幻想郷を攻め落とし、そこに存在する妖怪変化をまるごと平らげる。
齢三百を超える現代の守護者はとんでもないことをさらりと言ってのけた。
「できるはずがない」
「できる。私にはそれだけの力がある」
「お前は知らないだろうけど、あそこには涼しい顔して人にドクペを盛る妖怪とか、出会いがしらに針ぶっさしてくる巫女とか、とんでもないヤツばっかりいるんだぞ!?」
「それ、本当にスゴいの?」
ため息をはきはき、エリカはハジメを膝立ちに立たせた。鎖のいましめはまったく緩まない。
「あぁ、花を育てるしか能のない最強妖怪もいたわね」
ちょうど、幽香が黒羽の怪異によって空から叩き落とされるところだった。黒羽の怪異が引き起こす爆発の余波によって吹き飛ばされた路地裏の世界は絨毯爆撃でも食らったような有様だ。
ハジメの家族は物陰に落ちて、遅れて黒羽の怪異がそこに降り立つ。肉片と血飛沫を見つめて、ハジメはただ舌を噛みしめてそこで何が行われているのかを想像するしかない。
「だいいちあそこは無茶苦茶に強い結界で守られてるってハナシだぜ。蟻一匹潜り込むスキマもない」
「そう。それだけが私の悩みだった。一か月前までは」
頭を撫でられる感触に、ハジメはぞっとした。気付いてしまったのだ。自分の能力がどのようなものであり、何を可能にするものであったのかを。
「ハジメの力で幻想郷を取り囲む大結界に風穴をぶち開ける。そこから先は私達がやるよ。そうすれば晴れてあんたは幽香と一緒。そうだってのに」
エリカはハジメの表情を見つめた。
「ねぇ、いい加減教えて。ハジメは一体何が不満なの?」
ハジメは口の中にたまった泥を吐き捨てる。
「あの、おーちゃんって妖怪。あれ、本当はあんなヤツじゃないんだろ。お前の能力は狂った妖怪が暴れ出さないように押さえつけるだけなんだろ」
「だけって失礼な。まーそうだけど」
家族のためならヘタレも臆病も関係なく、ひたすら必死に、弾丸のように突っ走れる。それはハジメもエリカも一緒だ。彼女は必至で、なりふり構わずになっているからこそ、幻想郷への侵攻なんてたいそれたことを思いついたのだろう。
「なら、やっぱりお前のやり方は肌に合わない」
本当の本当に、決定的な決別。それを、ようやく口にする。
「俺が好きなのは、俺が好きになった風見幽香だけだ!」
エリカの眉間に深い皺が刻まれた。
「あんなゾンビにしてたまるかよ!」
その背中にまばゆい輝きを持つ日輪が現れる。大砲に変形した日輪を、エリカの鼻先に突き付けた。
「さよならだ」
収束する致命の光。即座にぶっぱなせば、いかなる存在をも一撃で葬り去る――――しかし悲しいかな、それはヘタレの宿命か。引き金を任された指先が、ここにきて迷った。
それが命取りだった。
「――――ハハ。ははは、ははははっ! マジなの、ハジメ!?」
爆裂する閃光、そして轟音。
立ち込めた土煙と黄金の炎が吹き散らされた後に現れたものは、愕然としたまま固まるハジメと、鎖に縛られ、あさっての方向に逸らされた大砲の姿だった。
「マジで、あんた、そこまで言うってカンジ? ゾンビか。確かに!」
苦し紛れの二射目は許されなかった。ハジメの体が宙に浮く。
「だからってそんな簡単に割り切れるのかよ!」
次にハジメの目についたものは巨大なコンクリート塊だった。身も心も粉々に打ち砕くような衝撃が、全身の骨を打ちのめす。
「あんたはあの女と何か月だ。こちとら三世紀だぞ!?」
打ち捨てられた郵便ポストに激突する段階になって、ようやく自分が恐ろしい怪力によって振り回されていることに思い至る。意識が遠のく。
「ぐああ」
自分の叫びですら、水中で聞くように不鮮明だ。
「まっとうな守護者であることをやめた。誇りも捨てた! 人間としての時間の流れだって失って。そこまでするのはおーちゃんが家族だからだ!」
