鋼鉄の悪魔は、その一挙手一投足がすでに攻撃だ。踏み出す一歩が紅電を地面に走らせ、息の一つ一つが生きとし生けるもの全てから精気を抜き出す霧を伴う。
彼は紅い霧の中で無敵に等しい。
「俺はお前に負けたくない」
邪悪な槍の穂先が突き出されるたび、ハジメは傷ついた蝶のように舞った。
「認める。お前が妬ましかったんだ」
ハジメの表情からは何も読めない。
ひたすら避けに徹するだけの彼が一体どんな反撃を企んでいるのかも、この先で何をする気なのかも、今の雪之丞にはさしたる問題ではなかった。
「俺もさ」
命を削り取る槍を弾いたのはぼろぼろの日輪だ。ハジメが何気なく発した言葉。無言のうちに吸血鬼は驚いた。
「美形で人付き合いがよくて、クラスのムードメーカーで」
鋼鉄の悪魔が一歩引いて、直後、重く、深く突いた。アスファルトが沈み込む。わずかに浮力を発揮したハジメが間一髪で飛び退いた。
「お前を目障りに思ったことなら数えきれないよ」
地面を突いた槍を支点に棒高跳びの要領で高く飛んだ吸血鬼は、そのまま翼を広げて宙を舞った。空中で振るわれる魔槍が爆発を伴った落雷を引き起こす。
ハジメは傘のように盾を広げたまま、ただただ耐える。
「なら分かるだろ。俺はお前に負けがこんでいるんだ」
待って待って待ち続けて。気付けばそれまで隣を歩いていた親友の背中は遥か先にあった。
「今日という今日こそお前から勝ちをもぎ取ってやる」
土砂降りのような突きを上空から浴びせながら雪之丞は戦意を滾らせた。
圧倒的に押しているのは彼の方で間違いない。現に、ハジメの日輪がまたひとかけ力を失って地面に落ちていくところだ。
「認めろよ。お前は今の俺に勝てはしない!」
「どうかな」
ハジメの体は隅々までボロボロだ。
穂先に引っかかったシャツの切れ端を焼き飛ばして、雪之丞はむき出しの胸板を観察した。火傷と傷跡。半年にわたる戦いの痕跡がびっちりと覆い尽くしている。
「もういいだろ!」
そこに新たな傷を一筋加えながら、雪之丞は叫んでいた。
「これ以上やったら今度こそ俺は本当にお前を殺しちまう!」
ここまでの差を見せつけられても決して膝折ったりしない彼の姿に慄いていた。
「降参なんてできない」
電撃の塊を受け止めて、ハジメの盾が粉々に砕け散った。頼りなく浮かぶ日輪の姿が薄れ、そして消える。
「ダメだ。やめろ。それ以上進むな!」
「ここでヘタれたら俺はウソになる」
ハジメにとって日輪は防御の要だ。
それを放棄するということは、自ずと次に受ける一撃が必殺になるということを意味している。それでも彼は歩んだ。雪之丞の背後にそびえる、焼け跡へと向かって。
「やめろ!」
巨大な鉄の悪魔は小刻みに震えていた。槍の穂先が定まらない。四つの眼光が落ち着きなく彷徨っていた。
「お前にこれ以上捨てさせはしない」
分厚い金属板に包まれた吸血鬼の腕にそっとふれて、ハジメはその真横を通り過ぎていった。
「ナメるなよ!」
擦り切れのスニーカー。くたびれた靴底を霧の中にひびかせてハジメは去っていく。
そのあまりに無防備な背中。そこへと槍の穂先を向けて、鋼鉄の悪魔は体を低く、それこそ地面を舐める様に沈めた。
「俺に。俺に今さら何が残った?」
ハジメは足を止めて、凝りをほぐすように肩を回した。
「俺はもうすべてを捨てきった。お前を殺すのなんてワケないんだぜ!!」
「ならやってみろ」
振り返ったハジメが迎え入れる様に腕を広げると、ついに悪鬼は咆哮した。
ねじ切られるように口元のマスクが引き剥がされる。その奥から現れたものは人間の口元ではない。
乱杭歯をギラかせた悪魔のあぎとだ。
「できやしない。いや、お前はきっと、やらないよ」
――――決めた。その頭を最初に貰う。次はその怒りも恐怖もない不敵な瞳だ。
