胃を突き上げられるような振動でハジメは目を醒ました。
暑く息苦しい暗闇の中を手探りで這いまわるうちに、忌々しい錠前の手ごたえを見つける。トランクもハジメも、どういうわけかナカトミタワーの一室から無傷で逃げ出すことが出来たらしい。
「千晃?」
彼女の声が聞こえたような気がした。
「そうだ、千晃。あいつ、ケガして」
廃墟の中で血塗れの千晃を抱える白い腕がフラッシュバックした。
そこから上へと視線が滑るにつれ、ハジメの記憶にはノイズが混ざりはじめる。赤いワンピースの胸元から上は、ほとんど擦り切れて見えない。
「誰だ」
大事なことを忘れている。
「誰だ、お前。いや、俺は、待てよ」
自分の左手を見つめる。薬指に光る指輪。
輝きに気を取られていると、ふと傍らで花の香りが立ち昇った。
がちん、と音を立てて南京錠のひとつが勢いよくはじけ飛んだ。
呆気にとられるハジメの前で、ゆっくりとキャリーケースが開いていく。暗闇にもかかわらず、まるでそれ自体が光を放っているように。
ケースの隙間からするりと伸び始めたのは記憶にあるものと同じ白い左腕だった。
「その指輪――――」
揃いの指輪をはめた左手が「おいでおいで」とハジメに手招きしている。
誘われるまま、白昼夢にとらわれたようにキャリーケースへと近づいたハジメの襟首を、その腕が勢いよく捕まえた。
「うおおっ!」
未だかつてハジメが聞いたことのないような音が響いて、暗闇に風穴が開いた。
ずっと続いていた振動は一層激しくなり、闇を切り裂く何かは、もはや爆撃にも近い。首根っこを押さえられていなければ、ハジメの頭もスイカのように弾け飛んでいただろう。
「ようやっとお目覚めか、小僧!?」
もはやぼろくずと化したコンテナからハジメが立ち上がると、同じくオープンカー状態となったトレーラーの運転席からジョンが顔を出して叫んだ。
「お前、暫く見ないうちに頭が寂しくなったな!」
ジョンの禿げ頭がまぶしい。少し老けたようだ。
「抜かせ。四十にもなりゃお前さんだってこんなもんだ!」
炎と煙。煤と血。
どこか埃くさいエッセンスの混じった強風を受けて、ジャンクションを爆走するトレーラー。そして、獰猛なエンジン音に混じって聞こえる、甲高いうなり。
「あー、マズい」
ハジメの呟きをかき消すように再び機関銃の掃射が彼を襲った。
先にキャリーケースを蹴り飛ばすと、荷台の上を吹き荒れる破壊の暴風の中を駆け抜けながら、ハジメは運転席を目指した。
「こりゃ4.0か。もうなんでもアリなのな!」
ジャンクションをぐるぐる上り詰めるトラックを追いかけて、垂直離着陸機がハチドリのように機敏にホバリングを繰り返して執拗な攻撃を繰り返してくる。
並の人間ならカスっただけでも致命傷になりかねない25mm機銃掃射の中、ハジメの口元には微かな笑みが張り付いていた。
「いいことでもあったか!?」
ハンドルを切りながらジョンが声を張り上げた。
「なんだかんだ、アンタは憧れだったからな!」
だがその喜びは、まるで夏休みの最終日に宿題を放置したまま遊び呆けている時の気分に近いものがあった。運転席に飛び乗ったハジメを、ジョンの拳が迎え撃つ。
「だからって手加減してくれると思うなよ」
頬を打ち抜かれて鉄くずだらけの荷台に放り出されたハジメの前にジョンが降り立つ。彼の肩越しに見えるハンドルが意志を持ったように逃走劇を続けていた。
「こいつぁ俺にとって千載一遇のチャンスなんだ。お前さんを倒して外に出る」
ジョンが構える。ハジメも見よう見まねのファイティングポーズをとる。
「時にお前さん、もう所帯を持ったのか?」
「しょ、所帯?」
何気ない一言に気を取られた瞬間、すぱんといい音を立ててハジメの顔面を真正面から拳が打った。見事な不意打ちだった。
「ホレ、その指輪。マセやがって」
しりもちをついてハジメは揺れる頭を振った。
どくどくと噴き出す鼻血を拭う手には、確かに銀の指輪があるのだが。