トドメに廃材の山に頭から叩き込まれる。
「……この半世紀でサイアクの出来事が何か分かるか。あいつが正気を失ったことだ」
ごうごうと降る雨の中、エリカは肩を抱いて俯いた。
「だけどそれでも、家族は家族だろ」
狂いきった怪異は、未だ幽香をサンドバッグにして遊んでいる。
死んだように横たわっていたハジメの指先が小さく火を吐き、エリカは弾かれたように振り向いた。
「その家族がいつまでも苦しむハメになっても?」
体のあちこちが絶望的に痛む。骨が折れたか、ヒビが入ったか。片目が腫れ上がって、ロクに見えない。
「一番信頼した相手に自分のあり方を踏みにじられて、一番見られたくない姿をさらして。それでも生きて行かなくちゃいけない。本当にそれが、お前らにとってハッピーな選択なのかよ!」
「うるさい。じゃああんたはなんだ。殺すことも生かすこともできないくせに。ウロウロと、ありもしない決断のスキマを探してばかりじゃないか!」
ハジメの言葉は実際自分の胸を刺すものであった。が、それ以上に深々と傷を抉られたのはエリカ発したものだった。
「もういい。黙れよ」
再びハジメに巻き付いた鎖は喉笛まで締め上げる。今度こそ死を覚悟する段になって、エリカが悲鳴を上げた。
「次に会うときは敵同士。たしか、そう言ったものね」
背中に突き立った針を引き抜きながら、エリカは声の出所を探す。更に放たれた針と札が彼女を襲い、その苦痛がハジメを鎖から解き放った。
「ま、いささか狙いがズレちゃったのはご愛嬌だけど」
そして彼女が降り立つと、香に混じってオゾンのにおいがした。かつて青年を極限まで追い詰めた相手。幻想郷の守護者は紅白の衣装を強風にはためかせる。
「……やぁ、懐かしい顔。ぶしつけに針を刺してくれるあんたは巫女の方、みたいね。あの時に手を下しておけばよかった」
針をすべて抜き捨てて、エリカは凶暴に歯を剥いた。
「ここに来たのは何? 幻想郷のため? ユキの仇討ち?」
「じゃあ、ユキはお前が」
「ハジメ」
前に出ようとするハジメを、霊夢の声が押し留めた。
「行って。こいつは私が抑える」
「でも」
「でもは禁止。あんたのしたいことって何。やりたいようにやれ。全部あんたに言ったことよね」
ややあって、ハジメは頷いた。
瓦礫に足を取られながら走っていく後ろ姿を霊夢は見送った。その表情が少女以上の何かになりつつあるように見えるのは、化粧によるものなのだろうか。ともあれ結界が雨粒を弾くのか、目尻に引かれた紅は決してにじまない。
向き直った霊夢の結界を鎖が鞭打ち、スパークがあたりを青々と染めた。霊夢はエリカを睨んだ。
「これが仇討ちなら紫が来てる。ユキはあいつのお気に入りだったから」
「へぇ。じゃあ同じ守護者として見るに見かねた、とか」
「それも違う」
宙に舞った霊夢。家屋の壁面に鎖を伸ばして飛び移りながら、エリカが後を追う。攻撃は絶え間なく続き、霊夢は防戦に徹する。
「ここに来たのはただ単にあんたが気に食わないから」
「そう。で、あんたはどんなご高説を垂れてくれるワケ?」
エリカの能力は決して戦闘向きとは言えない。おまけに相手は未知数だ。だから初手から全力で攻める。防御を固めれば固めるだけ、反撃は難しくなる。
「何も。ただあんたをぶちのめす。それだけよ」
結界に走った亀裂めがけて殺到した鎖の群れは、結局届かなかった。
「いっ、たたたたた! そんなのアリ!?」
再びエリカの悲鳴を引き出したのは、やはり針だった。霊夢が放ったものではない。いつの間にか彼女の回りを公転する光を纏った弾が、自律して攻撃を行っているのだ。
「シキガミってやつ?」
「さぁ。私は違う呼び方をしてるけど」
「それは何?」
