風見幽香の殺し方【完結】   作:おぴゃん

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11『朝の町で』

 降参。

 エリカは確かにそう言った。

 

「そんなお願いを聞いてもらえると思っているの?」

 

 いっきに伸びた髪をうざったそうに肩にかき上げながら幽香はエリカの胸ぐらを掴んで立たせた。折れた足の痛みに顔をしかめながらも、エリカは幽香の魔性をまっすぐ見つめ返した。

 

「というより『抵抗しないからせめて痛まないように殺してくれ』をできるだけ情けなく言った感じかな。あんたらとこれ以上戦ってもムダに痛い思いするだけだし」

「潔いわね」

 

 エリカの手から白旗ならぬ青旗がするりと抜けて水たまりに泳いだ。

 映し出すのは雲間の茜色。F市に縛り付けられていた低気圧は、さっさとこの町に見切りをつけると散り散りに消える運命を選んだらしい。

 

「ここでこいつを殺してもどうにもならない」

 

 肩にかかったハジメの手を、今度ばかりは幽香も振り払う。

 

「散々ぶん殴られてムカついてんのかもしんないけど、そりゃ俺も一緒だ。ただーー」

「そうじゃない。逃がしたところで、この子たちに救いがあると思っているの?」

 

 炎の髪を翻すと、幽香は左手でおーちゃんの頭を掴んだ。

 その白い指も、指輪も、誰かの血で汚させるわけにはいかないと思った。

 

「エリカたちを殺せばお前は後悔する」

「誰が」

 

 しつこいと、くどいと言い返してやりたかった。それでも幽香は再び迷った。

 

「ちゅん」

 

 黒羽の怪異はその手に痛めつけられたことも忘れて、遊んでもらえると勘違いしたようだ。そこに情が沸いたワケではない。かわいそうなんて感情に引きずられていたら、きっと幽香はハジメと出会うこともなかった。

 

「やっぱりお前は変わったよ。そんなお前に重荷を背負わせたくないんだ」

 

 どうして今日のハジメの言葉はいちいち胸を打つのだろうか。

 

「楽しいとか嬉しいとかよく言うようになったし。ニコニコ笑うだけじゃなくて、そんな顔もするようになったし。俺は、そんなお前がますます好きになった」

「気安く言うようになったわね」

 

 ぺたりと幽香は自分の顔を触ってみた。細い指が目元からこわばった頬を滑り、固く結ばれた唇をなぞる。間違いない。風見幽香は弱くなった。

 

「こんなんじゃ、何も守れやしないじゃない」

「最強なんて名前はもうお前には要らない。お前が弱くたって全然それで構わない。今度は家族がお前を守る番だ」

「ハジメ、私」

「その気持はありがたいんだけどさ」

 

 瓦礫にもたれて座り込んだまま、エリカは倦みきった目で朝の空に浮かぶ月を眺めた。

 

「その女の言うとおりだ。私達は完全に手詰まり。エサも、エサ場も失った」

「お前も少しは頭を冷やせよ。まだやれることはあるはずだ」

「自分でぞっとするくらい落ち着いてるよ。ただ、私はけっこう疲れちゃったってだけで」

 

 窺うような幽香の視線を、ハジメは横顔に感じた。長く考えて、ハジメは幽香にすべてを託すことにした。

 

「そう…………じゃあ、決まりね」

 

 ハジメからこれ以上言えることは何もない。ただただ黙して見守る。はじめて、彼は幽香を試そうとしていた。

 

「あ、う」

 

 頭を握る手に加わる力がにわかに強まったのを感じて、おーちゃんが嫌がる。エリカは彼女の最期を見届けようと、重い頭をもたげた。

 

「あんたの言ってくれたことは覚えてるよ」

 

 絶望の毎日で差し伸べられたそれは、まさに救いの手だったのだ。

 

「ずっと歩み続ける限り、どんな理不尽とでも渡り合える。おかげでここまでやってくることができた」

 

 砂利を握りしめたエリカの掌が血を滲ませていた。

 

「でも、今回ばっかりはダメっぽいね。残念だね――――織鴈(オルガン)

 

 ばん、と衝撃波がハジメの頬を打った。

 

「……やりやがったな」

 