「いっ――――よく、覚えてない。多分大事なことなんだろうけど、ゼンゼン、思い出せない」
今度は拳を上手く受けたつもりだったが。実際上腕の骨はきしみ、激痛が背筋を走った。
「なんだ。カミさんとの不仲なら相談してみろ。実のところ、俺ぁその道の権威でね」
「話が一層こじれそうだ」
荷台から突き出た鉄パイプを引き抜いて、ハジメは構える。
「悪いけどそういうのじゃない。順風満帆だった。その矢先に何かがあって」
再び眼底を貫くような頭痛に襲われたハジメは、危うく顔面を鷲掴みにされるところだった。
「なにかってなんだ?」
上腕に深々と食い込んだパイプの痛みに顔をしかめながら、ジョンがハジメの腹を打つ。更に数発もらいながらよろよろと下がりつつ、彼は首を振った。
「さっきから、いてっ、必死に思い出そうとして、あいたた! 話す時間くらい寄越せよな!」
「俺ぁカイブツだぜ。イチイチ空気呼んでられるかってんだ」
怪異。
怪物。
妖怪。
その呼び名に、どんな違いがあるというのか。
目の前のジョン・マクレーンの似姿がそうであるように、この半年で彼らはハジメにとってずっと身近な存在になった。蝸牛。鯨。鳥。そして大妖怪八雲紫と、博麗霊夢と名乗る少女が現れ――――すべてはまるで、鶴見ハジメを中心に公転する惑星のようでもあった。
だが。
「ただ、物足りないんだ。大事なものが欠けてるんだ」
あっという間に荷台に叩き伏せられたハジメは、困惑した瞳でジョンを見上げた。
「足りない?」
「やっぱり俺は何かを忘れてる。忘れちゃいけないことを、平気で忘れてる」
ジョンは胸ぐらを掴みあげ、ハジメを容赦なくぶん殴り続ける。これが世界を5度救った(もうすぐ6度になる。おそらく)男の拳だと言われれば、納得するしかない重みと痛みだ。
だが、ハジメの心配事は自分の頭蓋骨よりほかのところにあった。
「もう一度聞くぞ。俺にてめえの体を寄越しやがれ」
視界に星が散る。
この衝撃には覚えがある。真冬の公園。何度もぶっ飛ばされては子供に笑われた。
「俺は絶対にヘタれない。お前さんの理不尽ってやつも、俺が木端微塵にしてやる」
理不尽。
その名前を持つ、あまりに強大な敵を前に膝を折りそうになる度に、細いからだと腕がハジメを支えてくれた。前に進めと、叫んでくれた。
「おい。立てよ、小僧。いい加減死んじまうぞ」
殴られまくって感じるのは、顔面に焼けた鉄を流し込まれたような痛みだ。こんなピンチになる度に、どこからともなくやってきて、何も言わずに助けてくれて。
「幽香」
ふと頭の片隅をよぎった後ろ姿。
日傘を差した彼女が振り返る。白い肌。紅玉の瞳。虹色の炎のような、いい匂いのする髪。そして、血と花の味がした唇。
「そうだ、俺」
ハジメの表情に明らかな絶望の色が浮かんだ瞬間、荷台が大きく傾いだ。
「小僧!」
ジョンがハジメの頭を押さえる。
度重なる垂直離着陸機からの攻撃に耐え切れず、ついにジャンクションは崩壊をはじめていた。崩れ去った道路に運転席だけで引っかかったトレーラーは必死にエンジンを唸らせていたが、それがむなしい努力に終わることをハジメは知っている。
「ジョン、聞いてくれ」
するりとジョン・マクレーンの腕を抜けたハジメはもはやほぼ垂直になった荷台に投げ出された。
「体はやるよ。もう、俺の夢はかなわないみたいだからさ」
荷台が大きく崩れた。
うっかりとトレーラーの破片をエンジンに吸い込んだ戦闘機が小爆発を起こす。勢いよく操縦席が射出され、直後に地獄のハチドリはそれ自体が業火に焼かれることとなった。
「じゃあな」
ハジメは荷台をごろごろと転げ落ちていく。その先で待ち構える戦闘機は爆発間近だ。
「お前――おい、待て、それでいいのか!?」
唐突な敵の絶望に理解が及ばないままにジョンが伸ばした腕は間一髪で宙を掻いた。
「