「球」
おいおいふざけんなよ。
血で血を洗う戦いの最中で、ついツッコミを入れそうになったエリカの横っ面にその『球』が深々とめり込んだ。
「ほぐうぇっ」
固さも重さもなかなかのもの。ちょっとしたデッドボール級の威力はあった。ダメージを感じさせない動きでエリカがそれを掴み取ると、一瞬にして粉砕する。
「ひとーつ」
「どうぞ。お替りはいくらでもあるわよ」
高空でエリカは悟った。
足下の廃墟から次々と浮かび上がってくる光球。この巫女は行き当たりばったりで攻撃をしかけてきたのではない。いつからかこの地に支配者であるエリカでも察知できない方法で侵入して、着々と準備を進めていたのだろう。
「名乗りが遅れたけれど私は博麗霊夢。あんたのお名前は? 博麗?それとも?」
「守護者であることを止めた時に姓なんて捨てたわ。もとからあり得ないようなものだったしね」
「そう、残念。ひょっとしたら遠い親戚だったかもしれないのに」
エリカの応戦も手慣れたものだ。死角からの攻撃にすら反応して、次々と光球を叩き落としていく。霊夢は直接手を下さず、見に徹するのみだ。
「やめてよ。あんたと血の繋がりがあるなんてぞっとしない。それよりも楽園の素敵な巫女さん。あなたの世界、私の手に委ねてみない?」
「論外ね」
霊夢が目元を険しくする。
「むかつく連中だけど一応は友だちなの。一人だってあんたなんかに喰わせてやるもんか」
「その友達がいずれおかしくなったときはあなたの手で葬るんでしょ」
「まあね」
「できっこない」
「えぇ。命の保証はないし、仮に無理がうまくいっても私はその先ずっとひとりぼっちの上に廃人でしょうね。だけどやらなきゃいけない」
どこかの太陽からもらい火をしたように、霊夢の瞳も燃えている。ただ、博麗の巫女としての使命に。
「他に誰もできるヤツなんていないから」
霊夢が発した言葉を聞けば、ハジメは微妙な表情をしただろう。それは世界一ツイてない男がスクリーンの中で漏らした呟きだった。
「余裕ないねぇ。あんただってチャンスだよ。押し付けられた巫女の役割なんてぶん投げてさ、私やハジメと一緒にガッコをサボったり寄り道でクレープ食べたり。相応の生活ができる」
それはかつて、エリカが心の底から願って、結局届かなかった青春だ。
「勘違いしてるわね。私は決してイヤイヤ巫女をやってるんじゃないの。今まで何度も大変な目に遭ったし、死にそうにもなったけど。一瞬だって『でも』とか『もしかして』を考えたことなんてないわ」
「ッ、あんた……!」
曇りの無い瞳に気圧されたエリカが攻撃の矛先を誤った。結界を打ち砕く鎖は激しく火花を散らしてカスり、もつれた鎖を引き戻させる暇を与えず霊夢が肉薄する。
「仕方ないな」
しかし手が触れる寸前でエリカが漏らした呟き。
長年の経験で回避に移ったのは正解だった。しかし、完答ではない。ご、と鈍い音を立てて霊夢の結界を電柱が打った。軽自動車が、ビルの破片が、看板が。荒れ狂う嵐の中で踊り、F市中にまき散らされていく。
「惹き寄せることが能力なら、逆もまた然り!」
度重なる衝撃で結界はガタガタだ。力任せに叩き込まれたエリカの蹴りがトドメを刺す。
「ぐうっ、だけ、ど――――!」
結界とエリカの右足首が粉々に砕けた。
尚も迫る無数の忘れられた都の忘れられたものたちを前に、霊夢の輪郭がわずかにぼやけた。巨大な給水タンクが彼女の体をすり抜けていく。
「それがあんたの能力ってことか」
霊夢の周囲を、糸玉のように鎖が覆っていった。
「確かに今は無敵の能力かもしれないけどね。絶対にあんたの対処を編み出す。とにかく、今はご退場願おう」
