1『幻葬(上)』
ボロは着てても、というのとは少し違うかもしれないが。
みすぼらしい恰好で駅から住宅街まで歩くのはそれほど気分の悪い事ではなかった。注目を集めるのはもとより好きだし、なにより今日は気分がいい。
「うふふっ」
大通りには既に相当な数の野次馬がくりだし、たった一夜にして様相を変えた町の様子に目を奪われていた。
彼らが携帯やカメラのレンズを向ける先では錆の浮いた丸ポストが郵便局の前にタケノコのように突き立ち、ビルの上でカカシ達が黒ずんだ顔を揺らして通りを睥睨している。木製の電柱がようやく復旧した送電網をズタズタに破壊し――――エリカによって町中にバラ撒かれたガラクタたちは、かつての居場所を再び占拠しようと躍起になっていた。
混乱のただ中を行く幽香が身に付けたものは男物のシャツ一枚。股下十数センチもない裾を春の風に危うくひらめかせて、しばらくぶりにスキップをしてみる。異様な美人の通り道いた誰もが、自然と道を譲り、口をあんぐりと空けて彼女を見送る。
「どうしましょう。はしたないわ」
と、彼女自身浮かれっぷりに呆れるところであるが、その細い足は至って正直に大嵐に洗われたアスファルトを踏む。とたんに緑のものがにょろにょろと舗装を突き破って顔を出す。通り過ぎる家々の庭先では彼女の機嫌に浮かされた花々がてんで旬もバラバラに芽吹き、つぼみを弾けさせた。町中に花の香りが広がっていく。彗星の後塵のように、彼女の後に花弁の尾が続く。
こうして鶴見家のお嬢さんには露出癖があるという噂、というか事実がまことしやかにささやかれることになるのだが、それはまた別の話。
「お帰りおねえちゃうああああ!?」
問題はその後だった。
「どうしたの。いきなり大声なんて出しちゃって?」
玄関を開けるなり幽香に飛びつこうとした千晃は顎が外れんばかりに絶叫して、結局乱暴に彼女の背中をせっついて早く家に入るように促した。
「それはダメーっ! よくないよ! 言い訳できないくらいのヘンタイだよ!?」
「そうね。私はどうやら痴女だったみたいだわ」
ぜいぜいと肩で息をする千晃にあっさりと認めてみせて、幽香は玄関先の靴を数える。
「そういうの最近……流行ってるの?」
「なにが?」
「す、すとりーかーってヤツ。おーちゃんとか、あとおーちゃんとか……」
「私と、晩酌のときのお父さんもね。それで、ハジメはまだ帰っていないの?」
千晃が頷くと、幽香はそのまま踵を返して出て行こうとする。
「待った待った待った。そのカッコで行かないでよね!」
ちょっとくらい落ち着きなよ、と義理の妹はまたまた幽香の背中を押して無理やり家に上げるのだった。
◆◆◆
開け放たれた窓際でカーテンが舞い上がる。台風後のさわやかな春風に混じって、甘いにおいが漂った。結局風呂にまで入った幽香は膝を抱えてぼんやりしながら、そういえば千晃がエプロン姿だったことを思い出す。
「ありがとう。もしかして、仕上げはしてくれたのかしら?」
「うん。あとはおねえちゃんのチェック待ちってカンジ」
千晃が持ってきた赤いワンピースを身に付けると、幽香は戸棚を開けてハサミを探す。
「もうおねえちゃんが何しようと驚く気はなかったけど。その髪、どうしたの?」
「伸びたわ」
「一晩で?」
「えぇ。不思議なこともあるものね」
戸棚のガラス戸に映る像を頼りに髪を房に持って、そのままじょっきんと切り落とそうとする。あまりに乱暴というか雑な始末にあんぐり口をあけていた千晃が、ガラス戸の中でいぢわるに笑った。
「にしてもあにき、悲しむだろうなぁ」
まさに銀緑の海に斬り込もうとしたハサミが、ピタリと止まった。
「ハジメが、悲しむ?」
「確かあいつが中学のころ、髪長い子が好きだったんだよね。なんだったっけな。すっごいかわいい子で。名前はキョ、キョー……? ま、結局コクハクなんてできないまま終わったんだけどさ」
「その子は今どこに?」
「遠くの町に引っ越したって聞いたけど――――おねえちゃん、気になるの?」
幽香はしばらくそのままのポーズで考え込んでいたようだった。