青年と共に荷台を滑っていくキャリーケースが、無数に取り付けられた錠を吹き飛ばしたのはまさにその時だった。ジョンが目を見開く。
「ショーガールなんて呼んだつもりはないぞ」
世界で一番死に損なった男の呆れ声を背に、白い腕が、肩が、そして翼がキャリーケースから飛び出していく。
「――――――?」
そうして裸の上半身をあらわにした女は、透き通った瞳から、透明な視線をあたりに走らせる。そして見つけた。今まさに、死の炎に焼かれようとするハジメを。
「――――――」
花弁のような唇が紡ぐ言葉は聞こえない。
彼女はただ、決然とした意志を秘めた瞳でハジメを捉えると、飛んだ。
爆炎の前からハジメを攫うと、地上に折り重なった瓦礫の間めがけて一直線に降下し、姿を消す。
「おいおい、最強のカギって。そういうヤツかよ」
遅れてジョンも荷台を滑り落ちていく。目指す先は一緒だ。この世界の持ち主、つまりはハジメの心の一番深い場所へと。
◆◆◆
二人を抱き留めたものは灰だった。
ハジメは地面に横たえたまま、きらきらと宙を舞う粒子に目を奪われていた。
星のひとつもない空の下に、燃え尽きた白い灰だけの大地が無限に続いている。この世界の光源は、黄金の輪郭を浮かび上がらせる地平線だけだった。
「お前、どうして」
ハジメの傍らで三対の翼を持つ女が立ち上がる。
彼女はただ、無感情にハジメを見下ろすだけだった。
「そうか。そうだったな。今のお前さんには最強の映し姿が二人だ。まったく、ふざけた矛盾を抱え込みやがって」
重みを感じさせない姿で果てしない高さから降り立ったジョンの背中には、かつてハジメが背負ったものと同じ黄金の日輪が輝いていた。
「――――――」
幽香の姿をしたものが戦闘体勢をとる。
「よう。現実のコイツは元気か?」
彼女に明らかに敵意を込めて睨まれても、ジョンはいつものように唇をすぼめて見せるだけだった。
「死んだよ」
膝をついたまま、ハジメは弱弱しい拳で地面を打った。
巻き上げられた灰は傍らの女の目元にまで迷い込んでいったが、彼女は瞬きの一つもしない。それが尚更彼女がオリジナルとは違う、無機質な人形であることを強調していた。
「俺が殺した」
ジョン・マクレーンはハジメへと顎をしゃくった。
「悪い大人たちが……いや。もう悪いとか良いとかよくわかんないけど、とりあえず俺は大怪我して追われてて。こいつは俺を助けるために狂ったバケモノのフリをした。で」
「てめえはまんまと騙されて自分のオンナを撃った。そうだな。よく分かった。もういい」
「あぁ。そうだ。本当、どうしようもない」
ともし火のように指先に宿った光をジョンがハジメに向ける間、青年は一度背後を振り仰いだ。真っ暗な地平に、巨大な影が見える。
それは、天から落ちて砕けた日輪だ。
「幽香」
灰を踏む幽香の素足。ハジメは蹲って、灰に額をうずめた。
「ごめんな」
幾ら謝っても無駄だということは分かっている。目の前に居るのはただの似姿であって、本物の風見幽香は鶴見ハジメの手によって叩き落とされ、ぐしゃぐしゃに潰れたのだ。
奇しくも彼女の予言どおりに。
「もう、外にあいつはいないんだ」
今まで死ぬような目に何度もあってきた。
今度ばっかりはヤバいな、とボヤきながら、それでもなんだかんだ幽香との二人三脚で上手くやってきた。
「終わらせてくれよ、ジョン」
その幸運もここまでだ。
鶴見ハジメはこの数か月で、初めて膝を折った。理不尽に敗北を宣言した。
「いいんだな、小僧」
ジョンのすぐ傍に空港のゲートが蜃気楼のように現れた。
彼はしばらくハジメを見つめて、そして、やれやれと言わんばかりの疲れ顔で首を振った。
「降参なら降参で――――もっと大人しくしてくれないかねぇ」
「これ以上どうしろってんだよ。笑わせんな」
思わず吐き捨てたセリフに、マクレーンの刺すような返事が被せられた。
「お前さんじゃねえ」
きし、と灰を踏む音にハジメはようやく首をもたげる。