吸血鬼は地面を蹴り、光速の突進から見舞うのは神速の突きだ。
大きく体をひねる予備動作。
「お前は俺のダチだもんな」
捻り込んだ槍が、ふっと力を失った。
◆◆◆
「あぁ、また言っちまったじゃんか。ダチって」
やれやれと頭をかくハジメの額の寸前、ほんの数センチで止まった槍を、握る吸血鬼自身が信じられない心地で見つめていた。
「なぜだ」
「おまえならこうするって、なんとなく分かってた」
「なぜだーッ!!?」
自分の腕にいくら凄んでみても何も変わりはしない。
一度渋ってしまえばそれが最後だ。まるで自分と綱引きするように何度も何度もハジメの顔面めがけて槍を振り下ろそうとする吸血鬼の試みは、結局周囲の地面にいくつもクレーターを刻むだけの結果に終わる。
「信じられるか。俺にはこれしか残されちゃいないんだぞ!!」
槍を放りだし、ハジメの目の前の地面を殴りつける。
「頼む」
その力は徐々に弱まり、繋ぐ力を失った金属の鎧が彼の体からごろごろと剥がれていった。
「頼むよ」
最後にほんのわずかの霧と塵をあたりに漂わせて、人の姿を取り戻した雪之丞は地面に崩れ落ちた。
「…………一度くらい、俺に勝たせてくれよ」
そこに何も言わず差し伸べられた手。
力なく顔を上げた雪之丞から見える親友の姿は、その微笑みは、悔しいくらいあの人に似ていた。
「慰めるな」
「そんなんじゃない」
ひらり。軽く手をひるがえして、ハジメはしゃがんだ。
「仲直りだ」
「ハ」
その掌の中にあったものを見て、雪之丞はわが目を疑った。
「ここに来る途中で拾ってきた。すぐに見つかってよかったよ」
白茶けたなにかの破片だ。
「お前が何を、何度捨てたってかまわないさ。その度に俺が拾って集めてきてやる」
長い間水に浸かっていたのかもしれない。その表面に張られたシールはすっかりプリントを薄れさせていたが、緑色の輪郭から、かろうじてそれがカエルであることが分かる。
「お前がずっと待っていてくれたおかげで、俺は間に合ったんだ」
それを渡して立ち上がったハジメが、今度は何をしても振り返らないことは雪之丞にもよく分かっていた。
「この後空けとけよ。みんなでラーメン食いに行こう」
ビルの中へと消えていく背中。
ギプスの破片を抱きしめて、雪之丞は天を仰いだ。
「ずっと、待ってる」
彼の力を失った紅い月はほどけるように消えて行った。
紅い霧はすぐさま色を失って蒸発し、早くも霧の呪いから目覚めた一匹の鶯がのんきな鳴き声を上げながら先駆けのように飛び去っていく。
じりじりと肌を焼き始めた日光に頓着しようともせず、暫く雪之丞はそこにうずくまっていた。
「相棒」
置いて行かれたなんて、それは大きな間違いだったのだ。
「俺は。友情ってやつを勘違いしてたのかな」
元から同じ道を歩んでいた二人が、全く別の道に分かれたというだけ。それでも、寂しくなったときは隣を見ればいつでもそいつを見つけることができたはずなのだ。
きっと、友情なんてそういうものなのだろう。
「あの子が決着をつければ、もう二度と立てなくなるはずだった」
じゃり。
「だから私は彼に包み隠さず本心を話したし、邪魔はしなかったし」
非日常の足音が背後から聞こえた。
「大結界をぶち壊せるような能力者を野放しにしておくことができた」
日傘の作り出す影が、雪之丞を包んだ。
ひんやりとした日陰。ぞくりとした手が首筋に当てられる。粟立ちをいさめるように、八雲紫は柔和な笑みを浮かべて、残念ね、と呟いた。
「鶴見ハジメが憎いんなら、まだ復讐のチャンスはあるわよ。どう?」
と、酒を一献誘うような気軽さで彼女はビルを示した。
「どういうことだ」
「そのまんまよ。このまま放っておけば、いずれ彼は幻想郷に仇なす存在になるかもしれない」