 結局幽香を呪縛から解き放ってやることはできなかったのだ。

 悲痛な表情で幽香の手元へと恐る恐る目を向けたハジメは、だがそこで割れて潰れているだろう黒羽の怪異の頭を見つけることはできなかった。

 

「違うわ。あの子、どこへ行ったの?」

 

 頭皮ごと抜け落ちた髪の束を離して、幽香は灰色の残骸が敷き詰められた廃墟を見渡す。そして、ついにそれを見つけた。数十メートル彼方に佇む黒羽の怪異を。

 

「あいつ何やってんだ」

 

 彼女は奇妙な構えで、奇妙なものを手にしていた。

 それでも形容しがたい凄味があった。ほとんど呆けた『おーちゃん』ではない何者かがその体を操っているようでもあった。

 

 ――――ありゃヤバい。

 

 彼女が体を浅く沈め、獲物を構える。張りつめていく空気が、たった一言をハジメが呟くことすら許さなかった。

 きっと朝の風にまじる小雨を凌ごうと錆びついて曲がったビニール傘を手にしたわけではないのだろう。狂気の最中に消えゆく記憶の残り香を辿り、何千何万と繰り返した動きをなぞっているのだ。

ただの鉄くずが、この瞬間氷のような刀に見える。

 

「織鴈。そう。それが、あなたの名前だったのね」

 

 赤い視線と交錯するのは冷ややかな光を宿した澄んだ瞳だ。

 殺気が爆発し空気が裂けた。光すら断ち切る一閃が宙に銀の軌跡を描く。ずどん、と大地が震える。

 

「あなたがもしマトモなままで」

 

 懐に飛び込んできた怪異の黒髪を、幽香は残念そうに撫でた。

 

「マトモな得物を渡されて、私と戦ったとしたら――――きっと、私は無事では済まなかったでしょうね」

 

 おーちゃんはまどろんだ瞳で、幽香の首筋に当たったまま折れた傘を不思議そうに見つめていた。

 どうして自分がこんなガラクタを手に、こんな場所にいるのか。全く覚えていないし理解もできないままに。

 

 ◆◆◆

 

 束の間、誰もが動くことを忘れていた。

 在りし日の面影を一瞬だけ取り戻した相棒。あの一閃は、本当の本当に、彼女からの最後の別れだったのだろう。

 

「さよなら、織鴈」

 

 まるで探せば遠ざかる背中が見えるとでも言うように、エリカは明け方の空に視線を走らせた。我知らずこぼしていた涙を拭って、エリカは静かに立ち上がった。

 

「折角だからもうちょっとだけ、歩いてみよっか」

 

 折れた足では遠くへはいけないが。それでも、誰かの背中を押してやることはできる。

 

「今度は私が頑張ってみるからさ」

 

 傷だらけの右腕を持ち上げる。それが指先から、じゃらりと冷たい音を立ててほどけていく。地面を這って迫った鎖に、いち早く反応したのは幽香だった。

 

「ハジメ!」

 

 足下を払われる寸前のハジメを抱きかかえた幽香が、赤い視線を走らせる。

 迸った閃光がエリカの体を斜に切り裂いた。傷口から無数の鎖が零れ落ち、蛇のようにのたくりながら地面の奥深くへと潜り込んでいく。

 

「行け」

 

 エリカの頬は、血の色を失っている。

 

「行け、おーちゃん。あんたの好きなように歩き続けろ。私は、ここでずっとあんたを見ていてあげるから」

 

 地中からぶちんと何かが千切れるような音がして、不気味な地響きが路地裏の世界を揺るがした。

 

「ちゅん」

 

 驚いた黒羽の怪異が体をのけぞらせる。彼女を縛り付けていた鎖はほどけて地面に落ちる傍から崩れて消えた。おずおずと明け方の空を仰いだ彼女の背中で翼が開く。

 

「逃がすとでも?」

「させないわッ!」

 

 半死の体に鞭打って立ち上がったエリカが、織鴈の背中に伸びた幽香の腕を鎖で絡めた。邪険に振り払われるだけで鎖は千切れ、エリカは引き倒されたが。それでも織鴈には十分すぎる時間稼ぎだった。既に解き放たれた狂気の怪異は飛び去った後だった。

 

