましく浮かび上がらせた。
「幻想郷だよ」