「ハジメはそんなことをしないはずだ」
「いちいちカモとかハズなんて聞いていたら、世界一つを丸ごと背負うことなんてできやしないわ――――聞きたいのはユキがやるのか、やらないのかってこと」
十分前だったら、間違いなくやると答えたに違いない。
だが、今の彼には迷いがあった。まだハジメのことを完全に認めることができたわけじゃない。それでも、これからアイツがやろうとしていることを見守ってからでもいいような気がしていた。
「そう」
無言のうちに答えを見て取った紫は雪之丞に日傘を渡すとビルを目指して歩きはじめた。
「じゃあ行くわね。霊夢が待ってる」
そして何より白いドレスの後ろ姿。
ハジメを幽香が救ったように、雪之丞もまた、紫に救われてきた。
ハードルの高い藁人形のお使いを頼まれたこととか。
意味もなく深夜に連れ出され、コンビニで朝まで一緒にマンガを立ち読みしたこととか。
真冬に紫と霊夢と三人で鍋をつついてしこたま酒を飲んだこととか。
吸血鬼の力を役に立てろと言われて近所の子供たちも交えて探偵ごっこをしたこととか。
非日常への誘い手の彼女が雪之丞に与えてくれたのは、結局まぎれもない平凡な、しかし幸せな日常だった。
「あとは私達に任せなさいな。もともと、そのために来たのだし」
違う。
淀みがちな彼女の足取りに裏腹が見え隠れする。
彼女はなにも変わってはいない。数週間前の路地裏で、彼女の本心を見た気がした。
今日だって――いや、今までだって。動く気になればもっと早くすべてを解決できたはずなのだ。
「にしても、ようやく幻想郷に帰れるわね」
違う。
奇妙な共同生活に幸せを見出していたのは、雪之丞だけではなかったはずだ。同じく、この時間が終わってほしくないと考えている相手がいるとすれば、それは。
「待てよ、スキマおばけ」
決意を抱いた雪之丞の胸に紅電が芽生える。そいつは掴み出す傍から無様に折れて、砕けていったが。
「あらあら。どんな心変わりかしら?」
示し合わせたように振り向いてくれた紫の目に映ったものは魔槍だ。槍というにはあまりにもか細く、くたびれて剥がれてみすぼらしすぎる、それはまさに鉄屑であった。
「よくわかんねえけど。でも、これが一番正しいって思ったんだ」
が、かつてないくらいにまっすぐ鋳造されていた。
「飼い犬が手を噛んでくれるってワケね」
紫の周囲に無数の裂け目が現れる。
世の理を完全に逸脱した隙間の力が徐々に解放されるにつれ、雪之丞には間もなく彼女が正真正銘の本気でもって潰しにくることが見て取れた。
「本当、仕方のない駄犬。削ってあげるわ」
その剣呑なセリフに反して、彼女はこの上なく嬉しそうなのだが。
狭間と隙間の視線はぶつかり合い、激しく火花を散らす。
◆◆◆
「あんたのことは好きじゃないけど」
もはや雲の切れ間に漂うばかりとなった紅い霧を見つめて、霊夢は腕組みした。風に舞って最上階にたどり着く花弁は桜のものだろうか。
「あんたがあの男たちに好き放題される姿は見てらんない」
息を吹き返した町から響くうなりのような音。
壁にもたせかけられていた幽香は、巫女服の後ろ姿を覇気のない瞳で見つめていた。
「あなたがここに来たってことは、ユキは」
「えぇ。あいつはもう戦えないってことね。誰かに倒されたか、それとも力の使い過ぎで自滅したのか」
幽香の指先が薄桃の花弁をもてあそんでいる。
散ってしまった花の声に耳を傾けているのか、その儚さの中に自分の終わりを見て取っているのか。
「最後って思うとちょっぴり悲しいけれど――――来てくれたのがやっぱり霊夢で、実は安心しているの」
幽香の体は長い時間を経て表面上元通りになってはいたが、中身はボロボロのままだ。
屋上の灰色。空のブルー。巫女服の紅白。強烈なコントラストを描く少女の肩が、小さく震えた。