鎖は霊夢を空間自体に縛り付けている。いかに万象から浮くなんていうトンデモ能力の持ち主でもここから抜け出すのは手間だ。切り離された鎖玉は嵐に翻弄され、廃材に叩き付けられ、路地裏の世界から追い出されていく。
「お願いよ」
鎖の隙間から見える青年が、霊夢を見上げている。
「あいつが好きなら、ちゃんと幸せにしてあげてね」
そんな呟きが大嵐の中を無事に通り抜けられるはずがない。それでもハジメは僅かに頷いて、残り数百メートルに迫った二体の妖怪めがけて走り始めた。
「行かせるかよ」
エリカが放った鎖が影のように地を這う。しかし降り注いだ針がすべてを射止めた。
「どいつもこいつもジャマばっかりしてくれる!」
空中を漂う鎖玉が爆砕した。しかし、霊夢の姿はない。鋭い舌打ちを響かせると、エリカはよろよろと立ち上がった。渾身の一撃の代償は高い。
「いっ! ――――はぁ、なんか私、追い詰められてない?」
鎖を使って飛び回りつつ、彼女は着地の度に顔をしかめた。足首は見たくもない状態だ。まったく流れが狂ってきた。もしくは、もともと狂っていたものを正常だと勘違いしていただけなのか。
◆◆◆
「ちゅん」
幽香をぶちのめせという命令と、ハジメに身動きさせるなという命令。
狂った妖怪は自分の拳と幽香の体で掘り進んだクレーターの底から淵に立つ青年を見上げて、反対方向に突っ走る二つの命令どちらを優先すべきかずっと考えていた。
「なぁお前、おーちゃん、だったよな」
彼女が膝まで浸かる血だまりからあぶくが吹き上がっている。幽香が、そこにいるのだろう。
「頼む、そいつは俺の大事な人なんだ。やめてくれないか」
「むり」
背後からエリカが迫っているのは分かる。霊夢は既にこの場にはいない。焦りつつ、それでもハジメはゆっくりと、相手を刺激しないようにクレーターの斜面を滑り降りた。
試されている、と思った。
「じゃあ、まずは話をしよう」
ついに黒羽の怪異の傍までやってくると、ハジメは地面に膝をついた。
「おはなし、きかせてくれるの?」
「あぁ。喜んで」
「うん。おねがい!」
じゃらじゃらと鎖を鳴らしながら、彼女は子供のように目を輝かせた。その手が血だまりからすっかり離れているが、幽香は上がってこない。意識を失っているのか、それとも戦うことができないくらいにやられてしまったのか。
赤い水面に不穏な想像をそれ以上掻き立てられないようにして、ハジメはできるだけ簡単な言葉を選んでいく。
「ある妖怪のことだ。花が大好きで、それはそれはきれいなひまわり畑に住んでいるんだけど、みんなそいつを怖がって寄り付かないんだ」
「なんで?」
「そいつは女のクセにめっぽう強い。しかも、畑にやってきたヤツには誰彼かまわず喧嘩をふっかけるもんだから、その悪いウワサは遠くまで広がってしまったんだ」
ごぼ、と水面に不平を言うように泡が上がった。
「で、こっからがフシギな話。それだけ有名なのに、こいつの過去に関して――――あぁ、悪かったな。むかしのことを知るヤツは誰もいない。どうしてだと思う?」
「なんで? どうして?」
「あまりに弱かったのさ。恥ずかしくって、そいつはそのことを知ってるやつを全員畑に埋めちまったんだ。そいつは安心した。すべてやり終えた気になっていた」
「こわいねえ。ゲキヤバだねえ」
そのゲキヤバはお前がさっきまで殴っていたヤツなんだぜ、と。場違いな笑いが喉まで出かかったがなんとか呑み込んだ。遠くから鎖を引き摺る音が聞こえる。どうしてか、エリカはゆっくり歩くことを選んだらしい。
「だけど一つだけそいつは失敗したのさ。むかしを知っているヤツを一人だけ逃がしてしまったんだ。しかも意外なヤツ」
「誰? 誰?」
雨でぬれた指はパチンといい音を響かせた。
そうして親指で自分を指してみると、黒羽の怪異は目を真ん丸に見開いて、オーバーなまでに驚いてみせる。