ややあって、リビングのソファまで歩いていくと、無言で千晃のヘアゴムを拾い上げた。それをまるで家臣のようにかしずいた千晃が仰々しく受け取る。
「千晃、結ってちょうだい」
「かしこまり! おさげがいい? 三つ編み? ぽにー? ついんて? なんでもこい!」
提案しておいて、千晃は既に幽香の髪を三つ編みの上おさげの刑に処することを決定したらしい。呆れて笑う幽香の膝上に乗っかると、一心不乱にあみあみと手を動かしていく。
「おねえちゃん、いいことあったんでしょ」
「どうしてそう思うの?」
幽香の指にはめられた指輪を見て、千晃は思わず目を細めた。
「左手の薬指とか。腹が立つくらいあにきは大胆だ」
「そうね」
それからしばらく会話は無かった。
ふと幽香が目を上げて庭を確かめると、あれだけの嵐をしぶとく生き残った庭木と花のつぼみたちが水滴を輝かせていた。
「花は強いわねぇ」
千晃は手を休めて幽香の視線を追って、頷いた。
「そういえば町、見た? ニュースで知ったんだけど、どっかの処理場からすごい数のゴミが吹き飛ばされて大変って」
「そうだったかしら。浮かれていてよくわからなかったのだけど」
「だろうねぇ」
それから作業に戻っていった千晃の頭に、ふと手を置いてみたい衝動に幽香は駆られた。今日の彼女は少し、何かが違う気がしていた。
「わわっ、どうしたの?」
「ただ幸せを噛みしめてるだけよ。続けて」
「あにきのオオゲサなところ、うつっちゃった?」
失礼な物言いにチョップでもお見舞いしてやろうかと一度は浮かせた手を、幽香は千晃の頭に戻した。確かにそうなのかもしれない。風見幽香の一部を、彼はまんまと殺すことに成功したのだ。
「私は、ここにいていいのね」
ハジメと一緒に理不尽と戦うと決めた。最後まで戦って、それでダメならハジメがすべてを終わらせてくれる。口の中で彼の言葉を繰り返していると、終わったよと千晃が鏡を差し出した。
「あ、あら」
それを覗き込んで、幽香は思わず声を上げていた。
「ちょっと少女趣味すぎるわよ」
百年たっても二百年たっても変わらなかった容姿が、ワンピースも相まって、ひとまわり若返ってしまったような気分になる。鏡に映るおさげ髪の誰かさんの頬がどんどん染まっていった。
「待った。解いちゃダメ!」
衝動的に髪留めへと伸ばした幽香の手を千晃が捕まえた。
「ど、どうして」
「今日は特別な日でしょ。クソあにきがドギマギするところ見たいじゃん。それに来て!」
千晃に手を引っ張られて廊下を渡る。
すぐ前で揺れる千晃の頭を見ながら、幽香は先ほど彼女の頭に手を置いた時からの疑問を口にした。
「そういえばあなた、背、伸びたかしら」
「え、なに?」
「ふふ。なんでもないわ」
こうして義理の妹に手を引かれるというのも新鮮な経験だった。彼女が床板を軋ませて台所に近づくにつれて、甘いにおいは強くなる。
「おどろけ、おねえちゃん!」
ドアを開けた瞬間、それが目に飛び込んできた。
飛び散ったクリームとか、開いたままの料理本とか、流しを占拠する洗い物とか。そして何より台に載せられ、完成したそれを見つけた瞬間、
「どう、私の最高傑作!」
手を広げてそれを指し示す千晃の前で、幽香は鳩が豆鉄砲くらったような顔でぽかんと立ち尽くした。それくらいの衝撃だった。
「け、けっさくなんです、よ?」
見慣れないおねえちゃんの様子に千晃も段々不安になってくる。
「いや、その、……片づけは、少し頑張んなきゃだけど、わっ!?」
「千晃」
幽香に抱きしめられたまま、千晃目をぱちくりさせていた。
「な、なにコレ。もしかして大失敗とか!?」
「いいえ。あなたが一人でここまで出来た。私は感動しているのよ」
私の手はもう必要ないわね、と。幽香はシンクに突っ込まれたボウルを照れ隠しに拾い上げながらも少しだけ寂しそうに付け加えた。
「もうクソあにきのトモダチだって大体呼んだし。しばらくすれば来るかな。ただ、何人か連絡つかないのがいて」
意味ありげな千晃の視線に、幽香は少しだけ表情を曇らせた。
「エリカは来れないわ」
「…………ケンカ、しっぱなし?」
「まあ、そんなところね」
感ずるところはあったようで、千晃もそれ以上追求しようとはしなかった。