そうして目の前にあったものは見慣れた後姿。
「どうして」
口をあんぐりとあけたハジメ、日輪を背に険しい顔つきで睨み付けるジョン。両者の間に割って入ったのは、それまで人形のように佇んでいた幽香の似姿だった。
「嬢ちゃん。さっさとゲートに入んな。俺ぁパウエルほど女子供に甘くもねえ。自由になるためだったら誰でも撃つぜ」
ニューヨークのデカはおどけてみせるが、金色の炎を宿した瞳は至って真剣だ。
「やめろ!」
そして全てを貫通する力を前に彼女が選択したのは、悲しいくらい愚直な突進だった。
「ちっ」
ジョンの指先がひときわ眩く光を放ち、刹那、ハジメの顔には血飛沫が浴びせられた。幽香の胴体に大穴をぶち開けた弾丸の威力に、彼女は踊るように灰の大地に倒れ込む。
「……おい。やめろ、頼むからよ」
血と灰に汚れた幽香が、のそりと立ち上がった。ジョンが舌打ちする。すぐさま胴体に新しい穴を空けられた幽香が倒れ込み、また立ち上がっていく姿をハジメは我を忘れて見つめていた。
『まずは身の護り方よ』
それは幻聴だ。
『心、そして体の死角』
この世界の音らしい音は、幽香の体に穴が開く瞬間のものだけだ。
『防ぐのか、逸らすのか、受けるのか。あなたが一手間違えれば、すぐにこうなる』
それを忠実に守り、ハジメは幽香に勝利し、殺した。はずだ。
「俺にこれ以上何をしろっていうんだよ!?」
幽香は死んでしまった。だが彼女と同じ姿を持つそれは、何度でも何度でも立ち上がって身を挺した。
「嬢ちゃんが何を言いたいかなんて、わざわざ聞いて確かめるような仲でもないんじゃないか?」
束の間、灰の中から立ち上がる幽香と目が合った。 その瞳が語るところはあの日と同じだ。
――――立って戦え。と。
その言葉の圧に、ハジメは思わず立ちすくんだ。
『外は、やっぱり大変なところだったよ』
動揺に追い打ちをかける様に、聞きなれた甲高い声が虚無の空間に響いた。
「千晃の声だ」
ハジメがきょろきょろとあたりを見回す間、ジョンは攻撃の手を休めてハジメを見据えていた。
『辛いのは私だけじゃなかったんだね』
徐々に鮮明になる声の出所は背後だった。
三人の視線が注がれるのは地面に落ちて死んだはずの日輪。それが今、黄金の燐光を放っている。
『私、頑張るよ。ガッコーに行く。空気も読む。もうあにきに迷惑はかけないから、最後のわがままをきいて』
こんな単純なことも忘れていたとは。
「千晃、頑張ったな」
外には千晃も、父も、母もいる。それすべてを投げ出して、自分だけが不幸だと殻にこもっていた。
『おねえちゃんを助けてあげて――――おにいちゃん』
そして最後の一言は、空から降り注いだ雷のようにハジメを貫いた
「それ、ずいぶん久しぶりに聞いた気がする」
やはりこの声も幻聴なのかもしれない。
それでも幽香がまだ生きていて、ピンチの只中にあるかもしれないということ。それだけ可能性があれば、ハジメをふるい立たせるには十分だった。
「にしても兄貴って大変だな」
今度はバーベキューを配達するより骨が折れそうだが、なんたって愛する家族の頼みなら仕方がない。灰を掴む手に力が籠る。折れていた膝が地面に別れを告げる。
ハジメの瞳に、黄金の火花が散った。
「カッコ悪いとこ見せちまった」
幽香の隣に立つと、ジョンは妙に小さく見えた。
それはハジメがようやく立ち上がったからだ。ようやくスタートラインに戻ってきた。ようやく、前に歩きはじめることができる。
「俺はもうへたれない。かかって来いよ、ジョン・マクレーン」
幽香は澄んだ瞳をハジメに向けて――――笑って肩をすくめた。イヤというほど見てきた動作は、彼女が似姿だということを忘れさせるには十分だった。
「おいおい。そりゃないだろ」
一方でジョンはハジメたちの背後でゆっくりと浮かび上がっていく日輪に目を奪われていた。燃え尽きた灰がもう一度熱を秘めるなんてことはありえない。
「じゃあ、こいつぁアレなんだな」