「で、でもそいつにしられたらキミもあぶないんだよね」
「もちろん。だからここからの話はほかの誰にもしちゃいけない。いいか?」
反応は分かり切っていたので、ハジメは淡々と語り始めた。
大妖怪風見幽香。過ぎ去ってしまった過去も、失敗も、失ったたくさんのものも、こんなたわけた作り話で取り戻せるものではないだろうが。
「どこからやってきたのか誰も知らない。それは当然なんだ。幽香、あぁ、そう。ソイツゆうかっていうんだけど、もともとは妖怪じゃなかった」
「じゃあゆうかはなんだったの? ヒト? オニ?」
「鬼は妖怪じゃないのか」
「わかんないけど」
「…………ともあれ、そいつは、あー、そうだな。妖精だった。花の妖精。じょうろもってヘンな三角帽被って、ウフフオホホってやつ。で、なんか頭に花咲いちゃったりする。とにかく優しくて、花畑にやってくる奴は誰でももてなした。それがどうして、あんなに心の底が捻じ曲がり切ったいじめっ子に変わってしまったんだろう。マジ、本当に」
いやに感情的になったハジメの語り口に、おーちゃんが首を傾げる。
「すまん。で、その原因は花だったんだ」
「おはながスキなのに?」
「好きだから。家族のように愛していたからこそさ。もちろん人も好きだったけれど、もっと好きなのはやっぱり花だった。それを摘んで持って帰られる時の気持ちは、おーちゃんにも分かるよな」
「ちゅん」
「一本二本はまだ許した。恋人に贈る花束だと言われれば、まぁ、気乗りしないが頷くしかない。だけどそのうち、調子に乗って、その花で小金を稼ぐヤツが現れはじめた」
おそらく知りえない事実はもっと残酷だった。その花束の中に風見幽香自身が巻き込まれることだってあったのかもしれない。拳を握り直して、ハジメはおーちゃんを見据えた。
「しばらくして、その妖精はいなくなった」
「消えちゃった?」
「それこそ真夏の雪みたいに。だけどそれからだ。うるさいヤツがいなくなったってんで花を取りに行った連中が戻らなくなったのは」
「まって。あてるから。ようかいになったゆうかがそこにいた。でしょ?」
本当に狂っているのかと疑うほど、今の彼女は理性に満ち溢れた瞳でハジメを見つめてくる。「そうだ」とひねり出すのが精いっぱいだった。
「花は家族だ。だけど、人も好きだ。だからあいつは、まっさきに自分を殺さなきゃいけなかった。昔の、優しい自分を。そうしなきゃ、なりふり構わずになって家族を守れやしなかった」
とんだおとぎ話だな、とハジメは深く息をついた。
「ひまわり畑の一番深いところに、あいつが眠ってる」
ハジメがぱんぱん、と手を打つとしばらく口をぽかん開けっ放しにした後に黒羽の怪異はむくれた。顔が真っ赤で、多分本気で怒っている。
「こんなのかわいそうなだけだよ。おもしろくなんてないよ」
「そうとは限らないさ。まだちょっとだけ続きがあるんだ。ここからは特に、絶対にバラしちゃダメなことだ」
ここが一番困った。紫ですら説明ができなかったことだからだ。絶対に出られる筈のない場所から幽香が踏み出した原因。
「それからしばらくして、奇跡が起こった」
あいまいな言葉にも彼女が真剣に耳を傾けてくれるのがありがたかった。
「あいつは花畑の外に放り出されて、俺と出会った」
「でも、キミはゆうかのことをずっとしっていたんでしょ?」
「う。いや、あいつと話したのはそれが初めてだったんだ。オーケー? ……よし。で、俺はいじめられながらだけど、あいつと一緒に暮らし始めた。最初はイヤだった。毎日叩きのめされる。ヘトヘトになるまで追いかけまわされる。そんな俺を見て友だちは笑ったし、一生分の恥をあちこちにまき散らした」
また感情的になってきたので、ハジメは頭を何度か叩いた。