「そうだ。それとね、おねえちゃん」
千晃は軽くつま先立ちして幽香の額にキスをした。
「私がここまでできたのも、あにきと向き合う気になれたのも、全部おねえちゃんのおかげ。だからそんな悲しそうな顔しないで?」
「だからこれは」
頑張っていびつな微笑みを造りながら、幽香は改めて千晃を抱きしめた。
「うれしい、だけよ」
「ん。じゃあ、おねえちゃん。すっごく名残惜しいけど、あにきを迎えに行ってきてくれる? あいつ探すの、得意でしょ?」
「確かにね」
苦笑して幽香は玄関先でパンプスをつっかけた。髪に手を伸ばしかけて、背後から千晃の無言の圧力を感じて肩をすくめながらドアを開ける。日差しがまぶしい。今日はきっと、いい日になるだろう。
「千晃、それじゃ」
「おねえちゃん、アレ、なんだろ」
リビングのドアを開けたままの姿勢で、千晃は庭を見つめていた。彼女の表情が、見る間にこわばっていく。
「うわ、やっぱり流行ってんじゃんかよクソ!」
スリッパを脱ぎ捨ててドタバタと駆けこんでいく千晃を、幽香はほほえましく見送った。
「ケガするわよ」
怪訝に思うところはあったが、幽香はそのまま玄関先に出て日の光を浴びてみた。そそっかしい千晃が開けっ放しにしたリビングのドアから、彼女の声が漏れ出てくる。
「おねえちゃんおねえちゃん、全裸のヤツが庭にいるからセンモンテキ知識を……待って。あんた……おーちゃん!? ちょ、ケガして…………待ってて、今……!」
背筋が凍りつく感触を味わったのは、いったい何十年ぶりだろう。
懐かしくも恐ろしい感覚に幽香はつい、うっかりと足をすくませた。それはとてつもなく人間的対応で――――幽香は、結果、致命的に出遅れた。
「千晃ッ!」
閃光と爆風が吹き荒れ、今まさに家に飛び込もうとした幽香を吹き飛ばす。
◆◆◆
ひどい悪夢だ、と思う。
カーテンが閉め切られ、真っ暗な教室の一つでイスに縛り付けられ、周りには武装した男たちが抜け目なく物騒なモノの銃口を巡らせている。
「ウソだろ」
「悲しいことに現実です」
ダクトテープで巻かれた足をぎちぎちと鳴らしたハジメの前。万場という長身異形の男は懐から新しくボールペンを取り出し、机の上に並べていく。その数を数えて、彼は無感情に告げた。
「そのセリフはこれで七度目ですね」
耳障りな音を響かせてハジメの目の前までイスを引き摺ってくる間、万場は眉ひとつ動かさずにいた。彼の背後には机に腰掛けた今井と寺田の刑事コンビが見える。
「あんたら、ケーサツなのか」
「難しい話を省くと、まぁ、そういうことになります」
国家権力がここまで後ろ暗いことをやっているなんて。ハジメは眩暈を覚えていた。
「ときに鶴見君は映画を見ますか」
男が身を乗り出すと、あまりの長身ぶりにほとんど目の前まで異形が迫ってきた。
「…………いいや。最近は」
「僕たちはとあるシリーズが好きでしてね。なに、幾分陳腐なストーリーなのですが。中年の警官がいて、彼はやたらと運がないんですが、テロリストをなぎ倒したり、陰謀を暴いたり、毎回英雄的な活躍で楽しませてくれる」
その時はどうせこんな暗い部屋でカウチの上で窮屈に体を縮こめてるんだろうな、と滑稽な想像を浮かべてハジメは臨界点を越えそうな緊張を飼いならすことに専念した。
「ですが彼も人間です。シリーズを重ねるうちに妻は逃げ、子供は非行に走り、男はアルコール中毒を抱え、ついには廃人の二歩手前まで追い詰められてしまう」
「一歩手前だ」
ハジメが訂正すると、万場は薄く笑った。
「そうでしたね。ともあれ僕たちは何度もあの映画を見返しました。やはり彼は英雄だ。何度も何度も燃えるビルから飛び降り、飛行機を爆破し、戦闘機と生身で渡り合う。ですが、やはり何も変わらないのです。奇跡が起きて、妻のホーリーが彼のもとへ舞い戻ってくるなんてことは、絶対に」
万場は足を組み替えると机の上で手を組んだ。
「それを確かめる度に、とても安心します」
いつからか置かれていたリンゴが、唯一の照明に照らされてぎらぎらと輝いている。