ありえないことを起こして見せれば、それは奇跡と呼ばれるのだ。
超巨大太陽を背負った二人の背後から、黄金の炎が地面を走り、死んだ大地に火を灯していく。
超弩級の大砲へと変形していく日輪を前にジョンは静かに腕を下ろした。敗北を悟った。
「ふーっ、やれやれ。最後にひとつ教えてくれないかい」
顔を上げたジョンの見つめる先。固く結ばれた二人の手に、指輪が光っている。
「俺たちぁ不幸なだけなのか、好きでトラブルに巻き込まれてるのか」
ゆっくりと押し寄せてくる黄金の炎を背に、ジョンのシルエットが肩をすくめた。
「そこらへんお前さんはどうなんだ。俺たちぁやっぱり似た者同士だろ」
「そうだな。俺も答えは出てないけど、一つ確かなことがある」
いつのまにか隣の幽香は消えていた。
ハジメは掌に残された汚れた五円玉を見つめる。
「もとから俺たちはヒーローなんかじゃない。最悪のタイミングで、最悪の場所に居合わせただけ。ただ」
「ただ?」
ハジメはトリガーを引く。
日輪が死の世界に光を投げかけ、すべてを黄金の炎が呑み込んだ。
次にハジメの目の前に広がったものは黄金の海だった。
「ただ、そこからの決断はそれほど最悪ってワケでもなかったと思う」
蒼天の下、風にそよぐひまわり畑。五円玉はいつの間にか橙色の花弁へと姿を変え、涼やかな風に舞って天へと昇る。
「じゃあ、俺たちみたいなハミダシ者をどう呼べばいいんだろうな?」
意識がどこか遠いところへと向かうのを感じながら、ハジメの耳にはジョンの声だけが聞こえていた。
◆◆◆
「…………おそい。ばかあにき」
差し込む光に、千晃は起き上がると目を細めた。
窓辺に立って紅い月と空を見つめていたハジメの背中には日輪が浮かんでいる。未だに半分近く割れて砕けて、頼りなく断片だけで繋がっている状態ではあるが。
「俺はどのくらい眠ってた?」
「たったの二週間だよ」
しかし日輪も、振り向いた兄の瞳も、かつての輝きを取り戻している。千晃は眩しそうに瞼を瞬かせた。
「幽香は」
「おねえちゃんは、きっと生きてあそこにいる」
ハジメによってベッドに横たえられながら、千晃は窓の外を指し示した。そこで、その手がべっとりと血で汚れていることにハジメは気付いた。
「私もお父さんも、守られてばっかじゃないんだって証明したかっただけ。ここまで死ぬ気で来たんだからね」
疲れたぜ、と呟いて千晃は目を閉じた。
「次はおねえちゃんと一緒じゃなきゃ、玄関開けてやんないんだから」
言うだけ言って早速寝息を立て始めた妹の頭をしばらく撫でた後にハジメは腰を上げた。
枕元のリンゴを一つ掴んでかじりながら、山と積み上げられた見舞いの品を掻き分けていく。が、探している品は見つからない。
「あぁ、そうだった。しまったな」
幽香と繰り広げた壮絶な撃ちあいの最中、携帯はビルの上から放ってしまったことを思い出す。
「ふにゃあ」
もそ、とパジャマの足下を毛の塊が擦っていった。
猫の乗ったハジメのボストンバッグを狐が鼻先でしゃくった。傍らには履き潰しのスニーカーまで用意されている。
「なんだなんだ、お前ら」
どこの誰の思し召しかは知らないが、きちんと一揃い用意された清潔な着替え。そしてスニーカーの片側には無くしたはずの携帯が突っ込まれていた。
「俺の携帯」
液晶はひどく割れていたがきちんと動く。
ハジメはしばらくダイヤル画面を開いたまま考えていた。この霧の影響を受けない町の外。頼れる相手は限られている。
「………………よぉ。久しぶり」
狐と猫が出て行った窓に寄りかかり、ハジメは深呼吸の後に告げた。
やがて落ち着いた女の声が同じ苗字を名乗る。携帯を持つ手に一瞬力が籠った。
「そういうこと。今結構ピンチなんだ――――いや、そうじゃなくて。説明は難しいんだけど――――千晃がケガしてる。あと、多分父さんも。幽香も」
窓を開け放った。
紅い霧は、ハジメの日輪に恐れをなしたように近づいてはこない。