「だけど、俺はどんどん幽香のことが好きになっていった」
「どうして?」
「きっと奇跡のせいだ」
思えばここまで、すべてが奇跡の連続の上に成り立ってきた。
「俺はあいつに、もう一度人間を好きになってほしいんだ」
そして、何よりもハジメ自身のことを好きになってほしい。それだけはつくりごとでない、心の底からの願いだ。
「すべてが終わった時、俺はこっそりあのヒマワリ畑に行って、昔のあいつを掘り起こす。そうしてもう大丈夫だって言ってやれば、あいつは本当に自由になれるんだと思う」
「それから?」
「それからは、これからの話だ。分かるな」
彼女は長らく考え込んだ。
「ゆうかはキミにとってダイジなんだね」
「そう。とっても大事。だから頼む」
両手を地面について、ハジメは水たまりを見つめた。怪異は困ったように、その肩に手を伸ばした。シャツに血がべっとりと塗りたくられる。
「俺とこいつはこれからなんだ。ようやくここから始まるんだ。それを終わらせないでやってくれ」
そこで黒羽の怪異は、ハジメの語る最強の妖怪がどこにいるのかを理解したようだった。ゆっくりと這い進むハジメに彼女は道を譲る。血だまりに手を突っ込んで、ハジメはそれを探り当てた。
現れたのは眠り姫のように目を閉じた幽香。血の玉が滑る白い裸体。それを、掻き抱く。
「ありがとう」
「うん」
ちゅんちゅんと上機嫌に呟いた黒羽の怪異は、しかしすぐに表情を硬くした。振り向かずとも分かる。水面に、杖をついたその姿が映っている。
「ハジメ!」
時間切れか。
胴をぐるりとまわっていく鎖を見つめて、ハジメは幽香を下ろした。あと一歩、いや二歩半ほど足りなかったな。
◆◆◆
「やりなさい」
エリカの命令に、黒羽の怪異は迷うことなく従った。当然だ。彼女を縛る鎖は封印であり、操り人形の糸なのだから。無表情に幽香を解体しはじめた彼女は、それでも迷っているように見えた。
「潰せば潰すほど、壊せば壊すほど存在はあいまいになる。あとはあの妖怪が完全に狂うか、あんたが音を上げるか」
体を切り開かれて、それでも穏やかに幽香は眠っているようだった。
遠くに転がされたハジメは簀巻きのまま考えを巡らせる。ここに至るまでの数か月間が早送りのように脳裏に再生され、そしてこのクレーターへと行き着く。
「できることならあなたに殺されたかったわ」
記憶に黒々と焼きついた言葉を反芻すると、しぜんとそれは口に出た。エリカが心配そうに顔を覗き込んだ。
「ハジメ、辛いでしょうけどあなたが正気を失うのは許されないわ」
そうじゃない。まだ何かある。
「お前はずっと怖がっていたな。俺ができなくなることを。だから、お前、事あるごとに聞こえないフリとか脅しとかかけて、ずっと」
ぶつぶつと呟くうちにそれは形になっていった。
なんの抵抗もできずにひねりつぶされていったその理由。よく考えれば、霊夢や紫の能力ですら及ばなくなった彼女を、力づくでねじ伏せるなんて不可能なことだったのだ。
「…………そういうことか」
この脅迫は、何よりも効果的だった。
リンゴを口に詰め込まれることよりも、目つぶしされることよりも。
風見幽香が自分自身を材料にした脅迫は、いかなヘタレのハジメでも有無を言わせずその決断に至らせるくらいの力があった。そうと決まれば、せねばなるまい。
「おい幽香、どうせ聞こえてるんだろ!」
「ムダよ」
冷静に返すエリカを無視してハジメは叫び続ける。
幽香が短気だなんて、間違いもいいところだ。むしろとんでもなく我慢強かった。ハジメからたった一言を絞り出すためだけに、ここまでずっと耐え続けたのだ。
「約束、したもんな。やるって言ったもんな。お前の運命には、俺が責任とってやる。だから、だから――――!」
「おーちゃん、やれ!」