「サイテーっしょ、私。ホント、守護者の風上にも置けない」

 

 うつぶせに倒れたままのエリカがくつくつと笑い交じりに呟いた。

 揺れはこの間も激しさを増し続け、ついに真下で地面が陥没すると、彼女はほどけかけの右腕で辛うじて穴の淵にぶら下がった。

 

「逃げた方がいいよ。ここはじきに消えてなくなる。忘れられたものたちの世界が、本当に忘れられる時が来たんだ」

「待ってろ、今行く!」

 

 ハジメを阻むように地面がぼこぼこと崩れた。その下には何もない。ただ真っ黒な虚無が口をあけているだけだ。

 

「幽香、頼む。力を貸してくれ」

 

 必死の願いにも、三対の翼を持つ大妖怪はつんとそっぽを向いただけだ。

 

「クソ、この!」

 

 すり鉢のように落ちくぼんでいく地形を、ハジメは苦労しながら下り始めた。何度も足を取られ、いきなり崩落する地面に脂汗を絞る。たった数メートルが、死ぬほどもどかしい。

 その様子に呆れながら、エリカがわずかに顔を上げた。

 

「そういえばあいつ、泣くんだ、ユキ。ごめんって。自分が食べられてるのに」

 

 めそめそと。『俺にもっと力があって、もっと早くいろんなことに気づいていれば、こんな風に何もかもぶち壊しにせずに済んだのに』と。

 

「おーちゃんはしょっぱいの嫌いだから大分残しちゃってさ。私もムリヤリ喰わせればいいのに、なんでかな。できなかった」

 

 むき出しのパイプを踏んでコケたハジメの無様を最後っ屁がわりに笑ってやって、エリカは腕を離した。

 

「結局いらないって捨てちゃった」

 

 降り注ぐ瓦礫に何度も体を打たれながら、エリカは虚無に呑まれていった。

 

「エリ――――ッ」

 

 間一髪で腕を伸ばし損ねたハジメの眼前に広がるのは闇だけだった。

 ハジメの叫びをも呑み込んだ虚無に危うく落ちる寸前で彼の襟首をふん捕まえた細い手が、その体を後方へと放る。

 

「あだぁっ!」

 

 尻から着地して、ハジメは地面を転げた。

 シクシク痛む古傷をさすりさすり虚無へと落ちくぼむ穴の中心に目を向けると、巨大な翼を広げた幽香が静かに浮いていた。

 

「必死のあなた、とっても可愛かったわよ」

「なっ、なにおう」

「だから特別。その必死さに免じてあの子を助けてあげる」

 

 イタズラっぽい微笑みが、嘘じゃないわと語っている。

 

「あ、ありがとう」

 

 そうと決まれば長居する必要はない。きっと、エリカは助かる。それでも幽香に背を向けたハジメは後ろ髪を惹かれる思いだった。

 

「それじゃ、また後で」

「あ、あぁ。家で待ってる。風呂、沸かしとくよ。その方がいいよな?」

「えぇ。今日はだいぶ汚れちゃったわね」

 

 結局必死で伝えた思いも、渡した指輪も。幽香の返事をうやむやにしたままこの場を去ることが味気なかったし、口惜しい。

 

「ところで、ハジメは食べたいものってあるかしら」

「え」

 

 今まさに駆けだそうとして、背後の幽香が放ったのは意外な言葉だった。

 

「この後ゆっくり、二人でお酒でも飲みながら話しましょう。これからのこと、私達のこと。時間はたっぷりあるのだから」

 

 彼女の掲げた手に光るのは銀の指輪。

 

「あなたを信じるわ」

 

 胸がゆっくりと熱を取り戻していく。ハジメは我知らず、頬を緩めていた。

 

「あぁ。それじゃ、あんたの作ったハンバーグが食べたいかな。煮込みハンバーグ。前に食べたやつ」

「分かった。楽しみにしていて」

 

 崩れ落ちる地面と建物を縫って駆けだすハジメの背後で、翼を畳んだ幽香が大穴の底めがけて真っ逆さまに落ちていく。

 一晩中走り回って限界まで痛めつけられたにも関わらず、ハジメの体は嘘のように軽かった。気をつけないと、本当に体が浮いてしまいそうだ。

 

「ははっ」

 