「ムシがいい話だってのは分かってるさ。あんたにイイところを見せてやるって言っといて、結局昔と一緒で頼り切りだってことも。あんたがそういうところに嫌気がさしたってことも」
ハジメにとって最も頼りになる相手。そして、最も頼りたくない相手。嫌いだとかそういうんじゃない。意地の問題だ。
「俺はあんたに負けたってことでいい」
それを今、かなぐり捨てる。
なりふりなんて構っちゃいられない。
「助けに来てくれ――――いや、すぐはダメだ。今おかしな霧が出ていて、こいつに触れるとヤバいっぽい」
ハジメの緊張とは対照的に、スピーカーから聞こえる声はひたすらに穏やかだった。
「あぁ、俺は大丈夫。今からコレの大元を叩きに行く。だから霧が晴れたら町に突っ込んで、オヤジと千晃にできるだけのことをしてほしい」
それからしばらくハジメは沈黙した。相手の声に耳を傾け、相槌を打つ。
その表情が、徐々に和らいでいった。
「――――ありがとう、母さん」
通話を切る。ハジメは少し考えると携帯をサイドボードに置いた。
今まで散々な目にばかり遭わせてきた携帯を労って、窓を開け放ってから、彼は一度振り向いてベッドの千晃を見つめた。
「お前やっぱり背のびたろ?」
静かに寝息を立てる妹は答えない。
ハジメは笑って窓枠に足をかけると、一思いに身を躍らせた。
「本当、頼んだからね。おにいちゃん」
千晃は微睡の中で紅い月に向かって飛ぶ黄金の光を見つめた。
ついに紅い霧に呑まれつつあるのか、それともここまでの疲れがそうさせているのか。とにかく、全身をどっぷりと包む眠気に身を委ねることは、不思議と今の彼女にとって怖いことではなかった。
◆◆◆
「ここだな」
日輪が大きく欠けて、浮力が一気に失われる。
光の槍を空中で展開しスクランブル交差点へと靴を滑らせて着地したハジメは、前方に佇む彫像へと視線を馳せた。
――――いや、彫像なんかじゃない。
本当に鋼鉄の彫像のようではあったが。
四つ目が紅い光を取り戻し、おもむろに地面に突き立てていた槍を引き抜く姿は、数百年も、数千年も同じ姿で待ち続けていたように見えた。
「なぁ相棒、俺は考え直すことにしたよ」
紅い霧と共に鋼鉄の仮面の中から迸ったのは、かつての親友の声だった。
錆びついた体を軋ませて吸血鬼が地面から巨大な槍を引き抜いていく。吸血鬼の魔槍、グングニルを。
「愛するために殺すなんてバカな考えは捨てた」
雪之丞はエリカの姿を思い出す。
不思議と彼女に恨みはない。家族のために何もかも投げ出した彼女が、今は尊いとすら思えた。
「俺は、あの人を生かすためならどんなことだってしてやる」
対峙する。
吸血鬼は抜け目なく初撃を必殺にする位置取りを探してのしのしと巨体で歩んだ。その身の丈を越える長大すぎる槍が紅い火花をアスファルトに散らす。
「もう、ハジメにもあの男にも、幽香さんを苦しめさせはしない」
その手の中で水あめを捻るように魔槍が凶悪に変形していった。穂先に銃口を伴い、鎖の破片がイバラのように柄に巻きつつ雪之丞の鎧と同化していく。
「お前が何のために戻ってきたかは知らんし、知りたくもない。だが」
こまごまとした言葉のやり取りが、もはや意味をなさないことをハジメは理解している。
「この先に進むっていうんなら、たとえ親友だって殺すぜ」
その槍が紅い軌跡を描いて振るわれる間、ハジメは上方に浮かぶ月を見上げていた。
町中から集められた血と精気。この魔法は今の雪之丞をほとんど完全無欠の吸血鬼に仕立て上げている。彼の体を塵へと変えながら。
「そうか。殺すのか」
ようやく口を開いたハジメの背中で日輪が輝く。
「そうだ。殺すんだ」
魔槍が光を食む。
「こんなに月が紅いのに」
「こんなに月が紅いから」
紅い霧、紅い月。
妖気の立ち込める町の中、両雄はそれぞれに構え、眼前の敵を睨んだ。
第二十四話『ダイ・ハード0⇒1』おわり