力づくで幽香の胸郭をこじ開けようと両腕を突っ込んだまま、黒羽の怪異は動きを止めていた。びくともしない。その唇に、幽香の指が触れた。
「ちゅん?」
「静かに。今、いいところでしょう?」
ハジメには見えないし聞こえない。喉が壊れるほど大きな声で、雨と風とを打ちのめす。太陽とはそういうものだ。
「だから、お前を殺していいのは俺だけだろ?」
清冽な風が吹き抜け、白いものが宙を舞った。
◆◆◆
「決まりです。プランBでいきます」
モニターがホワイトアウトした瞬間、万場は席を立っていた。今井が肩をすくめる。
「尚早だな」
「いいえ。この戦いの行く末は見えました。残るのはろ号とは号。車を回して、所定の位置に人員を配置してください。行きましょう」
「今井さん」
寺田は何度か振り返りながらも万場に続いて輸送車を後にした。一歩出れば駅前のスクランブル交差点を埋め尽くす特殊車両のエンジンの唸りと、灯光器の明りが台風の中に四方八方から押し寄せてくる。
観音開きの扉が閉まると、静けさに今井だけが取り残された。
「きみは、眩しいところにいるんだなあ」
モニターを撫ぜながら今井は呟いた。
回復し始めた映像を一目見て、巨大な花がそこに咲いたのではと目を疑う。それは動いていた。鶴見ハジメへむけて、ゆっくりと。
荒い画像越しには青年の顔をつぶさにうかがい知ることはできない。彼の背中に火が灯る。それも、花のようだ。
「確かに、あれはキミの言うとおりお日様だったのかもしれないな」
こんな薄暗い場所で繰り広げられるはかりごととは無縁の、男の戦い。自分の中で錆びつきつつあった何かが軋みを上げて動き出すのを感じながら、今井もその場を後にした。
「負けるなよ、鶴見くん。俺も負けない」
やることは決まった。懐の冷たく固い感触を確かめて、彼は小さくうなずく。
◆◆◆
エリカが狂乱した。
「なんだよ。お前、一体何なんだよ!」
戦況は一転した。覆りようもなく。
両膝から先を失った黒羽の怪異が、黒煙を吹きながら懸命に立ち上がろうとする。ここまでたった一撃。幽香の放った閃光がかすっただけだ。
「あぁ、ハジメ。ハジメ」
クレーターの底から吹き上がった無数の白いものは花弁ではない。羽だ。白い羽の出所は、そこでゆらりと立ち上がった大妖怪の背中に生えた三対の翼だ。澄み切った血の瞳。ウェーブのかかった髪は緑の炎さながらで、彼女の腰まで伸びきっていた。
「私、幸せすぎて死んじゃいそうよ」
これが、大妖怪風見幽香の真の姿なのだろう。
ハジメは彼女に見つめられて体温が上がるのを感じた。恐ろしくて、美しくて、体の芯を直接撫でられるような未体験の感覚。心の底から彼女におびえて、惚れ直した。
「おーちゃん!」
我に返ったエリカがあたりを探すが、黒羽の怪異は姿を消していた。代わりに彼女の頭上から、その一部がぼろぼろと降り注ぐ。首と胴だけになった彼女は自分の身に何が起こっているのかも理解できないままに泣き喚いていた。
それをボールのように彼方に蹴り飛ばして、幽香は翼を揺らして歩いていく。その背中に鎖の狙いをつけ、そしてついぞエリカは攻撃を実行できなかった。
「エリカ、終わりだ」
「なん、なのよ」
首筋に突き付けられた指先はハジメのものだ。すとんと腰を落とした彼女を、ハジメが受け止める。
「あんた、そんなの、妖怪ですらない」
返事代わりに幽香は黒羽の怪異を切り刻んでいく。その様は鬼神のようだ。
「あなたの能力なんてカスみたいなものじゃない。どうして、何があなたをそこまで強くしたの?」
「あいつはハナから俺たちを騙していたのさ」
「騙すって?」
「俺を脅していたのさ。ただ俺があいつを殺すっていう確認を取るためだけに」
エリカの表情がみるみる間に歪んでいった。
「このッ! ……役者がああああ!」