 倒れる電柱を避ける。斜面を転がってきたゴミ箱を飛び越え、立ちふさがる塀を撃ち抜く。降り注ぐガラス片を炎の盾で受け止め、傾いたビルの壁面をよじ登って。

 

「なんとかなりそうだな」

 

 息を荒げながら呟くと、現実感を増した幸せで胸がはちきれそうだった。

 

「長かった」

 

 ここまで本当に長かった。幽香を助ける方法は結局見つからなかったが、希望を見出すことはできた。

 帰ったらまずはたっぷり寝よう。千晃にお菓子を買ってやろう。父の車を洗ってやろう。エリカは一発ぶん殴って許してやって、霊夢に礼を言わなければ。雪之丞を探して紫を元気づけて。夜になったらこっそり杏奈に電話を掛けてみよう。

 それから幽香と話そう。もう胸を張って恋人と言えるようになったんだからイロイロしてみたい。少しくらいエロエロするのも今なら許してくれるかもしれない。

 

 崩れ落ちる地面がハジメを追う。青年はそれこそ風のように駆けた。曲がりくねった路地をぶち抜いて一直線に走り抜けると、ついに出口の光明が見えてくる。それは日常の光だ。

 無数の当たり前があの向こうに待っている。その幸せの中で、鶴見ハジメは願いを叶えるのだ。

 

「うわっ」

 

 その輝きに目を奪われていると、唐突に地面の感覚が消えた。

 ひんやりとした奈落に落ち込みながら不思議と気持ちは落ち着いている。幽香と舞った冬の夜空を思い出す。

 

「やれるか?」

 

 あんな風に踊ることはまだできないけれど。

 背後の日輪が一層激しく輝いて、黄金の爆発を起こす。暴力的なまでの加速を感じて、ハジメは穴を飛び出た自分の体が天高く舞っていることに気付いた。

 

「あわわわわっ、ヤバヤバヤバ!」

 

 しかし空を飛べるようになったことを喜ぶヒマなんてない。背中に戦闘機のエンジンでもくくりつけられた気分だ。ちょっとスピードを出そうとするだけで空気が固く感じ程の速度で押し出される。路地の壁にでも触れようものなら一瞬でもみじおろしである。

 手足をばたつかせ、懸命に軌道修正を行い、そしてなんとかコツがつかめる頃。ハジメは大の字に転げて商店街の天井を見つめていることに気付いたのだった。

 

「…………次は広いところで飛びたいぞ」

 

 振り返ってみると、そこには異様な雰囲気を醸し出す路地の入口は存在しない。ただ、反対側の出口が見えるだけだ。

 

「幽香、無事だよな?」

 

 とにかく一度家に帰ろう。ハジメは商店街を抜け、大路へと出る。

 近づいてくる低いエンジン音に、何気なく顔を向けた。

 

 瞬間、見えたものは装甲車の分厚いフロントだった。

 

「がっ」

 

 それは全くの不意打ちだった。

 完全に身も心も緩みきったところにとんでもない衝撃をぶち込まれた。鼻血を吹いて吹き飛びながら、自分が久しぶりに自動車事故に遭ったことを悟る。それも、ただのクルマではない。

 

「あっ、痛ぇ……あ」

 

 受け身もとれず、勢いのままにアスファルトをごろごろ転がった。

 痛いなんてもんじゃない。重い。関節という関節に鉛をくくりつけられたように、体が言うことを聞かない。

 

「僕たちを覚えていますか、鶴見くん」

 

 そのひきつった顔。大理石のような肌。自分を『僕たち』と呼ぶスーツの大男。忘れたくても忘れられない、その怪物のような容姿が黒塗りの車から窮屈に畳んでいた体を伸ばして現れるにしたがって、この事故がまったくの偶然ではないことをハジメは悟る。

 その後にわらわらと続く防護服姿の男たちが、無数の銃口をハジメの頭に向けている。たった一人にやりすぎだろと呆れて笑いたくなるほど盛大な歓迎だった。自分のうかつさに腹を立てていなければ、本当に笑っていたかもしれない。

 

「きみに、お願いをしに来ました」

 

 その一言を最後に、彼の意識は闇に呑まれた。

 

 

 

 三月編エピローグ『朝の町で』おわり

 

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