「僕たちが目指すのは、そういう『起こりえないことは絶対に起こらない』世界線です。だから僕たちは、鶴見君にお願いをします」
リンゴを手に万場は立ち上がる。また、耳障りな音がハジメの耳を貫く。
「立って、帰って、その手で風見幽香を殺してください」
「……なぜ、あんたらはそこまでして」
萎えきっていた怒りが急に沸騰を始めたのが分かった。鈍い輝きの火花を散らすハジメの瞳に銃口が次々と持ち上がるが、万場はそれを手で制した。
「鶴見君は、身の丈を外れた夢にうかされたことがありませんか。叶うはずがない。だけど、一度夢を見てしまえば諦めきれなくなる。もしかしてを、生涯期待し続けることになる」
それを聞いてハジメの瞳は輝きを増すばかりだ。
家族を再び一つにする。触れられてもいないはずなのに、そんなささやかな野望を、この大男の土足で踏みにじられたような気がしていた。
「奇跡なんて要らないんです。奇跡を見せつける彼女たちの存在も同様に邪魔です」
「お前たちの」
乾ききった口の中で舌がうまく回らない。ハジメは構わず続けた。
「お前たちのそういう夢の見れなさがあいつらを追いこんでいったんだ!」
「鶴見君、話はまだ終わっていません」
「国家の安全とか、そういうのはタイヘン結構だぜ、だけどあいつらはどうするんだ。妖怪だなんだって言っても、あいつらはぐっ」
椅子ごと床に殴り倒されたハジメを懇切丁寧に起こしてやりながら、万場は血の付いた右手を拭おうともせずに、しゃがみこむと彼の瞳を覗き込んだ。ついでにハンカチを取り出すと、おびただしく流れる鼻血を拭いてやる。
「それじゃ、いつまでたっても僕たちヒトは幼年期を卒業できません。それにコトは国家の枠には収まらない」
その背後で壮年の刑事は居心地悪そうに視線を外す。
吐き気をずっとこらえていた。今井は刑事としては三流もいいところだが、正義の味方としては一流だった。こんな薄暗い部屋で大人たちが一人の子供を寄ってたかって追い詰めるなんて。
「皆が目の前の現実を確かに見つめられる世界を作りたい。だから彼女たちの存在を秘匿する。彼女たちが存在したといういかなる証拠も抹消し、あの閉じた世界で幻想の時代を終わらせるのです」
「ハ」
なんてSFを持ち出してくるのだと、ハジメは笑いをこらえきれなかった。万場はべつだん不愉快になるわけでもなく、リンゴをもてあそんで彼の笑いが収まるのを待っていた。
「おかしいですか」
「そんなことができるはずないだろ。俺たちが大暴れしたことは全部ニュースになったし、ネットだって噂でもちきりだぞ!」
「UFOとプラズマとスカイフィッシュの噂で、ですね。大抵の場合、こうした明らかに存在しないものがカバーストーリーとして用意されます。木を隠すならですよ」
おかしいくらい冷静な万場の指先でリンゴは光を受けて回る。壁に、不気味で巨大な影を落としながら。
「事実、僕たちの仕事は殆どの世界線で成功しています。もっとも特異な並行世界では、彼女たちがあるタイトルのフィクション作品群に登場する架空の人物だと認知させることに成功しました」
「並行世界? 僕――――たち?」
頷く万場の輪郭がぼやけ、その異形が幾重にもダブって見えた。
そのモヤの向こうにあるのはまったく別の風景だ。公園で、港で、どこかの倉庫で、幾重もの万場幾重たちが同じような姿で佇み、ハジメを見つめてくる。
「多世界解釈というものを知っていますか。世界は主流である樹と、そこから実るリンゴのように無数に存在するというものです」
ハジメの理解が徐々に追いついてきた。この万場という男の異様な言葉づかい、僕たち、という表現。その、あまりに大きすぎる規模で作用する能力の正体に。
「『跨ぎ越す程度』の。彼女たちのルールにのっとって言えば、そう名乗っておくべきでしょうか。僕たちは無数の世界線に散らばり、同時にこの仕事を遂行します。ですが」
万場はようやくリンゴにかぶりついた。
しゃくしゃく、ではない。腐りかけた肉を錆びついた車輪で轢き潰すような音。固まりかけた顔でモノを食べることは大層難儀なのだろう。
彼は大きな片目をぐるりと回してハジメを見据えた。
「このリンゴは少しばかり、