「えぇ。得意よ。歌うことも、踊ることも、演じることも」
執拗すぎる追い打ちをかけながら、幽香はうそぶいた。
「だって、狂っていてもできるでしょう?」
もはや再生の気配すらなくなった黒羽の怪異は、幽香につまみあげられてだらりと揺れた。つまらなそうにする幽香の前で、むき出しの頭蓋骨に埋まった眼球がおびえたように揺れている。悲鳴を上げたいのだろうが、顎はもうなかった。
両眼窩に指を突っ込んだ幽香が、それを無理やり引き裂こうとした段になって、その背中にハジメの声がかかった。
「もういい。それ以上は殺しちまう」
「殺す気でやっているもの」
現代最強の怪異を簡単にあしらって見せた手は、しかしハジメの言葉を待つ間ずっと迷っていた。
「そいつが死ぬと千晃が悲しむ」
「あの子に必要なのはこんな友達じゃない」
「なぁ教えろ、どうしてそこまでこいつが絡むとイラつくんだ。もういいだろ。こいつ、きっと話せば分かる子だって」
「この、お人よし!」
もはや黒羽すら失ったおーちゃんを投げ捨てて、幽香はハジメに詰め寄る。
「分からない!? こいつと、あいつは、私達の明日の姿よ!」
我を忘れておーちゃんに駆け寄るエリカを冷ややかに見下ろして、幽香は声を張り上げた。ここまで彼女が取り乱す姿を見たのはいつぶりだろうか。にやりと笑ったハジメを見て、幽香は一層激情を募らせた。
「あなたがへたれつづけて、妥協を繰り返せばきっとこうなる。私、私はイヤ。こんな姿、あなたに見せたくない」
「お前」
不意にハジメの手が肩に触れて、幽香の体がびくんとはねた。それでも無理やり手を掴んで連れ戻すと、彼は脱いだシャツを幽香に掛けていく、
「……なんにせよ、そいつはもういい。許してやれ」
「本当お人よしのへたれ。前にそういって手心加えて首をへし折られそうになったのはだれだったかしら。思い出せそうなのよねぇ。確か鶴見、なんだったかしら」
「あーはいはい俺だよ悪いか!?」
ハジメに何を言っても無駄と判断してか、幽香はエリカを蹴って除けると、おーちゃんの頭に足をかけた。このまま踏み潰せば、すべてが終わる。それだけは止めなければならないとハジメは思った。残酷な妖怪に彼女を戻すわけにはいかない。
「少なくとも俺は、なんだかんだで優しいあんたに惚れたんだぜ」
一か八かで口を開くと、思いのほか効果があったようだった。
「ほっ――――ふ、ふんだ。そんなこと言ってごまかそうったってそうはいかないわ。あなた、また適当に嘘をついて私をやり込めたと思っているでしょう」
「ただ、あんたがおかしくなるまで悪あがきはさせてもらうってだけさ」
右手はポケットの中を探す。左手は幽香の手を取る。
「きっと手遅れじゃない。一緒に助かる手段を探そう。それが見つからなかったら責任もってあんたを殺してやるさ。だから」
そうしてすんなりと見つかったそれが、すんなりと幽香の左手、薬指に収まると、ハジメは照れ臭そうに笑った。言うべきことを、ようやく言える。
「だから、それまでは責任もってあんたを愛したいんだ」
ひまわりの指輪を見つめる内に幽香の頬が徐々に赤くなっていった。それは確かに血の色だが、ずっと穏やかなものだ。
「そ、そんな。いきなりこんなの。あなた、やっぱりずるい」
「あぁズルいとも。それの何が悪いんだ」
顔を真っ赤にした幽香は、そこでようやく惜しげもなく裸体を晒していたことに思い至ったようだ。わたわたとシャツに袖を通し始める姿を見て、ハジメは呆れたように笑う。ややあって、幽香もくすくすと笑い始めた。
「もしもーし。降参したいんですけどー」
千切れたドレスの布地を白旗代わりに振りながら、すっかり忘れられていたエリカがげんなりとした顔で声を上げた。
第二十話『歩み続ける限り』おわり