「……ねぇ、覚えてる? あんたが幻想郷を飛び出した時のこと」
幽香は小さく頷いたが、背中を向けた霊夢にそれが見えるはずもない。
「あの時は結界のアレ、くっそ汚い落書きにしか見えなかったんだけど。結局すべてはハジメの仕業だったんでしょ?」
実際霊夢はあの場に何度も訪れて、壁の輪を前に首をひねったものだ。
その意味、そして幽香のハジメへの執着の理由を理解するのはそれよりもずっと後。高架で戦うハジメの姿を見た時だった。
「ご想像にお任せするわ」
幽香は薄く笑っていたが、今の彼女の口調はあたかも脚本を棒読みするようだった。その理由を霊夢は知っている。知ったうえで、あえて茶化すように口を開いた。
「ねぇ、教えなさいよ。一目惚れだったの?」
「えぇ」
「じゃあさ、じゃあさ。その時のこと、ハジメに話してやったの?」
「いいえ」
「あぁやっぱり。あんたっていっつも大事なことは最後まで言わないもんね。今だって」
「霊夢」
数秒間の沈黙。
「――でさっ。キスってどんな感じなの? 私、恥ずかしいってワケじゃないけど恋とか花とかまだでさ。後学のために」
霊夢は思い出したようにばたばたと身振り手振りを交えて屋上ににぎやかさを取り戻そうとやっきになった。結局彼女は後ろを向いたままなので、幽香には奇妙な踊りにしか見えなかったが。
「霊夢、お願い」
二度目の沈黙。
虚ろな瞳。乱れた髪。がさがさに荒れた肌。ズタズタのボロボロの幽香は力なく投げ出した手の先でコンクリートから芽吹いた若草を見つめたまま、か細い声で懇願した。
「終わりにして」
「は――はぁ? 待ちなさいよ。こちとらアンタにようやく今までの不満をぶちまけてやれる機会だっていうのに」
「あの子の夢、私が終わらせてしまったの」
「だから? たしかにハジメは不幸だったけど、あんたはまだ生きてる。私と戦うだけの力くらい、残されているハズよ」
房に結われた霊夢の髪がふわりと宙を漂った。
彼女の周囲の重力が意味をなさなくなる。あらゆる重みから解き放たれて、ついに霊夢のパンプスが地面を離れた。
「もういいの。私がこれ以上頑張る意味は、無くなったから」
「さっさと立ちなさいよ」
霊夢が肩を震わせた。
「ただ何もせずに殺されるなんて、あんたらしくもない」
彼女の周囲に七色の光球がいくつも浮かんでいった。
それはハジメの力に酷似している。当たったものを無理やりこの世界から切り離し、永遠にどこか別の場所に葬り去ってしまうものだ。
「あの時みたいに暇つぶしがなんとかかんとか。ちっとは骨のあるラスボスみたいなこと言って、私にヤル気を出させなさいよッ!」
「おかしくなった妖怪たちの手から幻想郷を救うんでしょ。今のうちに、慣れておきなさい」
最後にきて優しさを取り戻していった幽香の口調に、霊夢はいよいよ己の自制が効かなくなったことを知る。
「うるさい。立って、私に立ち向かえ!」
巫女の仮面をかなぐり捨てる。
振り返って叫んだ霊夢は泣いていた。ぼろぼろと。涙で顔面をべっしょべしょにして泣いていたのだ。幽香はかけがえのない友だち。それを、こんなに悲しい結末を前にして思い知らされるなんて。
「このままじゃ――――このままじゃ、ますます私が悪役みたいじゃないか!」
彼女の慟哭と共に極彩色の光球が一斉に動いた。
そこで幽香の目に映るものは遠い遠い、幻想の地にあった彼女の王国だ。無数のヒマワリたちと共に夜明けを待って過ごした夜々。
だが、彼女の世界を照らす太陽はもうない。
その最後で見える虹に、幽香は目を細めた。
「そうはさせないさ」
幽香めがけて迫った封印の力は、しかし、一発として彼女に届くことなく撃ち抜かれ、爆散していった。
「ははっ」
それはそれは奇妙な顔だった。
涙と鼻水で顔をぐしょぐしょにした巫女が幽香の背後へと目をむけたまま、これまた顔面をくっしゃくしゃにして笑っていたのだ。
すぐさま虹色の爆風が吹き荒れ、虹色の煙に彼女の姿はかき消されていく。
「幽香も、霊夢も。これ以上泣かせてたまるか」
そして、幽香の前に躍り出たもの。
日輪を背負った、威風堂々たる立ち姿。今、彼に向けて風が吹いている。黒髪が桜交じりの風になびく。
「遅い!」
霊夢が涙を振り払って、叫んだ。
百年来の恋人と再会したような不思議な笑顔で。
「俺みたいのは早すぎても、遅すぎてもいけないのさ」
「ふふん。ヒーロー見参ってこと?」
その割にはぜいぜいと、肩で息をしながら。汗まみれの首を、彼は横に振った。
「そう呼ばれるには俺は不幸すぎるし、しぶとすぎるし。だけど、いつだって前には進まなきゃいけなかった。俺の野望へ向けて、歩き続けなきゃいけなかった」
霊夢が肩をすくめる。
「困ったわね。ふつうそういうのをヒーローっていうんじゃないの?」
「まさか。でも、ようやくうってつけが見つかったよ」
崩れかけの日輪が、黄金の光を放つ。
「俺はダイ・ハードだ」
◆◆◆
「――――う、そ」
幽香のかたわらにハジメがひざまずいた。
「そう思うならさわってみるか?」
「嘘よ。だってハジメ、あなた、もう二度と目が覚めないって、あいつが」
あらゆる感情が幽香の胸の内に吹き荒れていた。とぎれとぎれに言葉を紡ぎだすのが精いっぱいの彼女に、ハジメはあの日と変わらない笑顔を投げかけた。
「ただの、ありふれた奇跡だ」
尚も口をぱくぱくさせるだけの幽香の手を取って、ハジメは自分の頬に触れさせた。
「いつだったか。あんたを好きって言ったとき、物足りないと思ったんだ」
「え」
「愛してるでも遅すぎて。俺の気持ちに到底追いつけない」
そこにはヘタレなんていない。それはただの青年でもない。
「もう言葉なんて要らないんだ。とにかくあんたを一晩中もみくちゃにしたい。そのくらい、あんたのことを想っているよ」
幽香が次に発した声は、ほとんどすべて、素っ頓狂に裏返っていた。
「ハ、ハジメ。あなた、こんなときに何を――――ッ!?」
「へぇ」
霊夢がにやにや笑っている。
指先で幽香の顎を持ち上げて、むりやり口づけを果たしたハジメはしばらくして口を離した。
もはや言葉を発することも忘れた幽香は、徐々に頬を桜色に染めていった。
「かわいいぞ」
好きになってよかったと思う。もう一度、血反吐を吐きながら起きてよかったと思う。
「ぶっ」
感慨深く幽香を見下ろすハジメの背後で、ついに我慢の限界に達した霊夢が盛大に吹きだしてしまった。
「――――ふ、ふふ。あはははははっ! なんて――なんて、恥ずかしいヤツ!!」
彼女の心のダムを決壊させた笑いの勢いたるや相当なものだったのだろう。浮力を失った霊夢はまっすぐ落ちてしりもちをつき、それまで舞い飛んでいた針や札がぱたぱたと地面を打つ。
「敵に背中向けてまですることかっつーの! あは、や、やば、お腹いたい」
「そんなに笑うほどおかしくなかったろ?」
流石にそこまで笑われては思うところもあったようで、ハジメが唇を尖らせる。
「だ、ダメ。ちょっと。そんな真面目な顔されたら余計。ば、バカでしょ。前から思っ――うふふっ」
桜舞い散る春の町。
もっとも奇麗な景色を独占できるビルの上に高らかに響く霊夢の笑い声。
「や、やめろよ! そういうの、けっこう傷つくだろ!?」
――――それでいいんだよ。
霊夢は涙を流してひいひい笑いながら、小さく頷いた。
あんたはこんなんでいい。こういうのが一番似合ってる。あんたのやりたいようにやって、好きな形でその女を愛すればいい。
――――あんたは、それでいいんだ。
「あははっ」